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亀戸町のお為さん(安政二年)

23 加納の忠義

 その頃、木場の家には、深川の会席料理屋の和泉屋に嫁に行っていた娘の雪が帰ってきていた。海老蔵の最初の子は五代目松本幸四郎の娘こうとの間にできたすみ(妻すみと同名)で、浅草馬道の薬種屋大阪屋市兵衛に嫁いでいる。雪は幸と別れた後に後妻すみとの間にできた子で、海老蔵の次女にあたる。
 雪が帰ってきたので、里は幸蔵のいる猿若町の家(元八代目の家)に移った。たくさんの使用人を抱え賑やかだった木場の家は、今やすみと雪、長年使用人を勤める市助爺やとお梅婆やだけとなっていた。四條で心細い思いをした為は、すみたちのことが気になり海老蔵に言った。

「江戸の皆さん方、女ばかりを残して置くのもどうでしょう。せめて木場のお二人だけでもこちらへお呼びになっては」

 海老蔵は同意し、八代目の一周忌の後、木場のすみと雪、そして猿若町で里と暮らしていた幸蔵の三人を呼ぶことにした。里には猿若町を、市助爺とお梅婆には木場の留守番を頼んだ。
 八代目は一心寺に眠っている。嘉永二年一八四九年、赦免が近い事を報告するため、八代目は大阪の海老蔵を尋ねた。その時、老齢の父に万一の事があったらいけないからと、一心寺に市川家の墓所を設けていた。その墓に、八代目自らが入ることになった。
 一周忌の後、加納は為にこっそり言った。

「八代目さんが聖天様にされた願掛けがわたしゃどうも引っかかります。八代目さんから聞いたお話によりますと、こんな願掛けでございました。わたくしの寿命は三十歳までで宜しゅうございますから、なにとぞ世の中の人気をわたくし一身に集めてくださいますよう、といった内容です。実際自害されたのが三十を超えた翌年ですから、わたし八代目さんは最初から死ぬおつもりで大坂へ向かったんじゃないかと思えてならないのです。八代目さんが舞台で身体が空かない時はわたしが代わりに参詣を頼まれていましたが、もちろんその時は寿命の事は言わず、ただ八代目さんの人気が上がりますようお祈り申し上げておりました。まさか本気で聖天様に命懸けの願掛けをされているとは思いませんから。ですがその後、江戸一番の人気を誇っていらした七代目さんがまさかの御追放となり、それからの八代目さんの人気の上がり方といえばもう、今考えますと聖天様のお力添えもあったんじゃないかと思う程でございました。一心寺にお墓を建てられたのは、まさに世の中の人気が八代目さんの一身に集まったと思えるような時でした。八代目さんは聖天様とのお約束を守るおつもりで、ご自分のためのお墓を拵えたんじゃあないでしょうか」

 そうかもしれない、と為は思った。八代目が海老蔵の赦免間近を知らせに来た足で、大坂に海老蔵の墓を用意した事に、為も違和感を覚えていた。

「こればかりは、死んで本人に聞いてみなきゃわからないね」

 為は言った。

 為、加納、猿蔵、幸蔵、あかん平、ひろは本宅から一棟隔った坂町裏に、すみと雪は海老蔵のいる坂町本宅で当面暮らしていくことになった。慣れない大坂の地で勝手がわからないすみは、何かにつけて為を本宅へ呼んだ。為も頼られて悪い気はせず、そのうち食事まで別宅から運ぶというような状況になった。朝晩本宅に行くのが日課となり、寝る家こそ違うものの、為は毎日海老蔵と顔を合わせた。
 海老蔵は、為が家の中の細かい用事を小気味よく捌いていくのを見て、つくづく頼りになる女だと思った。木場にいた頃は、為に座元とのやり取りも任せていた。海老蔵はまた芝居の方も為に手伝ってもらう事にした。

家事をする為(イメージ)
おいしい浮世絵展図録より(著者所蔵)


 猿蔵、幸蔵、あかん平、ひろたちが四人揃って暮らすのは初めてのことだった。この時猿蔵が二十一歳、幸蔵が十六歳、あかん平が十歳、ひろが九歳、加納が二十七歳、為が五十一歳だった。猿蔵は八代目に代わり、兄弟の面倒をよく見た。幸蔵は妹の前でかっこつけたがった。
 加納は、大坂で子どもたちが何を見聞きしても強くいられるように、為がいかに海老蔵にとって必要な存在かを語って聞かせた。

「いつか大坂で七代目さんが初めて勧進帳をなすった時のことです。何しろ、その以前に江戸でなすった時から大分月日が経っておりましたので、ところどころ、節や振りの手を忘れていて、何方どなたも思い出せなかったのを、ちょうどそこに居合わせたお為さんが、一幕みんな、振り、台詞回し、唄、鳴物と、残らず覚えていて付けましたのには、一同アッと感心いたした事でございました。さすがの七代目さんも舌を巻いて、お前が男に生まれなかったのは実に惜しいとおっしゃっておりました。そんな風ですから、七代目さんも、お為さんが居なければ、手足をもがれた様に不自由なわけで、芝居の相当なお方でさえ、狂言の難しい字がありますと、お為さん、これは何という時です、と聞くぐらい、お為さんのつむりのいいのには、皆助けられているのです。そんなお為さんを、七代目さんは心から大事に、そして自慢にも思っていらっしゃるのです」

 子どもたちは真剣な顔で聞いている。為は笑って、

「お加納の忠義には本当に頭が下がるよ」

と言った。

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