佐々木中『万人のための哲学入門』について

佐々木中『万人のための哲学入門』を読んだ。たった89ページの中にいくつものアイデアと、必死のもがきと、同時に冷静さも感じられる本で、いくつも付箋を貼りながら読んだ。ただ今日書きたいのはその中のごく短い記述、一箇所についてだけである。それは21ページで、こうある。

「エピクロスやスピノザ、ニーチェは、「自分の死を経験することはできない、死んだ時には自分はいないのだから、死を恐れる必要はない」と言いました。どちらにせよ、同じです。死を恐れるようになるためとはいえ、人間は生きている以上死ななくてならないという、このことについて目を背ける態度こそ、哲学失格と言わざるを得ない」

とある。エピクロスとニーチェには触れられないとして、「自分の死を経験することはできない」云々というのはむしろブランショ?と思う気もするが、それもいいとして、ここで名前が引かれているスピノザははっきりとこう述べている。

「精神はより多くの物を第二種および第三種の認識において認識するに従ってそれだけ悪しき感情から働きを受けることが少なく、またそれだけ死を恐れることが少ない」(『エチカ』第五部 定理三八、岩波文庫、畠中尚志訳)

「物を第二種および第三種の認識において認識する」人のことはあとのところで「賢者」とも呼ばれるのだが、賢者は死を恐れることが少ない。もちろん、賢者が死を否認しているということではないだろう。だが佐々木の言う「目を背ける」という言い方が非常に微妙で、スピノザ的賢者はむしろ、積極的な意味で日々死から目を背け続ける者のことを言うのではないかと思えるのだ。それを「哲学失格」と断じれるものか。ここは切所である。

佐々木の本を読んでいると、ああ確かに我々全員死ぬんだなぁ、出口はないんだなぁ、著者もそのことを散々考えたんだなぁ、というのが痛いほど伝わってくる。だがその出口は案外簡単なところにあるのではないか。つまりご飯を食べている時、湯に肩まで浸かっている時、友達と笑っている時、そうした死に思いを馳せていない瞬間の数々こそ(つまり死から「目を背けて」いる時こそ)肯定されるべき死の「外部」なのではないか。それを、私一個のオピニオンとしてではなく、いみじくも佐々木が名前を引いている大哲学者スピノザが言っているのだから、この箇所が少し引っかかったというわけである。ここから更に「非-死」の問題について考えたければ、江川隆男の「副言」論が参考になると思うのだが、これ以上は読者に委ねる。コンパクトにまとめられた本への重箱の隅をつつくようなツッコミになってしまったが、大事なポイントだと思ったので書いてみた。

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