坂の上のつくも|ep2-5 「喧騒に咲く音」|

意識の始まりは覚えていない。
気づいたときには、知らない人たちに囲まれて、うるさい感情の“音”の中で耳をふさぎながら、ただ息を殺してじっとしていた。
―――うるさい!
声にならない叫びは誰にも届かず、俺は、それらの音から逃れるように、かき消すように、自分から「音」を生み出すことにした。
選んだのはエレキギター。アンプさえあれば全てを吹き飛ばすような大音量が可能で、エフェクトによって音を様々に変えていく様子は、周囲の雑音を簡単に消してくれた。
そのときから、俺の世界は、ギターの音色で染まった。
周囲の雑音は相変わらずだったが、ギターの音が一刻でもそれらを消してくれる。
俺はギターに熱中し、周りの音を遮断した。
だから、それは本当に偶然だった。
運河沿いで聞こえた歌声。澄んだその音は、声そのものか“感情”かわからない。
何より、この世にこんなきれいな澄んだ音があるのかと、俺は耳を疑った。
本当にこの世のものなのか?
俺は無意識のうちに、その音を探して歩き出していた。程なくして、音の主は幻ではなく、簡単に見つかった。
それは、一人のヒトから発せられたものだった。
そして、声も、感情も澄んだそのヒトを、俺は遠くから見守ることにした。なぜなら、そのころの俺は周りから怖がられ、誰も近寄らなくなっていたから、下手に近寄って、あの音が濁ってはいけないと思ったから。
その音を持つヒトのことを、俺はほとんど知らない。名前はもちろん、どんな目をしているのか、どんな話し方をするのか、何も知らない。
わかるのは、女性であることと、きれいな“音”を持つということだけ。
でも、たとえ姿形がわからなくたって、この音がそのヒトの全てを物語っていると思っていた。
ある日、唐突にその音が濁って聞こえた。
濁るというより、何かに怯えるような音。
俺は慌てて、その音のする場所を探した。そして、建物の影に隠れたその場所で、彼女を見つけた。
彼女は、雑な音を放つ何人かのガラの悪い人に囲まれて、怯えた音に囚われていた。
俺は、臆することなく近づいていく。
あと数メートルというところで、彼女が俺に気づいて、あっと小さく声をあげる。
怯える音。
その怯えが、彼女を取り囲むそいつらに向けられているのか、俺に向けられているのかは、わからない。
だけどこの際、それはどうでもいい。
彼女の“音”を汚す奴は、俺が許さない。
彼女が俺に気づいて視線を向けたことで、ガラの悪い奴らも、その視線を追って俺に気づいたようだった。
すると、途端に及び腰になって、ひそひそと相談を始めたかと思うと、あっという間に奴らはいなくなってしまった。
ひとり残された彼女の視線が、俺に刺さる。
怯えた音は、まだ消えていない。
俺は、バツが悪くて、居心地が悪くて、その場から引き返す。が、彼女に呼び止められてしまった。
「あの、―――――――!」
その言葉は、思いもしないものだった。
※ ※
「オルガ、行ってくる」
スイとテンからの散歩のお誘いにためらうことなく、お菓子がたくさん入った袋を下げて旧岩永時計店を後にするサワは、当たり前のようにオルガに声をかけた。
その言葉には、また帰ってくるからという意味が込められていて、昔のサワを知る人はきっと、今の穏やかなサワの様子に驚くだろう。
「今日は海へいこう!」
元気な2匹のあとをついていくサワは、ある建物の前で、ふと足を止めた。
―――ここは…。
初めてオルガと話した場所だった
「サワ、どうした?」
急に立ち止まったサワを訝しむスイに、サワは何でもないとだけ返して再び歩き出す。
あのとき、オルガと出会うことがなければ、今の自分はなかったかもしれない。誰からも怖がられ疎まれていたころに、唯一差した光。
独りでいた俺に、居場所をくれたヒト。
今の居場所を守るためなら、俺は何でもするかもしれない。
「サワ、にやついてる~変なかお~」
茶化すテンに、サワは冷たいけれど温かい目を向ける。以前の自分なら速攻でブチ切れていたように思うが、そうならないのは、全てはあのときのことがあったから。
「ほら、海行くんだろ。さっさと行くぞ」
サワは2匹を追い越して、足早に海へ向かった。
※ ※
一拍置いて、勇気を出したかのように声を張る彼女の言葉は意外なものだった。
怯えの色が一切ない、迷いのない声。
俺は、彼女の真っ直ぐに俺を見つめる目と、予想しなかった言葉に呆気に取られて、思わず、頷いていた。
「あの、よかったら、私と友達になってくれませんか!」
あのときから、俺の世界は変わったんだ。

※エピソード一覧
・第1部
ep1「鈴の行方」
ep2「星に願いを」
ep3「スカイ・ハイ」
ep4「歪んだココロ」
ep5「ねじれたモノ」
ep6「水の衣」
ep7「嵐の前の静けさ」
ep8「諦めと決意」
ep9「囚われの君へ」
・第2部
ep1「北のウォール街のレストラン」
ep2「高嶺の花」
ep3「名探偵コテン」
ep4「紅蓮の記憶」
ep5「喧騒に咲く音」
・サイドストーリー(ショートショート)
epSS「雪あかり」
epSS「消防犬ぶん公」
epSS「雪あかりの路2023」
epSS「アナタニサマ」
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