亀戸町のお為さん(安政二年)
24 雪の酒癖
雪が嫁に行っていた深川の会席料理屋和泉屋に離縁されたのは、酒癖と不義が理由だった。雪はかなりの大酒呑みだった。すみは木場に帰されてきた雪に禁酒の誓いを立てさせた。
「これを破れば、勘当ですからね」
「はい、必ず慎みます」
雪はすみにそう約束した。そして、母すみの家事手伝いをしながら木場で大人しく暮らしていた。
為は本宅の雪が、いつもどこか遠慮気味で、窮屈そうに暮らしているのが気になっていた。
(女だけで暮らしているのはさぞかし心細いだろうと大坂に呼んだけれど、お雪さんにとっては、おかみさんと木場で暮らしていた方が気楽だったかもしれない)
為は雪に申し訳なく思った。
海老蔵は自分の出る芝居では、必ず為に桟敷席を用意した。再び大坂で暮らすようになって最初の芝居見物の日、為は加納に、お雪さんも誘ってあげましょうと言い、三人で中座に行った。
桟敷に座ると為は、
「お雪さん、あれ程お好きなお酒なのだから、せめてたまの気晴らしの時だけでも」
と言い、茶屋へ言い付けて二本持って来させた。禁酒の誓いを立てていた雪は、最初は戸惑い、断ったものの、酒が届くとすぐに誘惑に負けた。呑みだすと、雪は明るく開放的になった。それからも為は、芝居見物の時だけ雪にこっそり酒を呑ませてやった。
ある日のこと、いつもは平気なこの二本で雪が大層酔っ払ってしまった。そして舞台で海老蔵の門人の眼玉が出てきた時、大きな声で、
「ざまあ見やがれ、眼玉の下手糞め」
と言った。為と加納はびっくりして雪を見た。
「わたしが男だったら八代目の後を継いで立派な役者だから、ここに出ているような大根なんぞにゃあ、はなも引っかけてやらねえよう」

(ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースより)
為は慌てて、
「どうか静まってください。わたしの落ち度になりますから」
とはらはらしながら頼んだ。大人しい雪はすっかり人が変わっていて、
「ええい、引っ込んでおいで。お前の知った事じゃあねえのだから。それとも、手前が呑ましておきながら、人がいい心持に酔ってきた段になって愚痴愚痴言い出すなぁ、呑ました酒が惜しいのか。悪く止め立てしゃあがると只じゃあおかねえよ」
と怒鳴り立てた。

幸いそこへ、騒ぎを聞きつけたすみが飛んできた。母を見ると、雪は急にめそめそしだした。
「おっ母さん言わしてください。言いたいだけ言わしてくださいよう」
泣き出す雪をすみが宥めすかし、やっとの事で桟敷を立たせた。為と加納は雪を連れ出すすみの後から、観客に頭を下げつつ、肩身の狭い思いで劇場を出た。
舞台が終わるや否や、海老蔵がバタバタと帰ってきた。海老蔵は火のように怒って、
「勘当する。出て行け」
と雪に怒鳴った。大事な舞台をめちゃくちゃにしたのだから、当然の怒りである。しかもやったのが娘となれば、海老蔵の立場もなかった。為は泣く雪の前に走り出て、海老蔵に懇願した。
「わたしが、ご辞退なさるお雪さんへ、無理に勧めて呑ましたのですから、みんなわたしが悪いのです。お雪さんをお出しになるのでしたら、わたしも一緒に出してください」
海老蔵は為に甘かった。
「お前が出ると言うなら、出せねえじゃねえか」
海老蔵は言い、事は無事に済んだ。為は心から反省し、すみへも改めて詫びた。
「おかみさんが止めておいででしたのに、勝手な事をしてしまい本当に申し訳ございません。お雪さんが悪いんじゃありません。お酒の怖さを甘く見ていたわたしが全部悪いのです」
為にここまで言われ、誰も雪を叱れなくなった。
別宅に戻ってからも、為は雪が気がかりでならなかった。
「お雪さんは、役者になりたかったのかねえ」
「親方が男ばかりかわいがるから、役者になれる男が羨ましくなるんです。親方のおひろちゃんへのほったらかし具合をみても、お雪さんが暴れたくなるのもわかる気がいたします」
「まあまあ、それを言えば親方だって、そういう環境でお育ちになってこられたのだから」
為と加納の会話を聞いていた幸蔵が、ひろに
「ひろ、お前役者になりたいか」
と聞いた。為と加納もひろを見た。
「あたし、踊りを見るのは好きよ」
「よし、おいらが教えてやるよ」
幸蔵が言い、「そりゃあいい」と猿蔵も乗った。その日から稽古が終わると、猿蔵と幸蔵がひろに踊りを教えるようになった。
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