亀戸町のお為さん(天保三年〜)
4 海老蔵の出稼ぎ
為が和泉屋で暮らし始めた天保三年、江戸では米の価格が百文五合となった。百文出せば三升は買えていた文政の頃と比べると、六倍の値上がりである。
翌天保四年の天候が、そこへさらに追い打ちをかけた。この年の東関東は春になっても気温が上がらず、霧や雨の日が多かった。六月になってもまだ肌寒い。八月には台風があり、秋には霜害で、米がほとんど獲れなかった。特に被害が大きかったのは元々の収穫量が少ない東北で、冷害と洪水による凶作で多くの餓死者を出した。
江戸市内では十二月二十三日の夜から大雪が降り続け、三尺余りの積雪となった。翌天保五年二月七日、未だその雪が残る神田佐久間町で火災が起こり、堺町の中村座、葺屋町の市村座が類焼した。仕事のなくなった海老蔵に木挽町の森田座から話があったが、十日にここも焼けてしまった。
江戸の役者らは三座の建て替えが終わるまで、それぞれ出稼ぎに行かざるを得なくなった。海老蔵は為を連れて大坂へ下ることにし、同月二十三日に江戸を出発した。
海老蔵が大坂角座で三月、五月の二興行をこなす間、為は海老蔵との最初の子、猿蔵を生んだ。海老蔵にとっては四男に当たる。大坂の後は下関の舞台に出ることになっていた海老蔵は、育児中の為を残し、大坂役者の四代目中山新九郎、二代目浅尾奥山らと九州へ向かった。

下関では「千本桜」や「三ツ人形」、「三日太平記」、「五大力」、「花川戸」を演った。その興行中、博多からも声がかかり、海老蔵は下関からさらに下ることにした。海老蔵は、求められれば距離を厭わずどこへでも行った。人を喜ばせることが好きな性分で、文化十一年春には、江戸で全く売れなかった博多織を舞台で身に着け宣伝してあげたこともある。その時の呉服商亀屋との縁が、今回の九州進出に繋がったと言っていい。
十月、海老蔵一座が箱崎に着くと、その歓迎は殿様のお国入りに等しい仰々しさであった。海老蔵一人に専属の床山、衣装方、男衆、按摩、料理人が付き、芸妓三十人余りがこれに付き添うというもてなしぶりである。沿道にはおびただしい人の山が遠くの方まで連なっていた。海老蔵は沿道の老若男女に籠の中から笑顔で応えた。
芝居小屋は中洲濱新地にあった。博多には常設の芝居小屋がなく、随時恰好な広地に造っては壊すのだという。濱新地には観客の殺到を見越した大規模の仮小屋が用意されていた。宿泊は素麺屋久右衛門宅が用意された。

十一月を跨いで十四日間の興行を大盛況のうちに終えると、次は甘木の舞台が待っていた。甘木では、上演中の海老蔵に三枡の紋入り絣が贈られた。海老蔵一座の勧進元である老舗絣屋の藤井重兵衛からで、道中着として甘木絣を使ってほしいという。海老蔵は喜んでそれを道中着にした。
甘木の次は長崎に呼ばれた。切りがないので、海老蔵は半年以上大坂に残してある為を呼び寄せることにした。育児中の為には突拍子もない話だったが、すでに猿蔵の預け先を大坂に手配してあるという。為は愛しい我が子を大坂に残し、身を引き裂かれる思いで長崎へ向かった。海老蔵は為を連れ上機嫌で長崎を見て回り、長崎土産に、切子硝子の洋盃を買った。翌年二月には、息子八代目市川団十郎と連名で聖福寺に先祖の供養塔を建てた。
三月下旬、博多から再度招かれた海老蔵は、為と役者衆を連れ四月二日に長崎を出た。諫早まで陸路を行き、そこから商船に乗り、大村湾から裏玄海を博多へ向かう順路だ。大村湾を出、途中、五島に寄港した。島はずいぶん賑わっている。船頭が言うには、今日は観音様の開帳日だという。一同は島に上がって参詣することにした。
境内は広く、見世物小屋や芝居小屋があった。皆で芝居の看板を見ていると、そこの興行師に海老蔵がいることがわかってしまった。興行師は、海老蔵がもし三日間この芝居を助けてくれるなら、望むだけ給金を出すという。
「こんな土地で生涯芝居することもあるまいから」
と、海老蔵は三日五十両で請け合った。子だくさんで門弟も多く、交際範囲が広い海老蔵は、入るものも多いが出るものも多い。使いっぷりの良さもあり、お金はいくらあっても足りなかった。
海老蔵は早速自分で狂言を工夫し、景清の独りだんまりを演じた。衣装は博多用に準備していたもので間に合わせた。島民は衣装を見ただけで、その豪華さに歓声を揚げた。
幕が下りると「海老蔵様、海老蔵様」と、老若男女からおひねりが投げられた。景清その他、何を演っても大受けで、翌日は急遽広げた桟敷も間に合わぬ程の大入りとなった。

三日目になると評判を聞いた娘や細君たちが、浮き浮きと金銀入りの祝儀を持ってやってきた。海老蔵に直に手渡ししたい一心で工面してきたのである。海老蔵のふところはこの三日で、かなり潤った。
一方、為は月の障りがきて困っていた。この島には隠れられるところがどこにもない。用を足すには、海岸にすのこを立てそこでするのだ。障り中の為はその都度難儀した。そんな為の苦労を知ってか知らずか、海老蔵が延長の相談をしてきた。金主がさらに三日間の日延べを打診してきたという。
「あたし、こんなところもういや」
為は海老蔵に甘え、正直に言った。海老蔵が断りに行くと、金主はせめて一日だけでもと言う。結局一日だけ二十五両で引き受けることにした。
最終日、土地の大金持ちに招かれた打ち上げの酒宴で、海老蔵は多量の扇面に筆を走らせ島への置き土産にした。翌朝は土地の人々が漁船を出し、海上を五里も同行して送り出してくれた。海老蔵は滞在中世話になった家に、次の狂歌を残している。
海老で鯛 釣しここちぞ 福を得て あら有難や 島夷様
海老蔵一行は五島から博多に向かい、再び濱新地の舞台に出た。宿泊先の西浜屋の主人、博多八丁兵衛宅では、海老蔵のために布団を新調していた。六月には江戸に帰りがてら備後備中の舞台にも出た。その後ようやく大坂の猿蔵を拾い、江戸に戻った時はもう八月になっていた。江戸三座は疾うに再開していて、市村座の近くには、水菓子を扱う千疋屋ができていた。
海老蔵は新築の市村座で、八月九月の舞台「仮名手本忠臣蔵」に出た。久々の海老蔵に、江戸の客は待ってましたと言わんばかりに歓声を上げた。
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