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亀戸町のお為さん(嘉永五年)

13 母と息子

 嘉永五年一八五二年十月、海老蔵は元服した権十郎を、木場に呼んで祝うことにした。

「権十郎を呼び出して、少しでも気ままな時間を作ってあげたい」

という為の提案に海老蔵が乗り、渋る権之助を説得した。他に門弟の二代目市川九蔵と、三代目岩井粂三郎、三代目嵐璃寛も呼んだ。三人とも河原崎座契約中の役者たちで、今年の市川家の共演者たちだ。さらに海老蔵は国貞を呼び、記念絵を描いてもらうことにした。

 父権之助に、午後の稽古を休んで七代目の家に行くよう言われた権十郎は、驚いた。「河原崎座の若太夫の元服祝い」をしてくれるとのことだが、優しい七代目のおじさんが実父であることはもう知っている。権十郎は午前中の稽古を張り切って終わらせ、浮き浮きと木場に向かった。  

 八代目、猿蔵、幸蔵、あかん平の他、六代目松本幸四郎の養子になった三男高麗蔵(里の子)も駆けつけてくれ、海老蔵は息子たちに囲まれて上機嫌だ。奮発した松の寿司を、子どもたちは大喜びで食べてくれている。
 皆で旨い寿司を食べ、芝居の話をし、扇面に句を書いたり絵を描いたりして遊んでいるうち、子どもたちは普段舞台稽古でしか会えない権十郎ともすっかり打ち解けた。


 国貞は、成田山で赦免を待っていた海老蔵が、諦めて大坂へ渡った翌年一八四四年の正月から、二代豊国を名乗るようになっていた。初代豊国の亡くなった文政八年一八二五年に同門の歌川豊重がすでに二代目を襲名しているから、本来なら三代豊国となるはずだ。しかし豊重の実力を認めていなかった国貞は、

(豊重を認めてその後を継いでしまやあ、自分の格まで下げちまう)

と考え、豊重の襲名をなかった事にした。


 権十郎の元服祝いに呼ばれた国貞改め二代目豊国(三代目豊国)は、その日の様子をさすがの画力で見事に描き出している。息子たちが描かれた三枚続きのその力作は、為の宝物となった。

豊国画(嘉永五年)「安宅の本店 平右エ門町 鮓松」
(左絵)三代目嵐璃寛、三代目岩井粂三郎、六男幸蔵
(中央絵)四男猿蔵、五男権十郎、五代目市川海老蔵、七男あかん平
(右絵)三男高麗蔵、二代目市川九蔵、八代目市川団十郎


 その翌月のこと。権十郎は顔見世の芝居からずっと「忠臣講釈」ちゅうしんこうしゃくの萬才鶴太夫役を勤めていたが、ある朝目を覚ますと、ひどい頭痛がした。起きてはみたが食事も喉を通らない。権十郎は父権之助に、一日だけ芝居を休ませてもらえないかと頼んだ。権之助はえらく立腹した。

「貴様は何だ、役者じゃあないか。役者が舞台へ出るのは、こりゃあ武士が戦場へ行くのと同じ事だ。舞台へ行って死んで来い!」

 こうなるともう駄目だ。父の気性をよくわかっている権十郎は、諦めて辛い頭を抱え出勤した。するとその日から高熱で、全く起きれなくなってしまった。

 権之助から若太夫の容態が思わしくないとの知らせを受け、為は取るものも取り敢えず猿若町の権十郎の枕元へ駆けつけた。

「坊ちゃん、何でも欲しいものがあるならお言いなさい、取ってあげますから」

「なんにも欲しいものはないよ。しかしお為さん、おいらぁ、実に辛いよ」

 為にそう言うなり、権十郎は夜具を頭から被り、その中で声を殺して泣き出した。為はたまらなくなって、声を上げて一緒に泣いた。

「坊ちゃん」「お為さん」と呼び合ってはいるが、権十郎は為が実の母だと知っている。その母が場所も忘れ、自分と一緒になってわんわん泣いてくれている。権十郎は生まれて初めて肉親の情愛に触れた心持ちがして、布団の中で糸が切れたように泣き続けた。

 為は直ぐに家へ帰って、海老蔵に権十郎の様子を話し、涙ながらに訴えた。

「あなたが自分の子供をやたらと他人様へやってしまうから、こういうことが起きるんです。若太夫も稽古事とはいえ、ああ朝から晩まで責め立てられちゃ、とても満足には育ちますまい。もしものことにならない様、今のうちにいっそ取り返してください」

 海老蔵は、こんなに取り乱す為を見たのは初めてだった。子煩悩の海老蔵も、好きで子どもを他所へやったわけではない。

「いや、本当にすまねえ。とんでもねえ事をしてしまった。ほんに、何ぼ自分の生んだ子でないからといって、あんまりひどすぎる。よし、これから俺が行って取り返して来よう」

と為に言って家を出た。

 権之助は海老蔵が血相を変えてやって来たのを見て、これは自分の覚悟を示す時だと思った。権之助は海老蔵を茶の間に座らせ、まずは黙って相手の言い分を聞くことにした。

「子どもに芸を仕込むのはありがてぇ事ですが、物には限度ってもんがありまさあ。俺だって子どもの頃そこまで苦しい稽古はしなかったが、今じゃ所作くれえは見せられるようになった。お前さんのところにやった子だが、元は俺の子だ。病気になるまで苦しむのを見ているのは、親としちゃあまりに情けねぇ。どうか今日限り、せがれを俺のところへ返してくれまいか」

 海老蔵は権之助の目を見据え、きっぱりと言った。

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