亀戸町のお為さん(嘉永七年)
16 八代目市川団十郎
八代目が借金をしたのは、生活のためだけではなかった。八代目は人気を得るため、他人に金を使うところがあった。そしてその都度首が回らなくなり、借金を繰り返した。しまいに市川家は質屋へ衣類の上げ下げをしないとやっていけないようになり、父海老蔵が金払いのいい大坂へ出稼ぎに行くことになったのだ。八代目がそうなったのには、きっかけがある。
十六で初めて座頭となった時、座頭を取られた五代目澤村宗十郎が納得いかず、八代目に辛く当たるようになった。いろんな嫌がらせをされたが八代目が特に許せなかったのは、
「あの型ぁ何だ。小僧め、物になっちゃあいねえや」
と、口上中に舞台袖から聞こえるように言われたことだ。八代目はあまりの悔しさに、
(一日も早く腕をあげて人気をとりたい、人気が出て見物さえ味方につきゃあこんな不面目な目には遭うまい)
と思い詰め、舞台後すぐに聖天様へお詣りにいった。そして
「わたくしの寿命は三十歳までで宜しゅうございますから、なにとぞ世の中の人気をわたくし一身に集めてくださいますよう」
と願掛けをした。それ以来八代目は、ずっと参詣を続けている。しかも毎日行かなければ意味がないとして、舞台で身体が自由にならない時は加納に頼んで行ってもらうという徹底ぶりだった。
海老蔵の赦免を祈りに成田不動の旅所に通っていた時もそうだったが、八代目は、一度決めた事は頑固なまでに厳格にやり通すところがあった。

(ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースより)
この澤村宗十郎との事があってから、八代目はこれまでにも増して芸道に励むようになった。そして人気を得るため、吉原や湯屋、催しの場など人の集まる場所に出かけては、折りあるごとに身銭を切って馳走するようになった。神社、寺々へも、名を売るため金やいろいろな品を寄進した。
八代目が座頭として蔑ろにされたのは、一回や二回の話ではない。特に海老蔵が江戸を追放された後などは、後ろ盾をなくした八代目に対し歌舞伎界の扱いはガラリと変わった。八代目が父の赦免に必死になっていた背景には、そうしたことがあった。
海老蔵が再び江戸を立って一年と数ヶ月が経った頃、大坂から二代目中村富十郎がやってきて、八代目と同座した。海老蔵が息子に上方の芝居を勉強させようと江戸に下ってもらったのだが、その富十郎も、八代目を座頭として認めなかった。 八代目は今やもう、押しも押されもせぬ人気役者となっていたが、富十郎にしてみれば八代目など「芸も固まらぬうちに引っ張り出された顔だけの役者」だった。座頭として八代目を立てる気になれない富十郎は、上方の小道具を使うなど稽古で好きなように振る舞い八代目を苛立たせた。
長年嫌がらせに耐えてきた八代目は、少しくらいのことでは落ち込まなくなっていた。富十郎の嫌がらせへの仕返しに、八代目は稽古後の共演者へ、毎日料理を取り寄せては振る舞った。

(ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースより)
「さあ、食いねえ。上方贅六(ぜいろくは江戸の人が上方の人を卑しめていう語)は大方茶粥か、おかずは昆布か油揚ぐらいきゃあ食うめえ。明日は鰻を奢るぜ。さあ、食いな食いな」
富十郎に当てつけを言いたいばかりに馳走するのである。さらに八代目は、富十郎についてきた三味線弾きの仕着が木綿小紋の紋付なのを見て、わざわざ羽二重を一反取り寄せ、
「これはつまらねえものだが、これでも絹で織ったものだから木綿よりは高いよ」
と、嫌味を言って渡したりもした。七十にもなって年若の役者とやり合う富十郎も富十郎だが、八代目も八代目なのである。
しかしこの小競り合いは、富十郎に次の狂歌を渡され八代目の完敗に終わった。
菜と蕪根の種は持っても瓜茄子 大根は大根 下手は下手なれ
八代目は狂歌を読み下すなり顔色を変えた。これは皮肉にも父海老蔵が富十郎にあげた狂歌で、父の字で書かれたそれが、芸に自信のない八代目の心を深くえぐったのである。
海老蔵は、自分を謙遜し送った狂歌が時を経て息子を傷つける道具に使われるとは、夢にも思わなかった事だろう。

嘉永七年三月十三日 市村座にて
(ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースより)
江戸一番の人気役者になってからも、八代目の浪費癖は治らなかった。相変わらず衣装に金を使いまくり、借金は減るどころか日に日に膨れ上がっていった。海老蔵からの年三百両の仕送りも焼け石に水で、木場の家からは着物がどんどんなくなっていった。
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