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亀戸町のお為さん(天保七年〜)

5 二人目の出産と別れ



 翌天保七年一八三六年の江戸は春になっても低温が続き、六月になっても冬着を手放せなかった。七月歌舞伎「東海道四谷怪談」の入りも芳しくなかった。暑気を感じることなく稲刈りの時期を迎え、米価はついに百文二合となった。飢餓で死ぬ者も出始めた。歌舞伎の客足は激減し、座元は興行の中止や縮小を余儀なくされた。


 海老蔵の出勤が減り、正妻すみはやりくりに困るようになってきた。何せ大所帯である。門人も多数抱えている上、夫は堺町に新しい妾とその子どもまで住まわせている。百文で二合の米しか買えない暮らしはさすがに心細かった。米の高騰に伴いあらゆる物価が上がっていて、歌舞伎の衣装代だって馬鹿にならない。

 それでも海老蔵が衣装に手を抜くことはなかった。江戸随一の座頭役者が半端なものを身に着けるわけにはいかないからだ。海老蔵は呑気なもので、いざとなったらまた旅芝居に出て稼げばいいと思っている。自分には一流の芸がある。これまでだって、この身一つで稼いできたのだ。

 天保八年一八三七年七月二十六日、幕府から役者の出稼ぎを制限する布告が出された。勝手に旅行先から予定変更して他国の舞台に出ることができないよう、役者に旅行予定を報告させるというものだ。これはほとんど海老蔵に宛てたものと思われた。  
 団十郎を息子に譲ってからの海老蔵は、興行の合間を利用して気軽に上方に出かけるようになっていた。布告が出る一か月前にも、海老蔵は五月の興行後に上方へ向かい、名古屋の舞台に上がっている。
 原則、太夫元と一年契約を結ぶ江戸の役者は、火災で休座でもしない限り公に旅興行をすることは許されない。そこで海老蔵は、表向き湯治や参拝と称して出かけていた。物価高騰による江戸歌舞伎の不振もあり、太夫元も見て見ぬふりをして行かせていた。上方へ出稼ぎに出ていた江戸役者は海老蔵だけではない。しかし海老蔵の場合、頻度が高すぎた。これ以上海老蔵の荒稼ぎを放置していては他の役者に影響してしまうと、見かねた幕府が急ぎ布告を出したのだった。


 為の二人目の妊娠がわかったのは、天保九年一八三八年春のことであった。この時点で海老蔵は、長女すみ(母は妾幸。五代目松本幸四郎妾腹の娘)、次女雪、(母は後妻すみ)、長男八代目団十郎(母同上)、次男六代目市川高麗蔵(母同上)、三女ます(母同上)、三男三代目新之助(母は妾里)、四女花(母同上)、四男猿蔵(母は為)と、四男四女に恵まれていた。そこへ為の妊娠を知った木挽町森田座の控櫓である河原崎座の六代目河原崎権之助が、男の子だったらくれないかと海老蔵に持ちかけてきた。権之助はこの時まだ二十四歳独身で、子に困っていたわけではない。歌舞伎界の宗家と結びつきを持ちたいがための申し入れだった。

 権之助は五代目権之助の実子でなく後妻常の連れ子である。十七歳の時に五代目が亡くなり跡を継いだが、それまでは連れ子の自分が継ぐことはなかろうと本所松倉町の奉公先で呉服の行商をしていた。商売人をしていただけに、権之助は金主の損失に敏感だった。三度続けて芝居が当たらず金主が離れた時、

「今度は私が自分一人で損益を持ちやすから、金だけ貸してくだせえ」

と手芝居を打ったところ、これが大当たりするということがあった。その時権之助は悔しがる金主たちに、

「どうか貸金の証文を書き換えて、あなた方が損益を持ってくんなせえ。私もあなた方に損ばかりさせて、自分の手芝居だけ儲けたなんざ言われちゃあ、これからの信用にも関わりやすし、なにしろ金主あっての太夫元でござんすから、こんな時に儲けてもらわなけりゃあ」

と言って、金主たちを喜ばせた。権之助は、金主連の信用を得ることがこの商売の肝だということをよく理解していた。海老蔵に子がほしいと持ちかけてきたのは、そういう男だった。

 歌舞伎界の宗家と結びつき河原崎座をさらに盤石なものにしたい権之助と、権勢のある太夫元と関係を持っておきたい海老蔵との間に挟まれ、尚且つ家計が苦しいことも承知していた為は、この申し出に首を振ることはできなかった。海老蔵は為の承諾を得、この話を受けることにした。そして権之助に、今後たとえ女房を持ち子が出来ても、河原崎家の相続人は必ず為の子を立てると約束させた。

 その年天保九年の五月十日、五代目松本幸四郎が中村座出演中に倒れ、亡くなった。八月十九日、海老蔵は四歳の猿蔵と共に市村座の舞台「御摂手向花川戸」ごひいきたむけのはなかわどに出た。四代目松本幸四郎の三十三回忌を兼ねた、五代目幸四郎の百日追善興行だった。幡ずゐ長兵衛を海老蔵が、その倅長松を猿蔵が演じた。これが四歳の猿蔵の、記念すべき初舞台となった。為は猿蔵の弟か妹が入った八か月のお腹をさすりながら、愛しい我が子の初舞台を見守った。

市川猿蔵の初芝居 天保九年八月十九日 市村座にて
ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースより)


 十月十三日、和泉屋の奥座敷で為のお腹から出てきたのは、男の子だった。そのため七日後の夜、為は泣く泣く七荷の着物を付けて権之助の住む三十間堀の家に養子に出した。その際赤子は、河原崎長十郎と名付けられた。河原崎長十郎は三代目河原崎権之助の初名だ。五代目権之助が二代目長十郎を、為の子が三代目を継いだ事になる。

愛しい我が子に別れを告げる為(イメージ)


 その翌年の十月、長十郎を手放した寂しさを埋めるかのように、為はまた男の子を生んだ。初名をあかん平とつけられたその子を、団十郎と為は大いにかわいがった。

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