トランスジェンダーとしての《生》を家族とともに生きる ~YA小説『兄の名は、ジェシカ』~
『兄の名は、ジェシカ』、ジョン・ボイン 著、原田勝 訳、あすなろ書房、2020年4月
[図書《SHORT》紹介]
Ⅰ.兄の告白と、家族の瓦解
ある家族の空洞化した関係が露顕〔ろけん〕し、微妙に保たれてきた形骸〔けいがい〕は瓦解〔がかい〕する。その発端は長男による苦悩の告白であったが、終局に至るまで一家は激しく揺さぶられ、瓦解とともに家族の絆は編み直されていく。
物語の語り手は14歳の少年サム。彼の家族(ウェイヴァー家)は、政府の閣僚で次期首相候補となる母デボラと、その私設秘書を務める父アラン、そして4歳年上の兄ジェイソンという構成になっている。
一家を揺るがすジェイソンの告白は、リビングに揃った家族を前に、サムとの対話の中で提示される。「おまえの兄さんじゃない。ほんとうは、姉さんなんだと思う」――彼は自分がトランスジェンダーであることを幼い頃からずっと自覚しつつ、隠し続けてきた。だが、真実を伝えて理解されたいとだんだん考えるようになったという。彼の苦悩の内実は、別の場面でこう語られている。
「自分は男として生まれてきたけれど、思いだせるかぎり幼いころから、なにかがまちがっていると思ってました。……この体は、本来の体じゃないみたいなんです。はっきり言って、ほんとうは自分は女なんだといつも思ってました。……どうすれば本当の自分になれるのか、そして、自分らしい生き方ができるようになるのか知りたいんです」
本作品には、ジェイソンのアイデンティティをめぐる苦悩の周囲に、障がいや人種や移民、さらには貧富・職業・性役割・恋愛性向などにまつわる固定観念や偏見と差別の問題が(語り手の言葉や登場人物の発話として)ちりばめられている。
ちなみに、ジェイソンを偏見のないまなざしで捉えてくれる人物は、サッカー部のオブライエン監督、精神科のワトソン医師、ローズおばさん(母デボラの2歳下の妹)と、実に少数だった。
Ⅱ.立ちふさがる弟サム――最大の《拒絶者》
語り手を《難読症の弟》[※注]として設定したのは、他者との差異ゆえの受難という点で、苦悩を抱えて居場所を求める兄と響き合う存在とするためであろう。友達もなく、同級生にいじめられ、また家族で最年少のせいもあってか、発言を両親に軽んじられるサム。
[※注]難読症(ディスレクシア)
ディスレクシアは、学習障害のひとつのタイプとされ、全体的な発達には遅れはないのに文字の読み書きに限定した困難があり、そのことによって学業不振が現れたり、二次的な学校不適応などが生じる疾患
信じた相手に秘密を打ち明けた後、裏切られてしまうという展開もまた兄と共振〔シンクロ〕する。兄が彼に「なぜおまえには友だちがあまりいないんだ?」と問いかける場面では、そのままの自分を受けとめてくれる誰かと共に生きていくことが大切、という兄の切なる想いが滲〔にじ〕み出る。
しかしながら、多忙な両親に代わって自分の世話をしてくれた存在であり、サッカー部のキャプテンとして学校の人気者だった兄を最も敬愛する弟は、最大の《拒絶者》として立ち塞がり、やがて就寝中の兄のポニーテールの髪(女性として生きる決意の象徴)をハサミで切り落とす。
物語は真っ直ぐに終局へ向かって展開していく。重いテーマを扱いつつも、ぐいぐいと惹きつける軽妙な筆致〔ひっち〕と、少しずつ積み重ねられていく絶望的な末路への予感、それを裏切るどんでん返しの結末を、読者は驚き、楽しめばよい。
Ⅲ.サムの変容と、家族の再生
その過程で弟サムの葛藤しつつ変化する姿も描出される。《兄ジェイソン》を《姉ジェシカ》として受け入れ、自分に寄り添ってくれる友達を得て、わが想いを堂々と人前で発言できるようになった。
《兄=姉》の最大の《理解者》となったサムの葛藤と変化は、ひとり彼のみならず、やがて両親にももたらされる。兄に対する強い《拒絶》のみならず深い《愛情》もまた、実は両親のそれと確かに響き合うものであった。
《難読症の弟》という設定は、両親の想いを体現する役割をも、サムに付与していたのである。
