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亀戸町のお為さん(嘉永五年)

14 活躍する海老蔵の息子たち



「それは誠に悪い事をしました。これからは気をつけるようにするから、どうか許してください」

 権之助はまず詫び、海老蔵に頭を下げた。そこへ、側で聞いていた権之助の母つねが割り込むように言った。

「しかし、世間の親は子どもを砂糖樽に漬けて育てますが、河原崎の家では、砂糖樽の中に唐辛子を入れて育てます」

 海老蔵が返事をする間もなく、権之助が畳みかける。

「その代わり必ずや日本一の役者にしてみせますが、七代目、お前さんの所に子どもは大勢いるけれど、その中から日本一の人が出るかどうか、どうでしょう」

 海老蔵は即座に返事が出来なかった。

(自分を継いで立派な役者になってほしいと常々思ってはいるが、確かに俺は、子どもたちを甘やかしてしまうところがある。この親子は、何も俺の息子をいじめているわけではない。むしろ大事にされていることは、権十郎が着ているものを見ればわかる。稽古にも相当金を使ってくれている)

 海老蔵は権之助をまじまじと見た。実直そうなその顔は、本気で権十郎を日本一にしようとしているようである。海老蔵は我に返ったように言った。

「いや、悪かった。一度やったものだ。今日のことは忘れてくれ」

 一人で戻ってきた海老蔵を見て、為は落胆した。しかし海老蔵から河原崎家の言い分を聞くと、為もすぐには二の句が継げなかった。
 為はしばらく海老蔵を見つめ、言葉を探した。海老蔵の顔にはもう、迷いがなかった。権十郎への厳しすぎる稽古のわけがわかり、為も権之助への不信感は消えていた。しかし今日の権十郎の涙を思うと、母として、何が正解なのかわからなかった。

「わかりました。くれぐれも坊ちゃんの身体のことだけは気をつけてもらってください」

 為は権之助を信じる事にした。


 数日後病気から回復した権十郎は、憑き物が落ちたようにすっきりとしていた。高熱が出たあの日、お為さんは自分の泣き言を優しく黙って聞いてくれた。そして一緒になって、わんわん泣いてくれた。あの時止めどなく出た涙が、これまでずっと感じてきた辛さや寂しさを洗い流してくれたのだと権十郎は思った。

 それから権十郎は、稽古に前向きに取り組むようになった。河原崎座で七代目や兄弟たちと共演したのも大きかった。七代目の力強さと豊かな表現力を目の当たりにし、権十郎はこれが市川宗家かと圧倒された。八代目のゆったりと落ち着いた身のこなしには、気品と華があった。猿蔵と幸蔵からも学ぶところがあった。権十郎は芝居に夢中に取り組む猿蔵が一番、七代目に近い役者になる気がした。

河原崎座での親子共演
嘉永五年一八五二年四月二十八日 豊国画
(上部左から)初代市川猿蔵、五代目海老蔵、三代目河原崎長十郎(権十郎襲名前)
(下部左から)三代目嵐璃寛 、八代目団十郎、初代市川広五郎
ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースより)


 江戸に戻ってから親子共演の機会が増え、海老蔵は子どもの成長を間近で見ることができるようになった。海老蔵には、それが何より嬉しいことだった。
 子どもたちも又、父との共演に張り切っていた。六十を超えても衰えることを知らない父に、一番影響を受けたのは猿蔵だった。猿蔵は役者としての父を尊敬していた。ある日猿蔵が、

「おッさん、芝居で一番大切な事はなんでしょう」

と聞いてきた。海老蔵は言った。

 「これまでたくさん旅興行をしてきたが、その地で流行っているものを脚本に取り入れたり、地の名物を小道具にしたり、台詞を方言に変えたり、その地その地で工夫して、観客との距離を縮めてきた。観客が求める事をする。俺にその精神があったからこそ、江戸追放中も大坂で活躍できたんだ。御目見得公演で岩戸のだんまりの場面を仕組んだのだって、観客の需要に応えての事だ。国貞の兄貴が海老蔵復帰の様子を天の岩戸に見立て、錦絵を描いてくれた。その絵が好評だったから、それを舞台で再現したんだ」

 猿蔵は真剣な顔で、全てを吸収するかのように頷きながら聞いていた。海老蔵は、一途に芝居に取り組む四男猿蔵を買っていた。コツコツと真面目に舞台経験を積み、世間の評判も上がってきている。何より猿蔵は、芝居の楽しさ、面白さを知っている。そこに海老蔵は、自分と同じものを感じていた。

河原崎座での親子共演
嘉永五年一八五二年九月二十四日 豊国画
源義経役を四男猿蔵(左)、義経を守る武蔵坊弁慶役を海老蔵(中央)、義経を捕らえる冨樫左衛門役を八代目団十郎が演じている。
お瀧所蔵


 八代目と幸蔵については、海老蔵はこんなふうに思っている。

 (八代目には持って生まれた華がある。その魅せ方も知っている。人気があるのも頷ける。しかし舞台映えするというだけでは、立役者として先輩役者を率いていくのは難しい。俺のことで余計な気を遣わせてしまったが、これからは芝居に集中し、先輩役者を納得させるだけの実力をつけていかねばならない。幸蔵は社交性があり、楽しくやっていて結構だ。先輩役者を立てることも知っている。芝居は特に目立つものはないが、人に好かれる能力だけはある。この世界で生きていくには必要なことだ。まあ、あいつは脇でも何でも、食べていけりゃあ上出来だ)

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