見出し画像

虎穴に入らずんば、映えを得ずーー姫失格③

【前回までのあらすじ】
目が覚めたら清の時代。……なんて悠長なことを言っている場合じゃありません。
謀反人の娘として放り込まれたのは、廃墟同然の『冷宮』。
衣食住なし、希望なし。あるのはカビ臭い部屋と絶望だけ。
でも、私は見捨てられていなかった!
ポケットに入っていたのは、なぜか5Gがバリバリ繋がる私のスマホ
「こうなったら、文明の利器で快適ライフを作ってやるわ!」
AI先生の知恵を借りて、トイレもかまどもDIY。
さらに、ヤケクソで始めた「冷宮リノベーション動画」が、まさかの現代日本で大バズり!?
「手の込んだフェイクドキュメンタリー」として人気爆発、私の承認欲求も満たされまくりです。
そして極めつけは、あのクールな「景皇子」からの反応。
彼からの「いいね!」は、なんと高級食材という名の「現物支給スパチャ」 となって門の前に届いたのです!
最強のデバイスと、太っ腹なスポンサーを手に入れた私と李。
「勝ったわ、このサバイバル!」
そう確信して鶏肉にかぶりついた私たちでしたが……
光が強くなれば、影もまた濃くなるもの。
この時の私はまだ、忍び寄る不穏な気配に気づいていなかったのです――。

「では、実食と参りましょう」
私の宣言と共に、即席のテーブル(平らな石の上に板を置いただけのもの)に、二つの料理が並べられた。
右側には、麗華れいか姫が宦官に出させた、透き通るような金色のスープに浮かぶ『宮廷風・極上点心(出来合い)』。
左側には、私がロケットストーブと瓦で揚げた、キツネ色に輝く山盛りの『冷宮特製・元カレへの未練断ち切りザクザク唐揚げ』。
スマホの画面には『LIVE』の赤文字が灯り続け、視聴者数は過去最高を記録している。
コメント欄は固唾を呑んで見守っていた。
「まずは、僭越ながら私が麗華様の料理をいただきます」
私は箸を手に取り、美しく盛り付けられた点心を口に運んだ。
上品な海鮮の香り。滑らかな舌触り。
確かに美味しい。最高級の素材を、熟練の料理人が手間暇かけて作った味だ。
「……うん、美味しいです。雑味がなく、洗練されています。さすがは宮廷料理人のお仕事ですね(皮肉)」
「ふん、当たり前よ。庶民の舌には勿体ないくらいだわ」
麗華姫は扇子で口元を隠し、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
しかし、勝負はここからだ。
「では、麗華様。私の料理をどうぞ」
私は揚げたての唐揚げを勧めた。
麗華姫は、瓦の上に積み上げられた茶色い塊を、まるで汚物でも見るような目で見下ろした。
「何これ……ただの茶色い塊じゃない。見た目も野蛮なら、匂いも強烈ね。こんなものを口にして、肌が荒れたらどうしてくれるの?」
文句を垂れながらも、彼女は恐る恐る象牙の箸を伸ばした。
カリカリに揚がった衣の感触が、箸先から伝わったのだろう。彼女は一瞬怪訝な顔をしたが、意を決して小さな欠片を口に入れた。
その瞬間。
カリッ。
小気味よい破砕音が、静まり返った冷宮に響き渡った。
スマホのマイクがその音を拾い、コメント欄が『いい音!』『ASMR』と反応する。
次の瞬間。
カリカリの衣を突破した歯が、弾力のある鶏肉に食い込む。
ジュワッ!
閉じ込められていた熱々の肉汁が、爆発するように口の中に溢れ出した。
ニンニク(の代用品である野草ノビル)のパンチの効いた香り。
生姜の爽やかな辛味。
そして、醤油(の代わりの魚醤っぽい調味料)の焦げた香ばしさ。
それらが、獣脂の濃厚なコクと混ざり合い、脳天を直撃する旨味の爆弾となって炸裂した。
麗華姫の動きが、ピタリと止まった。
「……っ」
彼女の切れ長の瞳が、限界まで見開かれる。
扇子を持つ手が震え、膝の上に力なく落ちた。
「な、なによこれ……」
言葉とは裏腹に、彼女の箸は止まらなかった。
二口目。三口目。
優雅な宮廷作法など忘れ、彼女は夢中で唐揚げを頬張った。
唇に油がついても気にしない。熱さでハフハフと息を漏らしながら、次々と茶色い塊を口へと運んでいく。
「麗華様……?」
あまりの没頭ぶりに、私が恐る恐る声をかけると、彼女の動きが止まった。
うつむいた彼女の頬を、一筋の雫が伝い落ちた。
「……懐かしい」
震える声で、彼女は呟いた。
それは、いつもの高慢な声ではなく、迷子になった子供のような、心細く、そして温かい声だった。
「この、強い香辛料の味……。カリッとした歯ごたえ……。ジュワッと広がる脂の甘み……」
彼女はまた一口、唐揚げを噛み締めた。
その瞳の奥には、この荒れ果てた冷宮ではない、もっと遠く、懐かしい景色が映っているようだった。
「これは、私の故郷の……母様の味だわ」
麗華姫の口から語られたのは、意外な真実だった。
彼女――麗華。張貴妃ちょうきひの姪として権勢を誇る彼女だが、実は純粋な満州貴族の血筋ではなかった。
彼女の母は、遥か西域シルクロード、異民族の踊り子だったという。
父が見初め、側室として連れ帰ったものの、宮廷内での風当たりは強く、幼い麗華もまた、「異人の血が混じっている」「髪の色が違う」といじめ抜かれて育ったのだそうだ。
「母様は……宮廷の薄味の料理が合わなくて、よく隠れて故郷の料理を作ってくれたの。羊肉に香辛料をたっぷりまぶして、油で揚げたものを……」
私の作った唐揚げのスパイシーさと、高温で揚げた食感が、彼女の記憶の底に眠っていた「母の味」――唯一愛された記憶と重なったのだ。
「私……ずっと寂しかった。出自を隠し、完璧な『清の姫君』として振る舞えば振る舞うほど、本当の自分が消えていくようで……故郷の味が、母様の笑顔が、遠くなっていくようで……」
大粒の涙が、彼女の美しい顔を濡らしていく。
厚い化粧が崩れ、その下から、年相応の少女の素顔が覗いていた。
「だから……謀反人の娘である貴女を見ると、イライラしたの。泥にまみれても平気で、好きなように生きていて……昔の、弱くて自由だった自分を見せつけられているようで、許せなかった……!」
麗華姫は、子供のように泣きじゃくった。
あの意地悪な態度は、彼女なりの鎧だったのだ。
誰も寄せ付けないように、弱さを悟られないように、必死で虚勢を張り続けてきた、孤独な少女の悲鳴だったのだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい、杏花……」
気がつけば、私は彼女を抱きしめていた。
油の匂いと、高級な白粉の香りが混ざり合う。
彼女の身体は、小鳥のように震えていた。
(なんてこと……)
私は、元カレ・ケンジへの未練と殺意を込めて唐揚げを揚げた。
でも、その唐揚げが、まさか時を超えて、孤独な悪役令嬢ヴィランネスの氷の心を溶かすなんて。
ケンジよ、君の裏切りは無駄じゃなかった。君のおかげで、私は今、一人の少女を救ったのかもしれない。
「いいんですよ、麗華様。唐揚げは世界を救うんです。カロリーは正義、揚げ物は愛なんです」
私は彼女の背中を優しく撫でた。
「さあ、まだいっぱいありますから。冷めないうちに食べましょう」
「ううっ……おいしい……あったかい……母様の味がするぅ……」
麗華姫は私の胸に顔を埋め、わんわんと泣いた。
プライドも身分もかなぐり捨てて、ただの女の子に戻って泣いた。
その様子を撮影していた蘭馨も、「ううっ、よかったですねぇ……」ともらい泣きしている。
そして、スマホの画面は――
『全米が泣いた』
『唐揚げ食べたくなってきた』
『麗華様、推せる……!』
『スパチャ(投げ銭)飛び交ってて草』
怒涛のコメントと高評価の嵐。
画面がスパチャのエフェクトで埋め尽くされている。
そして、例の『景』アカウントからは、一際目立つ金色の枠で、こんなコメントが届いていた。
¥100,000(相当の金貨)
景:『……ふっ。やはりそなたの料理には、人の心を動かす力があるようだな。今日の勝負、そなたの勝ちだ。……追伸:その唐揚げとやら、私の分も残しておけ』
こうして、第一回・冷宮料理対決は、私の完全勝利……というより、友情の勝利で幕を閉じた。
最強のライバル(兼、新たな食材スポンサー)を手に入れた私たちの冷宮ライフは、ここからますます賑やかになる予感がしていた。

「はい、カットー! お疲れ様でしたー!」
私の声が響くと、麗華姫は慌ててハンカチで目元を拭い、いつものツンとした表情を作った。
「……み、見苦しいところを見せたわね。忘れてちょうだい」
「いえいえ、麗華様の涙、とっても美しかったですよ。視聴者も『麗華様ファンになった』って言ってます」
「なっ……! ふ、ファンだなんて……ふん、物好きな平民たちね」
彼女は顔を赤らめながら、そっぽを向いた。
その手には、しっかりと唐揚げの残りが包まれたハンカチが握りしめられている。
「また……来てもよろしくてよ。監視のためにね」
「はい、お待ちしております。次はもっと美味しいものを作りますから」
「……楽しみにしておくわ」
麗華姫は、衛兵たちを引き連れて帰っていった。
その背中は、来る時よりも少しだけ軽やかに見えた。

それから数日後。
冷宮の庭には、今日も賑やかな声が響いていた。
あの日以来、麗華姫は足繁く冷宮に通ってくるようになった。
表向きは「罪人の監視」や「哀れな囚人への施し」を装っているが、実際は完全に私たちの動画制作のパートナー、そして――私の初めての「友達」になっていた。
「はい、スタート!」
蘭馨の合図と共に、私はカメラに向かって手を振った。
「みなさんこんにちは! 没落姫のDIYチャンネルです! 今日の企画は……」
「『【宮廷メイク】高級コスメ vs 自家製ビーツの口紅! どっちが盛れるか対決』よ!」
私の隣で、麗華姫がポーズを決めた。
今日の彼女は、いつもの厳しい宮廷風メイクではなく、少しナチュラルで可愛らしい雰囲気に仕上げている。
「麗華様、ノリノリですね」
「当然よ。出るからには一番美しく映らないと気が済まないの」
麗華姫が持ち込む最高級の化粧品(鉛白や紅)と、私が庭の野菜(ビーツや木苺)で作ったオーガニックコスメを比較するという、女子力高めの動画だ。
机の上には、色とりどりの化粧道具が並べられている。
「まずは、麗華様ご愛用の『西太后も愛した伝説の紅』を塗ってみましょう」
「ええ、見てなさい。この発色、そこらの雑草とは格が違ってよ」
麗華姫はカメラに向かって唇を突き出し、丁寧に紅を引く。
その仕草は洗練されており、さすがは宮廷の華だ。
「……どうかしら?」
「完璧です! 高貴すぎて画面が割れそうです!」
「おだまりなさい。……次は、貴女の番よ。その泥臭い野菜で、どこまで対抗できるか見ものね」
私はビーツの絞り汁を蜜蝋みつろうで固めた自家製リップを取り出した。
指でポンポンと唇に乗せていく。自然な血色感が生まれ、健康的でジューシーな唇になる。
「おっ、これはこれで……!」
「あら……意外と悪くないじゃない。悔しいけど、肌馴染みはそちらの方が上ね」
麗華姫が感心したように私の顔を覗き込む。
その距離が近い。甘い香りがする。
「それにしても杏花、貴女のこの『知恵の板』……本当に不思議ね。鏡よりも鮮明に映るし、私の顔がこんなに綺麗に残るなんて」
麗華姫は、録画中の画面に映る自分を見てうっとりとした。
「ふふん、私の故郷の秘術ですよ。フィルター機能もバッチリですからね。これで麗華様の美しさを世界中に配信するんです」
「せ、世界中って……また大袈裟な。でも、悪くない気分だわ」
私たちは顔を見合わせて笑い合った。
蘭馨もすっかりカメラワークが板につき、手作りのレフ板(白い布)を巧みに操ってライティングを調整している。
三人で過ごす時間は、ここが牢獄であることを忘れさせるほど楽しかった。
謀反人の娘。異民族の血を引く姫。そして侍女。
本来なら交わることのない三人が、スマホという小さな窓を通じて、秘密の時間を共有している。
「麗華様、今の『こんな安物の紅、私の唇には合わないわ!』からの、満更でもない顔で塗るツンデレムーブ、最高でした!」
「なっ……! だ、誰がツンデレよ! 貴女がどうしてもと言うから、試してあげただけじゃない!」
「そういうところが『推せる』んですよ~」
笑い声が、秋晴れの空に吸い込まれていく。
平和だ。
あまりにも平和で、幸せな時間だった。
だが、私たちは知らなかった。
光が強くなればなるほど、その足元に落ちる影もまた、濃く、深く伸びていくということを。
夕暮れ時。
撮影を終え、麗華姫が帰った後のことだ。
私は動画の編集をしようとスマホを開いた。
そこに、景皇子からの新しいメッセージが届いていた。
『景:動画、拝見した。麗華との同盟は悪くない手だ。……だが、気をつけろ』
『景:動画の背景に映り込んでいるあの「古井戸」。……あれは、先帝の寵姫が謎の死を遂げた場所だ。そして今、画面の隅に――』
メッセージはそこで途切れていた。
同時に、宮殿の奥から、ガタンッという大きな物音が響いた。
「ひ、姫様……?」
蘭馨が震える声で私を呼ぶ。
振り返った先。
廃墟の闇の中に、何かが「いた」。
それは、麗華姫のような美しい客でも、野良ニワトリでもない。
もっと禍々しく、そして私たちを明確に「排除」しようとする意思を持った、闇からの使者だった。
私のスマホの通知音が、警告音のように鳴り響く。
冷宮の本当の恐怖は、幽霊でも飢餓でもなく、生きた人間の悪意だったのだ。

そのアプリ、凶暴につき

後宮の東側に位置する『景陽宮けいようきゅう』。
そこは、紫禁城の中でもひときわ異彩を放つ場所だった。
朱塗りの柱には黄金の龍が絡みつき、瑠璃色の瓦は秋の陽光を受けて眩いばかりに輝いている。
庭園には季節外れの花々が咲き乱れ、希少な孔雀が放し飼いにされ、優雅に羽を広げていた。
ここは、今上帝の寵愛を一身に受ける実力者、華妃かひの住まいである。
そして同時に、後宮における権力と欲望の渦の中心地でもあった。
宮殿の奥深く。
甘ったるい、むせ返るような白檀と麝香じゃこうの香りが充満する部屋。
その中央に置かれた最高級の紫檀したんの長椅子に、華妃は気怠げに横たわっていた。
彼女は美しかった。
牡丹の花のように大輪で、見る者を圧倒するような派手な美貌。
しかし、その目元には隠しきれない倦怠と、他者を見下す傲慢さが滲み出ていた。
「……それで?」
彼女は長い爪で、氷で冷やされた翡翠のような葡萄を一粒つまみ、紅を引いた唇に落とした。
「最近、あの小生意気な麗華れいかが、頻繁に北の廃墟へ通っているというのは……まことか?」
華妃の声が、甘く、そして毒を含んで部屋に響く。
その問いに応えるように、部屋の隅の、最も濃い影の中から一人の男が音もなく現れた。
「左様でございます、華妃様」
その男の姿が現れた瞬間、むせ返るようだった部屋の空気が、一瞬にして凍りついたように静まり返った。
空調が変わったかのような錯覚。
温度のない声。
男の名は、姚明ようめい
この後宮を取り仕切る太監(宦官)の一人でありながら、その容貌は、後宮のいかなる美女をも凌駕すると噂される男だった。
透き通るような白磁の肌。
氷細工のように整った鼻筋。
唇は薄く、血の気を感じさせない淡い桜色。
そして何より、一切の感情を映さない、磨き上げられた黒曜石のような瞳。
彼の美しさは、ポジティブなものではない。どこか禍々しく、不吉だった。
作り物めいた完璧さが、見る者に本能的な畏怖を抱かせる。
彼は床を滑るように歩み寄り、華妃の前に音もなく跪いた。
華妃は、姚明の美貌を満足げに眺めながら、口の中で葡萄を潰した。
甘い果汁と、ほのかな酸味が広がる。
「ふん……。あの麗華、日頃から私の派閥に楯突く目障りな小娘だったけれど、まさか自ら墓穴を掘ってくれるとはね」
華妃は嘲るように笑った。
麗華姫は、西域の血を引く異国風の美貌と、皇帝からの覚えもめでたいことで、華妃にとって長年の目の上のたんこぶだった。
その彼女が、よりにもよって謀反人の娘と関わりを持つなど、自殺行為に等しい。
姚明は表情一つ変えず、淡々と、まるで今日の天気予報を読み上げるかのように言葉を続けた。
「調査によりますと、麗華姫は杏花姫と結託し、頻繁に物品のやり取りを行っております。中には、宮中の規定に反する食材や化粧品、さらには出所不明の奇妙な道具も含まれている模様」
「結託、ねぇ。あの高慢ちきな麗華が、落ちぶれた姫と『お友達』ごっこ? 笑わせるわ」
華妃はクスクスと肩を震わせた。
権力闘争こそが後宮の華であり、本質であると信じて疑わない彼女にとって、「友情」などというものは、弱者の戯言に過ぎない。
姚明は沈黙したまま、主人の嘲笑を聞いていた。
彼のガラス玉のような瞳に、冷ややかな色が宿る。
(……友情、か。非合理的で、脆弱なシステムだ)
姚明にとって、人間関係とは数値化可能な「利害の一致」か、あるいは「支配・被支配」の構造でしかない。
感情で動く人間は、彼にとってバグを抱えた欠陥品だ。計算を狂わせるノイズだ。
かつて異民族として虐げられ、孤独だった麗華姫が、同じく孤独な杏花姫に共鳴した。
その心理的プロセスを、姚明は論理的には理解できた。
だが、感情的には一切共感できなかった。
情に流され、リスクを冒してまで冷宮に通うなど、愚の骨頂である。自己保存本能が欠如しているとしか思えない。
「姚明、お前ならどうする?」
華妃が葡萄の皮を指先で弾き飛ばし、ねっとりとした視線を彼に向けた。
「これを機に、麗華を再起不能にし、ついでにあの目障りな謀反人の娘も始末したいのだけれど。……できるわね?」
問いかけではない。命令だ。
姚明は静かに一礼した。
彼の脳内で、冷徹な計算式が高速で組み上げられていく。
麗華姫の失脚は、ライバル勢力の弱体化を意味する。
それは即ち、主である華妃の権力増大に直結し、ひいては姚明自身の後宮における支配力を盤石にすることに繋がる。
コスト対効果コスパは極めて高い。
「……友情というものは、美しい包装紙に包まれた爆弾のようなものです」
姚明の唇が、美しく、そして残酷な弧を描いた。
それは笑みというよりは、獲物を前にした爬虫類の反応に近かった。
「一度火がつけば、本人たち諸共、跡形もなく吹き飛ぶ。……策がございます。友情を育む彼女たちだからこそ成立する、逃げ場のない罠が」
「ほう? 聞かせてみなさい」
華妃が身を乗り出す。
姚明は音もなく立ち上がり、華妃の耳元に近づいた。
「麗華姫が持ち込んでいる物品……それを逆手に取ります。来たる『満月祭』の日、皇帝陛下が後宮を巡察されるタイミングに合わせ、ある『禁制品』を冷宮から発見させるのです」
「禁制品?」
「はい。そしてそれを、『麗華姫が杏花姫に命じて作らせたもの』として告発するのです。二人が密会を重ねていた事実は、その共謀の動かぬ証拠となりましょう」
「なるほどねぇ。でも、ただの禁制品じゃ、精々が減俸か謹慎止まりじゃない?」
「ええ。ですから、発見させるのは、ただの品ではありません」
姚明の声が、一段と低くなる。
「杏花姫が持っているという、光る板……部下の報告によれば、鏡のように鮮明に景色を映し出し、夜には怪しく発光するとのこと。あれを利用します」
「あれを……どうするの?」
「あれを、『皇帝陛下を呪い殺すための祭具』と仕立て上げるのです」
「呪い……!」
「麗華姫の母は西域の出。西域には、鏡を使った邪悪な呪術の伝承がございます。麗華姫は、故郷の妖術を使って皇帝を呪い殺し、自分の都合の良い皇子を即位させようとしている……という筋書きで」
華妃の目が大きく見開かれた。
それは驚きではなく、歓喜の色だった。
単なる規則違反ではない。
皇帝への呪詛。それは「謀反」と同義だ。
一族郎党、処刑は免れない大罪である。
「素晴らしいわ、姚明! さすがは私の自慢の道具ね。……ふふ、あはははは!」
華妃は扇子で口元を覆いながら、喜悦に肩を震わせた。
彼女の脳裏には、すでに勝利の光景が浮かんでいるのだろう。
冷宮の泥の中にひれ伏し、命乞いをする麗華姫と杏花姫の姿が。
「ああ、楽しみだわ。あの子たちが、その『友情』とやらに絶望して泣き叫ぶ顔が目に浮かぶよう」
華妃の歪んだ欲望が、部屋の空気をさらに澱ませていく。
姚明はその様子を、どこか冷めた目で見つめていた。
人間の欲望とは、なんと醜く、そして扱いやすいものか。
華妃もまた、姚明にとっては手駒の一つに過ぎない。
彼女の欲望を満たしてやることで、彼は自身の手を汚さず、後宮という箱庭を支配することができるのだから。
「すべては、華妃様のために」
姚明は恭しく頭を下げた。
その美しい顔には、罪悪感の欠片もなかった。
あるのは、任務を遂行する機械のような冷徹さと、自身の描いたシナリオが完璧に遂行されることへの、無機質な満足感だけだった。
「では、手配を進めます。……満月祭の夜、月明かりの下で、美しい悲劇をご覧に入れましょう」
姚明は一礼し、影の中へと消えていった。
後に残されたのは、甘ったるい香の匂いと、華妃の忍び笑いだけ。
一方、北の冷宮。
そんな恐ろしい計画が進行しているとは露知らず。
杏花姫と麗華姫、そして侍女の蘭馨は、今日も今日とてロケットストーブを囲み、
「次はどんな動画を撮ろうか」
「やっぱりスイーツ動画よ!」
などと、無邪気な会話に花を咲かせていた。
彼女たちの頭上に、かつてない悪意の刃が振り下ろされようとしていることも知らずに。
満月祭まで、あと三日。
タイムリミットは、刻一刻と迫っていた。

☆☆☆

「見て見て麗華様! 次はこれ、『性別転換フィルター』!」
「きゃあああ! やだ、私が髭面の武将に!? ……でも意外とイケメンじゃない?」
「でしょ? 凛々しい眉毛が三国志の英雄みたいですよ。じゃあ次は定番の『顔交換』行きますよ〜。はい、チーズ!」
秋晴れの空の下、忘れ去られたはずの冷宮の庭に、場違いなほど明るい嬌声が響き渡っていた。
かつては雑草が生い茂り、怨嗟の声しか聞こえなかったこの場所も、今や私たち――元OLの杏花(山田花子)と、侍女の蘭馨、そして悪役令嬢改め親友となった麗華姫の三人によって、ささやかな「聖域」へと生まれ変わっていた。
ロケットストーブからは香ばしいハーブティーの湯気が立ち上り、手作りのテーブルには干した果物が並んでいる。
そして、その平和なティータイムの中心にあるのは、私のスマホだ。
今日の遊び道具は、インストールされていた『激盛りカメラアプリ』。AIが自動で顔を認識し、動物の耳をつけたり、メイクを施したり、果ては他人の顔と入れ替えたりできる、現代技術の結晶である。
カシャッ。
軽快なシャッター音と共に、画面に奇跡の一枚が表示された。
「んふっ、ぶはははは! 無理、麗華様の気品あふれるパーツが私の平たい顔に乗ると、なんか平安時代の貴族みたい!」
「ちょっと! 失礼ね! 杏花こそ、私の輪郭にそのパーツだと、目力が強すぎて宇宙人よ! なによこれ、夢に出そう!」
「ひ、姫様方……お腹が痛うございます……」
横で見ていた蘭馨も、涙を流して笑い転げている。
画面の中の私たちは、グロテスクで、滑稽で、最高に面白かった。
謀反人の娘と、異民族の血を引く姫。本来なら後宮の底辺で憎しみ合うはずだった二人が、小さな液晶画面を覗き込み、腹を抱えて笑い合っている。
(ああ、平和だなぁ……)
私は笑いすぎた涙を拭いながら、ふと思った。
スマホのバッテリーはまだ100%。
謎の「景皇子」からの支援物資もある。
麗華姫という強力なコネクションもできた。
このまま、この冷宮で面白おかしく暮らしていくのも、悪くないかもしれない。そんな甘い考えが脳裏をよぎった、その時だった。
スッ……。
不意に、私たちの頭上から太陽が消えた。
雲がかかったわけではない。
物理的な、そして精神的な「影」が、私たちのテーブルに差したのだ。
さっきまで鳴いていた小鳥たちが、一斉に声を潜めた。
風が止まり、肌にまとわりつくような湿った重圧感が、庭の空気を支配する。
「……随分と楽しそうですね。明日をも知れぬ身で」
その声の温度の低さに、私たちはピタリと動きを止めた。
背筋に冷たい氷柱を差し込まれたような感覚。
心臓がドクンと嫌な音を立てる。
恐る恐る、スローモーションのように顔を上げる。
逆光の中、そこに立っていたのは、この世のものとは思えないほど美しい、しかし能面のように無表情な男だった。
透き通るような白磁の肌。
感情の一切を映さない、磨き上げられた黒曜石のような瞳。
身にまとった太監(宦官)の最高位を示す紫の衣が、音もなく風になびいている。
姚明ようめい
華妃の腹心であり、後宮の裏仕事を一手に引き受ける「影の支配者」とも噂される男だ。
「よ、姚明……! なぜここに?」
麗華姫が弾かれたように立ち上がり、私を庇うように前に出た。
彼女の声が震えている。
普段は強気な彼女が、これほどまでに怯えている。それは、この男が持つ「異質さ」を物語っていた。
彼は人間ではない。美しい「システム」だ。感情を持たず、ただ目的のためだけに動く、冷酷な処刑機械。
しかし、姚明の氷のような瞳は、麗華姫を素通りし、私の手元――まだ画面が光っているスマホに釘付けになっていた。
「それが、例の『禁制品』ですか」
抑揚のない声。しかし、そこには明確な敵意が含まれていた。
「奇妙な光を放ち、人の顔を歪め、ありもしない獣の耳を生やす。……陛下を呪い殺すための道具という報告は、あながち間違いではなかったようだ」
「なっ……!?」
姚明が長く白い指をパチンと鳴らすと、背後の廃墟の影から、武装した衛兵たちがザッ! と音を立てて現れ、私たちを完全に取り囲んだ。
逃げ場はない。
「杏花姫、ならびに麗華姫。貴女方を『皇帝呪詛じゅそ』の嫌疑で連行します。……その不吉な板も、証拠品として没収です」
その言葉の意味を理解した瞬間、私の血の気が引いた。
呪詛。
それは、後宮において最も重い罪の一つだ。
一族郎党、処刑は免れない。
「ちょ、ちょっと待って! これは呪いの道具なんかじゃないわ! ただの遊び道具よ!」
私は慌ててスマホを胸に抱いた。
没収されたら終わりだ。
これは私のライフラインであり、サバイバルの知恵袋であり、景皇子と繋がる唯一の手段なのだ。これを奪われることは、死を意味する。
「遊び、だと?」
姚明が一歩、近づいてくる。
その圧迫感に、呼吸が止まりそうになる。
「人の顔を奪い、作り変えるなど、西域の邪法以外の何物でもない。現に、先ほどの画面……あれは貴女方の心を抜き取り、加工していたのでしょう? そのような穢れた妖術で、皇帝陛下の御身に危害を加えようとした。……申し開きは、拷問部屋で聞きましょう」
「ち、違います! これは科学です! テクノロジーなんです!」
「科学? テクノロジー? ……聞き慣れぬ異国の呪文ですね。やはり、邪教か」
姚明は聞く耳を持たない。
彼の中では、すでに「結論」が出ているのだ。
私たちが何を言おうと、彼はそれを「邪教の証拠」として処理するだろう。華妃のために、私たちを排除するというシナリオを完遂するために。
衛兵たちが槍を構え、じりじりと包囲を狭めてくる。
蘭馨が恐怖で泣き出しそうだ。麗華姫も青ざめながら扇子を握りしめている。
どうする?
逃げる? 無理だ。この包囲網を突破できる身体能力はない。
戦う? 勝てない。
土下座して命乞いをする? あの姚明に通じるわけがない。
絶体絶命。
私の脳内CPUが、過熱して煙を上げるほどフル回転する。
何か、何か手はないか。
現代知識を使って、この危機を脱する方法は。
相手は、これを「邪教」だと思っている。
「顔を変える」「現実を歪める」法だと信じている。
そして、私の手元には、確かに「現実を加工する」アプリがある。
(……待てよ? 現実を歪める? ……これだ!)
一つの閃きが、雷のように脳裏を貫いた。
姚明は「真実」など求めていない。彼は「我々を処刑する理由」を求めている。
だが、もしも。
もしもこのスマホが、彼にとって「無視できない価値」を持つものだとしたら?
あるいは、彼の「根源的な恐怖」を刺激するものだとしたら?
私は深呼吸をした。
腹の底に力を込め、震える足を地面に踏ん張る。
OL時代、絶対に失敗できないプレゼンの前にやっていたように、自分自身に暗示をかける。
私はできる。私はハッタリの天才だ。
「姚明様!」
私は意を決して、姚明を真っ直ぐに睨みつけた。
その声の大きさに、姚明がわずかに眉を動かす。
「これは呪いの道具ではありません。貴方は勘違いをされています」
「勘違い? 私が?」
「ええ。これは顔を変えるものでも、心を抜くものでもありません」
私はスマホの画面をタップし、カメラを「インカメラ」から「アウトカメラ」に切り替えた。
そして、フィルターを『ノーマル』に戻し、さらに『高解像度モード』に設定する。
画面には、姚明の美しい、しかし冷徹な顔が、毛穴の一つまで鮮明に映し出された。
私はスマホを、まるで聖なる鏡のように両手で掲げた。
「これは……『真実の姿を映し出す、科技かぎの鏡』なのです!」
風が吹き抜け、私の乱れた髪を揺らす。
姚明の視線が、スマホの画面に映る「自分自身」と交錯する。
そこには、肉眼で見るよりも鮮明で、そして残酷なまでにリアルな「真実」が映っていた。
姚明の瞳が、一瞬だけ揺らいだのを私は見逃さなかった。
勝負はここだ。
この男の、鉄壁の理性にヒビを入れる。
「嘘偽りのない、心の形さえも暴き出す鏡。……姚明様、貴方はご自身の『真実』を直視する勇気はおありですか?」
私は挑発的に問いかけた。
彼は怪訝そうに目を細め、低い声で繰り返した。
「……真実の姿、だと?」

盛るべきか、死ぬべきか

「はい! この世の鏡は曇っており、人の真の美しさを映し出すことができません。ですが、この鏡だけは、真の輝きを含めた『本来あるべき姿』を映せるのです!」
私の声が、秋晴れの乾いた空気に響き渡った。
それは、崖っぷちに立たされた者が放つ、渾身のハッタリだった。
目の前には、後宮の闇を統べる太監・姚明ようめい
彼の背後には、抜き身の刀を携えた屈強な衛兵たち。
そして隣には、恐怖で顔面蒼白になりながらも、私の袖を震える手で掴んでいる麗華れいか姫と、腰を抜かしかけている侍女の蘭馨
絶体絶命の包囲網の中で、私は震える膝を必死に抑え込み、手にしたスマートフォン――彼らが「邪教の道具」と呼ぶ黒い板を高々と掲げ続けていた。
姚明は、その彫刻のように整った顔に、侮蔑の色を隠そうともしなかった。
彼のガラス玉のような瞳が、私を射抜く。それは人間を見る目ではない。路傍の石ころか、あるいは踏み潰すべき害虫を見る目だ。
「……本来あるべき姿、ですか」
姚明は鼻で笑った。その冷ややかな吐息だけで、周囲の気温が数度下がったような錯覚に陥る。
「戯言を。妖術を使って人の目を惑わし、陛下に仇なそうとするその邪悪な意図、見透かせぬとでも――」
「戯言ではありませんッ!!」
言いかけた彼を、私は腹の底からの大声で遮った。
心臓が口から飛び出しそうだった。太監相手に怒鳴るなど、不敬罪で即座に首を刎ねられても文句は言えない。
だが、ここで引けば終わりだ。私だけではない。麗華も、蘭馨も、全員が「邪教の共犯者」として闇に葬られる。
かつて営業職として鳴らした山田花子の交渉術セールストーク。その全てを、今ここに叩きつけるしかない。
「信じられないなら、華妃かひ様の前で証明させてください! この後宮で最も美しく、最も審美眼に優れた華妃様ほどの美貌の持ち主なら、この鏡はきっと、奇跡のようなお姿を映し出すはずです。それとも……姚明様は、華妃様の『真実の美しさ』が白日の下に晒されるのが怖いのですか?」
場の空気が凍りついた。
衛兵たちがざわめき、刀の柄に手をかける音が聞こえる。
麗華姫が「杏花……っ!」と悲鳴のような声を漏らした。
これは賭けだ。
それも、勝率の極めて低い、命懸けのロシアンルーレット。
華妃の肥大化した虚栄心と、姚明の「忠実な腹心」という立場(建前)を人質に取る。
姚明の眉が、わずかにピクリと動いた。
沈黙が落ちる。
一秒が、永遠のように長く感じられた。
彼は私を見つめたまま、その脳内で冷徹な計算を行っているようだった。
(……ここで断れば、「華妃の美しさを信じていない」という侮辱と取られかねない。小娘の戯言とはいえ、主人の美貌に関わる問題を、独断で握り潰すのはリスクがある)
彼の思考が、手に取るように伝わってくる。
合理主義者の彼にとって、感情は不要だが、「体面」と「形式」は絶対だ。
(それに、もしこの娘が華妃様の前で妖術まがいのことをしでかせば……あるいは、期待外れの結果を出せば。私が手を下すまでもなく、華妃様ご自身の命令で、極めて残酷な処刑が行われるだろう)
姚明の唇が、薄く、残酷な弧を描いた。
彼は、私たちが自ら墓穴を掘る未来を幻視したのだ。
「……いいでしょう」
彼はゆっくりと頷いた。その声は、死刑宣告のように静かだった。
「その減らず口がいつまで利けるか、見ものですな。華妃様のご機嫌を損ねれば、その場で八つ裂きにされると覚悟なさい」

連行された先は、後宮の東側に位置する『景陽宮けいようきゅう』。
私たちが暮らす廃墟のような冷宮とは、天と地ほどの差がある別世界だった。
朱塗りの回廊を歩くたびに、靴底から伝わる石畳の冷たさが、現実の重みを伝えてくる。
あちこちに配置された金箔の装飾、極彩色の陶磁器、そして風に乗って漂ってくる甘ったるい白檀びゃくだんの香り。
その全てが、この場所の主の権勢と、底知れぬ欲望を象徴していた。
「ひ、姫様……」
後ろを歩く蘭馨が、今にも泣き出しそうな声で囁く。
「大丈夫よ」と答える私の声も、震えていたかもしれない。
隣を歩く麗華姫は、青ざめた顔で唇を噛み締め、前を見据えていた。彼女もまた、覚悟を決めているのだ。
通されたのは、景陽宮の最奥にある謁見の間だった。
部屋の中央、一段高い場所に設えられた豪奢な長椅子。そこに、この後宮の実質的な支配者の一人、華妃が鎮座していた。
煌びやかな装飾に埋もれるようにして座る彼女は、確かに美しかった。
牡丹の花のような、艶やかで圧倒的な存在感。
しかし、その目元には隠しきれない倦怠の色と、刻まれ始めた加齢の兆しが見て取れた。
彼女は不機嫌そうに、孔雀の羽で作られた扇子を揺らしている。
そして、彼女の周囲を見渡して、私はあることに気づいた。
部屋の壁という壁に、肖像画が飾られているのだ。
それも、何枚も。
様々な衣装、様々なポーズで描かれた華妃の姿。
宮廷お抱えの一流絵師たちが描いたのであろうそれらの絵は、精緻で、写実的で、技術的には素晴らしい名画だった。
だが。
あまりにも「写実的すぎた」。
絵師たちは誠実すぎたのだ。彼女の目尻の小じわ、少しこけた頬、首筋のたるみ……それらを忠実に再現してしまっていた。
華妃がそれらの絵を見るたびに、眉間に皺を寄せているのがわかる。彼女は、自分の老いを認めたくないのだ。
(……勝機は、ある)
私は拳を握りしめた。
この傲慢な権力者の最大の弱点。それは「老いへの恐怖」と「尽きることのない承認欲求」だ。
姚明が恭しく進み出て、事の次第を報告する。
「冷宮の罪人が、己の持つ鏡で華妃様の『真実の姿』を映したいと申しております」
その口ぶりは、まるで道化の芸を見せるかのような嘲りに満ちていた。
華妃が、気だるげにこちらを一瞥した。
「……それで? その薄汚い板切れが、私の『真実の姿』を映すと?」
彼女の声は氷のように冷たく、期待など微塵も感じられなかった。
衛兵たちが威圧的に一歩踏み出す。
失敗すれば、即座に首が飛ぶ。
私は深呼吸をし、一歩前へ出た。
「はい、華妃様。おそれながら申し上げます」
私の声は、静まり返った広間にクリアに響いた。
「ここにある数々の肖像画……どれも素晴らしい筆致でございます。しかし、失礼ながら、絵師たちは一つだけ重大な過ちを犯しております」
「過ち、だと?」
華妃の目が鋭く光った。
「はい。彼らは目に見える『形』だけを追うあまり、華妃様の内から溢れ出る『高貴なるオーラ』や『沈魚落雁ちんぎょらくがんな輝き』を描ききれておりません。人間の目と筆では、貴女様の圧倒的な美しさを捉えるには限界があるのです」
私は言葉を紡ぐ。それは半分がお世辞で、半分は現代のマーケティング理論だ。
顧客(華妃)の不満(肖像画が気に入らない)を指摘し、解決策スマホを提示する。
「ですが、私の故郷に伝わるこの『科技かぎの鏡』なら……人の目には見えない光をも捉え、貴女様の心の輝きを含めた、真のお姿を映し出すことができるのです」
「……口だけは達者なようね」
華妃はふん、と鼻を鳴らしたが、その扇子を揺らす手が止まっていた。興味を持った証拠だ。
「よかろう。試してみなさい。……ただし」
彼女は扇子を畳み、切っ先を私に向けた。
「もし、映し出された姿が私の意に沿わぬものであった場合……その鏡を砕き、お前のその達者な舌も引き抜いてやるから、そのつもりでいなさい」
「……御意」
私は平伏し、そしてゆっくりと立ち上がった。
背中の冷や汗が止まらない。
だが、やるしかない。
私は懐からスマホを取り出した。
姚明が警戒して身構えるが、私はそれを無視して画面をタップした。
起動するのは、麗華姫と遊んでいた『激盛りカメラアプリ』だ。
しかし、今回はネタ枠の「性別転換」や「顔交換」ではない。
私が指先一つで設定するのは、現代の女性たちが心血を注いで開発し、磨き上げてきた『究極・美女盛り盛りモード』だ。
(小顔効果、レベルMAX。プラス100)
(目ヂカラ強調、レベルMAX。プラス100)
(美肌フィルター、最強設定「陶器肌」。シミ、シワ、毛穴を完全消去)
(年齢設定、マイナス20歳)
(顎ライン補正、シャープに)
さらに、ここが重要だ。
ただ若くするだけでは、威厳が損なわれる。
私はフィルター設定を開き、『ゴージャス・キラキラエフェクト』を追加。
画面全体に微かな光の粒子が舞い、被写体の背後に後光が差すようなライティング補正をかける。
準備は整った。
バッテリー残量は、相変わらず100%。この異世界の謎パワーに感謝だ。
「参ります! 華妃様、そのままで! 扇子を少し下げ、顎を引いてくださいませ……はい、そのまま!」
私はスマホを構えた。
液晶画面の中に、華妃の姿が捉えられる。
AIが瞬時に顔を認識し、黄色い枠が表示される。
そして、リアルタイム処理により、画面の中の華妃が劇的に変貌を遂げる。
くすんだ肌は白磁のように輝き、垂れ下がった頬はキュッと引き締まり、目元のシワは消滅して瞳が宝石のように輝き出した。
それは詐欺だ。捏造だ。
だが、この場においては、これこそが「真実」でなければならない。
「……撮ります!」
カシャッ。
人工的なシャッター音が、静寂の広間に響いた。
姚明が眉をひそめる。
麗華姫が祈るように両手を組んでいる。
「……撮れました」
私はスマホを下ろした。
画面には、奇跡の一枚が静止画として保存されている。
「ご覧ください、華妃様。これが、凡百の絵師たちには決して描くことのできなかった、貴女様の『真の姿』です!」
私は恭しくスマホを両手で捧げ持ち、玉座の華妃へと歩み寄った。
姚明が危険がないか確認するように横に立つが、私は自信満々に画面を向けた。
華妃は、疑わしそうな目で、面倒くさそうに身を乗り出した。
「どうせ、ぼんやりとした鏡絵でしょう……」
彼女の視線が、高精細なRetinaディスプレイに落ちる。
そして。
「……え?」
時が止まった。
華妃の目が、限界まで見開かれた。
呼吸をするのも忘れたように、彼女は画面の中の自分を凝視した。
そこに映っていたのは、もはや彼女であって彼女ではない。
画面の中にいたのは、人間離れした美女だった。
透き通るような陶器の肌。少女のように大きな瞳。シャープな顎のライン。現実の華妃の面影を残しつつも、それは完全に「別次元の美の化身」へと昇華されていた。

鏡よ鏡、世界で一番美しいのは……

「こ……これが、私……?」
時が止まったような静寂の中、華妃かひの震える声だけが、景陽宮の広い謁見の間に響いた。
彼女は、私が捧げ持ったスマートフォンの画面を、まるで聖遺物でも拝むかのように凝視している。
その瞳孔は開き、呼吸は浅く、早くなっていた。
画面の中に映し出されているのは、最新のAI技術と私の指先による巧みな補正作業によって生み出された、「奇跡の一枚」だ。
アプリの設定は『究極・美女盛り盛りモード』。
くすんだ肌は陶磁器のように白く発光し、加齢による瞼のたるみは消滅して瞳は少女のように大きく煌めき、フェイスラインは彫刻刀で削ぎ落としたかのようにシャープになっている。
さらに、背景には『ゴージャス・キラキラエフェクト』が舞い、後光が差している。
それは、華妃であって、華妃ではない。
しかし、彼女自身の脳内にある「理想の自分」と、この画像が完全に合致した瞬間だった。
「はい! 華妃様。肉眼では見えぬ内側から溢れ出る絶美! 立てば芍薬しゃくやく、座れば牡丹ぼたん、歩く姿は百合の花!! 華妃様が本来持っておられる心の輝きが、この『科技かぎの鏡』によって可視化されたのです!」
私は畳み掛けた。
これはセールスだ。
商品を売るのではない。「命」を買うための、人生最大のプレゼンテーションだ。
相手の虚栄心を刺激し、論理ではなく感情に訴えかける。
「肉眼などという不完全なレンズでは、貴女様の圧倒的な美しさを捉えきれません。しかし、この鏡は嘘をつきません。これこそが、天が定めた貴女様の『真実の姿』なのです!」
「真実の……姿……」
華妃の手が、恐る恐る画面へと伸びる。
長い付け爪が、カチリとガラス面に触れた。
彼女は画面の中の「自分」に魅入られ、うっとりとした、夢見る少女のような表情を浮かべた。
その目には、もはや周囲の風景も、私たちも映っていない。ただ、理想化された虚像だけが、彼女の世界の全てになっていた。
「そう……そうよね。やっぱり、そうだったのね……」
彼女は熱に浮かされたように呟く。
「私は、本当はこんなに美しかったのね……。最近、鏡を見るたびに『なんだか疲れて見える』とか『肌が衰えた』なんて感じていたけれど、それは私の目が曇っていたから……? いえ、この世の鏡がすべて粗悪品だったからなのね?」
「その通りでございます! この世の鏡は、光を正しく反射できぬなまくらばかり。貴女様の輝きを濁らせて映していたに過ぎません!」
私が力強く肯定すると、華妃は深く頷いた。
彼女の中で、認知の歪みが完成した瞬間だった。
彼女はもう、現実の鏡に映る自分を「真実」とは認めないだろう。このスマホの中の、加工された電子データこそが、彼女にとっての唯一のリアリティとなったのだ。
その瞬間。
華妃の表情が一変した。
うっとりとした陶酔から、烈火のような怒りへ。
それは、マグマが噴出するような、激しく爆発的な感情の転換だった。
バシッ!!
乾いた音が広間に轟いた。
華妃は、手に持っていた孔雀の羽の扇子を、激情のままに床に叩きつけたのだ。
美しい羽が散らばり、扇子の骨が悲鳴を上げて折れる。
「おのれ……おのれぇぇぇ!! よくも今まで、私を騙していたわね!!」
彼女の絶叫が、高い天井に反響する。
姚明ようめいが眉をひそめ、衛兵たちが狼狽する中、華妃は立ち上がり、周囲を睨みつけた。
その怒りの矛先は、私ではない。
部屋の壁に飾られた数々の肖像画、そして部屋の隅に控えていたお抱えの絵師たちに向けられたものだった。
「見なさい、この絵を! この醜悪な落書きを!」
華妃は指を突きつけ、金切り声を上げた。
「シワだらけで! 目が小さくて! 肌も土色にくすんでる! お前たちは……お前たちは、私をこんな『醜い姿』で描いて、陰で嘲笑っていたのね!? 私が自分の衰えを気にしているのを知っていて、わざと醜く描いて、私を辱めていたのね!?」
雷に打たれたように、絵師たちが平伏する。
彼らは宮廷でも選りすぐりの名匠たちだ。彼らはただ、誠実に、見たままの華妃の姿を、高い技術で写実的に描いただけだった。
しかし、その「誠実さ」こそが、今の華妃にとっては最大の「不敬」となっていた。
「か、華妃様!? 滅相もございません! 私たちはただ、華妃様のありのままのお姿を、誠心誠意……」
「黙れ! 『ありのまま』だと!?」
華妃が地団駄を踏む。
「私の『ありのまま』は、私の『真実の姿』は、この鏡に映っているこの姿なのよ! この透き通る肌、星のような瞳、これこそが私なの! 見たまま描いてこれなら、お前たちの目は節穴か!! 腐っているのか!!」
華妃の理屈は完全に破綻している。
客観的に見れば、狂っているのは華妃の方だ。
だが、加工アプリという名の「電子ドラッグ」をキメてしまったナルシストにとって、現実ノーマルカメラこそがバグであり、修正されるべきエラーなのだ。
彼女の脳内ではすでに歴史修正が行われている。『私は昔からこうだった。周りが無能なせいで、醜く見えていただけだ』と。
広間はパニックに包まれた。
絵師たちは震え上がり、額を床に擦り付けて命乞いをする。
「お許しを、お許しを!」
しかし、華妃の怒りの炎は燃え広がるばかりだ。
そして、その火の粉は、あろうことか、最も安全圏にいると思われていた人物――太監・姚明にも降り注いだ。
「姚明! お前もよ!」
「……は?」
いつもは能面のように表情を崩さない、冷徹な姚明が、この時ばかりは素っ頓狂な声を上げて、ポカンと口を開けた。
彼の計算機のような脳内でも、この展開は予測不能のエラーだったに違いない。
華妃は、美しいが故に恐ろしい形相で、姚明に詰め寄った。
「何が『は?』よ! お前はずっと私の側に仕えていたわね? 毎日私の顔を見ていたわね? それなのに、一度でも言ったか? 『華妃様、あの肖像画は実物より劣っています』と! 『鏡が曇っております』と!」
「い、いえ、それは……」
「何も言わなかったということは、お前も私を『絵のような醜女』だと思っていたということでしょう! 心の中で、『華妃も老いたな』と笑っていたのでしょう!?」
「滅相もございません。私は……華妃様はそのままでも十分に美しく、威厳があると……」
姚明は必死に論理的な弁明を試みた。
しかし、今の華妃に「そのままでも美しい」という言葉は褒め言葉ではない。「加工前の姿を肯定する=真実の美(加工後)を否定する」という、最悪の地雷なのだ。
「言い訳無用! 私は失望したわ、姚明。お前を私の目とし、耳として重用してきたけれど、まさかこれほど『見る目』がないとはね!」
華妃の言葉は、姚明のプライドを粉々に打ち砕いた。
後宮の影の支配者、美しき策士。そう呼ばれた彼が、たった一枚の「盛りすぎた自撮り写真」によって、「無能」の烙印を押されたのだ。
「私の『真実の美』に気づけない、審美眼の狂った側近など、必要ない!!」
華妃は扇子の残骸を投げ捨て、ヒステリックに叫んだ。
その声は、景陽宮の空気をビリビリと震わせた。
「絵師は全員解雇! 二度と筆を持てぬよう、手首をへし折ってから追放なさい! 部屋にある鏡も全部割り捨てて! 偽りの姿など見たくもないわ!」
「ひっ……!」
絵師たちの絶望的な悲鳴が上がる。
「そして姚明! お前は降格よ! 私の視界に入らない場所で、一からやり直しなさい! そうね……便所掃除がお似合いよ! 汚物を磨きながら、その曇った眼球も磨き直してきなさい!!」
「な……!?」
あの冷静沈着な姚明が、顔を歪めて絶句している。
その白い頬が、屈辱で赤く染まり、やがて青ざめていく。
彼は私たちが持ち込んだスマホを「邪教の道具」として利用し、私たちを陥れる完璧なシナリオを描いていたはずだ。
それが、まさかこんな、論理もへったくれもない「乙女心の暴走」によって粉砕され、あろうことか自分が粛清されるなんて。
彼が私に向けた視線には、殺意以上の、困惑と恐怖が混じっていた。
『お前は、一体何をしたんだ』と、その目が語っていた。
「さあ、とっととお行き! 今すぐよ! 私の『美』を汚すものたち、全員消え失せろ!!」
華妃の絶叫が、最終宣告として響き渡る。
衛兵たちが慌てて動き出す。彼らもまた、次は我が身かと恐怖に怯えながら、泣き叫ぶ絵師たちを引きずっていく。
そして姚明は、震える拳を握りしめ、唇を血が出るほど噛み締めながら、深く一礼した。
「……御意」
絞り出すような声。
彼は憎悪のこもった目で私を一瞬だけ睨みつけると、衣を翻して退出していった。
その背中は、来た時の冷徹な威厳など見る影もなく、理不尽の嵐に吹き飛ばされた敗残者のそれだった。
嵐のようなリストラ劇が過ぎ去った後。
静まり返った広間には、荒い息をつく華妃と、事の成り行きに呆然とする私と麗華姫、そして腰を抜かした蘭馨だけが残された。
華妃は、乱れた呼吸を整えると、再びスマホの画面に視線を落とした。
その表情は、先ほどの鬼女のような形相が嘘のように、蕩けるような恍惚に満ちていた。
「ああ……美しい……。これこそが、私……」
彼女はスマホを頬ずりせんばかりの勢いで抱きしめている。
私は、恐る恐る声をかけた。
「あ、あの……華妃様。私の嫌疑は……」
「嫌疑? ああ、邪教の道具とかいう話?」
華妃はどうでも良さそうに手を振った。
「姚明の早とちりでしょう。こんなに素晴らしい『真実の鏡』を邪教の道具だなんて。あいつは本当に目が腐っていたのね。……杏花、貴女の罪は不問に付すわ」
「あ、ありがとうございます……!」
「その代わり」
華妃は、獲物を逃がさない猛禽類のような目で私を見た。
「この鏡、私に献上しなさい。毎日これを見ないと、精神が安定しないわ。一日に三度はこの姿を確認しないと、自分が誰かわからなくなりそうなの」
「は、はい……喜んで献上いたします……」
私は深々と頭を下げた。
断れるはずがない。それに、これで命が助かるなら安いものだ。
(でもこれ……充電切れたらどうするんだろ)
心の中で、巨大な懸念が頭をもたげる。
私、スマホがなければどうしたらいいの!!
このスマホのバッテリーは今のところ減らない謎仕様だが、もし万が一、電源が落ちたら?
あるいは、華妃がふと現実の鏡を見てしまったら?
その時、彼女を襲う「現実リアル」という名の禁断症状は、今回以上の惨劇を引き起こすかもしれない。
(それは、今は考えないでおこう。逃げるが勝ちだ)
私は冷や汗を拭いながら、隣で震えている麗華姫の手を強く握った。
麗華姫も、信じられないものを見たという顔で、コクコクと頷いた。
勝った。
現代の「加工技術フィルター」が、後宮の冷徹な「合理主義」に完全勝利した瞬間だった。
だがそれは、パンドラの箱を開けた勝利でもあった。
華妃という怪物を、さらに手のつけられない「自己愛の化け物」へと変化させてしまったのだから。
「失礼いたします!」
私たちは逃げるようにして、景陽宮を後にしたのだった。

夜の景陽宮
「き、きいいいいっ! なぜ! なぜこの鏡はうんともすんとも言わないの!?」
景陽宮の豪奢な寝台の上で、華妃かひが私のスマホを、まるで反応しないリモコンを叩くおばあちゃんのように、バンバンと叩いていた。
画面は真っ暗なままだ。
「ええい! あの娘を呼んでこい! 今すぐよ!」
ということで、私と蘭馨らんけいは、冷宮から景陽宮に緊急招集(呼び出し)されることになった。
時刻は夜の10時。
現代ならまだ宵の口だが、照明のないこの時代では真夜中も同然だ。
もう寝る支度を始めていたのに……っていうか、こんな夜更けまでスマホを使っていたとは、華妃様はすでに立派なスマホ中毒デジタル・ジャンキーだ!
寝間着の上に慌てて衣を羽織り、衛兵に連れられて景陽宮の寝所に通されると、そこには髪を振り乱し、鬼の形相でスマホと格闘する華妃の姿があった。
「杏花! さっき化粧を直しに行き、帰ってきたらこのざまだ! 鏡が丸い9つのものが映るだけで、私の顔を映そうとしない! 壊れたのか!?」
「華妃様、その鏡は繊細なガラスでできております! 乱暴に扱われますと、鏡の機嫌を損ねて二度と映らなくなります!」
私は慌てて止めに入った。
ここで物理的に破壊されたら、私の命綱も、現代の英知(AI)も、景皇子との連絡手段も、全てジ・エンドだ。
華妃の手からスマホを救出し、画面を確認する。
表示されていたのは、9つの丸が並ぶ、パスコードの入力画面。
無理もない。一定時間が経過してスリープモードに入り、自動的にロックがかかったのだ。
「ええい、じれったい! さっきまでは私の真実の美(※加工済み)を映していたではないか! どうすれば動くのだ? 叩けばいいのか? それとも水に浸すか?」
「おやめください! ……これは、鏡が眠りにつき、『封印パスコード』がかかってしまったのです。持ち主である私にしか、解くことはできません」
私は恭しくスマホを受け取ると、華妃に見えない角度で背を向け、ササッと指を動かしてロックを解除した。
パッ、と画面が明るくなり、待ち受け画面に設定していた華妃の「奇跡の一枚」が表示される。
「おお……! 映った! 私の美しい顔が!」
華妃はスマホを奪い返すように手に取り、うっとりと画面を撫でた。
その表情は、麻薬常習者が禁断症状から解放された時のそれに似ていて、少し背筋が寒くなる。
だが、すぐに彼女は眉を吊り上げ、私を睨みつけた。
「杏花。この鏡、"封印"とやらを私に教えなさい。いちいちお前を呼ぶのは面倒だわ」
ここで「はい、107875(イーオンナハナコ)です」と教えてしまえば、私は用済みだ。
スマホを没収され、再び冷宮に逆戻り――あるいは口封じに消されるのがオチだろう。
私は営業用スマイルを崩さず、静かに首を振った。
「いえ、それはできません。この封印は私の心の波長と連動しており(大嘘)、他の方が唱えても無効なのです。それに……」
私は言葉を溜め、勿体ぶるように続けた。
「光の加減や角度の調整、そして何より、華妃様のその日のご気分や衣装に合わせた『輝きの微調整(フィルター選びと加工修正)』には、高度な修練と専門知識が必要です。素人の方が不用意に触れば、鏡が歪み、逆に『呪われた姿』を映してしまうかもしれません」
「呪われた姿……」
華妃の顔が強張った。彼女にとって、加工の剥がれた自分の顔(現実)こそが、最も恐ろしい邪教なのだ。
「ですので、華妃様。ご提案がございます」
私は一歩前に出た。ここが勝負どころだ。
私はただの捕虜ではない。替えの利かない技術者エンジニアとして、自分を売り込むのだ。
「私が今後も、華妃様の専属『写しカメラマン』として、その美貌を永遠に記録し続けましょう。朝の目覚めから、夜のお休みまで。最も美しく見える光を探し、最高の一枚を献上いたします。……その代わり」
「代わり、なんだ?」
「私と侍女の蘭馨を、冷宮から出してください。そして、華妃様の直属のお付きとして、この景陽宮に置いていただけませんか?」
華妃は少し考え込んだ。
謀反人の娘を側近にするリスク。皇太后や周囲の目。
しかし、彼女の手元にある「盛れた自分」の画像が、最後の一押しとなった。
この「ドラッグ」なしの生活には、もう戻れないのだ。
「……よかろう」
彼女は尊大に頷いた。
「あんな薄暗い廃墟にいては、この鏡も曇るというもの。お前を私の直属の女官として取り立ててやるわ。……ちょうど、無能な姚明がいなくなって、席が空いたところだしね」
(よっしゃあああ! 社畜スキル『上司へのゴマすり&依存ビジネス』成功!!)
私は心の中で盛大にガッツポーズをした。
こうして、私は「邪教の道具を持つ魔女」から「華妃お気に入りの専属カメラマン」へと、劇的なジョブチェンジを果たしたのである。

しかし、物事はそう簡単には進まない。
翌日、後宮の頂点に君臨する場所、慈寧宮じねいきゅうにて。
「……ならぬ」
重厚な御簾みすの向こうから、短くも重い言葉が響いた。
皇太后だ。
華妃は美しい眉をひそめ、不満げに孔雀の扇子を揺らした。
「皇太后様。なぜでございましょう? 杏花は改心し、今や私に忠誠を誓っております。私の身の回りの世話をさせるために、冷宮から引き上げたいと申しておりますのに」
皇太后は、老眼鏡の奥から鋭い視線を向けた。手元には、書き写し途中の仏教の経典が置かれている。彼女は信心深いことで知られているが、その目は仏の慈悲とは程遠い、猛禽類のような鋭さを秘めていた。
「まだ時期尚早じゃ。父親の罪は重い。謀反の企て、国家への反逆。たかだか数ヶ月で許されるものではない。それに……」
皇太后の声が低くなる。
「最近あの娘は、冷宮で奇妙な動きをしていると聞くではないか。姚明が報告していた『秘術』の件も、完全に晴れたわけではないぞ。妙な光を放つ板を使い、人心を惑わす……そのような不穏分子を、陛下の近くに置くわけにはいかぬ」
皇太后のガードは堅い。
やはり、ラスボスとしての威厳と慎重さは伊達ではない。
通常なら、ここで「ははーっ」と引き下がるのが礼儀だ。
だが、今の華妃は無敵モード(自撮りにより自己肯定感が成層圏まで上昇中)である。
「あら、秘術などと。あれはただの『科技の鏡』。西域の珍しい玩具ですわ。姚明が大袈裟に騒ぎ立てただけのこと。……それに、皇太后様」
華妃は扇子で口元を隠し、声を潜めた。
その瞳の奥に、獲物を追い詰める毒蛇のような、狡猾な光が宿る。
「私のささやかな願いを聞き入れていただけないのであれば……わたくし、やむを得ず『あの一件』を、陛下にお話しせねばなりませんわね」
皇太后の筆を持つ指が、ピクリと止まった。
「……何のことだ?」
「とぼけないでくださいませ。昨年の冬……皇太后様が『持病の療養』と称して、都外れの離宮にひと月ほど滞在された時のことです」
華妃はゆっくりと立ち上がり、御簾みすに近づいた。
そして、皇太后だけに聞こえる音量で囁いた。
「離宮近くの芝居小屋にいた、あの若く美しい京劇役者……『らん』とか申しましたか。彼への『莫大なご支援』の出処が、もし国庫の金だと知れたら……親孝行な陛下はどう思われるでしょうか?」
皇太后の顔から、さぁっと血の気が引いた。
経典を持つ手が震え、墨が紙に黒いシミを作る。
「そ、それをどこで……!?」
「壁に耳あり、障子に目あり、でございます。あの役者、最近はずいぶんと良い衣装を着ているそうですね? 皇太后様が夜な夜な通って貢いだ金で」
これは、後宮でもごく一部の人間しか知らない、皇太后の最大のスキャンダルだった。
表向きは厳格で、質素倹約と仏への帰依を説く国母。
その裏の顔は、孫ほども歳の離れた若い男に入れあげ、公金を横領して貢いでいる色惚け婆。
これが露見すれば、彼女の権威は地に落ち、後宮での発言力を失うだろう。
華妃は、以前からこの情報を握り、切るタイミングを虎視眈々と狙っていたのだ。
政敵を失脚させるために使うつもりだった切り札を、まさか「専属カメラマン(兼・加工職人)の確保」という、極めて私的な欲望のために切ることになるとは、誰も予想しなかっただろうが。
それほどまでに、華妃にとって「盛れた自分」の維持は、国家予算と同等の価値を持っていたのだ。
皇太后はわなわなと震え、経典を握りしめた。
額に脂汗が滲む。弱みを握られた権力者は、脆い。
「……わ、わかった」
皇太后は、苦虫を噛み潰したような顔で、絞り出すように言った。
「杏花姫の冷宮からの追放を解く。……ただし、あくまでお前の管理下においてのことだ。何かあれば、連帯して責任を問うぞ」
「ふふ、感謝いたしますわ、皇太后様。ああ、ご安心を。あのお話は、私の胸の中に……いえ、この美しい胸の中に、しまっておきますから」
華妃は勝ち誇ったように微笑み、優雅に一礼した。
その顔は、スマホの加工アプリがなくとも、悪魔的に美しく、そして恐ろしかった。

その日の午後。
「姫様! 信じられません! 本当に……本当に冷宮を出られるなんて!」
私の新しい部屋(になる予定の、景陽宮の片隅にある使用人部屋)で、蘭馨が涙を流して喜んでいた。
荷物は少ない。
命綱のスマホと、手作りのロケットストーブ(愛着が湧いて捨てられなかった)、そして景皇子からもらった食材の残りだけだ。
部屋は狭いが、畳があり、壁があり、天井がある。
雨漏りもしないし、ネズミもいない。
「ええ、やったわよ蘭馨。これからは、とりあえず凍死する心配はないわ」
私はスマホを握りしめた。
これで第一段階クリアだ。サバイバル生活からは脱出した。
しかし、ここは「景陽宮」。
華妃という、気分屋でヒステリックな「ブラック上司」が支配する場所だ。
ここからは、物理的なサバイバルではなく、精神を削り合う、さらにドロドロとした社内政治(後宮バトル)が始まる。
私の仕事は、華妃の機嫌を取りながら、彼女を美しく撮影し、加工し続け、中毒症状を維持させること。
そして、その合間を縫って、景皇子との「コネクション」を強化し、いつか本当の自由を手に入れること。
ピロン♪
その時、スマホが軽快な通知音を鳴らした。
『景』からのLIMEメッセージだ。
『景:冷宮を出たそうだな。……華妃の元へ行くとは、自ら虎の穴に入るようなものだ。正気を疑うが、そなたなら上手くやるだろう。困ったことがあれば、いつでも「発信」せよ。……追伸:新しい部屋の窓からは、月がよく見えるはずだ』
私は窓の外を見た。
そこには、きれいな半月が浮かんでいた。
彼もどこかで、この月を見ているのだろうか。
私は画面を見て、ふっと笑った。
「虎の穴? 望むところよ」
こっちには、虎も手懐ける『最強のフィルター』と、百戦錬磨の『社畜処世術』があるんだから。
「さあ蘭馨、行くわよ。まずは華妃様の『おやすみ前のすっぴん風メイク(※ガッツリ加工)』の撮影よ!」


いいなと思ったら応援しよう!