evaṃ mayā śrutam(如是我聞)の各要素の意味
※マニアックな記事です。調べ物の記録。
この記事で、お経の冒頭のいわゆる「如是我聞」のサンスクリット原文が evaṃ mayā śrutam であることに触れた。
この文の各要素について、文法的に何であるか(品詞や格など)を少し調べたので記す。
ちなみに、evaṃ mayā śrutam「このように私は聞いた」に続いて ekasmin samaye「ある時…」も定型句なので、ここまで調べた。
そこまで一続きと考え "Thus have I heard at one time" と訳す考えもあるらしい。
evaṃ
evam が「このように」の意味の副詞。
後続の単語が子音から始まっているため、連声により、-m は -ṃ (アヌスヴァーラ)に変化する。
mayā
一人称の代名詞の単数(singular = sg.)・具格(Instrumental = I.)の形。
śrutam
śruta- が動詞 √śru-「聞く」から派生した過去受動分詞(Past passive participles = Ps. pass. pt.)。
-a 語幹の名詞・形容詞で、-am となる形はいくつかあるが、ここでは単数(sg.)・中性(neuter = n.)・主格(Nominative = N.)の形と思われる。
※過去受動分詞について、吹田隆道『実習サンスクリット文法—荻原雲来「実習梵語学」新訂版』には
(前略)この分詞は単独、あるいは合成語の一部として修飾語となる一方で、叙述形容詞として過去時制を表す述部となる。この接尾辞が目的語をもつ動詞(sakarmaka = 他動詞)に付加された場合、その目的語(能動文ではAc.)が主語(N.)となり、動作者を示していた主語(N.)が I. となって過去時制の受動文を作る。tena pādaprahāro dattaḥ(彼によって足蹴りが食らわされた)。このように受動文は、一般に動作者の代わりに動作の対象となる目的語を主語とするから、この接尾辞が目的語をもたない動詞(akarmaka = 自動詞)に加えられて、動作者以外に主語(N.)となるものがない場合には、受動の意味を失って過去時制の能動文を作る。nāpito mr̥taḥ(理髪師は死んだ)。ただし、動作者を I. に変換し、Ps. pass. pt. を sg. n. N. の形で非人称とすることも可能である。mr̥taṃ anena(この[人]は死んだ)。
とある。※Ac. は対格(Accusative)のこと
特に、過去受動分詞について、動作者が具格(I.)で表されることが明記されており、mayā という形になっていたことが納得できる。
また、上記引用の最後の部分にあるように、過去受動分詞 śruta- を śrutam という単数(sg.)・中性(n.)・主格(N.)の形にし、具格(I.)の動作主と組み合わせることで、非人称文「私によって聞かれた ≒ 私は聞いた」となっているのだと考えられる。
※√śru- は聞く対象を Ac. として目的語に取る他動詞であって自動詞ではないと思うので、上記引用の記述だけでは少し疑問は残る。
ekasmin
eka- が数詞の 1。
ekasmin は男性(masculine = m.)または中性(n.)名詞につくときの単数(sg.)・処格(Locative = L.)の形。
samaye
samaya- が「適切な時、時機、機会」という意味の男性(m.)名詞。
samaye は単数(sg.)・処格(L.)の形。
※処格は位置する場所や時間(at, in, on, etc.)を表し、概して日本語の「〜において」に相当する。
※サンスクリット語に限らず多くの言語で、形容詞と形容される名詞は、性・数・格が一致している必要がある。そのため、全体を処格にして、ekasmin samaye で「とある時に」、"at one time" という意味になる。主格の形にするなら ekaḥ samayaḥ(または ekas‿samayaḥ)。
