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いいのか? 相談者をあえて《最悪》な事態へと追い込む手法 ~絵本『ありがたいこってす!』 SideB~

『ありがたいこってす!』、マーゴット・ツェマック 作、わたなべしげお 訳、童話館出版、1994年11月

[絵本《大人読み》談話室]


この絵本の冒頭で描かれるのは、ある〈まずしい不幸な男〉の6畳程度の1部屋しかない家に9人(男と母親、そして妻と6人の子どもたち)がひしめき合う限界的な《狭さ》と《やかましさ》の空間環境。それに耐えきれなくなった男は、ラビ(宗教指導者)のもとへ相談に赴く。

Ⅲ.助言は、家畜たちを部屋へ入れること

[1]最初の助言「鳥たちを部屋に入れなさい」

男の相談を受け、ラビが授けた助言は、事態を改善するためにあえて状況を悪化させるという理不尽なもので、まさに一種の荒療治〔あらりょうじ〕あるいはショック療法のように見える。

ラビの助言に従い、男はその部屋へ飼育していた数羽の〈ひなどり〉と、それぞれ1羽ずつの〈おんどり〉と〈がちょう〉を放った。部屋には羽が舞い、糞が落ちて不潔になった。無論、鳥たちの騒がしい鳴き声が響き、居住空間は更に狭くならざるを得ない。

[2]次なる2つの助言「山羊・牛を部屋に入れなさい」

男はまたラビのもとへ駆け込み、《相談⇔助言》のサイクルを繰り返すことになるのだが、与えられた助言は「家にかえり、おいぼれやぎを なかにいれて いっしょにくらしなされ」「家にかえり うしを なかに いれなされ」と、追い討ちをかけるように空間の騒音と狭隘〔きょうあい〕性・圧迫感を、いよいよ増大させるものだった。

挿画に描かれた男の家(空間)は、助言を実行するごとにその過密さを増し、その圧迫感は私たち読者までも息苦しくさせる。言葉による描写を読まなくても、挿画を見るだけで騒音すら私たちの耳に届いてきそうだ。

部屋の中では〈やぎ〉が跳ね、〈うし〉の巨体が横たわり、一家は文字通り足の踏み場もない状況へ追い込まれる。もはや《狭い》とか《やかましい》とか言えるようなレベルではない。まさに生活空間そのものの崩壊である。

Ⅳ.男がラビの理不尽な助言に従ったのはなぜか?

しかし、この男は、なぜ自分の生活空間を物理的に崩壊させるようなラビからの助言を拒まなかったのだろうか。

ラビについては、絵本に〈ユダヤの法律博士、先生〉という注記があり、ユダヤ教の宗教指導者のようだ。だから、そこに、ラビという存在への絶対的な信頼があることは確かだろう。

後に助言への疑念を抱きつつも従い続けたのは、男が抱えていた物理的な《空間》の限界とともに、心的な《不満》の限界があった。

「今のままでは耐えられない」。とはいえ、「自力では解決できない」。私たちは、自力での解決・救済がかなわない時、ついつい誰かにその答えを求めてしまう(すがりついてしまう)ものだが、彼は極端な助言でも選択せざるを得ないところまで追い詰められていたのである。

Ⅴ.ラビの助言が企図したもの

現実的な解決策は、もっと広い部屋の獲得。だが、男にそれをかなえる経済的な余裕はない。ラビの手法は、あえて《最悪》を招き入れるというものであり、家という《物理的な器》を変える選択が不可能である以上、男の中の事態を受容する《精神的な器》をいったん壊し、再構築することを強いる。

9人の生活空間に招じ入れた家畜たちがもたらす騒音と悪臭、そして物理的な圧迫感。これらは男にとって当初に抱いた苦痛よりも更に上をいく耐え難い《最悪》の苦痛だったはずだ。最後に男が泣きついた時、ラビの助言は、

「家に おかえり(中略)そして、どうぶつたちを そとにだしなされ」

マーゴット・ツェマック作、わたなべしげお訳『ありがたいこってす!』童話館出版、1994年11月

というものだった。

《足し算》によって極限まで膨れ上がった苦痛が、一気に《引き算》によって最初の状態へ押し戻される。それでも、家畜たちが去った後、男に訪れたのは、単なる元の生活ではない。それは、同じ景色が全く別の輝きを帯びて見えるという《再発見》の瞬間でもあった。

Ⅵ.変化しない現実と、変化した見据え方

ともあれ、家畜たちが去って残されたのは、物語の冒頭と同じ《9人の家族と、1部屋しかない小さな家》である。結局のところ、現実はスタート地点に戻ったに過ぎない。部屋が広くなったわけでも、家族が減ったわけでも、生活が豊かになったわけでもない。

しかし、男の口から漏れたのは、以前のような《不満》ではなく、心の底からの《感嘆》だった。

「ラビさま おまえさまは おれのくらしを らくにしてくださった。家のなかには かぞくのものが いるだけで、しずかで ゆったりで 平和なもんでさあ……ありがたいこってす!

マーゴット・ツェマック作、わたなべしげお訳『ありがたいこってす!』童話館出版、1994年11月

ここにあるのは、単なる我慢や諦めではなく、むしろ環境に振り回されない《認知の自由》の獲得である。この絵本の最後の挿画には、1枚目とは別の角度から9人が住まう部屋が描かれている。部屋で家族が安らかに眠る姿は、いまここにある幸福に《気づく能力》の大切さを伝えるかのようだ。

私たちは、現状の価値を測る際、どうしても《いまより上のもの》と比較してしまう。それが《足し算》の先にある限り、現在地はいつだって《欠乏・欠如》であり続ける。

私が初読時に抱いた感想「単なる相対化やん!」は変わらないものの、そんな自分自身も、まさに《充足》を求めて「物理的に《足し算》する思考に囚われているなあ」と、ふと振り返ったことは確かである。

《充足》感というのが、物理的なスペックだけに依拠するのではなく、極めて主観的な真実なのだとすれば、いきなり《引き算》までは望まぬにせよ、《足し算》思考からちょっと降りてみてもいいかなと感じている。
まずは、自分のいまに。「ありがたいこってす!」

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