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亀戸町のお為さん(天保十三年〜)

7成田山新勝寺

 成田山とは、跡継ぎに恵まれなかった初代団十郎が子授け祈願をし長男を授かって以来、代々良好な関係を続けている。市川家が成田屋を名乗るのもその縁だ。

 海老蔵自身も、跡継ぎのいなかった文政六年一八二三年に成田山へ祈願したところ、同年十月に長男を授かり、朱塗りの三つ組み大盃を奉納している。海老蔵の成田山への信心は深く、他にも提灯や額堂、石灯籠の奉納など、今日まで様々な形で成田山を支えてきた。
 中でも海老蔵らしい奉納が、文政二年一八一九年六月と同七年一八二四年七月に行った奉納芝居だ。興行が不振になる夏場を利用し、江戸役者十数名と成田山境内にて芝居を納めている。

成田山(イメージ)

 海老蔵が蟄居先に選んだのは、そういう場所だった。成田山側も、長い付き合いの海老蔵を快く迎え入れた。落ち着き場所を得た海老蔵だったが、仕事がない日々をじっと過ごせる性分ではない。

(よし。ちと下総を見て回るか)


 海老蔵はこの機会に、下総の参拝の旅に出る事にした。七月に北斗山光明寺、柴山仁王尊、滑河山龍正院などを回り、八月には神崎神社および鹿島神社、香取神宮、息栖神社の東国三社参りに出かけた。そして八月中旬に延命院に戻ると、旅の間に詠んだ句や随筆をまとめる作業に没頭した。

 旅好きの海老蔵は、過去にも「遊行やまざる」や「遠く見ます」という狂句狂歌集を摺って贔屓筋に配っている。海老蔵は、今回も摺って冊子にしたそれを「しもふさ身旅喰」と題し、参拝の体で会いに来る贔屓筋や狂歌仲間に配った。
 版元は先祖の出身地に因み「幡谷村成田屋七左衛門」とした。成田屋七左衛門は海老蔵が成田山で名乗っている名で、文政二年一八一九年七年一八二四年に行った奉納芝居もこの名で興行を申請している。

しもふさ身旅喰を執筆する海老蔵(イメージ)


 成田山での海老蔵は、実に自由気ままであった。贔屓の人々と句会を開いたり、村の子どもに芝居を教えたりと、蟄居中とは思えない暮らしぶりだ。
 五代目市川海老蔵という人間は、元々そういう鷹揚なところがあった。そもそも罪状となった「贅沢」に関して、海老蔵はそれほど悪いと思っていないのである。差し押さえられた総金箔の不動尊像や奈良細工木彫彩色の雛道具などはさて置き、衣装に工夫を凝らしたのは観客を喜ばせたかったからだし、舞台で使用した本物の甲冑は大事な演出の一環だった。

(自分は座頭役者としての仕事をしたにすぎない)


 海老蔵はそう思っていた。

海老蔵に歌舞伎を教わる子ども(イメージ)


 子どもに歌舞伎を教えていると、海老蔵の芝居熱も否応なしに高まってくる。うずうずした海老蔵は天保十四年一八四三年二月七日に成田山を出、高野山に参詣した帰りに伊勢古市に立ち寄った。古市には常設の芝居小屋がある。全国から伊勢参りに訪れた人を当て込んでの運営が成功し、伊勢は江戸、京都、大坂に次ぐ演劇の先進地域に成長していた。海老蔵はここで、幡谷重蔵の名で芝居に出ることに成功する。

 古市の興行が終わり、そこでの人気に気を良くした海老蔵は、上機嫌で富士根の伊達本益を訪ねた。本益は以前海老蔵が眼の治療で世話になって以来交流のある眼科医で、市川家とは親どんぐり(海老蔵)、どんぐり(八代目団十郎)、いがぐり(本益)とあだ名で呼び合う間柄である。本益へは事前に成田山新勝寺からも、七代目をよろしく頼むという内容の書簡が送られていた。本益は旧友の来訪を喜んだ。

 海老蔵が本益と親交を深めている間、江戸の八代目は、毎朝蔵前の成田不動の旅所に出かけては、父の赦免と無事を祈っていた。そして長男として母すみと兄弟を励まし、赦免活動に奔走していた。 

 浅草のはずれに与えられた代地は、江戸歌舞伎の創始者とされる猿若勘三郎に因んで猿若町と改名された。猿若町一丁目に中村座、二丁目に市村座、三丁目に河原崎座が割り当てられたが、その後小出信濃守の下屋敷の地ならしに手こずり、建築に取り掛かるまで数か月かかった。庭の池の盛り土に思いのほか時間をとられたのだ。

 そんなこんなで天保十二年一八四一年十月六日に焼失した中村座と市村座が猿若町に再開したのは翌天保十三年十二月一八四三年一月で、その間一年以上、客は河原崎座に集中することになった。権之助と金主連がほくほくだったのは言うまでもない(河原崎座は森田座の控櫓だが、経営が不安定な森田座は度々資金繰りが行き詰まった。この時も三度目の休座中で、河原崎座が代興行権を持っていた)。

 幕府から移転時期を猶予されていた権之助が木挽町から猿若町三丁目に越してきたのは、翌天保十四年五月のことであった。八代目は父海老蔵を安心させるため、本益宅宛に手紙を出し、河原崎座が無事開場し、五月五日の舞台に出ることを知らせた。猿若町に移転した芝居町がもとの活気を取り戻すまで、ほとんど時間はかからなかった。

猿若町の賑わい
「東都名所/芝居町繁栄之図」広重画 天保十三年頃
ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースより)


 赦免については、海老蔵が六月に江戸を出てから丸一年経っても進展はなかった。天保十四年八月二日、最後の頼みの綱だった上野の御門跡から重兵衛と和泉屋勘十郎が呼び出されるも、

「願書は町奉行に手渡したが、即答はできぬ」

とつれなく帰されてしまう。あらゆる伝手を頼って働きかけた息子たちに、もう打つ手はなかった。

 上野も駄目だとわかった時の海老蔵の切り替えは早かった。赦免は難しいと悟るや否や芝居ができる上方に向かうことに決め、八月十六日に成田を出た。そして九月に再び伊勢古市の舞台に幡谷重蔵の名で出演し、十月に大坂に向かった。

 大坂に着いた海老蔵は、ここでしばらくやっていこうと腹を決めた。奉行所へ伺いを立て、その返事を待ってから、市川海老蔵の名で角座の舞台に出た。天保十四年十一月八日一八四三年十二月二十八日のことである。

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