生きるべきか、ググるべきか、それが問題だーー姫失格②
【前回のあらすじ】
(はあ…どうしてこうなったの…)
月曜の朝、目が覚めたら見知らぬ天井。私がなっていたのは、ドラマで見たあの世界の、か弱い美少女・杏花姫でした。
トイレ事情にカルチャーショックを受け、憧れの景皇子様にはゴミを見るような目で見られ、メンタルは既にボロボロ。それでも生き残るために挑んだ皇太后様主催の宴で、私はやらかしました。盛大に。
ええ、皇太后様のお膝に、熱々の菊茶をプレゼントしてしまったのです。
結果、言い渡されたのは地獄の「冷宮」送り。
きらびやかな衣装から一転、待っているのは幽閉生活?
OLスキルも通用しない理不尽な世界で、私の明日はどっちだ!?
私と蘭馨が連行されたのは、紫禁城とも呼ばれる広大な後宮の、最も北の果て。
地図の上からも、人々の記憶からも消されたような、最も奥まった場所にある一画だった。
華やかな御花園からここに至るまでの道のりは、まるで現世から黄泉の国へと続くトンネルのようだった。
色鮮やかな花々は姿を消し、手入れされた植木は枯れ木へと変わり、すれ違う女官たちの姿も絶えた。
代わりに現れたのは、空を切り取るようにそびえ立つ、灰色の高い壁だけ。
「ここだ」
先導していた衛兵が、無機質な声で足を止めた。
目の前には、巨大だが古びた、鉄錆色の門が一つだけ口を開けている。
門の扁額には『静心宮』という文字がかろうじて読み取れたが、その塗装は剥げ落ち、まるで『死』という一文字に見えるほど禍々しい雰囲気を放っていた。
門をくぐった瞬間、世界の色温度が変わった。
ひやり、と首筋を撫でる冷気。
今はまだ日が高く昇っている時間のはずなのに、そこは常に分厚い雲に覆われているかのような薄暗さに満ちていた。
空気そのものが重く、湿っている。
何十年もの間、光も風も拒絶し続けた場所特有の、澱んだ水の底のような匂いがした。
「ここが……お前たちの住まいだ」
衛兵が、汚いものを吐き捨てるように言った。
私は呆然とその光景を見上げた。
かつては立派な離宮だったのだろう。
しかし、今のそれは、巨大な獣の死骸のような無残な姿を晒していた。
反り返った屋根瓦はあちこちが崩落し、その隙間から雑草が空に向かって伸びている。
柱の朱色の漆は皮膚病のように剥げ落ち、露出した木肌は黒ずんで腐りかけていた。
庭だった場所は、人の背丈ほどもある雑草の海と化しており、その中に首の折れた石灯籠が墓標のように傾いて埋もれている。
ここが、噂に聞く「冷宮」。
皇帝の寵愛を失った者、罪を犯した者、あるいは権力闘争に敗れた者たちが送られる場所。
生きてここを出た者はいないという、忘れられた者たちの終着駅。
「さあ、いつまで姫君気取りでいるつもりだ。その衣装を渡せ」
感傷に浸る間もなく、衛兵たちが粗暴な手つきで私に迫った。
彼らは、私たちが身に着けていた豪華な瑠璃色の長衣や、精緻な刺繍が施された帯を、情け容赦なく剥ぎ取っていく。
髪に挿していた翡翠の簪も、真珠の耳飾りも、すべて奪われた。
「あっ、痛っ……!」
乱暴に髪を解かれ、私はよろめいた。
美しい黒髪が、バサリと背中に広がる。
代わりに投げ渡されたのは、雑巾のような色をした、麻の服だった。
手に取ると、皮膚が擦りむけそうなほど硬く、ごわごわしている。カビ臭い。
「着替えろ。それが罪人の身分だ」
私は唇を噛み締め、蘭馨と共にその屈辱を受け入れた。
絹の滑らかな感触は消え、紙やすりのような麻布が肌に擦れる。
その不快感が、私に「転落」という現実をまざまざと突きつけた。
「食事は一日に一度、門の前に置いておく。水は井戸があるはずだ。勝手に汲め」
衛兵のリーダーらしき男が、冷ややかに告げた。
「それ以外、この門が開くことはないと思え。病気になろうが、野垂れ死のうが、誰も知ったことではない。……行くぞ」
重々しい足音と共に、衛兵たちが去っていく。
そして。
ギギギギギ……ズドン!!
錆びついた鉄の扉が、断末魔のような音を立てて閉ざされた。
直後に、外から重いかんぬきを掛ける音。
ガチャリ、と南京錠がロックされる金属音が、静寂の中に冷たく響いた。
「…………」
終わった。
完全に、外界と遮断された。
あちら側には、光と音楽、美食と笑い声がある。
こちら側にあるのは、静寂と腐敗、そして絶望だけ。
がらんとした宮殿の前庭に、私と蘭馨は二人きりで取り残された。
風が吹くと、頭上の枯れ木がカサカサと乾いた音を立てる。まるで、死者たちが手招きをしているようだ。
「うっ……ううっ……」
隣で、押し殺したような嗚咽が聞こえた。
見ると、蘭馨がその場に崩れ落ちていた。
粗末な麻の服を着て、地面に手をつき、肩を震わせて泣いている。
「姫様……申し訳ございません……わたくしが、至らなかったばかりに……こんな、こんな恐ろしい場所に……」
彼女の涙が、乾いた土に黒い染みを作っていく。
彼女は何も悪くない。悪いのは、調子に乗って踊り狂った私だ。
それなのに、この忠実な少女は、私の巻き添えを食らって一生を棒に振ろうとしている。
「蘭馨……蘭馨、あなたのせいじゃないわ」
私は、かろうじてそう答えるのが精一杯だった。声が震えるのを止められない。
本当は、私だって泣き叫びたかった。
なんで私がこんな目に。
昨日の朝までは、東京のワンルームでスマホのアラームに舌打ちしていたはずなのに。
どうして今、私は清朝の廃墟で、麻袋みたいな服を着て震えているの?
(エアコンも……ふかふかのベッドも……ない)
現代の快適な生活が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
蛇口をひねれば出るお湯。
ボタン一つで部屋を暖めてくれるエアコン。
夜中でも明るいコンビニ。
そして何より、あの清潔で、白く輝く、温水洗浄便座付きのトイレ。
それら全てが、遥か彼方の銀河系にある文明のように思えた。
ここはサバイバルだ。
それも、キャンプ場のような生易しいものではない。水も食料も保証されず、衛生状態は最悪。おまけに幽霊が出そうなオプション付きだ。
しばらくの間、私たちは呆然と座り込んでいた。
時間の感覚がなくなる。
太陽が雲に隠れ、ただでさえ薄暗い庭が、さらに濃い影に沈んでいく。
地面から伝わる冷気が、麻の服を通して肌に侵入し、骨の髄まで冷やしていく。
(寒い……)
くしゃみが出そうになるのを堪える。
このままではいけない。
ここでただ座って泣いていても、誰も助けに来てはくれない。
待っているのは、緩やかな死だけだ。
肺炎か、栄養失調か、あるいは絶望による発狂か。
私は、ゆっくりと自分の両手を見つめた。
かつては「杏花姫」の白魚のような手だった。
今は土に汚れ、爪の間には黒い泥が入っている。
この手は、本当は何のための手だった?
雅な琴を奏でるための手?
美しい刺繍をするための手?
皇帝に酌をするための手?
いいえ、違う。
私は首を横に振った。
これは、山田花子の手だ。
毎日キーボードを叩き、山のような伝票をめくり、指サックの跡をつけていた手だ。
理不尽な上司の命令に耐えながら、コピー機の紙詰まりを直し、シュレッダーのゴミを捨てていた手だ。
(この手で……会社の荒れ果てた給湯室を、年末の大掃除でピカピカに磨き上げたじゃない)
記憶が蘇る。あのヘドロのような茶渋がついたシンクを、クレンザーとスポンジ一つで新品同様に輝かせた時の達成感。
(この手で……散らかり放題だった自分のワンルームを、週末ごとに片付けてきたじゃない)
泥酔して帰った翌朝、ゴミ溜めのような部屋を、二日酔いの頭を抱えながらも完璧にリセットしてきた、あの生活力。
私の心の中で、種火のようなものが灯った。
それは、高貴な姫君のプライドではない。
雑草のようにしぶとく、ゴキブリのように生命力の強い、現代日本のOL命だった。
「……蘭馨」
私は立ち上がった。
膝の土を払う。パンパン、と乾いた音が、静寂を破る号砲のように響いた。
「泣いていても、お腹は空くわ」
私の声は、自分でも驚くほど低く、力強かった。
「え……?」
蘭馨が涙で濡れた顔を上げる。きょとんとした顔で私を見つめている。
「まずは、この城の探検よ。ライフラインの確保が最優先。雨風がしのげる寝室があるはずだし、水くらいは出る井戸があるかもしれない」
「ラ、ライフ……ライン……?」
「生きていくための命綱ってことよ! それに、この庭! 見て!」
私は、背丈ほどある雑草の海を指差した。
「これだけ草がボウボウに生えてるってことは、逆に言えば土は死んでないってことよ! 肥えてる証拠だわ。雑草を抜いて耕せば、何か野菜を育てられるかもしれない!」
家庭菜園なんてやったことはない。育てたことがあるのは豆苗くらいだ。
でも、そんなことは関係ない。
重要なのは、「絶望」という名の沼に沈む前に、「希望」という名のロープを自力で編み出すことだ。
なければ、作ればいい。
快適な環境がないなら、この手で作り上げてやればいい。
私は「お客様」じゃない。ここの「管理者」になるのだ。
「さあ、行くわよ!」
私は粗末な服の裾をまくり上げ、腰帯に挟み込んだ。
足元の雑草を踏みしめ、宮殿の正面扉へと向かう。
目の前にそびえるのは、朽ち果てた巨大な木製の扉。
かつては壮麗な彫刻が施されていたのだろうが、今はカビと埃で黒ずんでいる。
(開け、ゴマ!)
心の中で叫びながら、私は渾身の力で両手を扉にかけた。
「んんっ……ぐぬぬ……!」
重い。岩のように重い。
錆び付いた蝶番が抵抗する。
私は足を踏ん張り、全体重をかけて押し込んだ。
ギギギ……ギイイイイイイイッ!!
鼓膜をつんざくような、金属の悲鳴。
数十年分の摩擦をねじ伏せ、扉がわずかに開いた。
その瞬間。
ブワッ!
開いた隙間から、冷たく湿った風が吹き出してきた。
それはただの風ではない。
カビと、湿った土と、ネズミの糞と、長い時間放置された何かが朽ち果てたような、複雑で不快な「死の匂い」だった。
暗闇の奥から、無数の埃が煙のように舞い上がり、私たちを襲う。
「ケホッ! ゲホッ!」
「ひ、姫様……っ!」
私の背後で、蘭馨が悲鳴に近い声を上げた。
彼女は私の袖を掴み、ガタガタと震えている。
彼女の目には、この扉の向こうの闇が、巨大な化け物の口のように見えているのだろう。
無理もない。
私だって怖い。
昨日の今日まで、蛍光灯の下でぬくぬくと仕事をしていた身だ。
いきなりこんな、B級ホラー映画のセットのような廃墟に放り込まれて、平常心でいられるわけがない。
暗闇の奥で、何かがカサカサと動く音がした気がする。虫か、ネズミか、それとも……。
(お化けなんていない。いるのは害虫とカビだけ。物理攻撃で倒せる相手よ……!)
私は自分自身にそう言い聞かせ、恐怖をねじ伏せた。
そして、怯える蘭馨の手を引き、一歩、また一歩と宮殿の内部へと足を踏み入れた。
「お邪魔します……」
誰にともなく呟きながら、足を進める。
ミシリ。
床板が不吉な音を立てる。ところどころ腐って穴が開いており、慎重に歩かないと踏み抜きそうだ。
目が暗闇に慣れてくると、惨状がより鮮明に見えてきた。
広間の中央には、かつて豪華だったであろう椅子が転がっている。
壁には、巨大な蜘蛛の巣がアート作品のように張り巡らされ、その主である掌サイズの蜘蛛が、侵入者である私たちをじっと見下ろしている。
天井の梁からは、ボロボロになった布切れが垂れ下がり、風もないのにゆらゆらと揺れていた。
「ひぃっ!」
「大丈夫、ただの布よ」
蘭馨の悲鳴をなだめつつ、私たちは廃墟の探索を続けた。
「まずは……寝る場所の確保ね。雨風がしのげて、床が抜けてなくて、比較的マシな部屋を探しましょう」
「は、はい……」
私たちは、お互いの体温だけを頼りに、この巨大な幽霊屋敷をさまよった。
右の回廊は屋根が崩落しており、空が見えていた。NG。
左の小部屋は、何か獣の巣になっていた形跡があり、強烈な獣臭がした。NG。
奥の部屋は、床一面に得体の知れないキノコが生えていた。論外。
(なんてこと……マシな部屋が一つもないなんて)
半時(はんとき。約一時間)ほど歩き回っただろうか。
アドレナリンが切れてきたのか、急激な疲れと空腹、そして先の見えない不安が襲ってきた。
私の足取りは鉛のように重くなっていた。
最初に宣言した「冷宮リノベーション計画」という威勢のいいスローガンも、この圧倒的かつ物理的な崩壊の前では、ただの虚勢に過ぎなかったかもしれない。
掃除でどうにかなるレベルを超えている。これは解体工事が必要なレベルだ。
「姫様、少しお休みになられては……お顔色が……」
蘭馨が心配そうに私を覗き込む。
彼女自身も限界のはずなのに、気丈に振る舞おうとしてくれている。
その健気さが、逆に辛い。
「そうね……少し、座りましょうか」
私たちは、比較的状態の良かった中庭に面した回廊の縁側に、へなへなと座り込んだ。
埃を払う気力もなく、そのまま腰を下ろす。
空を見上げると、分厚い雲の隙間から、夕焼けの赤い光がわずかに漏れていた。
もうすぐ夜が来る。
この廃墟に、灯りもない真っ暗な夜が。
それは、昼間とは比較にならないほどの恐怖と寒さを連れてくるだろう。
(ダメだわ……具体的なプランがないと、ただ絶望して終わるだけだ……)
私は膝を抱え、ため息をついた。
ごわごわした囚人服の袖で、額に滲んだ脂汗を拭う。
喉が渇いた。お腹が空いた。
昨夜の宴で、何も食べていなかったことが悔やまれる。あの宙を舞った桃饅頭、拾って食べておけばよかった。
思考がネガティブな方向へと沈んでいく。
このままここで朽ち果てるのか。
山田花子の人生は、歴史タイムトラベラーしてもなお、バッドエンドなのか。
その時だった。
無造作に腰を下ろした拍子に、囚人服の腰帯のあたりに、ゴリッとした違和感があった。
「……ん?」
何か、四角くて硬いものが当たっている。
服の縫い目か? いや、それにしては大きすぎるし、硬すぎる。
私は帯の合わせ目に手を差し込んだ。
指先に触れたのは、ひんやりとした滑らかな感触。
石ではない。木でもない。
これは……。
「まさか」
心臓が大きく跳ねた。
私は震える手で、その「異物」を引きずり出した。
夕闇の中で、鈍く光る黒い長方形の物体。
表面はガラスのように滑らかで、裏面には見慣れたリンゴのマーク――ではなく、奇妙な紋章が刻まれているが、その形状は間違いなく私のよく知る「あれ」だった。
すべての道はトイレに通ず
(……ん? なにこれ?)
衛兵たちに衣装を剥ぎ取られた時、懐に入れていた香り袋や銀の小銭入れは、全て没収されたはずだった。
しかし、粗末な麻の服の、ちょうど帯に隠れる位置にあるポケットから、異物感を感じた。
硬くて、平べったい。
私は周囲を窺いながら、恐る恐るその正体を確かめるべく、ポケットに手を滑り込ませた。
指先に触れたのは、滑らかで冷たいガラスの感触。
そして、手に馴染む適度な重み。
(まさか……)
心臓が早鐘を打つ。
ゆっくりと、まるで壊れやすい秘宝を引き上げるかのように、それをポケットから取り出す。
夕闇に沈む冷宮の回廊で、その物体は鈍い光沢を放っていた。
「……うそでしょ」
私の手のひらの上に鎮座していたのは、見慣れた、私の相棒だった。
傷だらけのピンク色のスマホケース。
ストラップにつけた、薄汚れたゆるキャラのマスコット。
間違いなく、私が現代で使っていたスマートフォンだ。
なぜここに? どうして取り上げられなかった?
そもそも、歴史タイムトラベラーするときに一緒に来ちゃったの?
疑問は次から次へと湧き上がってくるが、そんな哲学的な問いはどうでもいい。
問題は、これが「ただの板」なのか、それとも「機能する機械」なのかだ。
私は震える親指で、サイドボタンを押し込んだ。
ピカッ。
暗闇を切り裂くように、画面に明かりが灯る。
ロック画面には、実家のこたつで丸くなっている愛猫「ミケ」の写真が、愛くるしい瞳でこちらを見つめている。
<i1081684|49545>
そして、私の視線は画面の右上へと吸い寄せられた。
5G
バッテリー残量:100%
「……ご、ご、ごじー!?!? バッテリー100%!?!?」
静寂な廃墟に、私の素っ頓狂な絶叫が響き渡った。
カラスが一斉に飛び立つ音がする。
「ひ、姫様!? どうかなさいましたか! 敵襲でございますか!?」
うずくまっていた蘭馨が、「敵襲」という物騒な単語と共に飛び起きた。
しかし、私の耳には彼女の声も届いていなかった。
(ご、5G!? アンテナ全立ち!?)
ありえない。物理法則も歴史も無視している。
ここは清朝だぞ? 電波塔なんてあるわけがない。
それとも紫禁城の地下には、古代中国文明が隠したオーパーツ的な基地局でも埋まっているというのか?
しかも、充電器もないこの世界で、バッテリーが減るどころか100%を維持している。
(ご都合主義もここまで来ると……!)
あまりの事態に、恐怖よりも笑いがこみ上げてくる。
私の脳内は、驚きと混乱、そして巨大な希望で、一瞬にして沸騰した。
そうだ。これがあれば、道は開けるかもしれない。
現代人の三種の神器、いや、人類の英知の結晶。
それが、この小さな板なのだ。
「蘭馨、ちょっと待ってて。今、この状況を打開するための『知恵』を借りるから」
「ち、知恵にございますか……?」
目を丸くする蘭馨を尻目に、私は慣れた手つきで(いや、震える指で数回ミスりながら)スマホのロックを解除した。
ヌルヌル動く。サクサク繋がる。
私はブラウザアプリをタップし、検索バーに、この世界の運命を委ねるキーワードを打ち込んだ。
『冷宮 監禁 サバイバル方法』
エンターキーを叩ッ!
一瞬で検索結果が表示される。爆速だ。会社のWi-Fiより速いかもしれない。
しかし。
検索結果のトップに並んだのは、私の期待を裏切るものばかりだった。
『徹底解説!宮廷ドラマにおける冷宮の悲惨な実態~ネズミと暮らす100日~』
『歴史から見る、后妃たちの幽閉生活と悲劇の最期』
『冷宮あるある:冬は凍死、夏は疫病』
「違う、そうじゃない! もっとポジティブで、具体的な解決策が欲しいのよ!」
私は画面に向かって悪態をついた。
こんな絶望的なまとめ記事を読んでいる暇はない。私が欲しいのは、「今すぐ使える技術」だ。
私は舌打ちし、別のアプリを起動した。
最新の生成AI、Google AI Studio。
これだ。検索エンジンがダメなら、人工知能に頼るしかない。
私は深呼吸を一つすると、まるでお小遣いの名上げを求めるうちの姉のような真剣さで、新たな問い(プロンプト)を打ち込んだ。
【プロンプト】
あなたは、あらゆる環境に対応できる究極のサバイバル専門家です。ベア・グリルスと無人島生活の達人を足して二で割ったような人物になりきってください。
私は今、古代中国の『冷宮』のような廃墟に監禁されています。
環境は劣悪で、電気、ガス、水道はありません。あるのは廃墟と雑草、そして忠実な侍女が一人だけです。
この絶望的な状況から生き延び、可能な限り「文化的で快適な生活」を築き上げるための具体的な行動計画を、優先順位をつけてステップ・バイ・ステップで提案してください。精神論はいりません。技術をください。
送信ボタンを、祈りを込めて押す。
AIはものの数秒で、驚くほど冷静で、そして的確な答えを生成し始めた。
【AIからの提案】
拝啓、逆境に立ち向かう挑戦者様。
状況、拝察いたしました。素晴らしいですね。何もないということは、全てを創造できるということです。絶望は創造の母です。
以下の計画を実行することで、生存率を飛躍的に向上させ、QOL(生活の質)を爆上げすることが可能です。
ステップ1:最優先事項 - 安全と衛生の確保 (SHELTER & SANITATION)
拠点の確保:
宮殿内で、最も雨風をしのげ、床が抜けていない部屋を選定してください。まずは徹底的な清掃を行い、害虫の巣を取り除きます。
衛生管理(トイレ革命):
ここが最重要です。垂れ流しは疫病の元です。
居住区から離れた場所に、**「コンポストトイレ」を導入してください。穴を掘り、排泄物と枯れ葉・土を交互に重ねることで、発酵熱で菌を殺し、臭いを抑制し、最終的には良質な堆肥(肥料)として利用可能です。
ステップ2:熱源と調理 (FIRE & COOKING)
ロケットストーブの作成:
瓦礫の中にレンガや石はありませんか?
それらを積み上げて「J字型」の燃焼室を作ることで、熱効率が非常に高く、煙の少ない「ロケットストーブ」**が作成可能です。
これにより、少ない枯れ木で強力な火力を得られ、煮沸消毒や暖房が格段に容易になります。
ステップ3:水と食料 (WATER & FOOD)
簡易濾過装置:
布、砂、小石、木炭を層にすることで、泥水を濾過できます。必ず煮沸してください。
家庭菜園:
コンポストトイレで作った堆肥を使い、雑草だらけの庭を開墾しましょう。雑草が生える土なら、野菜も育ちます。
ステップ4:メンタルヘルス
「文明人」としての誇り:
毎日顔を洗い、髪を整えてください。住環境を整えるプロセスそのものをエンタメ化し、希望を失わないでください。
私は、暗闇の中で青白く光るスマホの画面を見つめ、感動のあまり打ち震えた。
「すごい……すごすぎるわ、これ……!」
コンポストトイレに、ロケットストーブですって!?
これよ、私が求めていたのは。
「頑張ればなんとかなる」という精神論ではなく、「こうすれば解決する」という具体的なソリューションなのだ。
「ロケットストーブ……瓦礫で作れる……煙が少ない……最高じゃない」
興奮して独り言をつぶやく私を、蘭馨が怯えたように見つめている。
「ひ、姫様……? その、光る板に向かって、何をブツブツと……? もしや、呪術……?」
私はハッとして、蘭馨に向き直った。
私の顔は、スマホのバックライトで下から照らされ、さぞかし不気味に見えていただろう。
私はニッコリと、できるだけ慈悲深い聖母のような笑みを浮かべた(つもりだった)。
「蘭馨、怖がらないで。これはね、私の母の故郷から伝わる、とても珍しい『賢者の石板』なの」
「け、賢者の……石板……?」
「そう。遠い異国の、何千何万という賢者たちの知識が、この中に全部詰まっているのよ。この板に問いかければ、どんな困難な状況でも、解決策を教えてくれるの。いわば、持ち運べる巨大な図書館であり、最強の軍師みたいなものね」
「まあ……! そのような秘宝を、姫様は隠し持っておられたのですか!」
蘭馨の目が尊敬の眼差しに変わる。単純で助かる。
私はAIからの提案を、蘭馨にも分かる言葉に翻訳して聞かせた。
「賢者様はこう仰っているわ。まずはトイレよ」
「と、トイレ、でございますか?」
「そう。『土と枯れ葉を混ぜて臭いを消し、やがては畑の極上の肥やしにもなる、手作りの解手』を作るの」
蘭馨は口をぽかんと開けた。手作りの解手って自分でも何言ってるのかわからん。何回手を使うのだ!
「排泄物が……肥やしに? そのようなことが……」
「そして次は、『薪が少しで済み、煙も少なくて敵に見つかりにくい、賢いかまど』を作るわ」
最初は半信半疑だった蘭馨も、私が語る計画の具体性と、何より私の目に宿る、狂気にも似た「業務改善への執念」に気圧されたのか、次第にその顔に生気が戻ってきた。
絶望して泣いている暇があるなら、手を動かしたい。それは彼女も同じだったのだろう。
「姫様が……そこまで仰るのでしたら……!」
蘭馨は涙を拭い、力強く頷いた。
「そうこなくっちゃ! よし、プロジェクト『冷宮リノベーション』始動よ!」
私はAIの提案リストを片手に、意気揚々と立ち上がった。
足元の厚底靴は邪魔だったので、すでに脱ぎ捨てて裸足になっている。土の冷たさが心地よい。
「蘭馨、シャベル代わりになるような、丈夫な板か瓦の破片を探して! それから、枯れ葉を集めてきて!」
「は、はいっ!」
「私は庭の隅っこに、私たちの文明の第一歩となる穴を掘るわ!」
私たちは動き出した。
月明かりの下、元・傾国の美少女(今は薄汚れた麻服の女)と、元・エリート侍女が、必死の形相で地面を掘り返す。
ザッ、ザッ、ザッ。
土は湿って重かった。
手のひらにマメができ、爪の間には泥が入り込む。
腰が痛み、腕が悲鳴を上げる。
けれど、不思議と苦痛ではなかった。
(私は今、自分の力で生きている)
会社で上司の顔色を伺いながら作る資料よりも、この穴掘りの方が、よほど生産的で、生きている実感が湧く。
一時間ほど格闘した後、膝ほどの深さの穴が完成した。
「よし、第一段階クリア!」
私は汗だくの顔を拭い、満足げに穴を見下ろした。
これが、私たちのトイレだ。ここから全てが始まるのだ。
「姫様、枯れ葉を集めてまいりました!」
蘭馨が服の裾いっぱいに枯れ葉を抱えて戻ってきた。
その顔には煤がついているが、さっきまでの絶望の色はない。
「でかしたわ、蘭馨! 次はロケットストーブよ。あそこに崩れた塀があるでしょ? あのレンガを使うわよ!」
こうして、私たちの冷宮サバイバルの初日は、泥と汗にまみれて幕を開けた。
煌びやかな宴も、イケメン皇子とのロマンスもない。
あるのは、排泄物の処理と、明日のための労働だけ。
けれど、私はスマホを握りしめながら確信していた。
この賢者(AI)と一緒なら、私たちはきっと生き延びられる。
いや、ただ生き延びるだけじゃない。
この廃墟を、紫禁城で一番快適なスイートルームに変えてやるのだ。
「ここだわ! ここを、私たちの『文明』の始発点とする!」
私が指差したのは、居住区と定めた宮殿から五十歩ほど離れた、風通しの良い木陰だった。
スマホの画面には、AIが生成した「コンポストトイレ断面図」が表示されている。
「さあ、蘭馨。掘るわよ!」
「は、はいっ!」
私たちは、硬い地面との格闘を開始した。
道具はない。私が手にしているのは、庭で拾ったY字型の太い木の枝。蘭馨が持っているのは、欠けた瓦の平たい破片だ。
ショベルカーもスコップもない。あるのは、現代社会でなまった私の腕力と、蘭馨の忠誠心だけ。
ガッ、ガッ、ガッ。
乾いた土の表面を削るたびに、手に衝撃が走る。
すぐに手のひらの皮が悲鳴を上げ、マメができ始めた。爪の間には黒い泥が入り込み、麻の服は汗と土埃でみるみる汚れていく。
昨日の今頃は、ネイルサロンに行こうか迷っていたのに。今は泥だらけになって、排泄のための穴を掘っている。
(でも……悪くない)
額から滴る汗を袖で拭いながら、私はふと思った。
会社で、意味のない会議資料のフォントサイズを修正させられている時の、あの虚無感に比べれば、この労働には明確な「意義」がある。
これを掘らなければ、明日から糞尿まみれになる。掘れば、清潔な朝が迎えられる。
シンプルで、切実で、健全な労働だ。
「姫様、大きな石が……!」
「貸して! テコの原理で動かすわ!」
「タコとは??」
「テコよーもーみてて!」
二人で呼吸を合わせて、地中の岩を引き剥がす。
ゴロン、と岩が転がった瞬間、私たちは顔を見合わせて笑った。
太陽が傾き、空が茜色に染まる頃、ようやく膝ほどの深さの穴が完成した。
AIの指示通り、底には乾燥した枯れ葉を敷き詰める。
用を足した後に、掘り出した土と枯れ葉を被せれば、バイオの力で分解され、臭いも抑えられる「ハンドメイド解手」の完成だ。
「やりましたわ、姫様……!」
蘭馨が肩で息をしながら、キラキラした目で私を見た。
彼女の顔は煤と泥で真っ黒だが、その笑顔は宮廷のどの姫君よりも輝いて見えた。
「ええ! やったわね、蘭馨! これはただの小さな穴だけど、私たちにとっては偉大な一歩よ!」
「偉大な……一歩!」
バチンッ!
私たちは泥だらけの手を頭上で叩き合わせた。
ハイタッチ。この世界にはないその仕草に、蘭馨は一瞬きょとんとしたが、すぐに嬉しそうに破顔した。
達成感。
それは、どんな高価な宝石よりも、今の私たちの心を満たしてくれる報酬だった。
「さあ、休憩している暇はないわ。次は賢者の教えその二、『安全な水』よ!」
次に私たちが向かったのは、宮殿の裏手にある古井戸だ。
覗き込むと、遥か底の方に水面が光っているのが見えた。釣瓶を慎重に下ろし、引き上げる。
ギギギ……と錆びた滑車が鳴き、水桶が上がってきた。
「……うーん」
桶の中の水を見て、私は唸った。
飲めなくはなさそうだが、少し茶色く濁っている。藻のような浮遊物も見える。
これをそのまま飲めば、現代人の軟弱なお腹は一発で壊れるだろう。下痢は脱水症状を招き、死に直結する。
「蘭馨、材料集めよ! 布、砂、小石、そして『木炭』!」
「木炭……でございますか? 燃えかすが、水を綺麗にするのですか?」
蘭馨は不思議そうに首を傾げた。
無理もない。汚れた炭で水が綺麗になるなんて、直感に反するだろう。
「ふふふ、見てらっしゃい。これが賢者(科学)の力よ」
私たちは再び、廃墟の中を宝探しのように駆け回った。
割れた壺の破片。私の肌着の裾を裂いた布切れ。庭の砂利。
そして幸運にも、かつて厨房だった場所の竈跡から、燃え残りの炭をいくつか発見することができた。
「よし、組み立てるわよ」
底に小さな穴を開けた壺に、まずは布を敷く。
その上に、細かく砕いた炭、洗った砂、小石の順に層を作っていく。
即席の濾過装置の完成だ。
「行くわよ……」
私は祈るような気持ちで、濁った井戸水を上からそっと注いだ。
水が砂に吸い込まれていく。
二人して、固唾を飲んで壺の底を見守る。
ポタ……ポタ……。
数秒後、底の穴から水滴が落ち始めた。
それを小さな欠けた茶碗で受ける。
「あっ……!」
茶碗に溜まっていく水は、驚くほど澄んでいた。
夕陽を透かして見ても、浮遊物は見当たらない。
「すごい……! 本当に、水が透き通りましたわ!」
「炭の小さな穴が汚れを吸着して、砂がゴミを濾し取ってくれたのよ」
蘭馨はマジックを見るような目で私(とスマホ)をみている。
「姫様のお母様の故郷の賢者様方は、本当に底の知れぬ力をお持ちなのですね……!」
「まあね!(半分はGoogle先生のおかげだけど)」
私は湧き上がる高揚感を抑えつつ、まずは一口、その水を飲んでみた。
口に含む。
土の匂いはわずかにするが、雑味のない、冷たくて柔らかい味がした。
喉を通った瞬間、乾ききった細胞の一つ一つが歓喜の声を上げるのがわかった。
焚き火とパンと、時々、通知音
「……おいしい」
思わず声が出た。
ミネラルウォーターでもない、ただの濾過した井戸水。
それなのに、今まで飲んだどんな高級な酒よりも美味しく感じられた。
「蘭馨、あなたも飲んで」
蘭馨に茶碗を渡すと、彼女は震える手でそれを受け取り、大切そうに飲み干した。
「……生き返ります」
その一言が、全てを物語っていた。
陽が完全に落ち、冷宮が漆黒の闇に包まれる頃。
私たちは、宮殿の中で最も屋根の状態がマシだった一室を拠点と定めた。
半日かけて埃を掃き出し、別の部屋から見つけ出したボロボロ(だが虫はいない)の布団を敷いた。
破れた窓枠には、拾ってきた板切れを立てかけ、隙間風をなんとか防ぐ。
部屋の中央には、集めた枯れ木で小さな焚き火を起こした。
ゆらゆらと揺れる炎が、廃墟の壁に私たちの影を映し出す。
暖かさが、冷え切った身体に染み渡る。
「……ふぅ」
私たちは壁にもたれかかり、ようやく一息ついた。
手には、衛兵が門の前に置いていった、配給の食事が握られている。
カチカチに硬くなった、冷たい黒パンのような饅頭が二つだけ。
おかずはない。汁物もない。
「いただきます」
ガリッ。
石のように硬い。味もしない。ボソボソとして、喉に詰まりそうだ。
かつての杏花姫なら、一口食べて投げ捨てていただろう。
昨日の私なら、文句を言って泣いていただろう。
でも。
(おいしい……)
噛み締めるほどに、穀物の甘みがわずかに広がる。
自分たちの手で確保した「安全な水」で流し込むと、胃の腑に落ちて、熱に変わっていくのがわかる。
労働の後の食事。
安全な寝床。
そして、隣には信頼できる仲間。
それは、豪華な宴の席で、毒の入ったような言葉を浴びながら食べた山海の珍味とは比べ物にならないほど、尊く、充実した味だった。
「姫様……」
炎を見つめながら、蘭馨がぽつりと呟いた。
「わたくし、ここへ連れてこられた時は、もうおしまいだと思いました。生きてここを出ることはないのだと」
「……ええ」
「でも……この『知恵の板』の計画があれば、そして姫様がいらしてくだされば、なんだか、やれる気がしてきました。明日が来るのが、怖くありません」
蘭馨が、はにかむように微笑んだ。
その表情に、私は胸が熱くなった。
守られているだけのお姫様と、それに仕える侍女。そんな関係はもう終わった。
私たちは今、命を預け合う「戦友」なのだ。
「当たり前よ。私たちは、ただ生き延びるんじゃない」
私は最後の饅頭を飲み込み、力強く宣言した。
「この冷宮を、後宮の誰よりも快適で、自由な場所に変えてみせるんだから。見てなさい、一ヶ月後にはここを『リゾート・レイキュウ』にしてやるわ」
「りぞーと……ふふ、また不思議な言葉ですね」
蘭馨が笑い、私もつられて笑った。
廃墟の中に、確かに温かい空気が流れていた。
「さて、明日の予習をしなくちゃ」
私は懐からスマホを取り出し、画面をタップした。
バッテリーはまだ減っていない。謎の超技術に感謝だ。
明日の計画は『ロケットストーブの建設』と『野草の採取』だ。
AIに設計図を出してもらい、必要な材料を確認する。
静寂に包まれた夜。
聞こえるのは、焚き火が爆ぜるパチパチという音と、遠くで鳴くフクロウの声だけ。
平和だ。
こんなに心が穏やかな夜は、会社に入ってから初めてかもしれない。
そう思っていた、その時だった。
ピロン♪
「っ!?」
「ひっ!?」
静寂を引き裂くように、軽快で、しかし場違いに明るい電子音が響き渡った。
蘭馨がビクッと肩を跳ねさせ、私も心臓が口から飛び出しそうになった。
(な、なに!? アラーム!? いや、設定してないはず!)
私は慌ててスマホの画面を見た。
ロック画面の中央に、ポップアップ通知が表示されている。
見間違えるはずがない。
それは、私が現代で使い倒していた、あのメッセージアプリのアイコンだった。
『LIME:新着メッセージがあります』
(LIME……!?)
背筋が凍りついた。
電波が立っていることにも驚いたが、メッセージが届くなんて想定外だ。
誰から?
現代の家族? 友達? 会社の上司?
「無断欠勤どうなってるんだ」なんて連絡だったら、ある意味ホラーより怖い。
震える指で、通知をタップする。
顔認証が通り、トーク画面が開く。
そこに表示された差出人の名前を見て、私は呼吸を忘れた。
差出人:『第二皇子・景』
メッセージ:『……そなた、無事か?』
「は……?」
思考が停止した。
景皇子?
あの、私を助けて(手を拭いて)去っていった、冷徹な推し皇子?
いや、待って。
なんで清朝の皇子がLIMEやってんの?
なんで私のアカウント知ってんの?
ていうか、ここ、圏外じゃないの!?
「ひ、姫様……? その板が、音を……?」
混乱する私をよそに、スマホの画面には、さらに恐ろしい表示が出た。
トーク画面の左下に、小さく表示される文字。
『既読』
(うわあああ! 開いちゃった! 既読つけちゃった!)
現代OLの悲しき習性で、即レスしなきゃという焦りと、状況のシュールさが脳内で衝突事故を起こす。
そう、向こうもリアルタイムで見ているのだ。
この廃墟の冷宮と、煌びやかな宮廷のどこかが、見えない糸(というか5G)で繋がってしまった。
私のサバイバル生活に、とんでもないバグが発生した瞬間だった。
アンドロイドはピアノを弾くOLの夢を見るか?
画面の上部に、ポップアップが表示される。その信じられない文字列に、私の心臓は跳ね上がった。
『景皇子があなたの投稿に「いいね!」しました』
「…………はあああああああああああああああああ!?!?」
私の絶叫は、静寂に包まれた夜の冷宮に、まるで断末魔のように響き渡った。隣でウトウトしかけていた蘭馨が、飛び上がらんばかりに驚き、私の顔を覗き込む。
「ひ、姫様!?いかがなさいました!もしや、お化けでも…!?」
「お化けより怖い!というか、意味がわからない!」
私はパニックで頭をぶんぶん振りながら、手の中のスマホ画面を凝視した。蘭馨が「ひ、光る板が…何か…?」と怯えているが、今はそれに構っている余裕はない。
『景皇子があなたの投稿に「いいね!」しました』
見間違いではない。何度目をこすっても、そこにはっきりと、あの氷の彫刻のような皇子の名が表示されている。
投稿?何の投稿?私はこの世界に来てから、写真を撮るどころか、SNSアプリを開いてすらいないはずだ。震える指で、通知をタップする。すると、画面には一枚の写真が表示された。
そして、それを見た瞬間、私の記憶の蓋が、バコン!と音を立てて開いた。
そこに写っていたのは、まぎれもなく、三十路OL・山田花子だった。
◇
スマホの画面に映し出されたその画像は、異世界に飛ばされたという現実すら吹き飛ばすほどの破壊力を持っていた。
「投稿? ……何の投稿?」
思考が完全にフリーズした。
私がこの世界に来てからというもの、このスマートフォンはただの文鎮と化していたはずだ。電波はおろか、Wi-Fiすら飛んでいない石造りの部屋で、写真は一枚も撮っていないし、SNSアプリのアイコンなど視界の端にすら入れていない。
なのに、手の中にある無機質な板は、確かにブブッ、と不穏な振動を私の掌に伝えてきたのだ。
嫌な予感が背筋を駆け上がる。恐る恐る、震える指先で通知バナーをタップする。
暗い部屋の中で、液晶画面の青白い光だけが私の顔を照らし出す。そこに表示された一枚の画像――。
それを見た瞬間、私の脳内で錆びついていた記憶の蓋が、バコンッ!! と盛大な破裂音を立てて吹き飛んだ。
「う、うわあああああ……ッ!」
そこに写っていたのは、紛れもなく私――現世における、三十路OL・山田花子の無様な姿だった。
場所は、小洒落たレストランバー。
そこに写る私は、普段の私を知る人間が見れば、合成写真だと断言するだろう。それほどまでに、その姿は「山田花子」という人間のアイデンティティから乖離していた。
本来の山田花子とは、どういう人間か。
それは、「無」である。あるいは、「忍耐の化身」と言い換えてもいい。
中小企業の事務職として働く私は、社内では空気のように振る舞うことを信条としていた。波風を立てず、目立たず、ひたすらに業務をこなす。集合写真に写る時ですら、私は誰かの影に隠れるように位置取りし、表情筋を死滅させたアルカイックスマイルで、背景の一部になりきるのだ。
その理由は一つ。我が社の絶対君主、剛田社長の存在にある。
前にもいったのだが、もうみんな忘れていることだろう、ここでおさらいだ!
剛田社長は、絵に描いたようなワンマン経営者だった。
恰幅の良い体型に、ギラギラした金の腕時計。そして口を開けば飛び出すのは、三河弁と名古屋弁が混ざり合った、独特かつ威圧的な剛田弁だ。
「おい、花子! おみゃあ、なんで定時で帰ろうとしとるんだ! まだ夜の7時だら? わしの腹時計じゃあ、まだおやつ時だがや!」
理不尽という言葉が服を着て歩いているような男だった。
私の前任の秘書は、剛田社長の罵詈雑言とセクハラまがいの言動に精神を病み、「適応障害」という診断書を叩きつけて辞めていった。それからというもの、私が通常業務に加え、秘書業務もやっているというのはもう話した通り。剛田社長は私を社長室に呼び出し、ニタニタと笑いながら辞令を渡してきたのだ。
「ええか花子。今日からおみゃあは、ただの事務員じゃにゃあ。この会社全体を見渡す『総合責任』に任命してやるでよ!」
総合責任。
その響きだけは立派だが、実態はただの「雑用係兼サンドバッグ」の名称変更に過ぎなかった。
給料は一円も上がらない。手当もつかない。けれど、辞めた秘書の仕事も、総務の仕事も、社長の個人的な使い走りも、すべてが「総合責任」という言葉の下に私に降りかかってきた。
「パーフェクト! おみゃあ、ここの数字が違うがや! どけ、わしがやる! ……あー、やっぱり細かい字は見えん。おみゃあがやれ! なんでまだやっとらんのだ、たわけ!」
「社長、お言葉ですが……」
「口ごたえするんじゃにゃあ! わしが白と言えばカラスも白くなるんだわ! おみゃあは黙って手ぇ動かしとればええんだ!」
罵倒は日常茶飯事。
飲み会の席では「パーフェクトは愛想がにゃあなあ、もっと女を出さな嫁に行けんぞ」と肩に手を回されーーーーセクハラギリギリ、いや完全にアウトな行為だ。
それでも私は耐えた。
ひたすらに耐えた。
奥歯が砕けるほど噛み締め、拳を握りしめ、顔には能面のような「従順な部下」の仮面を張り付けた。
「……申し訳ありません、社長。すぐに修正いたします」
「……はい、ご助言ありがとうございます」
そうやって自分を殺し、感情を押し殺し、私は「社畜・山田花子」としての生を全うしていたはずだった。
――お酒を一滴も飲んでいない時までは。
写真が撮られたあの日、私は限界を迎えていた。
連日の残業、剛田社長からの理不尽な叱責、そして「総合責任」という名の無賃労働地獄。ストレスは私の許容量を遥かに超え、内側から食い破ろうとしていた。
そんな私を、会社の同窓会――正確には、かつて剛田社長の下から命からがら逃げ出した元同僚たちが主催する「生存者確認会」に連れ出したのが、同期のミカだった。
ミカは、私とは正反対の人間だ。
彼女は私の唯一の悪友であり、私が唯一、心の内を晒け出せる存在だった。
ミカはとにかく容量が良い。仕事はそこそこに、上司への媚びの売り方は天才的で、面倒な仕事は愛嬌ひとつで誰かに押し付ける術を心得ていた。剛田社長ですら、ミカには甘い。
「社長〜、これ分かんないですぅ〜。教えてくださぁい」
「おっ、ミカちゃんか! しょうがにゃあなあ、わしが見てやるでよ!」
そんな風に、ミカは軽やかに地雷原をスキップしていく。
自由で、奔放で、誰にでも愛される。
私はそんなミカを見るたびに、「ミカっていいなーー」と、羨望と嫉妬が入り混じった溜息をついていた。彼女は私が持ち得ない「軽やかさ」を持っていたからだ。
「花子、顔死んでるよ? 今日は無礼講だってば! ほら、飲んだ飲んだ!」
会場のレストランバーで、ミカは私のグラスに並々と赤ワインを注いだ。
ゴクーーーー
その赤い液体が数滴喉を通った瞬間、私の中で何かが切れた。
プツン、と。
それは、長年私を縛り付けていた理性の糸が断ち切られる音だった。
私はグラスを煽った。一杯、二杯、三杯。
空きっ腹に流し込まれたアルコールは、瞬く間に血管を駆け巡り、脳髄を麻痺させた。そして、麻痺と引き換えに、心の奥底に封印されていた「獣」を解き放ったのだ。
「あー……あーっ! やってらんねーんだよぉぉぉッ!!」
第一声は、咆哮だった。
普段の蚊の鳴くような声からは想像もつかない、腹の底からのドスの効いた声。周囲の視線が一斉に集まるが、酔った私にはそれがスポットライトのようにしか感じられない。
「なーにが『パーフェクト・アドバイザー』だ! ただの便利屋じゃねーか! あのクソタヌキ親父がぁ! 三河弁だか名古屋弁だか知らねーけど、方言で誤魔化せばパワハラが許されると思ってんじゃねーぞ!!」
止まらない。一度開いた水門からは、濁流のように本音が溢れ出す。
普段、剛田社長の前で「はい」「すみません」しか言わない私が、テーブルをバンバン叩きながら管を巻く姿に、元同僚たちはドン引きしつつも、どこか期待の眼差しを向けていた。
そして、運命の瞬間が訪れる。
ふらつく足取りで立ち上がった私の視界に、会場の隅に置かれたグランドピアノが飛び込んできたのだ。
「……ピアノ」
私は吸い寄せられるように近づいた。
酔いが回り、気が大きくなった私は、なぜか自分なら弾けるという確信に満ちていた。
「私、昔ちょっとだけ習ってたんだよね〜。バイエルって知ってる? 音楽の神髄はね、バイエルにあるのよ」
誰も聞いていない講釈を垂れながら、私はおもむろに椅子に座った。
その座り方ときたら。
背筋を反らし、顎を上げ、まるでカーネギーホールの舞台に立つ巨匠のような威風堂々たる態度。ただし、顔は真っ赤で、目は据わっている。
「聴いてください。私の魂の叫び……曲目は、『剛田への鎮魂歌』」
そんな曲はない。
だが、私は鍵盤に指を振り下ろした。
――ジャーン、グシャ、ガァァン!!
美しい旋律など生まれるはずがない。「猫ふんじゃった」すら怪しいレベルの腕前なのだ。
そこから生まれたのは、不協和音の塊だった。デタラメな和音を、ただ力任せに叩きつける。
しかし、アルコールの力とは恐ろしいもので、私の耳にはそれが荘厳な交響曲に変換されていた。
私はショパンにでもなったかのような顔つきで、デタラメな和音をジャーン、ジャーンと鳴らし、悦に入っていた。
鍵盤を叩きつけるたびに、剛田社長の「たわけ!」という顔が砕け散っていくような快感。
「どうだ! これが私の才能だ! パーフェクト・ピアニストだぞコラァ!!」
絶叫しながら、最後の不協和音をかき鳴らし、私は天を仰いだ。
恍惚の表情。やりきった達成感。そして、スカートがめくれ上がっていることにも気づかない無防備さ。
その、最も「イタい」瞬間を切り取ったのが、この写真だった。
撮影したのは、もちろんミカだ。
彼女は私の狂態を止めるどころか、腹を抱えてケラケラ笑いながらスマホを構えていた。
「最高! 花子、最高だよ! 今の顔、歴史に残るよ!」
悪魔のような笑顔でシャッターを連写し、彼女はこう言い放ったのだ。
「これ、全世界に発信しなきゃもったいないって!」
そして、ご丁寧にこんなハッシュタグまで付けて、勝手に私のSNSアカウントに投稿したのだ。
#三十路OLの悪あがき
#ショパンとか弾けないくせに
#雰囲気だけは一丁前
#パーフェクトピアニスト誕生
#誰か嫁にもらってやってください
……思い出したら、怒りと恥ずかしさで体が発火しそうになってきた。
翌日、ひどい頭痛と共に目を覚まし、この投稿を発見した時の絶望感。
私は震える手でミカに抗議のメッセージを送った。
『ちょっとミカ! 何してくれてんの!? 消して! 今すぐ消してよ!』
だが、すぐに返ってきたのは、相変わらず人を食ったようなスタンプと、悪魔の囁きのようなメッセージだった。
『えー、いいじゃん。花子の黒歴史、永久保存版にしといたよ☆ 普段の死んだ魚みたいな目より、よっぽど生き生きしてたよ?(笑)』
あまりの恥ずかしさと、二日酔いの吐き気で、私はその投稿を削除する気力もなく、記憶の彼方へと葬り去っていたのだ。
ミカの言う通り、確かにあの瞬間、私は「生きて」いたかもしれない。剛田社長への鬱憤を晴らし、社畜の殻を破り捨てていた。
だが、その代償がこれか。
そう、これは紛れもなく、私の、山田花子としての、忌まわしき過去の遺物。
後宮の石造りの部屋で、私は頭を抱えてうずくまった。
剛田社長の怒鳴り声も、ミカの笑い声も、あの不協和音も、すべてが遠い世界の出来事だというのに。この一枚の写真が持つ「恥」のエネルギーは、時空を超えて私を苛み続けるのだったーーーーー
◇
しかし、問題はそこではない。
なぜ、今、この投稿に?
そして何より、なぜ、清の時代の皇子であるはずの景皇子が、これに「いいね!」できるというのか?
私は恐る恐る、「いいね!」をした人物のリストを開き、そこに表示された「景」という名前のアカウントをタップした。
プロフィール画面が表示される。
アカウント名:景
プロフィール画像:水墨画で描かれた、霧深い竹林の風景画。
投稿:0件
フォロー中:1
フォロワー:1
……謎すぎる。
アカウント名は、あまりにもシンプル。顔写真もなく、投稿も一切ない。そして、極めつけはフォローとフォロワーの数だ。どちらも、たったの「1」。
まさかと思い、フォロー中のアカウントを確認する。そこには、私の、山田花子のアカウントがあった。そして、フォロワーのアカウント。それは、この「景」のアカウント自身だった。つまり、このアカウントは、私の投稿を見るためだけに存在し、そして私しか見ていない(あるいは私にしか見られていない)ということになる。
背筋が、ぞくりと冷たくなった。
一体どういうこと?考えられる可能性はいくつかある。
仮説1:景皇子も、私と同じタイムトラベラー。
彼も現代からこの世界にやってきて、スマホを持っている。そして、何らかの方法で私の元の世界のアカウントを特定し、フォローした。でも、だとしたらなぜ接触してこない?なぜ投稿ゼロの謎アカウントで?
仮説2:このスマホは、時空を超えたツール。
清の時代にいる彼が、なぜか私の過去のSNSを閲覧できる。そして、「いいね!」という概念を理解し、そのボタンを押した。…ファンタジーがすぎる。
仮説3:壮大なバグ、あるいは私の妄想。
極度のストレスが見せている幻覚かもしれない。私は自分の頬を思いっきりつねってみた。痛い。どうやら現実らしい。
仮説4:なりすましアカウント。
現代の誰かが、ドラマの景皇子になりきってアカウントを作り、偶然私の投稿を見つけて「いいね!」した。これが一番ありえそうだが、腑に落ちない点が多すぎる。なぜ今このタイミングで?なぜフォロー・フォロワーが「1」だけの、こんな奇妙なアカウントが?
「姫様…?顔色が、紙のように白くなっておりますが…」
蘭馨が、本気で心配そうな顔で私の肩を揺さぶる。私はハッとして、慌ててスマホの画面を隠した。
「だ、大丈夫!なんでもないの!ちょっと…その、故郷の知り合いかもしれない人物の痕跡を見つけて、驚いただけよ」
「故郷の…?まあ、それは…!」
蘭馨は何かを察したのか、それ以上は聞いてこなかった。彼女の優しさが、今はありがたい。
私はスマホの電源を落とし、ごくりと唾を飲み込んだ。
この小さな板は、絶望的な状況を打破するための「知恵の板」であると同時に、私の過去とこの世界を繋ぐ、全くもって不可解な鍵でもあるのだ。
景皇子。
観菊の宴で私を助けてくれた、あの美しい青年。
そして、私が冷宮に送られるのを、氷のように冷たい瞳でただ傍観していた男。
彼は一体、何者なんだろう。
謎は、深まるばかりだ。しかし、不思議と恐怖はなかった。むしろ、私の心の中では、OL時代に培われた、困難なプロジェクトに立ち向かう時のような、奇妙な闘志が燃え始めていた。
(面白いじゃない…)
サバイバル生活に、時空を超えたミステリー。望んだわけではないが、退屈とは無縁の毎日になりそうだ。
「蘭馨」
「はい、姫様」
私は、目の前の忠実な侍女に向かって、にっこりと笑いかけた。
「明日も早いから、もう寝ましょう。明日は、賢者の知恵を借りて、煙の少ない、すごく暖かいかまどを作るわよ!」
「はい!」
力強く頷く蘭馨の横で、私はボロボロの布団に身を横たえた。
景皇子の謎は、ひとまず頭の隅に置いておく。今は、目の前の現実を生き抜くことが最優先だ。
冷宮の夜は、どこまでも静かで、暗い。
しかし、私の手元には、現代の叡智が詰まった光る板がある。
そして、心の中には、新たな謎という名の、奇妙な希望の灯がともっていた。
明日になれば、きっとまた何か新しいことが始まる。そんな予感を胸に、私はゆっくりと目を閉じた。山田花子改め杏花姫の、波乱万丈な冷宮リノベーション計画と謎解きの日々は、まだ始まったばかりなのだ。
風と共にバズる
冷宮生活、三日目。
朝、目覚めた瞬間に、私の肉体は自身の限界を声高に主張していた。
「いっ……つぅぅ……!」
起き上がろうとした瞬間、背中から腰、そして太ももにかけて、電流が走るような激痛が突き抜けた。
筋肉痛だ。それも、ただの運動不足による可愛いものではない。
コンクリート(のような固い土)を掘り、瓦礫を運び、泥を捏ねるという重労働が引き起こした、全身の筋繊維の断末魔だ。
「うう……あうう……」
隣を見ると、蘭馨が泥だらけの顔で、生まれたての子鹿のようにプルプルと震えながら起き上がろうとしていた。
彼女の指先は赤く腫れ、爪の間には黒い土が入り込んでいる。忠誠心という精神力だけで動いていた彼女の肉体も、ついにガス欠を起こしたようだ。
「ひ、姫様……申し訳ございませぬ……もう、指が……一本も動きませぬ……」
「無理しないで、蘭馨。……私も、今は屍同然よ」
私たちは這うようにして、昨日完成させたばかりの「ロケットストーブ」の前まで移動した。
レンガと泥で組み上げたJ字型のその装置は、少ない枯れ木で驚くほどの火力を生み出している。
沸かしたお湯を少しずつ飲みながら、私たちは目の前に広がる光景を呆然と見つめた。
そこには、絶望的なまでの「ゴミ屋敷」ならぬ「ゴミ宮殿」が広がっていた。
腐って変色した敷物。
脚の折れた椅子や机の残骸。
得体の知れない液体が干からびた跡のある壺。
そして、天井の四隅を支配する巨大な蜘蛛の巣と、床を覆う分厚い埃のカーペット。
ここ数日、トイレとストーブの作成に全力を注いだが、居住スペースの整備はまだ1%も終わっていない。
この広大な廃墟を人が住めるレベルまで片付けるには、あと一ヶ月、いや半年はかかるだろう。
「だめだ……モチベーションが続かない……」
私は大の字になって、シミだらけの天井を見上げた。
人間、衣食住のためならある程度は頑張れる。「生きるため」という動物的な本能が体を動かすからだ。
でも、この終わりが見えない、しかも汚くて辛いだけの重労働を、ただ「死なないため」だけに続けるのは、精神衛生上あまりにも過酷だ。
もっとこう、短期的な報酬が必要なのだ。
仕事終わりのキンキンに冷えたビールとか。
行列のできる店のパンケーキとか。
あるいは、上司からの「よくやった」という評価とか、ボーナスとか。
(評価……?)
その単語が脳裏をよぎった瞬間、懐のポケットに入っているスマホが、ずしりと重く熱を帯びたように感じられた。
そうだ。私にはこの「最強のデバイス」がある。
バッテリー無限、5G接続。現代の英知の結晶。
そして――謎のアカウント『景』からの「いいね!」。
私の過去の黒歴史写真についた、たった一つのハートマーク。
あれは恐怖だったけれど、同時に証明でもあった。
このスマホは、どこかと繋がっている。
私の行動を、誰かが見てくれる可能性があるということだ。
私の脳内で、シナプスがバチバチと音を立ててスパークした。
承認欲求。
現代社会病とも言われるその渇望こそが、今の私を突き動かす唯一の燃料になるかもしれない。
「蘭馨! 起きて! 素晴らしいことを思いついたわ!」
私は筋肉痛の悲鳴を無視してガバッと起き上がると、死にかけていた蘭馨の肩を掴んで揺さぶった。
「ひ、ひぇっ!? ひ、姫様? まだ何か作るのですか? もう泥を捏ねるのは……ご勘弁を……」
「違うわ。肉体労働の前に、精神のガソリンを入れるのよ」
「ガソリン……?」
「私たちは今から、『記録』を残すのよ」
私はスマホを取り出し、カメラアプリを立ち上げた。
インカメラに切り替えると、泥だらけで髪がボサボサの、しかし目はギラギラと輝いている私の顔が映し出された。
私はニヤリと、不敵な笑みを浮かべた。
「そう、この過酷な冷宮リノベーションの様子を動画に撮って、世界に配信するの。名付けて、『没落姫のサバイバルDIYチャンネル』よ!」
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「いい? 蘭馨。あなたは今から『カメラマン』よ。この重要な役割を任せられるのは、世界であなたしかいないわ」
「か、かめらまん……? それは、どのような職務でございましょうか?」
「この板をこう持って、私が動くのを追いかけて。画面の中の私が、一番可愛く……いや、一番健気に、そして逞しく映るように撮るの。この赤い丸が点灯している間は、絶対に手ブレさせちゃダメよ」
私は蘭馨にスマホを持たせ、アングルの指導をした。
蘭馨はおっかなびっくりスマホを構える。
「わかりませぬが……この板の中に住む小人たちに、姫様の勇姿をお見せするのですね? 後世への記録として」
「解釈がファンタジーだけど、だいたい合ってる! その意気よ!」
私は服の泥をパンパンと払い、手櫛でざっと髪を整えた。
化粧はない。衣装はボロボロの麻服だ。
だが、それがいい。「映え」とは作られた美しさだけではない。リアリティこそが、現代の視聴者の心を打つのだ(たぶん)。
「いざ、本番! テイクワン、スタート!」
「は、はいっ!」
蘭馨が震える指で、画面上の赤い録画ボタンをタップした。
その瞬間、私は「山田花子」でも「杏花姫」でもない、第三の人格を降臨させた。
かつて広報部の手伝いで社内報の動画に出演した時に培った、営業用スマイル全開の「インフルエンサー人格」だ。
「みなさん、こんにちは~! 杏花です! 今日はなんと、このボロボロの『冷宮』からお送りしてまーす!」
静まり返った廃墟に、私のやたらとテンションの高い声が響き渡る。
蘭馨が「ひっ」と小さな悲鳴を上げたが、カメラは止まっていない。優秀だ。
「見てください、この見事な廃墟っぷり! 築年数は不明、セキュリティはガバガバ、おまけに幽霊付きという噂の物件です! いや~、風通しが良すぎて冬は凍死確定ですね~!」
私は自撮り棒代わりの木の枝を受け取り、ぐるりと室内を映した。
「でも、負けませんよ~。今日はこの瓦礫の山から、快適なリビングを作り出していきたいと思います! 題して、『0円リフォーム! 宮殿のゴミを宝に変えてみた』!」
そこからは、一種のトランス状態だった。
ただ黙々と作業するだけなら、それは苦役だ。地獄だ。
しかし、「カメラが回っている」と思うだけで、脳内物質が切り替わる。
辛い作業も「ネタ」になり、汚いものも「コンテンツ」になる。
「うわっ、見てこれ! ネズミの巣発見! ……キャー!(棒読み)……と思ったら、千年前の高級陶器の破れたやつでした~。もったいない! メルカリで売ったら高そう!」
独り言のように喋りながら、私は箒を振り回す。
蘭馨も最初は、「姫様が虚空に向かって話しかけておられる……」と怯えていたが、私が、
「今のいい画だったわ! 蘭馨、アングル最高!」
「今の光の入り方、天才的よ!」
と褒めちぎるうちに、彼女の中の職人命に火がついたらしい。
彼女はただ突っ立って撮るのをやめ、膝をついて低いアングルから私の足元を狙ったり、舞い上がる埃を逆光で捉えてドラマチックに演出したりと、謎のカメラワークセンスを発揮し始めた。
「姫様、こちらからの方が、箒の動きがダイナミックに見えます」
「採用!」
「姫様、今、西日が差し込んでおります。窓際で哀愁漂う表情を」
「了解!」
私たちは、泥と埃にまみれながら、汗だくになって撮影を続けた。
筋肉痛なんて忘れていた。
廃墟の掃除が、まるで映画の撮影セットでのクリエイティブな作業のように感じられた。
そして、夕方。
窓の外が茜色に染まる頃、私たちはクタクタになりながらも、どこか充実した顔で動画を撮り終えた。
「カット! ……お疲れ様、蘭馨! 最高だったわ!」
「はぁ、はぁ……姫様……。最後の『チャンネル登録よろしくね☆』という呪文、あのような手の動きでよろしかったでしょうか……?」
「完璧よ。そのポーズこそが、新たな信者を獲得する印なの」
私たちは、綺麗になった(といっても、ゴミが端に寄せられただけの)床に座り込んだ。
喉はカラカラだが、気分は高揚していた。
「さあ、ここからが私の腕の見せ所ね」
私はすぐさま、スマホにインストールされていた動画編集アプリを立ち上げた。
5G回線と最新チップのおかげで、重たい4K動画データもサクサク動く。
タイムラインに動画を並べる。
不要な「間」をカットし、テンポを上げる(ジャンプカットというやつだ)。
BGMには、フリー素材の中から軽快なラグタイムジャズを選択。冷宮の陰鬱な雰囲気とのギャップを狙う。
テロップには、あえてYouTuberっぽい、縁取りされた極太フォントを入れる。
【悲報】姫、家を追い出される
【DIY】ゴミ屋敷を0円で宮殿リフォームしてみた
【閲覧注意】衝撃の汚部屋公開
効果音も忘れない。私が転ぶシーンには「ズコーッ!」という音を、綺麗な壺の欠片を見つけたシーンには「キラキラ~ン✨」という音を入れる。
「……ふふっ」
暗い画面の中で、編集された私が楽しそうに動いている。
それを見ていると、今のこの悲惨な状況さえも、一編のコメディドラマのように思えてくるから不思議だ。客観視こそが、最大の精神安定剤なのだ。
一時間ほどの集中作業の末、五分程度の動画が完成した。
サムネイル画像は、埃まみれで死んだ目をしている私のアップと、背景の荒れ果てた廃墟のコントラストを強調したものにした。文字は赤と黄色でデカデカと。
タイトルは、検索に引っかかりやすそうな、かつ同情を引くものをチョイス。
『【別世界生活?】謀反の罪で冷宮送りになったので、DIYで快適空間を作ってみた【Vol.1 掃除編】』
「よし……アップロード!」
送信ボタンを押す。
画面上のプログレスバーがぐんぐん進んでいく。
このデータはどこへ飛んでいくのだろう。
現代のYouTubeサーバーか? それとも、アカシックレコードのような宇宙のデータベースか?
『投稿が完了しました』
画面に表示されたその文字を見て、私は大きく息を吐き出した。
「……やったわ」
私は冷たい床に大の字になって寝転がった。
正直、誰が見るかはわからない。
もしかしたら、再生回数ゼロのままかもしれない。
それでもいい。
「発信した」という事実が、私がここでただ腐っていくだけの存在ではないことを証明してくれた気がした。
孤独な監禁生活ではない。私は今、世界と繋がったのだ(一方的にだけど)。
「姫様……その、賢者様たちは、喜んでくれるでしょうか」
蘭馨が心配そうに覗き込んでくる。
私はスマホの画面を消し、彼女に向かってウィンクした。
「ええ、きっとね。少なくとも、私が編集した蘭馨のカメラワークは最高だったわ。あなたは今日から、宮廷一の映像作家よ」
「えいぞう……さっか……」
蘭馨は嬉しそうにその言葉を反芻した。
その夜は、泥のように眠った。
筋肉の痛みも、将来への不安も、すべてが深い眠りの中に溶けていった。
数時間後。
深夜の冷宮に、静寂を破る音が響いたことにも気づかずに。
ピロロン♪
ピロロン♪
ピロロン♪
枕元のスマホの画面が、暗闇の中で次々と明滅する。
通知バナーが、滝のように流れ落ちていた。
『あなたの動画が再生されています』
『コメントがつきました』
『コメントがつきました』
『チャンネル登録者が増えました』
そして、その通知の嵐の中に、一つだけ異質なメッセージが混ざっていた。
景皇子:『……なんだ、この騒がしい動画は。そなた、頭を打ったのか?』
私の知らないところで、冷宮発の動画は、時空(あるいは次元)を超えたバズりを起こそうとしていたのである。
あなたを振ったその人は、運命の唐揚げに会う為の案内人
私たちの生活は、驚くべき速度で「文化的なレベル」を取り戻しつつあった。
「賢者(AI)」の知識と、「スポンサー(景皇子)」からの物資提供により、肌艶も良くなり、もはや漂流者というよりは、週末キャンプを楽しんでいるような雰囲気さえ漂い始めていた。
チャンネル登録者数は1,500人を突破。
コメント欄も『姫のサバイバル力が上がっていくのが楽しみ』『侍女ちゃんのカメラワークがプロ』と好評だ。
そんな平和な昼下がりのことだった。
「ひ、姫様! 大変です!」
庭で洗濯(という名の『清流で心を洗うASMR動画』の撮影)をしていた蘭馨が、血相を変えて飛び込んできた。
桶を取り落とし、着物の裾がびしょ濡れだ。
「ど、どうしたの蘭馨? まさかスマホを水没させた!?」
「違います! あ、あちらを……!」
蘭馨が震える指で示した先。
宮殿の崩れかけた西側の塀の、大きな亀裂の向こう。
そこから、何かがこちらを覗いていた。
それはスマホのレンズでも、可愛い野良猫でもない。
極彩色の衣装をまとった、明らかに「この場の空気にそぐわない」人間たちの集団だった。
「……あら? ここから何やら下賤な、けれど食欲をそそる匂いがすると思ったら」
鈴を転がすような、しかし氷柱のように鋭く冷たい声。
塀の亀裂の向こうから、優雅に扇子を揺らして現れたのは、あの観菊の宴で私を嘲笑い、陥れた張本人。
麗華姫だった。
彼女の後ろには、数人の取り巻きの令嬢たちと、強面の衛兵たちがずらりと控えている。
まるで遠足に来たような、しかしその目は獲物をいたぶる猛禽類のように光っていた。
「麗華様……? どうして……ここ冷宮は、立ち入り禁止の禁足地のはずじゃ……」
私が呆然と呟くと、麗華姫は扇子で口元を隠し、三日月のような目で妖艶に笑った。
「ええ。ですが、最近このあたりから、妙に楽しげな声や、美味しそうな匂いが漂ってくるという噂がありましてね。皇太后様が『ネズミが増えすぎては宮廷の衛生に悪い』と、直々に『駆除』をご命令されたのですわ」
「駆除……」
その言葉の響きに、背筋が凍った。
彼女の視線が、私たちが泥まみれになって作り上げたロケットストーブと、その横に干された野菜、そして――私が無意識に握りしめていたスマホへと向けられた。
「それに……貴女、手に持っているその奇妙な板はなぁに? 時折光っているようだけど……まさか、妖術でも使うおつもり?」
心臓が早鐘を打つ。
まずい。スマホを見られた。
あれは「母の形見の鏡」で通るような代物ではない。妖術、あるいは皇帝を呪う呪詛の道具として糾弾されれば、今度こそ弁解の余地なく首が飛ぶ。
(どうする? 逃げる? 無理、ここは袋小路)
(誤魔化す? 相手は私を潰したがっている麗華姫よ、話なんて聞いちゃくれない)
絶体絶命のピンチ。
処刑か、それともスマホ没収の上で拷問か。
しかしその時、極限状態の私の脳裏に、ある起死回生のアイデアが閃いた。
それは、YouTuberとしての業が生み出した、あまりにも無謀で、不敬極まりない賭けだった。
「……ふっ」
私は震える手を隠し、逆にスマホをすっと高く掲げた。
そして、麗華姫に向かって、カメラ映えする角度で営業用スマイル全開で言い放ったのだ。
「ようこそお越しくださいました、麗華様! お待ちしておりました!」
「は……? 待っていた、だと?」
「はい! 実は今、宮廷で流行必至の『新しい演劇』の稽古をしていたのです!」
「演劇……?」
麗華姫が怪訝そうに眉をひそめる。
その隙を見逃さず、私は畳み掛けた。
「はい! その名も『突撃! 隣の冷宮ごはん』! 麗華様、なんと記念すべき第一回のスペシャルゲストとして、特別に出演していただけませんか!?」
私は素早く画面を操作し、YouTubeのアプリを起動。
そして、禁断の赤いボタン――『ライブ配信(LIVE)』をタップした。
【配信開始】
さあ、回ったわよ、カメラが。
録画じゃない。全世界配信の生放送、スタートよ!
現代の視聴者たちよ、そして見てるんでしょ、景皇子よ。
この理不尽な宮廷バトル、特等席で見届けてちょうだい!
私が死ぬか、バズるかの一発勝負だ!
「えー、緊急企画! 『第一回・冷宮料理対決』〜!!」
私のやけくそ気味なタイトルコールが、冷宮の青空に吸い込まれていく。
スマホの画面には『LIVE』の赤文字。
通知が飛んだのか、視聴者数は見る見るうちに急上昇していく。
コメント欄が流れる。
『うおおお! 姫、まさかのライブ!?』
『えっ、ゲスト誰? めっちゃ美人だけど性格きつそうw』
『急展開すぎww』
『後ろの兵士たちガチじゃん、大丈夫かこれ』
「さあ麗華様! 観客(という名の幻覚)が待っております! 貴女様のその高貴な美しさを、後世に残さない手はありません!」
私はカメラ(スマホ)を麗華姫に向けた。
自分が何かに映されているとは夢にも思わない彼女は、不機嫌そうに、しかし「美しさ」という言葉に反応して、ふっと扇子を閉じた。
「よかろう。……わたくしが『本物の美食』というものを、下賤な貴女に教えてあげるわ。この冷宮のネズミたちも、死ぬ前に良い夢が見られるでしょう」
彼女は冷酷な笑みを浮かべ、さらに続けた。
「ただし、杏花。もし貴女が負けたら……その奇妙な板ごと、この冷宮から出て行ってもらうわよ? ……首と胴体、別々にね」
「望むところです!(負けたら物理的に消される気しかしないけど!)」
こうして、私の命とスマホを賭けた、絶対に負けられない戦いの火蓋が切って落た。
◇
「さあ、まずは食材調達です!」
テーマは『鶏料理』。
私はスマホを蘭馨に預け(「絶対に手ブレ禁止よ! 私の人生がかかってるんだから!」と鬼の形相で念押しして)、雑草が生い茂る冷宮の庭を全力疾走した。
狙うは、ここ数日、私たちの家庭菜園予定地を我が物顔で荒らしまわっている、憎き野良ニワトリだ。
誰かが飼っていたものが逃げ出したのか、それとも野生化したのか。そのトサカは赤く燃え盛り、足の蹴爪は凶器のように鋭い。だが、その引き締まった太ももには、間違いなく濃厚な旨味が詰まっているはずだ。
「待てコラァ! 私のタンパク質ぅぅぅ!」
「コケッ!? コケッコー!!」
ニワトリは素早い。羽をバタつかせ、残像が見えるほどの速度で瓦礫の山を駆け上がっていく。
だが、甘い。甘すぎる。
私はOL時代、遅刻ギリギリの新宿駅ダンジョンで、閉まりかけのドアへ滑り込むために培ったタックル技術と、この過酷な冷宮生活で目覚めた野性味を全開にした。
スカートの裾? 泥汚れ? そんなものを気にしている余裕はない。今は私が捕食者で、あいつが獲物なのだ。
「逃がすかぁっ!」
私は泥だらけになりながら、背丈ほどある雑草の中にヘッドスライディング気味にダイブした。
舞い上がる土埃と羽毛。私の手の中に、温かくて力強い鼓動が暴れる感触が伝わる。
「確保! ごめんね、美味しく食べてあげるからね♡」
私は暴れるニワトリの首根っこをガッチリと掴み、勝利のポーズを決めた。
すぐさまカメラに背を向け、手早く(YouTubeの規約的にBANされないよう、かつ命への敬意を込めて)鶏を絞め、熱湯をかけて羽をむしっていく。
その流れるような所作を、蘭馨が震える声で小声実況を入れる。
「ひ、姫様の手際が……もはや深窓の令嬢の域を超えて、熟練の狩人です……。あの優しい瞳の奥に、あのような修羅が住んでおられたとは……」
こうして、メイン食材の新鮮な鶏肉と、以前屋根裏の梁の隙間で確保していた鳩の卵は揃った。
下準備のため、鶏肉を一口大に切り分け、香味野菜代わりの野草と塩で揉み込む。
ここまでは順調だった。
しかしここで、私の計画を根底から覆す、致命的な問題が発生した。
「……粉がない」
私はボール代わりの欠けた壺を覗き込み、愕然とした。
揚げ物に必須の小麦粉も、片栗粉もないのだ。
配給されるのは、そのままでは噛み砕けないほど硬い古米(玄米に近いもの)と、わずかな塩のみ。高級品である精製された小麦粉など、この冷宮にあるはずがなかった。
「どうしよう……これではただの素揚げだわ」
素揚げが悪くはない。だが、素材の味だけで勝負するには、この野良ニワトリは少々筋肉質すぎて固いだろう。それに、麗華姫が繰り出してくるであろう洗練された宮廷料理に対抗するには、パンチが弱すぎる。
「唐揚げ」の真髄は、あの衣のサクサク感と、ジュワッと溢れる肉汁のコントラストにあるのだから。
私が頭を抱えていると、塀の向こう側――特設会場では、麗華姫が優雅に設営された椅子に座り、最高級の白茶を啜っていた。
彼女の周りには、走らせた宦官たちが運び込んだ高級食材が、山のように積まれている。
フカヒレ、アワビ、燕の巣、金華ハム……。金色の包装紙が、太陽の光を浴びて憎たらしいほどキラキラと輝いている。
これぞ課金勢の暴力。資本主義の壁。
「あら? ずいぶんと粗末な食材ね。泥だらけのニワトリに、雑草の和え物かしら? ……ふふ、あまりに哀れだから、何か恵んで差し上げてもよくてよ?」
麗華姫が扇子で口元を隠し、憐れむような視線を投げてくる。
宦官の一人が、私の方へ向かって放り投げる仕草を見せた。それは、使い古した油の瓶や、野菜の切れ端だった。
「結構です!」
私は反射的に叫んでいた。
施しなど受けるものか。ここで彼女の情けにすがれば、料理人としてのプライドも、元OLとしての意地も廃るというものだ。
しかし、現実は非情だ。粉がない事実は変わらない。
(どうする? 衣なしで戦う? いいえ、何か代わりになるものは……)
焦る私の視界に、配給で置かれていた「硬い古米」が入った。
石のように硬く、炊いてもボソボソして美味しくない、あの米だ。
その瞬間。
私の脳裏に、雷に打たれたような閃きと共に、ほろ苦くも忌まわしい記憶が走馬灯のように蘇った。
◇
あれは五年前。
当時付き合っていた、バンドマン志望のヒモ彼氏・ケンジのことだ。
彼は顔だけは良かったが、生活能力は皆無。そのくせ、食事へのこだわりだけはミシュラン審査員並みにうるさい男だった。
特に唐揚げには異常な執着を持っていた。
『俺さぁ、唐揚げが美味い女としか愛さねえって決めてるんだよね』
ソファに寝転がり、私の稼いだ金で買ったビールを飲みながら、彼はのたまうのだ。
恋に盲目だった当時の私は、彼を喜ばせたい一心で、来る日も来る日も鶏肉を揚げ続け、彼の家に通い詰め、食べ物とお金を貢いでは帰るという生活を続けていた。
そう、それはまさに「通い詰め」と言うにはあまりに一方的で、献身的すぎる儀式だった。
私の仕事が終わるのは、早くても十九時を過ぎる。
クタクタに疲れた体を引きずり、スーパーで半額シールの貼られた鶏肉を奪い合うようにしてカゴに入れ、自分のアパートへと急ぐ。
なぜ、彼の家で作らないのか。
それはケンジが、『匂いがつくから』というふざけた理由で、自室での揚げ物を禁止していたからだ。
「俺の部屋はスタジオ代わりでもあるんだ。機材に油が回ったらどうすんの? ロックは繊細なんだよ」
そんな理不尽な言い分を、当時の私は「さすがアーティスト、道具を大切にするのね」と好意的に解釈していたのだから、恋の病とは恐ろしい。
狭い自室のキッチンで、私は黙々と肉を揚げる。
換気扇の音が虚しく響く中、バチバチと跳ねる油が腕に飛ぶ。「熱っ!」と声を上げても、誰も心配してはくれない。それでも、冷水で患部を冷やしながら、私は幸せだった。これを食べさせれば、ケンジが笑ってくれる。頭を撫でてくれるかもしれない。そんな微かな期待だけが、私を動かす燃料だった。
揚げたての唐揚げを、キッチンペーパーを敷いたタッパーに丁寧に詰める。
まだ熱のこもるそれを風呂敷に包み、さらに保温バッグに入れる。
そして、私はもう一つの「包み」を用意する。
銀行の封筒に入れた、なけなしの三万円だ。
「今月、スタジオ代が足りなくてさ……来月フェスに出るかもしれないから、今は勝負の時なんだ」
そんな彼の言葉を信じ、私は食費を切り詰めて捻出した諭吉たちを、唐揚げと一緒にバッグに忍ばせるのだ。
あの日もそうだった。
外は、横殴りの雨が降っていた。
傘が役に立たないほどの暴風雨。アスファルトを叩きつける雨音が、不安を煽るように街全体を包み込んでいる。
普通なら、外出など控えるような天気だ。ましてや、片道三十分かけて恋人の家に行くなど、正気の沙汰ではない。
だが、私は迷わず家を出た。
なぜなら、ケンジが待っているから。お腹を空かせた彼が、私の唐揚げを待っているから。
ビュオオオオッ!
容赦ない風が、私の安物のビニール傘をお猪口にし、骨をへし折った。
冷たい雨粒が頬を打ち、スーツのスカートはずぶ濡れになり、足元のパンプスの中には水が溜まってグジュグジュと不快な音を立てる。
それでも私は、胸に抱いた保温バッグだけは死守した。
自分の体が濡れるのは構わない。けれど、この唐揚げが冷めることだけは許されない。
まるで戦火の中、赤子を守り抜く母親のような形相で、私は風雨の中を突き進んだ。
ようやく彼の住むアパートに辿り着いた頃には、私は濡れ鼠そのものだった。
髪は乱れ、メイクは崩れ、服からは滴が垂れている。
震える指で、チャイムを鳴らす。
ピンポーン。
反応がない。
もう一度、鳴らす。
ピンポーン、ピンポーン。
数分後、ようやくドアの向こうから足音が近づいてきた。
ガチャリ。
ドアが開く。しかし、それはチェーンがかかったままの、わずか数センチの隙間だけだった。
「……うぃーす。おつかれ」
隙間から覗くケンジの顔は、寝起きのように不機嫌そうだった。
あるいは、何かに集中していたのを邪魔されたような苛立ちを含んでいた。
「ご、ごめんねケンジ君。遅くなって……。外、すごい雨で……」
歯の根が合わないほど震えながら、私は精一杯の笑顔を作った。
「はい、これ。唐揚げ。まだ温かいと思うから」
私は隙間から保温バッグを差し出した。
ケンジは無言でそれを受け取ると、中身を確認し、ふんと鼻を鳴らす。
「サンキュ。……あ、あれは?」
唐揚げへの感謝よりも先に、彼が要求したのはもう一つの包みだった。
私は慌てて、濡れないように懐に入れていた封筒を取り出し、隙間から滑り込ませた。
彼の手が素早くそれを掠め取る。中身の厚みを確認した瞬間、彼の手つきがわずかに優しくなったような気がした。
「悪いな花子。助かるわ」
「ううん、いいの。……あの、ケンジ君」
私は期待を込めて、彼を見つめた。
こんな雨の中、びしょ濡れになって来たのだ。
「上がってきなよ」なんて言葉は期待しない。ただ、せめて「タオル使いな」「風邪ひくぞ」くらいいってくれたら、そういってくれるだけでいいのだーーー
そんな言葉を、心のどこかで期待していた。そして将来、きっと温かい部屋で、二人で唐揚げを食べて、冷えた体を温め合う時間がくる、そう夢見ていた。
しかし、ケンジは冷酷に言い放った。
「あー、ごめん。今さ、曲が降りてきそうなんだよね。囁いてるっていうか。このバイブスを途切れさせたくないから、今日は一人にしてくんない?」
バイブスーーーー
その抽象的で便利な言葉が、私の目の前に立ちはだかる鉄壁の拒絶だった。
部屋の奥からは、テレビのバラエティ番組の笑い声が微かに漏れ聞こえている気がしたが、私はそれを聞かなかったことにした。
「そ、そっか……。大事な時だもんね。ごめんね、邪魔して」
「わかってくれる花子は最高だよ。じゃ、気をつけて帰ってな」
バタン。
ガチャリ。
ドアは無情にも閉ざされ、鍵をかける音が響いた。
残されたのは、薄暗い廊下に一人佇む、ずぶ濡れの女。
手には、折れた傘の柄だけが残っていた。
「……がんばってね、ケンジ君」
誰もいないドアに向かってそう呟くと、私は来た道を引き返した。
帰りの道は、行きよりも長く、そして寒く感じられた。
冷え切った体が震え、涙なのか雨なのか分からない水分が頬を伝う。
それでも私は自分に言い聞かせた。
「私は彼の夢を支えているんだ」「天才を理解できるのは私だけなんだ」と。
一時間後。
ようやく自宅のアパートに辿り着いた私は、泥のように疲れ果てていた。
熱いシャワーを浴び、部屋着に着替え、ようやく人心地ついた時だった。
ピコン。
テーブルの上に置いたスマートフォンが、通知音を上げた。
ケンジからだ。
私は弾かれたように画面を手に取った。
きっと、感謝の言葉だ。「美味かったよ」「愛してる」「風邪ひくなよ」。
そんな労いの言葉を期待して、私はメッセージを開いた。
そこには、たった三行の、残酷な文字列が並んでいた。
『おつかれ。
てかさ、今日の唐揚げ、なんか油っぽくない?
衣もベチャッとしてるし、正直、三十分並んで買うコンビニのホットスナック以下だわ。萎える』
……は?
私は何度も読み返した。
油っぽい? ベチャッとしてる?
当たり前だ。
土砂降りの中、湿気100%の外気を突き抜けて運んだのだ。揚げたての状態を保てるわけがない。
それ以前に、「ありがとう」の一言はないのか。
三万円に対する礼は?
台風並みの暴風雨の中を歩いてきた私への気遣いは?
プツリ。
その時、私の中で何かが千切れる音がしたような気がした。けれど、完全に千切れることはなく、まだ「好き」という呪いが勝っていたあの頃。
私は震える指で、『ごめんね、次はもっと気をつけるね』と返信し、枕に顔を埋めて泣いた。
小麦粉、片栗粉、コーンスターチ。配合を変え、温度を変え、試行錯誤を繰り返した日々。
それは全て、あの理不尽なダメ出しを封じ込め、彼を唸らせたいという、歪んだ執念の歴史だったのだ。
ある日、小麦粉を切らしてしまった私は、苦肉の策で、実家から送られてきた米をミルサーで砕き、粉にして使ってみたことがあった。
すると、どうだろう。
小麦粉よりも油切れが良く、時間が経ってもベチャつかず、ガラスのように繊細で鋭い「カリカリ」とした食感が生まれたのだ。
これなら、雨の中を運んでもベチャつかない。湿気に負けない最強の鎧だ。
それを食べたケンジは、目を見開いて言った。
『へえ、やるじゃん花子。このガリッとした感じ、ロックだね』
私は心の中でガッツポーズをした。これで彼との未来は約束されたも同然だと思った。
だが、その一週間後。
彼は私の前から姿を消した。一通のラインの書き置きを残して。
『ごめん花子。俺、唐揚げより肉じゃがが美味い子と付き合うことになったわ。夢、追いかけるから探さないで』
で、すでにブロックされていた……。
今思えば、あの「肉じゃが女」は、最初から彼の部屋に上がり込んでいたのだろう。私が雨の中、玄関先で締め出されていたあの時間も、彼女は部屋の中で私の悪口を言いながら、肉じゃがを煮込んでいたのかもしれない。
「……ああ、思い出しただけでも腹が立つ!!」
冷宮の厨房で、私は叫んだ。
あの時の惨めさ、寒さ、そして理不尽なダメ出しの数々。
それらが怒りの業火となって、私の全身を駆け巡る。
だが、不思議なことに、その怒りは今、目の前の料理に対する強烈なモチベーションに変わっていた。
(見てなさいよ、ケンジ。そして剛田社長も、ミカも! 私がこの冷宮で、あんたたちがひれ伏すような『ロックな唐揚げ』を作って、成り上がってやるんだから!)
私は目の前に転がっていた、冷宮の穀物をひっ掴んだ。
米ーーーーーー これを砕く。粉々にするーーーーーー
かつての私が、自分のプライドを粉々にして彼に尽くしたように。
今度はこの穀物を粉砕し、最強の衣を纏わせるのだ。
私の瞳に、復讐と野望の炎がメラメラと灯った。
◇
それを今こそ、この冷宮で昇華させてやるわ!
元カレへの怨念をスパイスに変えて、最高に罪深き味を作り出してやる!
「蘭馨! 石臼を持ってきて! あと、あのお米も!」
「は、はいっ! ……ですが姫様、あのような古米をどうなさるおつもりで?」
「粉にするのよ! 小麦粉がないなら、米を砕けばいいじゃない!」
私は蘭馨が運んできた小さな石臼に、硬い古米を投入した。
ゴリッ、ゴリッ、ゴリッ。
重い石を回すたびに、白い粉が舞う。
私の腕に乳酸が溜まっていくが、そんな痛みはケンジへの恨みに比べれば蚊に刺されたようなものだ。
「砕けろ! 過去の男への未練ごと、粉々になれぇぇっ!」
私の気迫に圧されたのか、蘭馨が無言でカメラのアングルを調整し、私の形相をアップにする。
やがて、石臼の隙間から、サラサラとした真っ白な粉が溢れ出てきた。
きめ細かく、光を反射してキラキラと輝く米粉。
これだ。これならいける。
「ありがとうございます、麗華様! ですが、食材は間に合っております! 私は私の武器で戦います!」
私は向こう側へ向かって高らかに宣言した。
麗華姫は「フン、強がりを。そんな石ころのような米で何ができるというの」と嘲笑ったが、私は心の中で特大のガッツポーズをした。
見てなさい。この米粉こそが、最強の衣になるのだから。
「蘭馨、カメラを寄せて! 行くわよ、秘伝・米粉二度揚げの術!」
「は、はいっ! 姫様、目が……目が燃えております!」
コメント欄が加速する。
『姫の目がガチだww』
『元カレへの殺意を感じる』
『米を粉にする発想はなかった、すげぇ』
『ヒモ男のエピソードが重すぎて泣ける』
私は即席のタレに漬け込んでおいた鶏肉に、挽きたての米粉をたっぷりとまぶした。
米粉は粒子が細かい。鶏肉の表面に薄く、均一に張り付き、余分な水分を吸い取っていく。
小麦粉のようにボテッとならず、あくまで肉の輪郭を際立たせる薄衣。
余分な粉をはたき落とす。このひと手間が、衣を薄く、サクサクにするコツだ。
ロケットストーブの火力を最大にする。
貴重な油(獣脂と植物油のブレンド)が、適温になり、パチパチと小さな音を立てている。
油面に菜箸を入れると、シュワシュワと細かい泡が立つ。ベストな温度だ。
「いざ、投入!」
ジュワアアアアアアッ!!
その音は、まるで私の心の叫びであり、勝利へのファンファーレだ。
高温の油に入った瞬間、米粉の衣が硬化し、肉の旨味を完全に閉じ込める。
香ばしい匂いが立ち上り、廃墟の澱んだ空気を支配していく。
きつね色に輝く衣が、油の中で花開くように踊る。
「うわぁ……いい音……」
「この匂いだけでご飯三杯いける」
「米粉だと音が違う気がする、カリカリ感が伝わってくる」
コメント欄も飯テロ被害で阿鼻叫喚だ。
一度取り出し、予熱で中まで火を通す。そして、油の温度をさらに上げて、二度目の投入。
バチバチバチッ!
より激しい音が響き、衣に含まれたわずかな水分が飛び、表面がガラスのように硬質化していく。
一方、麗華姫サイド。
「さあ、できたわ」
彼女が宦官に出させたのは、透き通るような金色のスープに浮かぶ、美しい華の形をした点心だった。
湯気と共に、上品な海鮮と干し貝柱の香りが漂う。
……って、おい。
私は調理過程を横目で見ていたぞ。
宦官が持ってきた豪華な螺鈿のお重から取り出して、最後の一葉(パクチー的なやつ)を乗せただけじゃないか!
完全な出来レース! レンチン料理詐欺だ! いや、レンチンですらない、ただの盛り付けだ!
「これがわたくしの『鳳凰の舞い降りるスープ』よ。どう? この透明感、この気品。そちらの泥臭い揚げ物とは格が違ってよ」
麗華姫が勝ち誇った顔で言った。
確かに、見た目は美しい。悔しいが、宮廷料理人の最高傑作だろう。透き通ったスープは芸術品のようだ。
しかし。
私はニヤリと笑い、鍋から揚げたての唐揚げを取り出した。
二度揚げによって、極限までカリッカリになった衣。
表面は細かい凹凸が黄金色に輝き、箸で触れるだけで「カツッ」と硬い音がする。
中は肉汁でパンパンに膨らんでいるのがわかる。
「ふふっ……麗華様。料理において、見た目よりも大事なものをご存知ですか?」
「なんですって?」
「それはね……『背徳感』と『熱量』、そして『食感』よ!!」
私は揚げたて熱々の唐揚げを、大皿(洗った瓦)に山盛りにした。
米粉特有の、鋭角的に立った衣が、夕陽を浴びてテラテラしている。
そして、仕上げに荒塩と、庭で採れた山椒をパラリと振る。
「完成! 『冷宮特製・元カレへのレクイエム唐揚げ〜涙の米粉クラッシュ〜』です!」
コメント欄が爆発した。
『タイトルwww』
『美味そうすぎてスマホ舐めた』
『元カレへの復讐草www』
『米粉唐揚げ食べたことあるけどマジでカリカリなんだよな』
そして、その流れの中に、一際目立つ金枠のコメント(スーパーチャット)が投下された。
¥50,000(相当の金貨)
景:『……その元カレとかいう男は、既に処刑したのか? まだなら私がやる。八つ裂きでは生温いか?』
「ヒッ……!」
重い! 愛が重いよ景皇子! そして怖いよ!
でも、ありがとう! この勝負、勝ったも同然よ!
画面の向こうの最強の味方と、私の過去の怨念が込められたこの一皿。
負ける要素が見当たらない。
「さあ麗華様、実食です! どちらが真に心を震わせる味か、勝負!」
