2nd アルバム 『Thus Have I Heard』 〜 ①アルバムタイトルについて
はじめに
去る2025年10月8日、私(布施音人)のピアノトリオの2ndアルバム『Thus Have I Heard』を自主レーベルOFMよりリリースしました。
日ごろ最も多く共演している、高橋陸(ベース)、中村海斗(ドラムス)とのトリオで5月にレコーディングしたもので、曲は全曲オリジナルです。

このアルバムに関して、アルバムのタイトルやジャケットデザイン、各曲の作曲過程など、いくつかの記事に分けて書いていこうと思います。
一回目はアルバムタイトル『Thus Have I Heard』についてです。
なお、アルバムの詳細情報や各種リンクは記事末尾に記載しておきます。
また、2025/11/25(火)に渋谷 JZ Brat にてリリースライブがありますのでそちらもよろしくお願いいたします。
タイトル『Thus Have I Heard』について
ことばの意味
Thus have I heard は、「このように(thus)私は聞いた(I have heard)」というような意味の英文です。
I have thus heard や I have heard thus が普通の語順ですが、副詞 thus を文頭に持ってきて、主語と動詞が倒置されています。Never have I 〜 とかと同じです。
少し古風な英語表現でしょうから、「かく我聞けり」のように古風な日本語で訳した方がふさわしいかもしれません。ちなみに、ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」は英語では Thus Spoke Zarathustra のようです。
出典はお経
このフレーズは、実は仏教経典から引用しました。
お経は、釈尊が説いたことがらを、弟子たちが聞き伝え、後の人がまとめたものです。そして、多くの経典の冒頭が「このように私は聞いた。ある時、世尊は○○(場所)で〜〜〜」という決まった形になっています。
この「このように私は聞いた」の部分を英語では Thus have I heard と表現するのが一般的なようだったので、それを使わせてもらいました。
ところで、お経はもともとはサンスクリット語やパーリ語といった言語で書かれており、それが様々な言語に翻訳されて後世に伝わっています。
日本で広く親しまれているのは、鳩摩羅什や玄奘といった高僧たちが漢語(中国語)に訳した漢訳仏典でしょう。
漢訳仏典では先ほどの冒頭のフレーズは「如是我聞」となります。日本で読誦するときには「にょーぜーがーもん」のように発音し、漢文として訓み下すと「是(かく)の如(ごと)く我(われ)聞(き)けり」となります。
よくアルバムタイトルについて、「『如是我聞』を英訳した『Thus Have I Heard』」のように説明しているのですが、これは少し嘘です。というのも、サンスクリット語やパーリ語の表現がもともとあって、その漢訳が「如是我聞」、英訳が Thus have I heard となっている、というのが実際だからです。ただ、日本では「如是我聞」というフレーズが広く親しまれているため、煩雑さを避けるためこのように説明しています。嘘も方便ということでご容赦ください。
ちなみにもともとの表現はサンスクリット語では evaṃ mayā śrutam(エーヴァム・マヤー・シュルタム)です。
evam が「このように」という意味の副詞(最後の -m は次の単語との関係で -ṃ に変化している)、mayā は一人称代名詞 mad- の単数・具格で「私によって」、śrutam は動詞 √śru-「聞く」から作られた過去分詞 śruta- 「聞かれた」の中性・単数・主格と思われます。
英語の Thus have I heard も漢訳の「如是我聞」も、元の語順をある程度保っていることが分かりますね。
(追記)もう少しちゃんと調べました。マニアック注意。
タイトルを決めた経緯
アルバムに収録する曲があらかた決まった段階で、アルバムのタイトルを考え始めました。
まず考えたのは、1stアルバム「Isolated」の時のように、アルバムに収録した特定の曲の曲名をタイトルにする、ということです。
ですが、今回のアルバムは、M5「B.A.S.D.」からM8「Ascending Shadow of the Mountain」までの4曲がいわば組曲のようになっていることもあって、代表する一曲を選ぶことができませんでした。
そこで、収録する各曲の特徴を考えてみたところ、今回のアルバムに収録した最近のオリジナル曲は、前作と比べ、より明確に自分が見てきた景色(心象風景も含まれます)を題材にしているということに気づきました。たとえば、曼珠沙華の群生を見た頃に作った「White Lycoris(白い彼岸花)」や、佐渡島に旅行に行ったあとに作った「Sado(佐渡)」などです。
ただし、これらの曲の作曲過程を思い返すと、必ずしもその見てきた景色を思い浮かべながら作ったというわけではありませんでした。むしろ、曲のモチーフや構成は、技巧的に組み立てたものが多いです。
しかし、そうやってできあがった曲にいざ曲名を付けようという時、ちょうどその頃に見た特定の景色を曲名にしてみたところ、不思議なことに、始めからその曲名にあわせて作られたかのようにしっくりくる、ということが何度かありました。
そういう思考の中で、次のような考えを明確に持つようになりました。それは、私たちが作る音楽には、私たちが見てきたものが(自分で意識しているかどうかに関わらず!)影響している、というものです。
ここで、「私たちが作る音楽」には、時間をかけて作曲したもの、その場で improvise したもの、譜面に沿って演奏したものなどが広く含まれます。また、「私たちが見てきたもの」も、視覚によって捉えられた景色にとどまらず、私たちがこの世界を五感によって感受したもの全般を指しています。
この「影響している」という主張は、たとえばスクリャービンの初期の作品にはショパンの影響がある、といったような話とは少し違います。もちろんこのような客観的に論拠を見つけられるような影響関係も含むのですが、それよりもずっと広く、「すべてのアウトプットにはすべてのインプットが何かしら影響しているのではないか」もしくは「そのように考えた方が豊かに生きられるのではないか」という、一種の信条の領域に属する主張です。
言わば至極当たり前のこの極端な考えをうまく表現できるタイトルはないかと考えていたところ、仏教経典冒頭のフレーズ「如是我聞」が頭に浮かびました。
つまり、この世界を仏の教えになぞらえ、見たもの・聞いたものが作品として生み出されるプロセスを、伝えられてきた仏の教えを弟子たちが一つの経典として紡ぎ出す営みに例えたのです。
数々のお経は、よく考えるととても不思議なプロセスを経て生み出されたものだと思います。
多くの経典、特に日本で広く読まれている大乗仏典などは、ブッダの言葉を直接聞いた弟子たちによる編纂ではなく、もっと後世になって成立したものだとされています。ですが、それでありがたみが失われるということはありません。
それは、そもそもブッダの教えは広大無辺で、有限個の固定化された経典の中に書ききれるものでは到底ない、だからこそ、時と場所に応じて様々な形で表出しうる、という、仏の教えの懐の広さの現れではないかと思います。かといって、好き勝手書き殴ったものが経典になるわけでもありません。経典には、仏教を守り伝えてきた数多の僧たちが、それぞれ精一杯の敬虔さを持って、もう直接語り合うことのできない他者としてのブッダと対峙した結果が現れているのだと思います。
このような敬虔さが連なって仏教という大きな歴史が紡がれてきたこと、そして現代の日本においてもその一端に触れることができるという奇跡に、私は大変感動を覚えます。
そして、先ほど述べたような考えを持って作品を作るのであれば、自分も一種の敬虔さを持って世界と対峙するよう努力しなければならないと考えています。そのような意味も込めて、タイトルを仏教経典冒頭のフレーズにしようと決めました。
また、仏教には「縁起」という考え方があります。全ての現象は、相互の関係性によって成り立っているのであって、それ自体が独立して存在することはない、といった考え方です。
人が作品を生み出すということについて、私は同じような世界観を持っています。音楽について言えば、ある人が生み出す音楽にはその人が聞いてきた音楽(や見てきたもの全て)が意識しなくとも影響している。その意味で、本人がどう考えるかに関わらず、それは広大な音楽史の中に否応なく位置づけられる。そしてそれは更に周りに影響していく。これは音楽に限らず、人間が何かを生み出す営みについて全て言えると思います。
この意味でも、私の考えと仏教の世界観との親和性は高いと考えました。
「如是我聞」にしなかった理由(裏話)
ところで、日本語で「如是我聞」や「Nyo-Ze-Ga-Mon」などにしなかった理由は、単に英語のタイトルにしたかったということもありますが、太宰治の「如是我聞」という作品の存在もあります。
「如是我聞」は、太宰の最晩年の作品で、志賀直哉ら当時のいわば大御所の文学者やその取り巻きへの批判をしたためた、大変攻撃的な文章です。その批判がどの程度的を射ていたのか、私にはあまり評価できませんが、胸のすくような痛快な文体も含め、好きな作品です。
ですが、仏教的な文脈はそれほどない作品だと思われます(連載の途中で作者は自殺を遂げてしまったため、どのような構想があったのかは分かりませんが)。単に「(志賀直哉らが)こんな風に言っているのを私は聞いた」といった意味だろうと思われます。よって私の考えとの連続性も特にありません。
そのため、「如是我聞」というタイトルにした場合、太宰の作品から取ったように誤解されることを避ける意味でも、英語の Thus Have I Heard というタイトルにしたのでした。
CDのブックレットにもエッセイを載せています
以上、タイトル Thus Have I Heard にまつわる裏話でした。
先述の私の考えの部分を膨らませ、人が作品を生み出すという営み自体についてや、その源泉としての人はいつか死ぬということ、生成AIとの関係などについて語った4ページのエッセイをCDのブックレットに載せているので、ぜひそちらも購入していただければ幸いです。Bandcampでダウンロード購入していただく場合もブックレットのPDFをお読みいただけます。
次回はジャケットデザインについて書こうと思います。
アルバムの詳細情報
Otohito Fuse Trio 『Thus Have I Heard』
Track List:
1. Tsutomete
2. Northbound Journey
3. White Lycoris
4. Sado
5. B.A.S.D.
6. Nyoze
7. We Can Hardly See
8. Ascending Shadow of the Mountain
Personnel:
・布施 音人 Otohito Fuse (p)
・高橋 陸 Riku Takahashi (b)
・中村 海斗 Kaito Nakamura (d)
Recorded, Mixed, and Mastered by 吉川 昭仁 Akihito Yoshikawa
Recorded at Studio Dede
OFM-002 STEREO
Made in Japan
トレイラー:
リリースイベント:
11/25(火) at 渋谷 JZ Brat
19:30 start
予約はコチラ

購入リンク:
タワーレコード
ディスクユニオン
Bandcamp(購入でmp3ダウンロード・試聴も可能です)
ストリーミング:
Apple Music:
Spotify:
