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姫失格 〜恥の多い後宮生活を送って来ました〜

(うるさい……まだ月曜の朝よ……もう少し寝かせて……)
意識の底にへばりつくような、不快な電子音が鳴り響いている気がした。スマートフォンのアラームだ。スヌーズ機能を使って、五分おきに現実を突きつけてくるあの無慈悲な音。
瞼の裏には、昨夜深夜まで見続けてしまった中華ドラマの残像が焼き付いている。画面の中で冷徹な美貌を振りまいていた皇子 景様! 彼の流し目が脳裏をちらつき、胸の奥がきゅっと甘く痛むのと同時に、胃のあたりには鉛のような重圧がのしかかってきた。
ああ、そうだ。今日は月曜日だ。
朝九時からの定例会議のパワポを準備し、そのあとには理不尽な社長とのお客さんまわりが待っている。満員電車の湿った熱気、中年サラリーマンの整髪料の匂い、そして終わりの見えない残業。
(嫌だ、行きたくない。あと五分、いや三分でいいから……)
私は逃避するように、安物のせんべい布団の中で身体を丸めようとした。
いつものように、背中のスプリングが軋む音を聞きながら、湿気たポリエステルの感触に包まれるはずだった。
けれど。


寝返りを打った瞬間、世界が裏切った。
「……え?」
背中に伝わってきたのは、背骨を突き上げるような硬いスプリングの感触ではなかった。
それは、まるで雲そのものを切り取って敷き詰めたかのような、底なしの柔らかさだった。体がふわりと沈み込み、重力を忘れるほどの弾力が私を優しく受け止める。
肌に触れるシーツの感触もおかしい。何回洗濯したかわからないような毛玉だらけのジャージ越しに感じるのは、ごわついた綿ではない。もっと滑らかで、水の流れそのもののような、ひやりとした極上の肌触り。
そして、決定的な違和感が鼻腔をくすぐった。
いつもの、生活臭の染みついた六畳一間の澱んだ空気ではない。
ほのかに甘く、それでいて精神を鎮めるような深みのある香り。白檀(びゃくだん)だろうか、それとも沈香(じんこう)だろうか。高級旅館や、あるいは由緒ある寺院でしか嗅いだことのないような、高貴で静謐な「香り」が、部屋全体を満たしているのだ。
(何これ……私、アロマキャンドルなんて焚いて寝たっけ?)
いや、そんな洒落た真似をする余裕なんて、今の私の生活にはないはずだ。
まだ夢を見ているのだろうか。それとも、あまりの疲労に脳が現実逃避をして、幻覚を見せているのか。
「姫様! 姫様、杏花(きょうか)姫さま、お目覚めですか?」
不意に、すぐ耳元で声がした。
電子音ではない、人の声だ。それも、鈴を転がしたように清らかで、しかしどこか切迫した響きを含んだ若い女性の声。
(姫様……? 杏花……?)
知らない名前だ。けれど、その声は明確に私に向けて発せられていた。
心臓がドクンと大きく跳ねる。不法侵入? 泥棒?
恐怖が眠気を吹き飛ばし、私は弾かれたように上半身を起こした。
「だ、誰っ!?」
叫び声と共に目を見開いた私の視界に飛び込んできたのは、見慣れた光景ではなかった。
天井の隅にできた雨漏りのシミも、通販で買ったプラスチックの照明器具も、脱ぎ散らかしたストッキングがぶら下がるカーテンレールも、そこにはない。
「……は?」
喉から、間の抜けた音が漏れた。
視界を覆い尽くしていたのは、圧倒的な「赤」と「金」の世界だった。
頭上には、幾重にも重ねられた薄紅色のうすぎぬが天蓋となって垂れ下がっている。その骨組みには、今にも動き出しそうなほど精緻な龍と鳳凰の彫刻が施され、金箔が鈍い光を放っていた。
視線を彷徨わせれば、壁一面には墨の濃淡だけで幽玄な世界を描き出した山水画が掛けられ、黒檀(こくたん)と思しき重厚な棚には、白磁の壺や珊瑚の置物が並んでいる。どれ一つとっても、博物館のガラスケースの向こう側にあってしかるべき一級品ばかりだ。
窓からは、格子越しに柔らかい朝の光が差し込み、宙を舞う塵さえも金粉のように輝かせている。
部屋の広さは、私のワンルームが四つ……いや、五つは入るだろうか。遠くに見える入り口付近には、色鮮やかな巨大な屏風が立てかけられ、外の世界とこの静寂な空間を隔てている。
(なにこれ……ドッキリ? テレビの企画?)
私は慌てて周囲を見回した。カメラは? スタッフは? 「大成功」と書かれたプラカードを持った芸人が飛び出してくる気配はない。
それとも私、とうとう夢遊病にでもなって、寝ている間にテーマパークのホテルに忍び込んだのだろうか。だとしたら犯罪だ。不法侵入で逮捕される未来が一瞬で脳裏をよぎり、血の気が引く。
混乱する頭で、私は自分の身体を見下ろした。
そこにあるはずの、高校時代のジャージあるいはヨレヨレのバンドTシャツは存在しなかった。
代わりに私の身体を包んでいたのは、淡い桃色をした、濡れたような光沢を放つシルクの寝間着だった。袖口には見たこともないほど繊細な花の刺繍が施され、動くたびにさらさらと衣擦れの音が鳴る。
(噓でしょ……この布だけで、私の一ヶ月分の給料より高そう……)
震える手で、自分の顔に触れようとする。その途中、視界に入った自分の髪に、呼吸が止まった。
私の髪は、肩につくかつかないかのボブカットで、色は繰り返したカラーリングで傷んだ茶髪のはずだ。
けれど、指先に絡みついたのは、夜の闇を溶かして固めたような、艶やかな黒髪だった。それも、腰を優に超えるほどの長さがある。一本一本が絹糸のように滑らかで、枝毛の一つも見当たらない。
「姫様、杏花姫さま。本日は一年に一度の『観菊かんきくの宴』がございます。ささ、お急ぎになりませんと」
呆然自失とする私に追い打ちをかけるように、先ほどの声の主が再び口を開いた。
恐る恐る声のした方へ顔を向ける。
そこには、本当に時代劇から抜け出してきたかのような衣装をまとった女性が立っていた。
髪を頭頂部で二つの輪に結い上げ、薄緑色の襦袢じゅばんと長いスカートのような裳(も)を身に着けている。年の頃は二十代前半だろうか。顔立ちは愛らしいが、その瞳には職務を全うしようとする強い意志と、私――この「杏花姫」に対する親愛の情が滲んでいた。
彼女は私を「杏花きょうか」と呼んだ。
いやいや、誰それーーーー

私の名前は山田花子(やまだ・はなこ)。
私の名刺には、初対面の人間が必ず眉をひそめる肩書きが印刷されている。
『株式会社剛田興産 総合責任(パーフェクト・アドバイザー) 山田花子』
 名古屋市中村区、名駅の摩天楼の陰にある雑居ビル。そこで働く私は30歳、独身、彼氏なし。
 そして、自他ともに認める、プロフェッショナルの社畜である。
「おい、花子! どえりゃあことになったぞ! ちょっとこっち来やぁ!」
 週明けの月曜日。社長室の扉が開くと同時に、剛田厳(ごうだ・げん)社長の怒声がフロアに響き渡った。
 この道四十年のワンマン社長。三河弁と名古屋弁が混ざった独特の言葉を操るこの男こそが、私の飼い主だ。
「おはようございます、社長。『どえりゃあこと』とは、先日の脱税疑惑の件でしょうか? それとも、今日のゴルフコンペのメンバーが足りない件でしょうか?」
 私はデスクから一歩も動かず、PCの画面を見つめたまま冷静に返す。
「どっちも違うわ、たわけ! 手土産だわ、手土産! 今日の取引先の専務さん、あんこが嫌いで洋菓子も医者に止められとるらしいんだわ。だもんで、甘いもんが食いてゃあとか抜かしとる。なんとかせえ!」
 あんこが駄目で洋菓子も駄目、でも甘いもの。そんなことを言う大人は地獄へ落ちればいい。
「かしこまりました。錦の老舗果物店に連絡して、最高級の『太陽のタマゴ』、マンゴーの桐箱入りを押さえます。それなら文句はないはずです」
「おおっ! それだがね! おみゃあ、さすがパーフェクト・アドバイザーだわ。気が利くがね!」
 社長は満足げに頷くと、ドスドスと社長室へ戻っていった。
 私は小さくため息をつき、受話器を取る。
 ことの始まりは三年前だ。
 当時、剛田社長の秘書を務めていた女性が、社長のあまりの横暴さと理不尽な要求の数々に心を病み、ある日突然、出社拒否になった。
 総務部にいた地味で真面目だけが取り柄の私、山田花子が、とりあえずの繋ぎとして社長の身の回りの世話を命じられたのだ。もちろん今までの業務は据え置きでである。
『新しいのが見つかるまででええで、頼むわ』
 そう言われて三年。
 新しい秘書? 募集すらしていない。求人広告費がもったいないという理由と、私が「あまりに便利すぎる」という最悪な理由によって。
 私の役職『総合責任(パーフェクト・アドバイザー)』は、昨年の昇給の際に社長が勝手につけたものだ。
「花子は秘書なんて枠には収まらん働きぶりだでよ、もっとええ名前にしたったるわ!」
 給料は据え置きで、増えたのはわけのわからないカタカナ役職と、無限の業務量だけ。
 果物店への発注を終えた直後、内線が鳴る。
「山田です」
『おい、パーフェクト。悪いが今日の昼飯、予約しとらんかったわ。いつものひつまぶし屋、今からねじ込めるか?』
「……社長、あそこは人気店で、当日の昼なんて行列必須ですが」
『だでお前に電話しとるんだがね。お前のその肩書きは飾りか? なんとかしてちょーよ』
 飾りだ。あんたがつけたふざけた飾りだ。
 喉元まで出かかった言葉を飲み込み、私は「善処します」と答える。
 受話器を置き、即座にひつまぶし屋の女将の個人の携帯を鳴らす。
「あ、女将さん? 剛田興産の山田ですぅ~! ええ、いつものワガママなんですけど……はい、本当に申し訳ない! 今度、私が個人的に実家から送られてきた高いメロンお裾分けしますから! ……あ、いけます? 個室? ありがとうございます! 一生ついていきます!」
 電話を切った瞬間、ふと虚しさがこみ上げる。
 私は何をしているんだろう。
 30歳。周りの友人は結婚したり、キャリアアップしたりしている。
 なのに私は、名古屋の片隅で、わがままな老人のために、うなぎ屋に土下座(電話越し)をしている。
 午後一時。
 社長を接待に送り出し、少し遅い昼食をとるためにデスクでコンビニの味噌おにぎりを齧っていると、また社長から着信が入った。
『花子ォ! わしの万年筆、どこやった!』
「胸ポケットに入っていなければ、車の後部座席のドリンクホルダーです。さっきサインした時に置いたままにしていませんか?」
『……お、あったあった。さすがだわ。……あとな、孫の入園プレゼント、何がいいと思う?』
「お孫さんは今月で五歳ですから、今はやりの戦隊モノの変身セットをすでに発注済みです。夕方にはご自宅に届きます」
『……おみゃあ、ほんとにすごイわ』
「仕事ですから」
 通話を切る。
 すごいのではない。ただ、社長の思考回路を完全に学習してしまっただけだ。AIがビッグデータを学習するように、私は「剛田厳」という厄介な生き物の行動パターンを体に叩き込んでいる。
 もう、逃げられないのだ。
 私がいないと、この社長は万年筆一本探せないし、孫の機嫌も取れない。会社の重要書類の場所も、金庫の暗証番号も、全部私しか知らない。
「……完全に飼いならされとるなぁ、私」
 味噌おにぎりの味が、少ししょっぱく感じた。
 夜九時。
 社長は接待で錦三(錦三丁目)の街に消え、私はようやく退社する。
 地下鉄桜通線の駅に向かって歩きながら、ふとビルのガラスに映った自分を見た。
 疲れ切った顔。地味なスーツ。
 でも、背筋だけは妙に伸びている。どんな無理難題が来ても即座に打ち返す、臨戦態勢の姿勢だ。
 スマホが震える。社長からだ。
『今から二次会だわ。お前も来やぁ。わしの武勇伝を知っとる聞き役がおらんと酒がうまくねぇんだわ』
 普通なら断る。明日も早い。
 でも、私は立ち止まり、深く息を吐いてから、慣れた手つきでフリック入力する。
『了解しました。十分で到着します。ヘパリーゼ、買っていきますか?』
 送信ボタンを押すと、既読は一瞬でついた。
『さすがパーフェクト・アドバイザー! 気が利くがね! 二本頼むわ!』
 私は夜空を見上げる。テレビ塔のライトアップが滲んで見える。
 悲しいことに、私はこの理不尽な状況を、どこかで「攻略ゲーム」のように楽しんでしまっている節がある。
 社長の「おみゃあ、すごいな」という名古屋弁を聞くたびに、妙な達成感を覚えてしまうのだ。
 それが、社畜の鎖だと分かっていても。
「……はいはい、行きますよ。山田花子、ただいま参上」
 私はヒールを鳴らし、夜の繁華街へと歩き出した。
 30歳、独身、彼氏なし。
 今日も私は、わけのわからない肩書きを背負って、完璧に走り回るのだ。
午前二時。
 錦三丁目のネオンもさすがにまばらになり、タクシーを待つ酔っ払いたちの列だけが長く伸びている。
 私はその列を横目に、ため息を一つついて、アスファルトを踏みしめた。
 終電はとっくになくなった。タクシー代は会社から出るらしいが、この長蛇の列に並ぶ気力はないし、経理の佐藤さんがいい顔しない。何より、あの喧騒の余韻を家に持ち帰りたくなかった。
 ここから自宅のアパートまでは徒歩一時間。
 ヒールで痛む足を引きずりながら、私はバッグからイヤホンを取り出し、耳にねじ込む。
 スマホの動画アプリを開く。画面に映し出されるのは、極彩色の衣装をまとった美女たちと、壮大な紫禁城。
 私のささやかな、そして唯一の現実逃避。
 全七十話もある長編中国宮廷ドラマの鑑賞タイムだ。
『陛下、この薬湯をお召し上がりください……』
『ふん、其の方の企みなどお見通しだ!』
 耳元で響く、甲高い中国語のセリフと大げさなBGM。
 画面の中では、側室たちが皇帝の寵愛を巡って、毒を盛ったり、濡れ衣を着せたりと、ドロドロの愛憎劇を繰り広げている。
 広い桜通の歩道を一人歩きながら、私はぼんやりと妄想にふける。
(あーあ……私もお姫様だったらなぁ……)
 こんな深夜に、味噌カツのタレがついたスーツをクリーニングに出したり、酔っ払った社長の演説を聞きながらウコンを差し出したりしなくていい世界。
 絹のドレスをまとい、爪を長く伸ばし、「お茶」と言えば侍女がうやうやしく差し出してくれる生活。
 歩く時ですら、宦官(かんがん)の手を借りて優雅に一歩ずつ進むのだ。自分では何もしなくていい。ただ美しく着飾って、庭園の花を愛でていればいい。
(清朝の側室になりたい。……いや、位の高い貴妃(きひ)がいいな)
 ドラマの中のヒロインが、ラスボスの皇太后に濡れ衣を着せられて涙を流している。
 普通なら「かわいそう」と同情するところだが、今の私の感想は違った。
(……甘い。甘すぎるわ、ヒロイン。剛田太后(しゃちょう)なら、その濡れ衣をかけられた瞬間に倍返しで怒鳴り返してくるわよ)
 ふと、冷めた思考が頭をよぎる。
 考えてみれば、この宮廷ドラマの世界も、私の職場と大差ないのではないか?
 気まぐれで絶対的な権力を持つ「剛田太后(しゃちょう)」。皇太后の化粧をしているあの社長が頭の中を占領していくーーーやめてーーーー
 その顔色を常に窺い、ご機嫌を取り、ライバルを蹴落とそうとする「側室たち(取引先や社内の取り巻き)」。
 そして、皇太后の命令一つで東へ西へと走り回る「宦官(かんがん)」。
(……あれ? 私、お姫様っていうより、完全に『有能な宦官』じゃない?)
 社長の思考を先読みし、欲しいものを差し出し、トラブルを未然に防ぐ。
 私の今のスキル、たぶん宮廷でも通用する。
 皇太后が「茶」と言う前に最高級の茶葉を用意し、刺客が来れば無表情で処理し、他の側室の嫌がらせも笑顔でスルーする。
『そちこそ、真のパーフェクト・アドバイザーよ』
 脳内の皇太后(なぜか顔は剛田社長)が、にやりと笑って褒めてくる想像をしてしまい、私は夜道で頭を振った。
「……やだやだ。妄想の中でまで働いてどうすんのよ。ってかなんで剛田社長は男でしょ!!」
 ドラマのヒロインは、ようやく逆転の一手を打ち、愛する皇子「景(けい)」との愛を確かなものとしたようだ! きらびやかな衣装で微笑んでいる。
 やっぱり、綺麗だ。
 どんなにドロドロしていても、彼女たちは自分の人生の主役だ。
 私はスマホの画面を消し、夜空を見上げた。
 名古屋の街灯りで星は見えない。
「私も……いつか景様が迎えにこなかなぁ」
 独り言は、深夜の国道に吸い込まれて消えた。
 足の痛みは限界に近い。
 それでも、明日の朝九時には、完璧な笑顔で社長を出迎えなければならない。
 私は再び再生ボタンを押した。
 ドラマの続きが始まる。
 せめて家に着くまでのあと三十分だけは、この煌びやかで残酷な夢の国に浸らせてほしいーーーー

というのが私の記憶に残る昨日までの私!
「姫」なんて呼ばれる要素は、私の人生のどこを探しても一ミリグラムも存在しない。
(もしかして、まだ夢の中? 明晰夢ってやつ?)
そう思い、私は太ももをつねってみた。
「いったぁ……!」
鋭い痛みが走り、目尻に涙が滲む。夢じゃない。痛覚がある。現実だ。
「姫様? いかがなさいました? やはり昨夜の風邪気味だったのが……?」
侍女らしき女性――後に彼女が私の専属侍女であり、名は蘭馨(らんけい)だと判明するのだが――は、心配そうに眉を寄せながら近づいてくる。
彼女の手が私の額に触れた。ひんやりとして、心地よい。その手のひらの感触があまりにも生々しくて、私は言葉を失った。
「あ、いや……えっと……」
口から出た声は、いつもの私の、酒焼け気味で低い声ではなかった。
高く、鈴の音のように可憐で、頼りなげな響き。自分の喉から出たとは信じがたいその美声に、私自身が一番驚いて口をつぐんでしまう。
(この声……誰の声? 私の声帯、どうなっちゃったの?)
蘭馨は私の反応をどう解釈したのか、「お熱はないようですが、まだお顔色が優れませんね」と呟くと、手際よく私を寝台から引きずり下ろした。
彼女の腕力は見た目に反して意外と強く、私は抵抗する間もなく床に立たされる。足裏に触れる床板は磨き上げられ、靴下なしでも少しもざらつかない。
「さあ、まずは洗顔を。それからお着替えをしていただきませんと、皇帝陛下もお待ちでございますよ」
皇帝陛下。
その単語が出た瞬間、私の脳内で何かがカチリと音を立てた。
昨夜見たドラマ。イケメン皇帝。中華風の世界。姫と呼ばれる私。
まさか。
いや、まさかそんな。ラノベやネット小説じゃあるまいし。
「鏡……」
私は掠れた声で呟いた。
「鏡を見せて。今すぐ」
蘭馨は怪訝そうな顔をしたが、主人の命令には逆らえないというように、部屋の奥にある化粧台へと私を導いた。
そこには、私の身長の半分ほどもありそうな、巨大な銅鏡が鎮座していた。現代のガラスの鏡ほどの鮮明さはないが、磨き上げられたその表面は、光を反射して白く輝いている。
心臓が早鐘を打つ。
見たいけれど、見たくない。
もしそこに映るのが、寝不足で目の下にクマを飼い、ほうれい線が気になり始めた二十八歳の私の顔だったら?
いや、むしろその方が安心するかもしれない。ここはただのドッキリ会場で、私は騙されているだけだと笑い飛ばせるから。
けれど、もし。
もし、そこに映るのが「私」じゃなかったら?
ごくり、と唾を飲み込み、私は鏡の前に座った。
蘭馨が横から明かりを近づけてくれる。
銅鏡の中の霧が晴れるように、そこに映る「誰か」の姿が浮かび上がった。
「…………」
息が、止まった。
世界中の音が消えたような静寂が、私の頭の中を支配した。
そこにいたのは、私ではない。
山田花子の面影など、微塵も残っていない。
鏡の中にいたのは、透き通るような白い肌を持つ、絶世の美少女だった。
年齢は十六、七歳といったところだろうか。
陶磁器のように滑らかで欠点のない肌。
濡れたような輝きを宿す、少し吊り上がった大きな瞳は、星を砕いて散りばめたように煌めいている。
通った鼻筋、桜色の小さな唇、そしてフェイスラインは触れたら切れてしまいそうなほどシャープだ。
長い黒髪が背中を流れ落ち、桃色の寝間着と相まって、まるで桃源郷に咲く花のような儚さと妖艶さを醸し出している。
(いやいやいや、誰よこの美少女!)
私は鏡の中の少女に向かって、心の中で絶叫した。
試しに右手を挙げてみる。鏡の中の美少女も、優雅に右手を挙げる。
頬をつねってみる。美少女の白い頬が赤く染まり、痛みに顔をしかめる。
変顔をしてみる。……美少女が変顔をしても、それはそれで可愛いという衝撃の事実が判明しただけだった。
(私の知ってる山田花子の顔面偏差値は、こんなに高くないわよ! っていうか、これ、加工アプリとかじゃないわよね!?)
私は鏡に顔を近づけ、まじまじと見つめた。
毛穴がない。シミもない。目尻のシワもない。
あるのは、若さと美しさ、そして高貴な血筋だけが持つ圧倒的なオーラだけ。
これは、昨夜見たドラマの女優よりも、アイドルよりも、はるかに美しい。まさに「傾国」という言葉がふさわしい容貌だ。
「杏花姫さま? やはりお加減が?」
鏡の中の自分に見とれ、あるいは戦慄していた私を、蘭馨が不思議そうに覗き込んでくる。
鏡の中には、美少女と、その横に立つ心配そうな侍女の姿。
これは夢だ。夢に決まっている。
そう思いたいのに、鏡の縁の冷たい感触も、部屋に漂うお香の香りも、窓の外から聞こえる小鳥のさえずりも、すべてが残酷なほどにリアリティを持っていた。
「……なんでもないわ」
私は震える声でどうにか答えた。美少女の唇から、鈴のような声が紡がれる。
この状況を受け入れるには、私のキャパシティはあまりにも足りない。けれど、ここで「私は山田花子だ!」と叫んだところで、狂ったと思われて幽閉されるのがオチだろう。
今はとりあえず、この「杏花姫」という役を演じるしかない。
二十八年の社会人生活で培った、「理不尽な状況でもとりあえずニコニコしてやり過ごす」スキルを、まさかこんなところで発揮することになるとは。
「観菊の宴、だったかしら」
「はい、左様でございます。陛下も、杏花姫さまの琴の演奏を楽しみにしておいでですよ」
(琴!? 弾けるわけないでしょ! リコーダーだって怪しいのに!)
新たな絶望が私を襲う。
しかし、蘭馨はそんな私の内心など知る由もなく、テキパキと櫛を手に取り、私の長い黒髪を梳かし始めた。
絹糸のような髪が引っ張られる感覚。頭皮に伝わる心地よい刺激。
鏡の中で、美少女が少しずつ「高貴な姫君」へと変身していく。
鮮やかな牡丹色が刺繍された衣装が運ばれてくる。
金細工の簪(かんざし)が用意される。
紅筆が準備される。
私は鏡の中の美少女――「私」の目を見つめ返した。
その瞳の奥には、隠しきれない不安と、ほんの少しの好奇心が揺らめいている。
(わかったわよ。やってやろうじゃないの)
月曜日の朝、満員電車に揺られて会社に行くはずだった私は、今ここにいない。
ここにいるのは、傾国の美少女・杏花。
この豪華絢爛で、けれどどこか恐ろしさを秘めた宮廷で、私は生きていかなければならないらしい。
「蘭馨」
私は名前を呼んでみた。意外にも、自然に言葉が出た。
「はい、姫様」
「……最高に美しくしてちょうだい。陛下が腰を抜かすくらいにね」
どうせ夢か、あるいはわけのわからないなんかのイベントなら、楽しまなきゃ損だ。
鏡の中の美少女が、ニヤリと不敵に笑った。
その笑顔は、かつての疲れたOLのものではなく、物語の主人公にふさわしい、強気で美しいものだった。
蘭馨が嬉しそうに微笑み、私の髪に櫛を入れる。
その瞬間、窓の外から吹き込んだ風が、微かに菊の香りを運んできた気がした。
私の新しい人生――あるいは壮大な夢――の幕開けである。

トイレがないなら、おまるを使えばいいじゃない

鏡に映る自分の顔――いや、杏花きょうかという名の少女の顔を、私は恐る恐る指先でつついた。
ぺた、ぺた。
指に吸い付くような潤い。押し返してくる弾力。
それは徹夜明けの乾燥したアラサーの肌では断じてない。まるでつきたての餅か、あるいは高級な水饅頭のような、非現実的なまでの瑞々しさだ。
(夢、だよね……? でも、痛いし、冷たいし、匂いもする……)
頬をつねった痛みは引かず、部屋に漂う甘い白檀の香りは脳の芯まで染み込んでくる。
私が呆然と頬を触り続けていると、背後で控えていた蘭馨らんけいが、くすりと上品に笑った。
「姫様、ご自身の美しさを確かめるのもよろしいですが、そろそろお時間を。さあ、おぐしを整えますわね」
彼女は私の手から優しく櫛を取り上げると、私の背後に回った。
柘植つげだろうか、飴色に艶めく櫛が、私の長い黒髪に滑り込む。
すーっ、すーっ。
絹鳴りの音が耳元で心地よく響く。髪が梳かされるたびに、頭皮がきゅっと引き締まり、椿油のような芳しい香りがふわりと舞い上がった。
蘭馨の手つきは、まるでマジックだった。
ただの長い髪が、彼女の細い指先によって巧みにねじられ、編み込まれ、みるみるうちに芸術的な造形へと変わっていく。
頭頂部で大きく二つに分けられた髪は、見事な両把頭リャンバトウへと結い上げられた。そこに、翡翠ひすいで作られた蝶のかんざしや、歩くたびにシャラシャラと涼やかな音を立てる金細工の歩揺ほようが、次々と挿されていく。
「それにしても姫様、本日も本当にお美しい。透き通るような白磁の肌に、烏の濡れ羽色のお髪……これならきっと、皇太后様もお喜びになりましょう」
鏡の中で満足げに微笑む蘭馨。しかし、その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たい氷柱が突き刺さった。
(……はい? 今、なんて言った?)
皇太后。
その単語が脳内で反響し、昨夜見ていたドラマの映像がフラッシュバックする。
画面越しに見ていても震え上がるような、あの冷酷無比な老婆。気に入らない側室がいれば濡れ衣を着せて井戸に放り込み、皇帝である息子さえも意のままに操ろうとする、紫禁城の絶対権力者。
いわば、ラスボス。
(皇太后って……あのドラマで一番怖かった、あのおばあちゃん!? 会うの? 私が? 今から!?)
心臓が早鐘を打ち始める。
「喜びになる」わけがない。あのドラマの皇太后は、若くて美しい娘を何より嫌っていたはずだ。
私は心の中で全力でツッコミを入れたが、恐怖で喉が引きつり、声が出ない。
「さあ、お立ちくださいませ」
状況が全く飲み込めないまま、私はされるがままに立ち上がらせられた。
次に待ち受けていたのは、「着替え」という名の苦行だった。
まずは肌触りの良い薄絹の下着。その上に、鮮やかな牡丹の刺繍が施された桃色の長衣。さらにその上から、袖口が広くゆったりとした瑠璃色の羽織……。
一枚重ねるごとに、私の身体はずっしりと重くなっていく。
極めつけは、首元にかけられた真珠のネックレスと、腰帯に吊るされた何種類もの香り袋や玉飾りだ。
(重っ……! なにこれ、鎖帷子くさりかたびら!? 肩凝りとかいう次元じゃないんですけど!)
総重量は数キロ、いやもっとあるかもしれない。
現代の軽やかな化学繊維に慣れきった私の身体は、この豪奢な布の塊に押しつぶされそうだった。
さらに、足元には「花盆底かぼんぞこ」と呼ばれる、厚底の中央に高いヒールがついた特殊な靴を履かされる。竹馬に乗っているような不安定さだ。
一歩踏み出そうとするだけで、足首がプルプルと生まれたての子鹿のように震える。
(待って、これどうやって歩くの? っていうか……)
ふと、現代人ならではの極めて切実、かつ重大な問題が脳裏をよぎった。
(これ、トイレどうするの?)
こんな何層もの布に包まれ、紐でぎちぎちに縛られ、不安定な靴を履いた状態で。
もし急に便意を催したら?
脱ぐのに何分かかる? いや、そもそも自分一人で脱げるのか?
(まさか……おまる……!?)
想像したくない未来図が頭をよぎり、私は顔を青ざめた。
だが、そんな私の卑近な悩みを吹き飛ばすような、雷鳴のごとき声が廊下に響き渡った。
「皇太后様、おなーりー!!」
甲高く、それでいて腹の底に響くような、宦官かんがん独特の節回し。
その声が聞こえた瞬間、部屋の空気が凍りついた。
ザッ、ザッ、ザッ。
それまで穏やかに準備を手伝ってくれていた侍女たちが、まるで蜘蛛の子を散らすように部屋の両脇へと下がり、一斉にその場にひざまずいた。額を床に擦り付け、微動だにしない。
静寂。
聞こえるのは、彼女たちの衣擦れの音だけ。
(え、ちょ、私も? 私もひざまずくの!? っていうか、タイミング悪すぎない!? 心の準備が!)
私はパニックに陥り、棒立ちになったまま入り口を見つめた。
屏風の向こうから、重々しい足音が近づいてくる。
ジャラ……ジャラ……。
硬質な装飾品が触れ合う音と共に、むせ返るような濃厚な麝香じゃこうの香りが漂ってきた。
そして、現れた。
極彩色の刺繍が施された黄金色の衣をまとい、両脇を二人の女官に支えられながら、その人物はゆっくりと姿を現した。
(う、嘘でしょ……)
呼吸が止まるかと思った。
そこに立っていたのは、昨夜テレビ画面の中で見たあの顔。
能面のように表情を消し、しかしその瞳の奥には底知れぬ冷酷さを宿した、あの大御所女優に瓜二つの老婆だった。
長い指には、鋭く尖った金色の指甲套ネイルガードが嵌められ、まるで猛禽類の爪のように光っている。
彼女――皇太后は、部屋の中央で立ち止まると、ゆっくりと視線を巡らせた。
その視線が、部屋の真ん中で一人突っ立っている私に突き刺さる。
蛇に睨まれた蛙。いや、ティラノサウルスに見つかったハムスター。
私は本能的な恐怖で足がすくみ、膝が笑い出した。
皇太后は私の顔をじろりと舐めるように見ると、手にした白檀の扇子で口元を隠し、低く、しわがれた声でこう言い放った。
「――そなたか。父の謀反むほんの罪で後宮入りしたという、例の姫は」
(……は?)
謀反。
今、とんでもない単語が聞こえた気がする。
ロマンスドラマのヒロイン変身かと思いきや、まさかの「反逆者の娘」設定?
思考が追いつかない私の耳に、皇太后の追撃が突き刺さる。
「ふん。傾国の美貌と聞いておったが……噂ほどでもないな。貧相な顔つきよ」
(……っ!)
カチン、と何かが切れる音がした。
初対面で。
いきなり部屋に押し入ってきて。
犯罪者の娘呼ばわりした挙句、容姿のダメ出し?
(初対面でなんてこと言うのよ、このおばさん! 貧相で悪かったわね! こっちは月曜の朝からあんたの顔見て胃がキリキリしてんのよ!)
私の心の中の「山田花子」が、袖をまくり上げて「なんだとこのアマ……!」と怒号を上げた。
しかし、現実は非情だ。
鏡に映るか弱い美少女・杏花は、恐怖と屈辱で顔を真っ白にし、小刻みに震えているだけだった。
声を出そうとしても、喉が引きつって「あ、う……」と情けない音しか漏れない。
周りの侍女たちが床にめり込む勢いでひれ伏しているのが視界の端に入る。
私も……私も頭を下げなきゃ殺される!
私は慌てて見様見真似で、その場に跪こうとした。
だが、慣れない「花盆底」の靴と、数キロの衣装の重みが災いした。
「あっ」
ぐらり、と身体が大きく傾く。
踏ん張ろうにも足首が固定されて動かない。
私はスローモーションのように、皇太后の足元に向かってつんのめった。
ドサッ!
無様な音を立てて、私は床に手をついた。
それは優雅なコウトウなどではなく、単なる「転倒」だった。
視界の先には、皇太后の履いている、美しい刺繍靴のつま先がある。
シン、と部屋が静まり返る。
侍女たちの息を飲む音が聞こえた気がした。
皇太后が見下ろしている気配がする。
背中に冷や汗が滝のように流れる。処刑? むち打ち? 冷宮送り?
様々なバッドエンドが脳裏を駆け巡る中、頭上から氷点下の声が降ってきた。
「……作法もなっておらぬとは。嘆かわしい」
見下すような、冷ややかな響き。
「今日の観菊かんきくの宴で、わたくしに恥をかかせぬよう、せいぜい努めるがよい。……行くぞ」
衣擦れの音が遠ざかっていく。
ジャラ、ジャラ、ジャラ……。
嵐のような威圧感を残し、皇太后と取り巻きたちは去っていった。
「はぁ……っ、はぁ……」
私は床にへたり込んだまま、荒い息を吐いた。
心臓が口から飛び出しそうだ。
怖かった。本当に、殺されるかと思った。
テレビで見るのと、生身で対峙するのとでは、迫力が桁違いだ。あれは人間ではない。妖怪の類だ。
「ひ、姫様! お気を確かに……!」
嵐が過ぎ去るのを待って、蘭馨が駆け寄ってきた。
彼女の手を借りて、私はなんとか立ち上がる。足が生まれたての小鹿のようにガクガクと震えている。
「大丈夫……じゃないかも……」
私は力なく呟いた。
極度の緊張と恐怖。そして、冷たい床に転がった衝撃。
それらが複合的に作用し、私の身体――正確には杏花の身体――は、正直すぎる反応を示し始めていた。
下腹部に感じる、切迫した重み。
そう、生理現象である。
(まずい、トイレ行きたい……!)
さっきまでの恐怖が嘘のように、今は別の焦りが私を支配し始めていた。
現代社会の満員電車や長時間の会議で鍛えられた私の膀胱は、鉄壁の守りを誇っていたはずだ。
しかし、この身体は違う。深窓の令嬢の、繊細で軟弱な膀胱なのだ。
おまけに、緊張のあまり自律神経が暴走しているらしい。
今、このタイミングで?
これから宴に行くのに?
でも、我慢して宴の最中に粗相でもしたら、それこそ打ち首ものだ。リスクは早めに摘んでおくべきだ。
私は脂汗を滲ませながら、蘭馨の袖を掴んだ。
「あの……蘭馨、お手洗いはどちらに?」
小声で尋ねる。
しかし、蘭馨はきょとんとして首を傾げた。
「おて……あらい……にございますか?」
通じない。
そうか、ここは清の時代。「お手洗い」なんて上品ぶった現代語が通じるわけがない。
「トイレット」「W.C.」「化粧室」……どれもダメだろう。
「ええと、その、お花を摘みに……」
とっさに思いついた隠語を使ってみる。
しかし、蘭馨の顔がパァッと明るく輝いた。
「まあ! お花でございますか? さようでございますね、観菊の宴の庭園には、それは見事な菊が咲き誇っておりますわ! 黄色に白、紫と、姫様のお好きな……」
「ち、違うの! そうじゃなくて!」
ダメだ、この天然侍女には私の必死のSOSが届かない!
菊の花なんてどうでもいい。私が今摘みたいのは、もっと切実な、生理的な花なのだ。
冷や汗が背中を伝う。
もう限界が近い。
私は恥も外聞もかなぐり捨て、下腹部を押さえながら、切羽詰まった表情で訴えた。
「も、漏れる……!」
その鬼気迫る形相に、ようやく蘭馨は何事かを察したらしい。
「はっ!」と息を呑み、慌てた様子で手を打った。
「も、申し訳ございません! 姫様、もしや解手かいしゅでございますか? ささ、こちらへ!」
解手。それがこの世界のトイレ用語か。覚えた。一生忘れない。
蘭馨に支えられ、私は部屋の隅にある衝立ついたての裏へと案内された。
そこにあったのは、個室ではなかった。
ただの、部屋の隅だ。
そこに鎮座していたのは、見事な彫刻と漆塗りが施された、蓋付きの木箱。
一見すると高価な骨董品のようだが、その形状、そして漂う微かなお香の匂い(消臭用だろう)から、その用途は明らかだった。
これは、紛れもなく「おまる」だ。
中国宮廷ドラマで見たことがある。「恭桶きょうとう」と呼ばれる、移動式の便器だ。
「さあ姫様、わたくしがお召し物を……」
蘭馨が甲斐甲斐しく私の帯に手をかけようとする。
私はビクッと身をすくませ、全力で彼女の手を制止した。
「だ、大丈夫! 一人でできるわ!」
「まあ、そのような。これほど重い衣装でございますよ? それに、姫様のお世話をさせていただくのが、わたくしの務めにございます」
蘭馨は不思議そうに、しかし断固として手伝おうとする。
彼女にとっては日常なのだろう。主人が用を足すのを手伝い、その排泄物を処理し、お尻を拭くことさえも、忠義の証なのだから。
だが、私の中の山田花子が絶叫した。
(いや無理無理無理! 人が見てる前でなんて、絶対無理だから!)
(二十八歳OL、他人にお◯を拭かせるなんて……そんな……!)
プライバシーという概念が存在しない世界線に、私は絶望した。
現代日本の、温かい暖房便座。
ボタン一つでお尻を洗ってくれるウォシュレット。
音を消してくれる乙姫機能。
そして何より、誰の目も気にせず一人になれる、あの完璧な「個室」という聖域。
ああ、日本のトイレよ。
あなたはなんて偉大な文明の利器だったのか。TOTOよ、LIXILよ、なんてあなたがたは素晴らしかったの! おお、心の友よ!!
「お、お願い、蘭馨……!」
私は半泣きになりながら、彼女の両手を握りしめた。
この美少女の顔で、瞳を潤ませて懇願すれば、たいていの無理は通るはずだ。
「どうしても……どうしても一人にしてほしいの。急に故郷のことが思い出されて、ちょっと一人になりたいの……ね? お願い」
上目遣い。涙目。震える声。
私の必死の演技(半分本気)に、蘭馨は戸惑いながらも、最後には根負けしたようにため息をついた。
「……承知いたしました。姫様がそこまで仰るのであれば」
彼女は渋々といった様子で手を引いた。
「では、わたくしはこの衝立の向こうにおりますゆえ。何かあればすぐにお声がけくださいませ」
「ありがとう、蘭馨! 絶対入ってきちゃダメよ! 絶対よ!」
まるで「鶴の恩返し」の鶴のような念押しをして、私は彼女を衝立の向こうへと追いやった。
静寂が戻る。
目の前には、豪華な漆塗りの「おまる」。
私は重い衣装をたくし上げ、不安定な靴でバランスを取りながら、その箱の上にまたがった。
太ももに触れる木の感触はひやりとしていて、プラスチックの便座の温もりが恋しくてたまらなくなる。
(……情けない)
美しい山水画の屏風に囲まれ、国宝級の衣装をまといながら、木箱にまたがる私。
イケメン皇帝とのロマンス? 宮廷での出世争い?
そんな華やかな舞台の裏側で、私は今、自らの尊厳と戦っている。
衝立の向こうからは、蘭馨の衣擦れの音が聞こえる。壁一枚隔てただけの距離に人がいる緊張感。
音を立てないように、慎重に、慎重に……。
(もしチート能力というものがあるなら……一つだけ欲しいものが……)
私は心の中で深く願う。
(今すぐこの部屋に、水洗トイレと鍵付きのドアを設置してください……!)
私の切実な願いはどこにも届くことなく、ただ「チョロ……」という、わびしい水音だけが、静寂な宮廷の部屋に小さく響いたのだった。

国境の長いトンネルを抜けると、そこは塩対応だった

解手かいしゅ」――すなわち、おまるでの用足しという人生最大の尊厳をかけたミッションを、私はなんとかクリアした。
羞恥心という名の皮膚が一枚剥がれ落ちたような気分だが、感傷に浸っている暇はない。蘭馨らんけいの手によって再び幾重もの衣を整えられ、メイクを直された私は、いよいよ本日のメインイベント、「観菊かんきくの宴」が開かれる御花園ぎょかえんへと出陣することになった。
しかし、一歩部屋を出た瞬間、私を待ち受けていたのは、想像を絶する過酷な「環境」という名の暴力だった。
「……暑い」
思わず口をついて出た本音は、すぐに熱気の中に溶けて消えた。
今日の天気は、恨めしいほどの秋晴れだった。空はどこまでも高く突き抜け、雲ひとつない青色が広がっている。現代であれば「絶好の行楽日和」と天気予報士が笑顔で告げるだろう。
だが、今の私にとっては、この太陽は拷問器具以外の何物でもなかった。
じりじりと照りつける日差しが、容赦なく私の全身を焦がしていく。
私が身にまとっているのは、薄絹の下着に、襦袢、中衣、そして豪華な刺繍が施された厚手の長袍チャンパオ、さらにその上から羽織る大袖の礼服だ。
枚数にして五枚、いや六枚か。
現代の夏ならTシャツ一枚でも不快指数が振り切れる気温の中、私はまるで布団を体に巻き付けて歩いているような状態だった。
(重い……暑い……苦しい……!)
一歩踏み出すたびに、ずっしりとした衣装の重みが肩に食い込む。
背中を、ツーっと嫌な汗が伝い落ちていくのがわかる。首元に巻かれたスカーフのような領巾ひれが熱を閉じ込め、逃げ場のない湿気が体表を覆う。
額に滲む汗が、時間をかけて塗りたくられたファンデーション(恐らく鉛白か何かだ)を溶かしていくような気がして、気が気ではない。
(エアコン……! せめて、せめてダイソンの扇風機を……!)
私の脳裏に、オフィスの天井に埋め込まれた業務用の空調吹き出し口が、まるで天国の門のように神々しく浮かび上がった。
昨日の今頃は、キンキンに冷えたオフィスで「寒い寒い」と言いながらカーディガンを羽織り、結露したアイスコーヒーのカップをデスクに置いていたのだ。あの冷房による乾燥さえも、今となっては愛おしい。
文明の利器を取り上げられた現代人がこれほど脆いものだとは、思いもしなかった。
「姫様、汗が。失礼いたします」
隣を歩く蘭馨が、心配そうな顔でハンカチを取り出し、私のこめかみをそっと押さえる。彼女はもう片方の手で、大きな団扇うちわを必死に扇いでくれているが、その微風は分厚い衣装の壁に阻まれ、肌までは届かない。まさに焼け石に水だ。
「ありがとう、蘭馨……でも、大丈夫よ」
気丈に振る舞おうとしたが、声は掠れ、笑顔は引きつっていたに違いない。
周囲を見渡せば、回廊を行き交う他の姫君や貴婦人たちの姿があった。
彼女たちも同じように、いや、私以上に豪華で厚着をしているはずだ。
それなのに。
(なんで? なんでみんな涼しい顔してるの?)
すれ違う貴婦人たちは、優雅に絹の扇子を揺らしながら、「今年の菊は見事ですこと」などと談笑している。
汗ひとつかいていない。まるで、彼女たちの皮膚には汗腺が存在しないかのようだ。それとも、宮廷での訓練を積めば、自律神経さえもコントロールできるようになるというのか。
一人だけ茹でダコのように顔を赤くし、息を荒げている自分が、ひどく場違いで野暮ったい存在に思えてくる。
それに加えて、足元の苦行が私の体力を削り取っていく。
私が履いているのは「花盆底かぼんぞこ」と呼ばれる、清朝特有の厚底靴だ。
靴底の中央部分だけに、高さ十センチほどの木の台がついている。つま先とかかとが浮いている状態だ。例えるなら、一本歯下駄とハイヒールを悪魔合体させたような代物である。
バランスを取るだけで体幹の筋肉が悲鳴を上げている。
砂利道を踏むたびに足首がグネりそうになり、そのたびに冷や汗が吹き出し、さらに体温が上がるという悪循環。
(これ、本当に宴に行くの? 刑場に向かってるんじゃないの?)
意識が朦朧とし始めた頃、ようやく視界が開けた。
極彩色の門をくぐり抜けた先に広がっていたのは、息を飲むほど美しい、しかし同時に残酷なほど広大な「御花園」だった。
池の水面は鏡のように空を映し出し、その周囲には数え切れないほどの菊の花が咲き誇っている。
黄金色、純白、燃えるような紅、そして高貴な紫。
大輪の菊が波のようにうねり、風が吹くたびに甘くほろ苦い香りが鼻腔を満たす。
池の中央には朱塗りの東屋あずまやが浮かぶように建っており、そこから琴の音色が風に乗って流れてくる。
まさに、この世の極楽。絵巻物から切り取ったような絶景。
だが、その美しい景色の中に足を踏み入れた瞬間、私はそこが「社交界」という名の戦場であることを思い知らされた。
「……あら」
私が会場の入り口に立った瞬間、近くにいた数人の令嬢たちが、扇子で口元を隠しながらこちらを見た。
その視線には、明らかな「棘」があった。
「あちらが、例の杏花きょうか姫ですわね」
「まあ……本当においでになったの?」
「お父様が謀反むほんの罪に問われたとか……一族の恥ですのに」
「よくもまあ、のうのうと宴になど顔を出せますこと」
ひそひそと。
しかし、明らかに私の耳に届く音量で調整された、悪意の周波数。
クスクスという忍び笑いが、さざ波のように広がっていく。
(聞こえてるっつーの……!)
現代社会でも陰口や噂話はあった。給湯室での悪口、SNSでの匿名コメント。
だが、ここのそれは質が違う。
洗練された言葉遣いでラッピングされた、純度の高い猛毒だ。
「謀反人の娘」。
そのレッテルが、私という存在をこの煌びやかな世界から弾き出そうとしている。
現代なら「それ、パワハラですよね? 人事案件ですよ?」と言い返せるかもしれない。だが、ここでは誰も止めてくれない。身分と権力がすべてのこの世界で、罪人の娘である私は、食物連鎖の最底辺にいるプランクトンに過ぎないのだ。
暑さによる脱水症状。
慣れない靴による筋肉疲労。
トイレ問題による精神的摩耗。
そして、容赦なく降り注ぐ人間関係のストレス。
物理的、精神的なダメージの四重奏カルテットを食らった私の限界ゲージは、ついにレッドゾーンを振り切った。
(ああ、もうダメ……)
視界がぐにゃりと歪んだ。
鮮やかな菊の色が、絵の具をぶちまけたように混ざり合う。
耳元の蝉の声が、キーンという耳鳴りに変わっていく。
地面が、急激な角度で迫ってくる。
膝から力が抜けた。
倒れる。
硬い石畳に顔面から激突する、その痛みと衝撃を覚悟して、私は目を閉じた。
その時だった。
グイッ。
衝撃は来なかった。
代わりに、私の身体は宙吊りになったかのように止まった。
誰かの、力強い腕が、私の腰を抱き留めていたのだ。
「……大丈夫か?」
耳元で響いたその声は、灼熱の砂漠に湧き出た清水のように、冷たく、澄んでいた。
低音で、磁力を帯びたような、深い響き。
鼓膜が震え、その振動が直接脳髄を揺らす。
私は、霞む視界を必死に凝らして、顔を上げた。
スローモーションのように時間が引き伸ばされる。
逆光の中、その人の顔がゆっくりと焦点を結ぶ。
「…………っ」
息を呑んだ。呼吸することさえ忘れた。
そこにいたのは、人間ではなかった。
天界からうっかり地上に落ちてきてしまった、美の化身だった。
漆黒の髪は、一筋の乱れもなく頭頂部で結い上げられ、精緻な白玉の冠で固定されている。
切れ長の瞳は、底知れぬ湖のように深く、静かで、涼やかだ。
夜空に浮かぶ星屑をそのまま溶かして流し込んだような、吸い込まれそうな黒目。
すっと通った鼻筋は、定規で引いたように真っ直ぐで完璧な稜線を描いている。
薄い唇は引き結ばれ、冷徹な意志を感じさせるが、その形状はあまりにも色っぽい。
肌は陶磁器のように白く、強い日差しを浴びても汗ひとつかいていない。
まるで、彼だけが別の気温、別の時間の流れの中に生きているかのようだ。
高名なミケランジェロが、自身を削って彫り上げたダビデ像。
人間が本来持つべき「雑味」が一切ない、侵しがたい美しさ。
(第二皇子……けい様……!)
私の脳内で、昨夜の記憶が爆発した。
間違いない。
昨夜、私が深夜三時まで更かしをして見続け、寝不足になった元凶。
架空のドラマの登場人物だと思っていた、あの人。
皇帝の次男でありながら、泥沼の皇位継承権争いからは一歩引き、常に冷静沈着。
文武両道に秀で、琴を弾かせれば都の鳥が舞い降り、剣を振るえば一撃で敵を薙ぎ払う。
しかし、その瞳には常にどこか深い憂いを帯びており、決して本心を他人に見せないミステリアスな皇子。
そのクールな立ち居振る舞いと、時折見せる孤独な横顔に、画面の向こうの数千万人の女性視聴者が悲鳴を上げ、私もその一人として尊死しかけた、あの「最推し」が。
今、目の前にいる。
3Dで。4Kどころじゃない解像度で。
しかも、私を抱きとめている。
(うそ……夢? これ、まだ夢の続き? だとしたら一生覚めないで!)
ドラマの中では、金糸銀糸をふんだんに使った豪華な衣装に身を包んでいたが、目の前にいる彼は違った。
余計な装飾を削ぎ落とした、深い濃紺のシンプルな長袍チャンパオ
生地には同色の糸で目立たぬように雲の文様が織り込まれているだけだ。
だが、そのシンプルさがかえって、彼自身が持つ素材の良さ、圧倒的な気品を際立たせていた。
飾り立てる必要などない。彼という存在そのものが、至宝なのだから。
ふわりと、鼻先を何かの香りがかすめた。
白檀びゃくだんのような、高貴で甘い香りに混じって、清涼なミントのような、あるいは雪解け水のような、冷たくて清潔な香り。
汗臭いおじさんの臭いでも、安っぽいコロンの臭いでもない。
これが「イケメンの香り」なのか。
「……大丈夫か?」
彼がもう一度、短く問いかけた。
抑揚のない声だが、至近距離で聞くと、心臓を直接握られたような衝撃がある。
私の腰を支えている彼の手のひら。
見た目は白く、指も長く繊細で、ピアニストか書家のように見える。
けれど、絹の衣装越しに伝わってくるその感触は、驚くほどがっしりとしていた。
硬く、力強く、そして熱い。
男性の体温。
筋肉の躍動。
その熱が、私の脇腹から全身へと伝播し、暑さとは別の理由で、私の顔はカッと沸騰した。
「あ……あ……」
声が出ない。
推しを前にして、流暢に喋れるオタクなど存在しない。
私はパクパクと金魚のように口を開閉させた後、かろうじて喉の奥から声を絞り出した。
「……か、感謝、いたします……」
自分でも驚くほどか細く、震えた声だった。
情けない。もっと気の利いたセリフは言えないのか。「危ないところを、かたじけのうございます」とか、「貴方様のような素敵な方に助けていただけるなんて、転んでもタダでは起きないとはこのことです」とか。
いや、後者は絶対にダメだ。
私は期待した。
ドラマなら、ここからロマンスが始まる。
彼は優しく私を立たせ、「怪我はないか?」と甘く囁き、汚れた私の裾を払ってくれるはずだ。あるいは、懐から白いハンカチを取り出して、「顔色が悪いぞ」と私の汗を拭ってくれるかもしれない。
そして、周囲の意地悪な令嬢たちに向かって、「この方を侮辱することは、私が許さん」と一喝してくれる――。
そんな、ベタで甘い展開を夢見て、私は潤んだ瞳で彼を見上げた。
しかし。
現実は、ドラマの脚本通りには進まなかった。
景皇子は、私の顔をじっと見た。
その瞳には、熱情も、心配も、あるいは憐れみさえも浮かんでいなかった。
あるのは、無。
あるいは、道端に落ちている石ころを見るような、無機質な観察眼。
そして、私が自力で立てることを確認すると、彼はパッと手を離した。
まるで、汚れたものに触れてしまったかのように。
躊躇なく。
余韻もなく。
「……っ」
支えを失い、私はグラリとよろけたが、なんとか踏ん張った。
私の腰には、彼の手の熱さがまだ残っているのに、彼自身はすでに一歩、後ろに下がっていた。
そして、懐から真っ白な絹のハンカチを取り出すと――私に渡すのではなく――私に触れた自分の手を、丁寧に、念入りに拭いたのだ。
(……え?)
私の思考がフリーズする。
今、手を拭いた?
私に触った直後に?
バイ菌扱い?
「……行くぞ」
景皇子は、私にはもう一瞥もくれず、短くそう呟いた。
その声は、私に向けられたものではなく、背後に控えていた宦官かんがんに向けられたものだった。
彼はくるりときびすを返すと、流れるような所作でその場を去っていった。
濃紺の衣の裾が、風にひらりと翻る。
何もなかったかのように。
誰もいなかったかのように。
「あ……」
残されたのは、助けられたはずなのに、なぜか公開処刑を受けたような格好になった私だけ。
ドラマのような甘いBGMは流れない。
代わりに聞こえてきたのは、先ほどよりも音量を増した、周囲からの嘲笑だった。
「ぷっ……ご覧になりまして? 景皇子様のあの冷ややかなお顔」
「まあ、あの方、こともあろうに景皇子様に取り入ろうとなさって。わざとよろけて見せたのではありませんこと?」
「あさましいですわねぇ。さすがは謀反人の娘。血は争えませんわ」
「身の程知らずにも程がありますわ。皇子様が、あのような不浄な娘に興味を持たれるはずもございませんのに」
違う。
断じて違う。
わざとじゃない。本当に倒れそうだったのだ。
それに、取り入ろうなんて思っていない。ただ、生きていただけなのに。
容赦ない言葉のつぶてが、全身に突き刺さる。
さっきまで感じていた「推しに会えた高揚感」は一瞬で消え失せ、代わりにどす黒い惨めさが胸に広がった。
(なによ……なによ、あれ)
ドラマの中の彼は、もっと優しかったはずだ。
いや、あれは「ヒロイン」に対してだけ優しかったのか。
今の私は、ヒロインではない。「悪役令嬢」あるいは「モブ以下の罪人の娘」なのだ。
だとしても、あんな露骨に手を拭かなくてもいいじゃないか。
私のTシャツはヨレヨレかもしれないが、この杏花の身体は毎日お風呂に入っているし、最高級のお香だって焚き染めているはずだ。不潔なんかじゃない。
「姫様! 姫様、大丈夫でございますか!?」
呆然と立ち尽くす私の元へ、蘭馨が血相を変えて駆け寄ってきた。
彼女は私の身体を支え、周囲の視線から守るように立ちはだかった。
「お気を確かに、姫様。さあ、こちらへ。少しお座りになって……」
蘭馨の温かい手が、私の震える腕を支えてくれる。
その手のぬくもりだけが、この氷のように冷たく、地獄のように暑い世界で、唯一の救いだった。
私は唇を噛み締めた。
悔しさで、視界が滲む。
暑さのせいか、屈辱のせいか、涙が出そうになるのを必死で堪える。
(覚えてなさいよ、景皇子……!)
私の心の中の山田花子が、涙目でファイティングポーズをとった。
イケメンだからって、推しだからって、許さない。
絶対に、いつかそのすました顔を驚かせてやる。
手を拭いたことを後悔させてやる。
「……ええ、大丈夫よ、蘭馨」
私は震える足に力を込め、顔を上げた。
化粧は崩れているかもしれない。
汗だくかもしれない。
それでも、私はここで折れるわけにはいかないのだ。
だって、私はまだ、この世界のトイレ事情すら解決していないのだから。
生き延びてやる。
そしていつか、この豪華絢爛で理不尽な世界に、ウォシュレット付きのマイホームを建ててやるのだ。
決意を新たに、私は蘭馨に支えられながら、針のむしろのような宴の席へと、重い一歩を踏み出した。

宮廷の中心で、残業をさけぶ

御花園ぎょかえんの奥深くに設けられた宴の会場は、この世の極楽を具現化したような場所だった。
清らかな水を湛えた池のほとり、朱塗りの柱と瑠璃色の瓦で葺かれた巨大な東屋あずまや
そこには、秋の陽光を遮るように薄絹の幕が張られ、心地よい風が吹き抜けていく。
上座の中央、一段高い黄金の椅子に鎮座しているのは、もちろんあの大ボス、皇太后だ。
その左右には、皇帝の寵愛を競う妃たちが、まるで鮮やかな花束のように並んでいる。
そして、その下段に、私たちのような姫や貴族の令嬢たちが、厳格な身分順に従って席を与えられていた。
「…………」
私は、その華やかな円陣の、一番端の端。
柱の陰に隠れるような、申し訳程度の小さな卓の前に座っていた。
ここが、謀反人の娘である「杏花きょうか」の定位置だ。
卓の上には、目の覚めるような美しい菓子や、瑞々しい果物が盛られた水晶の皿が並んでいる。
桃饅頭からは湯気が立ち上り、葡萄は宝石のように輝いている。
だが、私の喉は砂漠のようにカラカラで、食欲など微塵も湧いてこない。
胃の腑には、鉛のような重たい塊が居座っている。
(帰りたい……。ワンルームのせんべい布団に包まりたい……)
目の前では、皇太后の機嫌を取るべく、姫君たちの熾烈なアピール合戦が繰り広げられていた。
ある姫は、古琴こきんの前に座り、白魚のような指で弦を弾く。
高山流水こうざんりゅうすい』の見事な旋律が、秋風に乗って優雅に響き渡る。
またある姫は、広袖を翻し、天女のごとき舞を披露する。そのたびに、周囲からはため息のような称賛の声が漏れる。
中には、庭園の菊を愛でて即興で漢詩を詠み上げ、皇太后から「見事じゃ」とお褒めの言葉を賜っている才女もいた。
(無理無理無理! 私にできることなんて、せいぜいラジオ体操第一くらいよ!)
現代社会で生きてきた山田花子(三十路・独身・しがない経理事務OL)に、そんなみやびな宮廷スキルが備わっているはずがない。
琴? リコーダーでさえ怪しい。
舞? 盆踊りか、忘年会のマツケンサンバならギリギリいけるか。
詩? サラリーマン川柳しか詠めないわよ!
(このまま空気になろう。私は石。私は柱のシミ……)
私は背を丸め、豪華な衣装の中に亀のように首を引っ込め、存在感を消すことに全神経を集中させた。
宴が終わるまでの辛抱だ。あと一時間、いや二時間耐えれば、あの冷房のない部屋(牢獄とも言う)に帰れる。
しかし、宮廷という伏魔殿において、悪意というものは常に、最も弱く、最も目立たない獲物を的確に見つけ出すものである。
「皆様、本日は誠に素晴らしい芸でございますわね」
ふと、鈴を転がすような、しかしどこか粘着質な甘さを帯びた声が、宴の空気を切り裂いた。
声の主は、皇帝の寵姫・張貴妃ちょうきひの姪だという、麗華れいか姫だ。
牡丹色の豪奢な衣をまとい、勝ち誇ったような笑みを浮かべている彼女は、扇子で口元を隠しながら、蛇のような視線を真っ直ぐに私に向けていた。
「ですが、わたくし、噂に聞き及んでおりますの。あちらにいらっしゃる杏花姫もまた、人には言えぬ素晴らしい隠し芸をお持ちだとか」
(……は?)
心臓がドクンと跳ねた。
隠し芸? 初耳だ。そんな設定、昨夜のドラマにもなかったはずだ。
これは、完全に私を嵌めるための罠だ。公衆の面前で恥をかかせ、笑いものにする気だ。
(来たわよ、宮廷ドラマお約束の、意地悪ライバルキャラの無茶振り!)
案の定、会場中の視線が一斉に――数百本の針のように――私に突き刺さる。
軽蔑、好奇心、嘲笑。
それらの視線を浴びて、私は氷の像のように硬直した。
そして、最悪なことに、ラスボスである皇太后が、退屈そうだった表情を一変させ、興味深そうに眉を上げたのだ。
「ほう。あの謀反人の娘がか? それは初耳だな。……杏花。どのような芸なのだ?」
絶対的な勅命。
皇太后の言葉は、法律よりも重い。
「いえ、何もできません」などと言えば、それは皇太后の期待を裏切る「欺瞞ぎまんの罪」に問われかねない。かといって、何かをすれば確実に失敗して笑いものになる。
詰んだ。
完全に詰んだ。
背中を、嫌な汗が滝のように流れ落ちる。
隣に控えている蘭馨が、青ざめた顔で私の袖をぎゅっと握りしめているのがわかる。彼女も震えている。
(どうする? どうする山田花子!)
私の脳内コンピュータが、オーバーヒート寸前の勢いで回転を始めた。
琴? 触ったこともない。
歌? カラオケの十八番は中島みゆきだが、ここで『うらみ・ます』を歌ったら処刑される。
モノマネ? 上司のハゲ部長のマネなら完璧だが、誰にも伝わらない。
追い詰められたその瞬間。
火事場の馬鹿力か、あるいは長年の社畜生活で培われた「土壇場での言い訳能力」か。
私の中で、何かがパチンと弾けた。
(こうなったら……ヤケクソよ! どうせ失うものなんて何もないわ!)
私はゆっくりと、震える膝に力を入れて立ち上がった。
数キロある衣装が重いが、今の私には、それを凌駕するアドレナリンがみなぎっている。
「……そ、その……」
全員の視線が私に集まる。
私は一度大きく息を吸い込み、腹に力を込めた。
「わたくしは、皆様のような雅な芸は持ち合わせておりません。ですが……父の罪により、友もなく、孤独な身の上ゆえ……物語を空想し、それを語ることだけが、唯一の慰めでございました」
我ながら、なんと健気で、哀愁漂う言い訳だろうか。
「謀反人の娘」という負のレッテルを、逆手にとって「不幸な少女」の演出に変える。
周囲から、かすかな同情のため息が漏れたのが聞こえた。
麗華姫の顔が歪み、「ちっ」と舌打ちしたのが見えた。
よし、第一関門突破。つかみはOKだ。
皇太后は、扇子を閉じてつまらなそうに鼻を鳴らした。
「物語、だと? 市井の講談師の真似事か。……ふん、まあよい。申してみよ。わたくしを退屈させたらどうなるか、わかっておろうな」
その目は、爬虫類のように冷たく、全く笑っていない。
退屈させたら、指の一本や二本では済まない。下手をすれば冷宮送りだ。
私はごくりと唾を飲み込んだ。
シンデレラ? 白雪姫? いや、西洋の童話などこの世界観に合わないし、継母にいじめられる話など、目の前の皇太后への当てつけになりかねない。
ならば。
私の知る、最も過酷で、最も理不尽で、しかし共感を呼ぶ「戦場」の話をしてやろうじゃないか。
「では、僭越ながら。これは、とある遠い国の宮城に仕える、一人のしがない女官の物語にございます」
私は咳払いを一つすると、語り始めた。
私の声は、最初は震えていたが、次第に熱を帯びていった。
「その女官の名は、花子と申します。……彼女の朝は、夜明けと共に鳴り響く、けたたましい鐘の音から始まりまする」
鐘の音。それはもちろん、スヌーズ機能付きのスマホのアラームのことだ。
「眠い目をこすり、温かい寝台から這い出ると、彼女は己の顔を洗うよりも先に、あるじである貴妃様のためのお湯を沸かし、朝餉あさげの準備に取り掛かるのでございます」
貴妃様。それは、私が仕えていたお局様兼直属の上司のことだ。
「花子が仕える貴妃様は、それはそれは気難しく、お茶の温度が一度違っただけで、雷のような叱責が飛んでまいります。『この役立たず!』『何度言ったらわかるのだ!』『前の日と言っていることが違うではないか!』……と」
私の脳裏に、ヒステリックに叫ぶ上司の顔が鮮明に浮かぶ。
その怒りと理不尽さを、私は「講談」という形に昇華させた。
「花子は縮み上がりながら、何度も何度も、額を床に擦り付けて頭を下げるのでございます。心の中では『知るか! 自分で淹れろ!』『昨日の指示と矛盾しております!』と叫びながらも、顔では『申し訳ございません、貴妃様! 全てわたくしの不徳の致すところでございます!』と、満面の笑みを浮かべる術を、入宮三年で身につけておりました」
会場の空気が、奇妙に変化し始めた。
上座の妃たちは「まあ、なんて下品な」と眉をひそめている。
だが。
会場の隅に控えている下級の女官たちや、給仕をしている宦官かんがんたちの肩が、小刻みに震えているのが見えた。
彼らは必死に笑いをこらえているのだ。あるいは、共感に震えているのだ。
「理不尽な上司への偽りの笑顔」。それは、いつの時代も、どこの世界でも、働く者たちの共通言語だった。
(いける。これはウケている!)
手応えを感じた私は、さらに話を畳み掛けた。
もう、ここには「杏花姫」はいない。
ここにいるのは、現代日本の企業戦士の心を宿した、一人の語り部だ。
「ある日のこと。花子は同僚の女官たちと、井戸端でささやかなお茶会を開いておりました」
井戸端会議。すなわち給湯室でのサボりタイムだ。
「話題はもっぱら、新しく入ってきた若い衛兵様のことでございます。『あの方は素敵だわ』『背が高いわ』『でも、あの方には許嫁がいるらしいわよ』……そんな、他愛もない噂話に花を咲かせることだけが、日々の重労働に耐える彼女たちの、唯一の楽しみなのでございました」
そう、あのつかの間の休息。
営業部のエースがどうとか、総務の誰それが不倫しているとか。
あんな下らない話が、どうしてあんなに楽しかったのだろう。
「しかし、楽しい時間は無情にもあっという間に過ぎ去ります。遠くから、『おい、何をしている!』という上役の怒声が聞こえれば、花子たちは慌ててお茶を飲み干し、蜘蛛の子を散らすように持ち場へと戻らねばなりません。これを、わたくしたちの世界では『休憩終了ブレイク・タイム・イズ・オーバー』と呼びまする」
うっかり横文字が出てしまったが、もはや誰も気にしていない。
女官たちは顔を伏せているが、その背中は激しく揺れている。宦官の一人が、「ブフォッ」と吹き出すのを必死で袖で押さえた。
私は調子に乗った。完全にゾーンに入っていた。
これは、ただの物語ではない。私の、そしてここにいる名もなき労働者たちの心の叫びなのだ。
「そして! 物語は佳境に入ります! ある日、花子に無理難題が降りかかります。隣国の使節団をもてなすための書類……いえ、巻物を、たった一晩で百巻用意せよと命じられたのです!」
決算期の残業地獄のエピソードだ。
「無理です、と泣きつく花子に、貴妃様は冷たく言い放ちました。『やる気がないなら去れ! 代わりなどいくらでもいる!』……ああ、なんという非情! しかし花子は諦めませんでした。同僚たちと励まし合い、眠い目をこすり、カフェイン……いえ、濃い茶をあおりながら、筆を走らせ続けました!」
私は身振り手振りを交え、熱弁を振るった。
いつしか、会場中の視線が私に釘付けになっていた。
皇太后でさえ、扇子を少し下げ、身を乗り出している。
「夜が明け、鶏が鳴く頃。ついに、最後の巻物が完成しました! 花子は、震える手でそれを抱え、貴妃様の御前に差し出したのです! 『よくやった、花子!』……貴妃様から、初めて賜ったお褒めの言葉。花子は涙を流して喜びました!」
私はクライマックスに向けて声を張り上げた。
「やった! やったのです! 理不尽な命令も、終わらない夜も、全てはこの瞬間のために! これぞまさしく、社畜の意地! 下剋上でございます!!」
興奮が頂点に達した。
私は感極まり、自分が今、不安定な厚底靴を履いていることも、狭い卓の前にいることも忘れてしまっていた。
「うおおおおおっ!」
勝利の雄叫びと共に、私は勢いよくその場で立ち上がり、感動を表現しようと両腕を天に向かって大きく振り上げた。
その、瞬間だった。
私の大きく広がった瑠璃色の袖が、まるでスローモーションのように、卓の上の「あるもの」を引っかけた。
それは、最高級の西域の葡萄酒がなみなみと注がれた、金銀細工の大きな水差しだった。
あっ、と思った時にはもう遅い。
ガシャン!!
静まり返った御花園に、破壊の音が盛大に響き渡った。
水差しが宙を舞い、卓上の水晶の皿を直撃。
美しい桃饅頭が空を飛び、宝石のような葡萄が床に散乱し、そして何より――。
「きゃあああああっ!」
悲鳴が上がった。
なみなみと入っていた赤黒い葡萄酒が、放物線を描いて飛んでいき、すぐ近くに座っていた麗華姫の、あの自慢の牡丹色のドレスに、ドボドボと降り注いだのだ。
時が、止まった。
私の両腕は、まだ万歳のポーズで固まっている。
目の前には、頭から葡萄酒をかぶり、まるで殺人現場のようになった麗華姫。
転がる水差し。
飛び散った饅頭。
そして、シンと静まり返った会場の中で、皇太后がゆっくりと、般若のような形相で立ち上がるのが見えた。
(……あ、終わった)
私の脳裏に、PCの強制終了の画面と、「人生ゲームオーバー」の文字が、虚しく点滅していた。

推しの反対はアンチではなく、無関心である

「うおおおおおっ!」
「下剋上でございます!!」
私の心の叫びと共に、両腕が天高く振り上げられた。
それは、現代社会の理不尽に耐え抜いた全社畜の代弁であり、この宮廷という閉塞した世界への勝利宣言――のはずだった。
だが、現実は残酷な物理法則によって支配されている。
勢いよく広げられた私の瑠璃色の袖は、空気抵抗をはらんでバサリと翻り、卓上にあった一点の障害物を、完璧な角度と速度で薙ぎ払った。
ガシャッ――!
硬質な音が鼓膜を叩く。
指先に、何かがぶつかった嫌な感触が残る。
私の視界の端で、最高級の景徳鎮けいとくちんの茶器セットが、まるで意思を持った生き物のように卓から飛び出した。
「あ」
時が、止まった。
世界中の時計の針が凍りついたかのような、永遠に続く一秒。
私の目は、その中の一つの湯飲みが、美しい放物線を描いて宙を舞う様を、スローモーションのように追っていた。
白磁の器が回転しながら、キラキラと太陽の光を反射する。
中に入っているのは、沸かしたての熱い菊茶だ。
それは重力に導かれ、吸い込まれるように「最悪の場所」へと落下していく。
着地点にいたのは、煌びやかな黄金色の衣をまとった、この国の最高権力者。
皇太后。
ドスッ。
ぴちゃり。
鈍い衝突音と、それに続く不吉な水音。
熱い茶飛沫が飛び散り、皇太后の膝の上に広げられていた最高級の絹織物に、見るも無残な茶色のシミが、毒花のようにじわりと広がっていった。
「…………」
小鳥のさえずりが止まった気がした。
風の音さえも消えた。
先ほどまで「花子の物語」に沸き立ち、クスクスという笑い声に包まれていた東屋あずまやは、瞬時にして真空状態のような静寂に包まれた。
数秒前までの熱狂が嘘のように、急速に温度が下がっていく。
誰も動かない。誰も声を発しない。
全員の視線が一点に集中している。
皇太后の濡れた膝と、万歳ポーズのまま硬直している私に。
(噓……でしょ……?)
私の脳内で、警報音が鳴り響く。
戻れ。時間を戻せ。
CtrlキーとZキーを同時押しさせてくれ。
しかし、現実は非情にも「保存セーブ」されていた。
皇太后は、悲鳴も上げず、身動き一つしなかった。
ただ、ゆっくりと、錆びついた機械のような動作で首を傾げ、自身の膝の上に広がっていく茶色の地図を見下ろした。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
その表情は、能面のように無だった。
怒りすら通り越した、絶対零度の虚無。
彼女は、地獄の底から這い上がってくる怨霊のような、低く、しわがれた声で言った。
「……いま、なんと言った?」
あまりの恐怖に、私の思考回路は完全にショートした。
「へ?」
口から漏れたのは、あまりにも間の抜けた一文字だった。
「――『へ』?」
皇太后の眉尻がピクリと跳ね上がった瞬間、世界が崩壊した。
ダンッ!!
皇太后が拳で卓を叩きつける音が、雷鳴のように轟いた。
「このわたくしに! 熱い茶を浴びせておいて! 『へ』とは何事かぁぁっ!!」
「ひっ!?」
「そしてその立ち姿! いつまで見下ろしておる! 無礼であろう!!」
怒号が衝撃波となって私を襲う。
しまった、立ったままだった。
私は慌ててその場にひれ伏そうとした。だが、極度のパニックと、慣れない厚底靴が災いした。
「あ、うわっ!?」
足がもつれ、私は床に向かってダイブした。
優雅な平伏へいふくではない。無様な転倒だ。
ドサッという音と共に、頭に刺していた重い金細工の髪飾りが外れ、床に落ちて「カラン……」と虚しい音を立てて転がった。
結い上げた髪がバサリと崩れ、私はざんばら髪の幽霊のような姿で床に這いつくばった。
「お、お、お許しを……! わざとでは、決して……!」
震える声で弁明しようとするが、言葉にならない。
視界の端で、皇太后が立ち上がるのが見えた。
その全身から立ち昇る怒りのオーラは、先ほどの比ではない。背後に巨大な黒い龍か夜叉の幻影が見えるようだ。
彼女は震える指先を、床に這いつくばる私に突きつけた。
「下品な市井しせいの物語で宴の品位を貶め! あまつさえ、この国の国母たるわたくしに恥をかかせるとは! 不敬千万! 万死に値する!」
皇太后の激昂に呼応するように、周囲の空気も一変した。
先ほどまで私の話に笑っていた者たちは、今は一転して「関わり合いになりたくない」とばかりに顔を背けている。
「やはり、父の謀反も頷けるというもの! その粗暴さ、その慎みのなさ! 反逆者の汚れた血は、どうあっても争えぬと見えるな!」
その言葉は、鋭利な刃となって私の心臓をえぐった。
物語は私の創作だ。あのお茶を引っかけたのも、私のドジだ。
けれど、「父の謀反」「汚れた血」という言葉は、この杏花という少女が背負わされた、どうしようもない宿命だった。私がどんなに努力しても、どんなに場を盛り上げても、結局私は「罪人の娘」でしかなかったのだ。
顔を上げると、周囲の姫君たちの視線があった。
恐怖に青ざめている者もいるが、その瞳の奥には、隠しきれない優越感が揺らめいている。
『ざまあみろ』
『調子に乗るからよ』
そんな声が聞こえてくるようだ。
特に、あの麗華れいか姫に至っては、扇子で口元を隠しているが、その目が三日月のように細められ、肩が小刻みに震えているのが見えた。彼女は笑っているのだ。私の破滅を、極上の余興として楽しんでいるのだ。
(誰か……助けて……)
私はすがるような思いで、視線を彷徨わせた。
そして、少し離れた場所に立つ、濃紺の衣装の人物と目が合った。
第二皇子、けい
さっき、私が倒れそうになった時に支えてくれた、あの美しい人。
(景様……!)
一瞬、淡い期待が胸をよぎった。
ドラマなら、ここで彼が割って入り、「母上、彼女に悪気はなかったのです」と助け舟を出してくれるはずだ。
私は祈るような目で彼を見つめた。
しかし。
彼と目が合ったのは、ほんの一瞬だった。
彼の瞳は、氷河のように冷徹だった。
そこには、同情も、憐憫も、関心さえも浮かんでいなかった。
彼は、ただ無感情に、床に転がる私と、激昂する母親を「現象」として眺めているだけだった。
(……あ)
彼は、すっと視線を逸らした。
まるで、道端の枯れ木に興味を失ったかのように。
さっき感じた、あの力強い腕の温もり。あれは全部、私の妄想だったのかと思うほどに、彼の態度は冷たかった。
心の中で、何かが音を立てて砕け散った。
希望も、憧れも、すべてが粉々になった。
「誰か、おるか!!」
皇太后の金切り声が、私の絶望に追い打ちをかける。
「はっ!」
控えていた屈強な衛兵たちが、足音荒く東屋になだれ込んできた。
床を揺らす軍靴の響きが、死刑執行の足音のように聞こえる。
「この痴れ者を捕らえよ! そのふざけきった頭と行いを、然るべき場所で、死ぬまで猛省させてやれ!」
然るべき場所。
その言葉が何を意味するのか、ありとあらゆる宮廷ドラマを見尽くした私には、痛いほど理解できてしまった。
それは「牢獄」よりも恐ろしい場所。
「皇太后様、お待ちくださいませ! お待ちください!」
その時、一人の少女が私の前に飛び出した。
蘭馨らんけいだ。
彼女は衛兵の前に立ちはだかり、額から血が出るほど激しく床に頭を打ち付けた。
「姫様は! 杏花姫様は、決して悪意があったわけではございません! ただ少し、足元がおぼつかなかっただけで……どうか、どうかご慈悲を!」
「蘭馨……っ」
涙が溢れた。
この広い宮廷で、私なんかのために命を張ってくれるのは、彼女だけだ。
しかし、皇太后の目には、慈悲の欠片もなかった。
「黙れ、下賤げせんの者めが」
冷酷な一言。
虫ケラを見るような目。
あるじの不始末は、教育を怠った侍女の罪でもある。……衛兵! この者を、姫と共に『冷宮れいきゅう』へ送れ!」
れい、きゅう。
その二文字の響きは、鋭利な杭となって、私の鼓膜を貫き、脳天に突き刺さった。
冷宮。
それは、罪を犯した妃や皇族が幽閉される、この世の終わりの場所。
暖房もなく、ろくな食事も与えられず、使用人もおらず、ただ孤独と寒さに震えながら死を待つだけの、生ける墓場。
一度入ったら二度と出られない、後宮の最果て。
ドラマでは、冷宮に入れられた妃が、発狂して壁に頭を打ち付けたり、井戸に身を投げたりする悲惨なシーンが、幾度となく描かれていた。
(嘘……でしょ……? 私が、あんな場所に……?)
血の気が、さあっと引いていく。指先の感覚がなくなる。
嫌だ。
家に帰りたい。
会社に行きたい。
満員電車でもいい、上司の説教でもいい、残業でもいい。
あんな、お化け屋敷みたいな場所で一生を終えるなんて、絶対に嫌だ!
「いやっ、離して! 私は悪くない! ただ転んだだけなの!」
私は半狂乱になって叫んだ。
しかし、衛兵たちの無慈悲な手が、私の両腕を万力のように掴み上げた。
OLの非力な腕が、鍛え抜かれた男たちの力に敵うはずもない。
「姫様! 姫様ぁぁっ!」
蘭馨の悲鳴が聞こえる。彼女もまた、別の衛兵に引きずられていく。
ごめん、蘭馨。私のせいで。本当にごめんなさい。
ズルズルと引きずられていく私の視界の中で、景色が流れていく。
美しい菊の花。豪華な東屋。冷ややかな目をした姫君たち。
そして。
最後にちらりと見えたのは、景皇子の背中だった。
彼はもう、こちらを見てさえいなかった。
静かに杯を傾け、どこか遠くの景色を眺めているその後ろ姿は、あまりにも優雅で、あまりにも遠かった。
(これが……バッドエンド……?)
御花園の出口へと引きずられながら、私は薄れゆく意識の中で思った。
こうして、私の華麗なる(はずだった)清朝プリンセスライフは、たった一日で。
しかも、自らの調子に乗った軽率なパフォーマンスによって。
最悪のエンディング――「冷宮落ち」を迎えることになったのである。
重い扉が閉まる音と共に、私の視界から光が消えた。


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