亀戸町のお為さん(嘉永七年)
19 道中の死絵
六、七月と、海老蔵から仕送りがなかった。六月は、お願いした八代目の件で受け入れ準備に気を取られているのだろうと、為は特に気にせず、なんとかやりくりした。しかし七月になっても海老蔵からは何の便りもこない。店を閉めた吉右衛門を頼るわけにもいかず、子ども二人と加納を抱え、為はさすがに不安になった。江戸を出る時八代目は、
「大坂の勝手を知った身内の者が一人でも多くいる方が心強いから、お為さんもいい時に後から来てくれれば有難い」
と言っていた。猿蔵と重兵衛もあれから八代目を追い、すぐ名古屋へ向かっている。為は向こうへ様子を見に行くことにした。
越前屋の近所には為の親戚筋の伊勢彦が住んでいる。その伊勢彦に宰領を頼み、為は加納とあかん平、ひろを連れ、八月十日の朝に六ツ立ちで江戸を出た。路用は自分の物を売り払って作った。夕方には程ヶ谷に着き、そこで一泊した。そして翌朝も六ツ立ちで程ヶ谷を出た。
嘉永五年の黒船来航以降、幕府に不満を持つ者が増え、世間は騒がしくなっていた。関所の詮議も厳しくなっていると聞いていた為は、事前に前の奉公先である酒井家から手判を手に入れていた。それでも新井の関所で関係性を細かく聞かれ面倒な思いをしたので、箱根の関所では二手に分かれることにした。
まず伊勢彦とあかん平をお伊勢参りという体で先に行かせ、無事通り抜けるのを見届けてから、女三人が宿場で借りた鋲打駕籠に乗って関所に向かった。為は酒井家の奥女中、加納はそのお供、ひろはその子どもということにした。
為は戸を開け姿を見せるだけにし、関所の対応はお供役の加納がした。相手は七十くらいの老女だ。
「どなた様の御家中?」
「はい、酒井雅楽頭家中でございます」
といったやりとりの後、密書を結び込んでいないかを確かめるためだろうか、為と加納は髪をがしりと引っ張られた。老女は二人の髪を調べ終えると、
「仔細ございませぬ」
と役人に言った。役人は
「通りませえ」
と言い、為たちを通した。為はほっと息をついて、髪を直した。
それから幾日か後、薩埵峠を越え、五人で名物の鮑を食べようと茶店で休んでいると、八代目の床山萬吉と正吉が茶店前を通りかかった。加納が気づいて、声をかけた。
「おや、萬さんじゃないか。正さんも一緒に。一体全体、お前さんたちゃあどうしたのさ」
一人ならまだしも、床山が二人も芝居を放って帰ってくるのは何事かと、為も不思議顔で二人を見た。二人は何気ない体で為たちと挨拶を交わし、
「どちらへお出でなさいます」
と言った。加納はじりじりした。
「どこへなぞと、惚けたことをお言いでないよ。わたしたちがこれだけの同勢でこの道をそっちに向かってりゃあ、大坂へ行くに決まってらぁね。馬鹿もいい加減にして、さっさと聞かれたことに返事をおしなね」
二人は慌てて、八代目が大病にかかって芝居が休みになり、長引くようだから一度江戸へ帰るところだと言った。それから急にそわそわと落ち着かなくなり、逃げるように行ってしまった。為は萬吉と正吉の様子に引っかかりながらも、
(八代目が寝込むのは初めてのことではない。働き詰めで疲れたのだろう)
と、この場は大した心配もせず食事をし、茶店を出た。ところが一丁場過ぎて次の茶店を通りがかると、八代目の死絵が出ている。これには為も加納も伊勢彦も驚いた。無款のため、作者は誰かわからなかった。

(ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースより)

(ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースより)

(ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースより)
「まさかそんなこと、あろうはずがない」
為たちは互いに気休めを言い合いながら、道を急いで愛知に入った。愛知には黒猿という成田屋の弟子が居る。黒猿に聞けば本当のことがわかるだろうと為は思った。宿場に着き、早速そこの亭主に聞いた。
「この土地で黒猿という役者が芝居に出ていると聞きましたが、まだいますでしょうか」
「はい、五、六日前まではおりましたが、何でも大坂で騒動が起きたとかで、そっちへ駆けつけて行ってしまい、こっちじゃ大事な役者に休まれて、仕打(京大坂では興行主をこう言う)は大層迷惑しているそうで」
「大坂の騒動とは、どうしたことなのです」
「それは、何でも喧嘩をしたとか、人を殺したとかだそうですが、それで猿蔵という人が斬られて、何にしても大した騒ぎだといいます」
為はハッと息を呑んだ。
(死んだのは八代目ではなく猿蔵なのか。でもそうすると、薩埵峠での二人の様子がおかしい。猿蔵ならわたしに伝えたはずだ。宿の亭主の曖昧な物言いからして、いい加減な噂に違いない)
「猿蔵坊ちゃんなわけありません。こっちには確か、大親方を贔屓にしてくだすっていた鰻屋がありましたでしょう。わたしがそこへ行って、本当のことを聞いて参ります」
加納はそう言い、宿を出た。為は不安そうなあかん平とひろを抱き寄せ、伊勢彦と加納の帰りを待った。
戻ってきた加納により、死んだのはやはり八代目だということがわかった。鰻屋も大坂に駆けつけていて留守だったので、黒猿の出ていた芝居の頭取に聞いてきたという。死因は自殺とのことだった。
あかん平は自分をかわいがってくれていた兄の死を知り、声をあげて泣いた。つられて加納とひろも泣き出した。為は海老蔵の心中を思い、胸が潰れそうだった。そして八代目の気持ちになぜ気づかなかったのかと、自分を責めた。
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