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亀戸町のお為さん(天保十二年〜)

6 江戸十里四方追放


 天保十二年一八四一年一月七日、十一代将軍徳川家斉が病死した。六十七歳だった。その治世は五十年と長く、その間、家斉は正室の他に四十人もの側室を持ち、そのうち十七人が子を孕んだ。正妻と側室に毎年のように生ませた子の数は五十五人に上る。

 家斉は次男家慶を手元に残し、他は御三家や御三卿、大名などへ養子へやったり嫁がせたりした。二十五女の喜代姫が嫁いだ酒井家もそのひとつだ。将軍の子女を貰い受ける側の負担は大変なものであったが、将軍と遠戚関係になることは藩にとっても悪い話ではなかった。

 結果、御三家と御三卿、全国の大名へ家斉の血筋が入ることとなった。こうなると疑わしいのは、家斉の大奥通いだ。

(女好きと見せかけ、実は家斉は、将軍家を一橋の血筋に変えようとする一橋二代目当主父治済の命に従っていただけなのではないか)

 そう疑う者が出始めた時には、後の祭りだった。家斉の思惑がどこにあったにせよ、家斉の時代に大奥は最盛期を迎え、その豪華絢爛なさまが良くも悪くも町人を刺激し、歌舞伎や浮世絵、落語、狂歌、滑稽本など、様々な文化を発展させる事につながった。

 一方、大奥の贅沢三昧による財政圧迫に危機感を募らせていた幕府は、家斉の死をきっかけにこれまで放置してきた江戸市民の風俗を取り締まる方向へと向かう事となる。

大奥の女性たち(イメージ)

 その年一八四一年のある日の事。海老蔵が和泉屋へ行くと、出迎えの為が何やら神妙な面持ちをしている。相談があるというので聞くと、近所に住む女児の父親が病気で働けなくなり、途方にくれていて可哀そうだから、腰元としてそばに置いてあげたいという。

 名は加納かのといい、年は十三。母親は早くに亡くしているらしく、その子が働くしかない状況のようだ。
 為は自分の境遇と重ね合わせているのか、すっかり同情している。海老蔵は、為がそうしたいなら、と承諾した。


 それから間もなくして、加納かのの父が亡くなった。海老蔵は孤児になった加納を為の娘分として、ひとまず和泉屋に置いてやる事にした。その後自分のお抱えの床山、木場直に加納を引き合わせ一緒にさせた。

十三歳の加納かの(イメージ)


 同年一八四一年十月六日の夜、芝居町で火事が起きた。火元は堺町中村座の楽屋だった。為は急いで猿蔵をおぶり、あかん平を抱いて逃げた。和泉屋は風上で難を逃れたものの、葺屋町の市村座が類焼し中村座と共に焼失した。

 大奥による財政圧迫と飢饉からの物価高騰に大いに悩まされていた老中水野忠邦は、この機会を逃さなかった。十月二十日、再建築中の両座に普請を見合わすように通告すると、浅草聖天町の一万八千坪の下屋敷に住む小出信濃守に、雑司ヶ谷感鷹寺の跡地を与えて立ち退かせた。そして十二月十八日に江戸三座と関係者を呼び出し、休業中の損害と引っ越し費用を持つから芝居茶屋もろとも浅草下屋敷跡地に引き移るよう、命じた。

「歌舞伎は風俗の乱れの元凶である。歌舞伎役者を江戸城下市中から追い払えば、市民の贅沢熱も冷め、物価高騰を抑えられる」

忠邦はそう考えたのである。

 歌舞伎関係者への制裁はそれだけではすまなかった。天保十三年三月、木挽町の河原崎座で「景清」を演じていた海老蔵に、奢侈禁止令違反の通知が届いたのだ。

 翌四月六日、海老蔵は南町奉行鳥居甲斐の守の役宅に呼び出され、景清の舞台で本物の甲冑を使ったことや木場の自宅の贅沢品について、細かく問い質された。
 海老蔵は聞かれるまま正直に答えていたが、鎧びつの裏に貼った布の入手先については、口を閉ざした。紀州家の立田という老女からもらったものだが、元は徳川家からの拝領の品と聞いていた。老女に迷惑をかけるわけにはいかず、このことだけは頑なに答えなかった。
 これが鳥居の心証を悪くした。海老蔵はその場で手錠をかけられ、家主預かりにされてしまう。江戸歌舞伎の代表である海老蔵の拘束に、歌舞伎業界と江戸市中は騒然とした。 

拘束される海老蔵(イメージ)


 海老蔵の処分が江戸十里四方追放と決まったのは、天保十三年一八四二年六月二十日のことだった。日本橋を中心に十里四方以内の地を踏んではならぬという。長男八代目団十郎は驚き、すぐさま次男重兵衛、和泉屋勘十郎、河原崎座の河原崎権之助と共に、海老蔵の赦免を求め動き出した。

 海老蔵は江戸から十六里離れた成田山に蟄居することにし、二十二日に市川家代々の檀那寺である常照院へ参詣して成田山の檀家になることを願い出た(原則として、当時は檀那寺からの送り届けがないと別の土地に居住することができなかった)。成田山新勝寺宛の送り手形を入手した海老蔵は、二十五日に江戸を出立した。着いたのは月の晦日で、部屋は新勝寺内の延命院に用意された。

 堺町の和泉屋はこれを機に芝居茶屋を畳むことにし、猿若町へは移転しなかった。為は堺町で海老蔵の無事を祈る事しかできなかった。この時猿蔵は八歳、あかん平はもうすぐ三歳になろうとしていた。

「お父っさんの帰りを待つ間、おらぁ稽古に励むよ。上手くなってお父っさんを驚かせてやるんだ」

 猿蔵の健気な言葉に、為は自分もしっかりしなければと腹を括った。

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