朕は孤独なりーー姫失格④
「杏花。明日からすぐに私の側で働きなさい。私の『真実の美』を記録するには、片時も離れずそばにいる必要があるわ」
景陽宮へ移動した初日。
甘く濃厚な百合の香りが漂う寝殿で、華妃は豪奢な長椅子に身を預け、うっとりとした表情でスマートフォンを見つめていた。
画面の中で微笑むのは、AIフィルターと私の職人芸によって極限まで加工された「奇跡の華妃」だ。彼女はその電子の虚像を、まるで愛しい我が子か、あるいは推しのように指先でなぞっている。
現実の鏡など、もう部屋のどこにもない。すべて撤去され、砕き割られた。
今の彼女にとっての世界は、この小さな発光する板の中だけに存在するのだ。
「私の肌のツヤ、瞳の輝き……。一秒たりとも逃してはなりませんよ。朝の目覚めから、夜の寝物語まで。お前は私の『美』の専属記録係なのだから」
華妃の言葉は、絶対的な勅命だった。
そこには拒否権など存在しない。彼女の機嫌を損ねれば、このスマホごと私は「役立たず」として処分される。私の命綱は、彼女の承認欲求という細い糸一本で繋がっているのだ。
「は、はい! 喜んで! 全身全霊をかけて、華妃様の美しさを後世に残す所存でございます!」
私は背筋を伸ばし、元気よく答えた。
これぞ、現代日本社会の荒波で培った社畜根性。
理不尽な上司の命令にも、反射的に「イエス」と答えてしまう悲しき条件反射だ。心の中では「24時間労働とか労基署案件だろ」とツッコミを入れつつも、顔には満面の営業スマイルを貼り付ける。
しかしその時、私の隣に控えていた蘭馨が、青ざめた顔でバッと進み出た。
「華妃様、お言葉ですが……!」
彼女は床に額を打ち付ける勢いでひれ伏した。その小さな背中が、小刻みに震えているのがわかる。
「それは……あまりに危険でございます!」
「危険?」
華妃がスマホから目を離し、不機嫌そうに眉をひそめる。その視線だけで、部屋の温度が数度下がったような冷気が走る。
「はい! 姫様は……いえ、杏花はこれまで、れっきとした皇族、姫君として育てられました。箸の上げ下ろしから歩き方まで、すべては『仕えられる側』の作法でございます」
蘭馨の声は震えていたが、必死だった。
「下女としての作法、立ち居振る舞い、言葉遣い……杏花は何一つご存じありません。そのような状態で、宮中の礼儀作法に最も厳しいとされる華妃様の優雅な宮殿に入れば、どうなるか……。即座に粗相をし、茶をこぼし、裾を踏み、あまつさえ華妃様の顔に泥を塗ることになりかねません!」
蘭馨の指摘はもっともだった。
私は「杏花姫」としての記憶(と、現代人としての常識)はあるが、「清朝の後宮女官」としてのスキルはゼロだ。
お茶の淹れ方一つ、扉の開け方一つとっても、ここには厳格なルールが存在する。もし私が華妃のドレスに茶をぶちまけたり、皇帝陛下の御前で失礼な態度を取ったりすれば、それは単なる「ドジ」では済まされない。「華妃の管理不行き届き」となり、華妃自身のメンツを潰すことになるのだ。
ナルシストでプライドの高い華妃が、それを許すはずがない。
私のミスは、即ち「死」だ。
「あら、そう?」
華妃は興味なさそうに爪を眺めた。
「使えないなら、使えるようにすればいいだけのことでしょう? じゃあ蘭馨、貴女が教え込みなさい。貴女は元々、優秀な女官だったのでしょう? 明日までに完璧に仕上げなさい」
「あ、明日!?」
蘭馨が絶句し、顔を上げた。
「いえ、それはさすがに……! 宮女の作法は、幼き頃より数年をかけて叩き込まれるもの。それを一晩でなど、到底不可能です!」
「……できないの?」
華妃が冷ややかに目を細める。
その瞳の奥には、「無能な道具はいらない」という冷酷な光が宿っていた。
部屋の空気が張り詰める。衛兵たちが、無言で腰の剣に手をかける気配がした。
(まずい……!)
蘭馨が殺されるかもしれない。
私が助け船を出そうとした瞬間、蘭馨はガタガタと震えながら、決死の覚悟で再び頭を床に擦り付けた。
「い、一週間! 一週間だけ猶予をくださいませ!」
床板に額を押し付けたまま、蘭馨が叫ぶように言った。
「その間に、わたくしの命に代えても、杏花を立派な宮女に仕立て上げます! 決して華妃様に恥をかかせることのない、完璧な下女にしてみせます! ですから……どうか、ご慈悲を!」
静寂が支配する。
私の心臓の音が、鼓膜に響くほど大きく聞こえる。
華妃は再びスマホに視線を戻し、指先で画面をスクロールさせた。彼女の興味は、すでに私たちの生死よりも、自分の画像の「いいね」の数に移っているようだった。
「……ふん。まあいいわ」
彼女は吐き捨てるように言った。
「一週間待ってあげる。私の新しいドレスが仕立て上がるのがちょうどその頃だからね。……その代わり」
彼女の視線が、鋭い刃物のように私たちを貫いた。
「もし一週間後に少しでも粗相があれば、二人まとめて後宮から放り出すからそのつもりでね。……ああ、放り出すと言っても、門の外ではないわよ? 『井戸の中』か、『虎の檻』の中へ、という意味だから」
◇
景陽宮の片隅。
かつては物置として使われていたであろう、狭く薄暗い一室が、私たちに与えられた部屋だった。
冷宮の廃墟よりはマシだが、窓は小さく、華やかな表御殿とは似ても似つかぬ、カビと古紙の匂いがする空間だ。
バタン。
蘭馨は重い扉を閉めるなり、糸が切れた操り人形のように、その場にへなへなと座り込んだ。
額には脂汗が浮かび、顔色は蝋人形のように白い。
「はぁ……はぁ……」
「蘭馨! 大丈夫!?」
私は慌てて駆け寄り、彼女の背中をさすった。彼女の着物は、冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
「どうしよう……一週間だなんて……口走ってしまったけれど……」
蘭馨は震える手で顔を覆った。
「姫様……いえ、杏花にあれだけの作法を、たった七日で……。通常なら三年かかる過程です。それを……もし失敗すれば、華妃様は本気で私たちを……」
彼女の恐怖は痛いほど伝わってきた。
華妃のあの目は、冗談や脅しで言っている目ではなかった。彼女にとって使用人の命など、使い捨てのカイロよりも軽いのだ。
しかし。
私は山田花子だ。
日本の就職氷河期を生き抜き、ブラック企業で幾多の修羅場を潜り抜けてきた、雑草心の持ち主だ。
「大丈夫よ、蘭馨! 顔を上げて!」
私は彼女の両肩を掴み、力強く言った。
「私、これでも前の世界では『適応力の鬼』って呼ばれてたんだから(自称)! 入社三日目で電話対応をマスターし、一週間で先輩のお局様のコーヒーの好みを完璧に把握した伝説の新人よ! OL時代の新人研修やマナー講座に比べれば、お茶の子さいさいよ!」
私はニッと笑い、ガッツポーズを作ってみせた。
お茶の出し方? 掃除の仕方?
基本は「気配り」だ。相手が何を求めているかを察知し、先回りして行動する。それは現代のビジネススキルと変わらないはずだ。
「だから安心して。私、意外と器用なんだから!」
そう言って楽観的に笑う私を、蘭馨は瞬きもせずに見つめていた。
その瞳には、私の期待したような安堵の色はなかった。
代わりにそこに宿っていたのは、かつてないほど真剣で、そしてどこか悲壮な光だった。
「……姫様」
蘭馨が静かに、しかし冷徹な声で私を呼んだ。
「甘いです」
「え?」
「貴女様は、まだ何もわかっておられません」
蘭馨はゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、彼女の纏う空気が変わった。
いつも私の後ろを付いてくる、控えめで気弱な侍女の姿はそこになかった。
そこにいたのは、死地を生き抜いてきた「プロフェッショナル」の顔をした女性だった。
「『お姫様』として後宮にいるのと、『女官』としてここにいるのでは、天と地ほどの差があるのです。現代の会社? お局様? ……そんな生易しい場所と一緒にしないでください」
彼女は私に一歩詰め寄った。その迫力に、私は思わず後ずさりする。
「会社では、失敗すれば始末書で済むかもしれません。上司に怒鳴られるだけかもしれません。ですが、ここは紫禁城の後宮です。皇帝陛下の庭なのです」
蘭馨の声が低く、重く、狭い部屋に響く。
「姫様なら許された些細なミス……例えば、茶器を置く音が少し大きかった、廊下ですれ違う際の一礼の角度が浅かった、華妃様の影を踏んでしまった……。女官なら、それら一つ一つが即、『死』に繋がります」
「し、死……?」
「はい。打ち首、手討ち、あるいは舌を抜かれるか。運が良くても『慎刑司』送りで、一生立てない体にされるかです」
私の背筋に、冷たいものが走った。
大袈裟だと思いたい。けれど、蘭馨の目は真剣そのものだった。
彼女は、実際にそういう光景を何度も見てきたのだ。
「私の先輩女官が、かつて遠い目でこう言いました。『宮女は生きることに疲れる』と……」
蘭馨は遠くを見るように目を細めた。
「息をするのも、瞬きをするのも、すべてが計算された『作法』でなければならない。主人が『白』と言えば、黒いカラスも白鳥となる。自分の意志を殺し、感情を殺し、ただ主人の手足となって動く人形になる……。一瞬でも気を抜けば、足元の床板が外れて奈落へ落ちる。それが、ここでの『勤務』なのです」
私はごくりと唾を飲み込んだ。
甘かった。
私はまだ、どこかで「転生モノの主人公だからなんとかなる」と思っていたのかもしれない。
「スマホがあるから大丈夫」だと過信していた。
だが、スマホがあろうとなかろうと、首を物理的に刎ねられたら終わりなのだ。
蘭馨は私の目を真っ直ぐに見据えた。
そこには、主君を守るためなら鬼にもなるという、凄まじい覚悟があった。
「その意味を、今から骨の髄まで叩き込みます。甘えは一切許しません。私が鞭を持ってでも、貴女様を完璧な侍女にしてみせます。……よろしいですね?」
その瞬間、私の中でスイッチが切り替わった。
OL時代の「なんとかなる精神」は捨てよう。
ここからは、命懸けのサバイバルだ。
「……わかったわ」
私は姿勢を正し、蘭馨に向かって深く頭を下げた。これは、姫としての礼ではない。教えを乞う者としての礼だ。
「お願いします、蘭馨先生。私を、死なない女官にしてください」
蘭馨は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに満足そうに頷いた。
そして、部屋の隅にあった箒を手に取ると、床にパンッ! と音を立てて叩きつけた。
「それでは! まずは『歩き方』からです! 音を立てず、裾を揺らさず、水の上を滑るように! 一歩でも足音が聞こえたら、今夜の食事は抜きです!」
「は、はいッ!」
狭く薄暗い使用人部屋。
窓の外では、不穏な風が木々を揺らしている。
私たちの命運を賭けた一週間。
ここから、地獄の新人研修が幕を開けた。
◇
景陽宮の片隅にある、窓のない狭い使用人部屋。
そこは今、紫禁城で最も過酷な訓練施設と化していた。
壁に吊るされた蝋燭の火が、ゆらゆらと揺れる。
その薄暗がりの中で、私の目の前に立ちはだかるのは、昨日までの控えめで気弱な侍女・蘭馨ではない。
竹の物差しを手に持ち、仁王立ちする「鬼軍曹」その人だった。
「いいですか、姫様。今日からの七日間、貴女様の人権はありません。貴女様は『杏花姫』という人間ではなく、華妃様の影となり、手足となる『機能』そのものになるのです」
「き、機能……?」
「はい。それでは、第一の教えから参ります」
蘭馨が黒板(の代わりに壁に貼った紙)をビシッ! と叩いた。
【第一の教え:感情の去勢】
「まずは挨拶です。部屋に入り、華妃様にお声をかける時のことを想定してください。はい、どうぞ!」
私は姿勢を正し、OL時代に培った、居酒屋の店員顔負けのハキハキとした声を出した。
「はいっ! おはようございます、華妃様! 今日もいいお天気ですね! お肌の調子も最高です!」
元気いっぱい。滑舌明瞭。
現代の新人研修なら「素晴らしい、元気があってよろしい」と褒められるところだ。
しかし。
「――おやめください!!」
蘭馨の雷のような怒号が飛んだ。
竹の物差しが床を叩き、私はビクッと飛び上がった。
「ひ、姫様! 声が大きすぎます! 耳が痛いほどです!」
「えっ、でも……元気にハキハキと挨拶するのがマナーじゃ……」
「なりません! ここは軍隊でも居酒屋でもございません。後宮において、大声など言語道断。下品極まりない行為です!」
蘭馨は私の顔にグイッと顔を近づけた。その目は血走っている。
「良いですか。高貴な方にとって、下々の者の『元気』などノイズでしかありません。必要なのは『安らぎ』と『恭順』のみ。声のトーンは常に一定。春風が柳を揺らすような、柔らかく、耳に心地よい音量でなければなりません」
「春風……柳……?」
「そして、表情!」
蘭馨の指が、私の顔面に伸びてきた。
親指と人差指で私の頬の肉をムギュッと摘み上げ、強制的に口角を引き上げる。
「痛い痛い痛い!」
「我慢してください! いかなる時も、口角はこの角度! 目は三日月のように細め、歯は見せずに微笑むのです。これを『含笑』と言います。華妃様に罵倒されても、無理難題を言われても、この顔を崩してはなりません!」
「無理よ! 罵倒されたら顔くらい引きつるわよ!」
「引きつれば、その瞬間に『不満があるのか』と問われ、頬を打たれます。……そして、最も重要なこと」
蘭馨の声が、一段低くなった。
「たとえ理不尽な罰を受けても、鞭で打たれても、絶対に泣いてはなりません」
「えっ……?」
私は耳を疑った。
「いやいや、痛かったら泣くでしょ普通。反射的に涙出るし。だってドラマとかでよくあるじゃない、『お許しください~!』って泣き叫んでるシーン!」
「どらま? ……とは何か存じ上げませぬが、京劇などでは確かに泣き叫ぶ場面がございます。しかし、現実は違います」
蘭馨は真顔で、恐ろしい事実を告げた。
「高貴な方の前で泣き叫べば、『騒々しい』『見苦しい』、そして何より『自分の非を認めず、感情的になっている=反省していない』とみなされ、罪が重くなります。どんなに痛くても、心を殺し、涙をこらえ、冷静に『はい、かしこまりました。ご指導ありがとうございます』と応じなければならないのです」
「……ブラック企業すぎない?」
「いいえ、それ以上です。ここでは『感情』を持つこと自体が罪なのです」
私は鏡を見た。
そこには、頬を赤くし、引きつった笑顔を張り付けた、哀れなピエロが映っていた。
これから毎日、この仮面を被り続けるのか。
私の表情筋は、一週間持つのだろうか。
◇
【第二の教え:ルンバ歩行】
「次は歩き方です。お茶を運ぶ動作を想定してください」
蘭馨は、なみなみと水の入った茶碗を、お盆に乗せて私に渡した。
「この水を一滴もこぼさず、あそこの壁まで歩いてください。背筋を伸ばし、上半身を微塵も揺らさずに」
「わかったわ。任せて」
私はお盆を受け取ると、スタスタと大股で歩き出した。
現代社会では「時は金なり」。移動時間は短縮するのが正義だ。
「止まって!!」
またしても蘭馨の悲鳴が上がった。
「なんという……なんという野蛮な歩き方ですか! 大股は厳禁です! 着物の裾がバサバサと暴れて、まるで荒馬が走っているようです!」
「荒馬って……」
「宮女の歩みとは、雲の上を滑る天女のごとくあるべきです。歩幅は足の半分程度。膝を曲げず、腰から下だけを滑らかに動かし、床を滑るように進むのです」
蘭馨がお手本を見せる。
彼女の上半身は、まるで固定されたかのように動かない。しかし、足元だけが細かく動き、音もなく移動していく。
衣擦れの音が、「シャ……シャ……シャ……」と、微かに、規則正しく響く。
「……すご。ルンバみたい」
「ルンバ? ……とにかく、衣擦れの音が『シャシャシャシャ』と鳴るように歩くのです! 足音を立ててはいけません。主人の背後に、気配なく忍び寄れるようでなければなりません」
「シャシャシャシャ……って、それじゃ忍者じゃない」
「そうです! 私たちは後宮の陽炎になるのです! 存在感を消し、必要な時だけ実体化する。それが一流の女官です!」
私は言われた通りにやってみた。
小股で、すり足で、上半身を固定して……。
「うっ、太ももが……!」
「背中が曲がっています! 視線は常に斜め下45度!」
地味に見えて、これは凄まじい筋トレだった。
体幹と下半身の筋肉が悲鳴を上げる。
水面のように静かに歩くことが、これほど難しいとは。
私の「ルンバへの道」は険しかった。
◇
そして、講義は最も恐ろしいフェーズへと移行した。
夕刻。粗末な食事が運ばれてきた時のことだ。
【第三の教え:生理現象=死】
お盆に乗っていたのは、白湯のような薄いお粥と、塩茹でしただけの青菜、そして豆腐が一切れだけ。
「……え、これだけ? 今日の夕飯」
私は絶句した。
冷宮で食べた鶏肉(景皇子のスパチャ)の方が、よほど豪華だった。
賄いが楽しみで、この激務に耐えようと思っていたのに。
「姫様、これからは満腹になるまで食べてはなりません。腹六分目……いえ、四分目が理想です」
「えーっ! なんでよ! 体力勝負なんでしょ? しっかり食べないと倒れちゃうわよ!」
私が抗議すると、蘭馨は冷ややかな目で私を見下ろした。
「お腹がいっぱいになると、何が出ますか?」
「何って……元気? やる気?」
「いいえ。『ゲップ』です」
蘭馨は、この世の終わりのような単語を口にした。
「……は?」
「高貴な方の前で、特に至近距離でお世話をする際に、ゲップをすることは万死に値します。もし、お化粧直しの最中に、あるいは皇帝陛下にお茶を出す瞬間に、『ゲフッ』とやってしまったら……」
蘭馨は首の前で手刀を横に引いた。
「即刻、処刑もあり得ます」
「……うそ、でしょ?」
私は箸を取り落としそうになった。
ゲップで? 死刑?
そんな馬鹿な。生理現象よ?
「嘘ではありません。過去には、皇帝陛下の御前で緊張のあまりゲップをしてしまい、不敬罪で首を刎ねられた宦官が大勢いました。あくび、くしゃみも同様です。しゃっくりなど出そうものなら、息を止めて死ぬ気で止めなければなりません」
蘭馨の目は真剣そのものだった。
冗談ではない。ここは、現代の人権意識など通用しない世界なのだ。
「すっごいなー……」
私は乾いた笑いしか出なかった。
ブラック企業でも、会議中のくしゃみでクビにはならない。せいぜい白い目で見られるくらいだ。
ここはブラック企業ではない。「デス・カンパニー(死の会社)」だ。
ふと、素朴な疑問が湧いた。
「……じゃあ、おならは?」
その質問をした瞬間。
蘭馨の顔から表情が消えた。
彼女は、まるで深淵を覗き込むような、虚無と殺気が入り混じった凄まじい眼光で私を睨みつけた。
「…………姫様」
低い声。
「言わなくても、お分かりですね?」
「は、はい……」
「もし、華妃様の後ろで『それ』をしたら……処刑よりもっと恐ろしい、生き地獄が待っていると思ってください。慎刑司で、死ぬまで笑い者にされながら拷問を受けることになるでしょう」
私は戦慄した。
おなら一発で人生終了。それがこの世界のルール。
便意やガスは、ここでは爆発物処理班のような慎重さで扱わなければならないのだ。
「そのため、氣が発生しやすい芋類、匂いの強いネギやニラ、肉類は極力避けます。基本的には消化の良い薄味の野菜や海藻類、そしてお粥のみを摂取します」
蘭馨は淡々と説明を続ける。
「また、体臭や口臭も罪です。毎日、体を清め、衣服に香を焚き染めるのは当然。ニンニク料理など論外です。……さあ、食べてください。生きるために」
私は目の前の、色のないお粥を見つめた。
これは食事ではない。生存のための燃料補給だ。
そして、絶対に「出してはいけない」ものを出さないための、予防措置なのだ。
「いただきます……」
味のしないお粥を啜る。
空腹は満たされない。けれど、満たされてはいけないのだ。
(帰りたい……。ポテチ食べて、コーラ飲んで、盛大にゲップして、おならして笑ってたあの部屋に帰りたい……!)
現代の自由がいかに尊いものだったか。
生理現象を許容してくれる社会が、いかに素晴らしいものだったか。
私は涙をこらえながら(泣いたら罪だから)、静かに、音を立てずに、虫のように食事を続けた。
こうして、地獄の一週間が始まった。
私の人間としての尊厳は、後宮という巨大なシステムの前で、薄皮一枚ずつ剥がされていくのだった。
一姫二太郎、三なすび
絶体絶命の窮地。
目の前には、私と蘭馨を「井戸」という名の死刑台へ送り込もうとしている華妃の、氷点下の眼差しがある。
背後には、無機質な衛兵たちの足音が迫る。
蘭馨はすでに心が抜けたように崩れ落ちている。
万策尽きたかと思われたその瞬間、私の脳裏に走馬灯のように蘇ったのは、現代日本での、忌まわしくも懐かしい「日々」だった。
私はそこで、二人の偉大なる師匠から、過酷な英才教育を受けていたのだ。
◇
目の前に立ちはだかる、後宮の寵姫・華妃。
彼女の放つ、氷の刃のような視線と、周囲の空気を凍りつかせる傲慢なオーラ。
普通の人間なら、この圧迫感だけで胃に穴が開き、直立不動で震え上がる場面だろう。事実、周囲の女官たちは皆、床に額を擦り付けんばかりにひれ伏している。
だが、私は違った。
私の唇の端は、恐怖で引きつるどころか、どこか懐かしさすら覚え、微かに緩んでいたのだ。
(ああ……この感じ。この理不尽な圧、この自己愛の塊……実家の匂いがする)
そう、私は知っている。この手合いの猛獣を。
そして、どうすればこの猛獣の手綱を握り、生存できるかをも熟知している。
なぜなら私は、異世界に来る前の人生において、二人の「偉大なる師匠」から、血の滲むような過酷な英才教育を受けていたのだから。
一人目の師匠は、姉だ。
私の五つ上の姉は、世間一般の基準で見れば、確かに美人だった。だが、それは手放しで絶賛される「上の上」ではない。
クラスにいれば「可愛いね」とチヤホヤされるが、芸能事務所からスカウトが来ることはない。
合コンに行けば一番人気にはなるが、本命のハイスペック男子(医師や弁護士)は、なぜか隣にいる愛想の良い平凡な女子を選んでいく。
いわゆる「上の下」。
自尊心が最も肥大化しやすく、同時に現実とのギャップに最も苦しみやすい、呪われた立ち位置の容姿を持っていた。
だが、その性格に関しては「上の下」どころではない。
魔王級のドSであり、瞬間湯沸かし器も裸足で逃げ出すほどのヒステリックの持ち主だった。
特に、自身の容姿と「写真写り」に関しては、狂気じみた執着を見せていた。
「花子! 写真撮って! 今すぐ!」
その号令は、時と場所を選ばない。
休日の混雑するカフェ、旅行先の風情ある旅館、あるいはただの道端の電柱の横。
姉が「今の私、イケてる」と感じたその瞬間、私は専属カメラマンとして強制徴集されるのだ。
ある夏の日、原宿での出来事だ。
姉は「インスタ映え」のためだけに、三段重ねの巨大なパンケーキと、極彩色のトッピングが乗ったアイスクリームを注文した。
灼熱の太陽が照りつけるテラス席。
「早く! 自然光が一番盛れるんだから!」
「は、はい!」
私はスマホを構える。
だが、姉の要求水準はプロのカメラマンすら凌駕していた。
「違う! アングルが低い! 二重顎に見えるでしょ!」
「寄りすぎ! 背景の抜け感が死んでる!」
「あーもう、光の入り方が最悪! 私の肌の透明感が伝わらないじゃない!」
罵声が飛ぶ中、数百枚のシャッターを切る。
その間、主役であるはずのパンケーキは熱気で干からび、アイスクリームは無惨に溶け出し、ドロドロの液体となってテーブルを汚していく。
ようやく「……まあ、これでいいわ(妥協)」という一枚が撮れた頃には、食べ物は生ゴミの一歩手前になっていた。
「じゃ、花子。これ食べといて。私ダイエット中だから」
姉はスマホの加工アプリを起動することに夢中で、スプーンすら手にしない。
私は、生温かく溶けた極彩色の液体と、パサパサになったパンケーキを、胃袋に流し込む。
「カメラマンが美味しくいただきました」というテロップが脳裏をよぎるが、現実は甘い地獄だ。砂糖の塊が喉を焼く。
だが、真の地獄はここからだ。
家に帰ってからの「検品会」。そこに敷かれていたのは、労働基準法も基本的人権も無視した、恐怖の罰金制度だった。
姉は、私が撮った数百枚の写真を、大画面のテレビモニターに映し出し、公開処刑を行う。
「は? 何これ。足が短く見えるんだけど。私の美脚を短足に加工するなんて、重罪よ。罰金五百円」
「ちょっと、逆光で顔が暗いじゃない。私の輝きを消す気? 嫉妬? 見苦しいわね。罰金千円」
「あーあ、半目になってる。シャッターチャンスも読めないの? アンタって本当に使えないゴミね。罰金二千円」
言葉だけではない。
罰金は私のなけなしの給料(学生時代はお小遣い)から天引きされ、さらにオプションとして、愛の鞭ならぬ「理不尽なビンタ」が飛んでくるのだ。
パァン!!
乾いた音がリビングに響く。
私の頬が赤く腫れ上がる。痛みで涙が滲むが、泣けば「ブスが泣くと見苦しい」と追加徴収されるため、歯を食いしばって耐えるしかない。
理不尽だ。あまりにも理不尽だ。
被写体の素材の問題を、すべてカメラマンの腕のせいにされているのだから。
しかし、明日を生きるために、私は考えた。
泣いている場合ではない。この暴君の下で生き延びるためには、進化するしかないのだ。
私は習得した。
姉のご機嫌を損ねないための「太鼓持ちスキル」と、姉を美の化身として崇め奉る「洗脳的賞賛スキル」。
「お姉ちゃん! 今の角度、最高! 奇跡! 橋本環奈も裸足で逃げ出すレベルだよ!」
「うわっ、この光の入り方、五億年に一度の美貌! 天才的に可愛い! ハリウッドがアップを始めるよ!」
歯の浮くようなセリフを、呼吸をするように吐き出す。
そして何より、技術を磨いた。
どんな悪条件でも被写体の魅力を120%引き出す「奇跡のアングル」を見つけ出し、さらに複数の加工アプリを駆使して、違和感なく「別人級の美女」に仕立て上げるデジタル整形技術を、極限まで高めたのだ。
私の涙ぐましい努力と欺瞞の結果。
姉は「私は世界一の美女。周りの男が見る目がないだけ」という、ダイヤモンドよりも硬く、エベレストよりも高い強固な自尊心を手に入れた。
その自信を武器に、彼女は高望みしすぎて誰も寄せ付けず、三十五歳独身(彼氏いない歴=年齢)街道を、ブレーキの壊れたダンプカーのごとく爆走中だ。
ちなみに、未だに男にビンタをしたことはあれど、手を握ったこともないらしい。
ある意味、箱入り娘の純潔を、自らの性格の悪さという鉄壁の城壁で守り抜いていると言えなくもない。
私はその過程で、学んだのだ。
「気難しく、自己愛が肥大化した年上女性の機嫌を取る」という、この後宮という伏魔殿で最も生存率を高めるスキルを。
だから、華妃のナルシズムなど、姉の狂気に比べれば赤子のようなものだ。
そして、二人目の師匠。
それは、母だ。
母は、姉とは違うタイプの地獄だった。
姉が直接的な暴力装置だとするなら、母は真綿で首を絞め、精神をじわじわと蝕む無味無臭の毒ガスのような存在だった。
私には五つ上の姉と、三つ下の弟がいる。
三人きょうだいの真ん中。
姉は最初の子として、新品の服と愛情を一身に受けて育った。
弟は待望の長男、跡取りとして、王族のように甘やかされて育った。
では、中間管理職のような立場の私は?
母はしばしば、家事を私にお願いする。
私が夕食の片付けをしている時、あるいは洗濯物を畳んでいる時。
ふと手を止め、母は私を見つめ、深いため息混じりにこう言ってくるのだ。
「ああ……花子が生まれてこなければ、完璧な『一姫二太郎』だったのにねぇ」
一姫二太郎。
最初に女の子、次に男の子が生まれるのが、育てやすく理想的であるという古い言い伝え。
三人目の弟が生まれた時、親戚一同は「跡取りができてよかった」と喜んだ。姉は「お姉ちゃん」として可愛がられた。
その間に挟まれた、二番目の女。
「花子は……余計だったわねぇ」
母の口調に、怒りはない。むしろ、少し残念そうな、失敗した編み物を見つめるような響きがあった。
悪気はないのかもしれない。冗談のつもりだったのかもしれない。
だが、幼い私はその言葉を聞くたびに、胸の奥を鋭利なナイフでえぐられ、心臓を雑巾絞りにされるような痛みを感じていた。
私は、生まれてきてはいけなかったの?
この家の「理想の家族計画」を崩した、邪魔なノイズなの?
私がいるせいで、お母さんの人生は「完璧」じゃなくなってしまったの?
幼い私は傷ついた。
そして、それ以上に、渇望していた。
愛されたかった。
母の視線が欲しい。姉や弟に向けられるような、あのとろけるような甘い笑顔を、一度でいいから私に向けてほしい。
その渇望と絶望が入り混じったドス黒い感情が、幼い私をある「狂気」へと走らせた。
あれは小学二年生の頃だったと思う。
夕食後のリビング。
父はテレビを見ている。姉は鏡を見ている。弟は母の膝の上で甘えている。
私は、その幸せな絵画の中に、入れずにいた。
私は自室に戻り、おもちゃ箱をひっくり返した。
底から出てきたのは、お姉ちゃんがディズニーランドに行ったあと飽きた猫耳カチューシャ。
私はそれを頭につけた。
そして、人間の尊厳と一緒に、二本の足で立つことをやめた。
私はリビングに戻り、四つん這いになった。
カーペットの埃っぽい匂いが鼻につく。視界が低くなる。家族の足が見える。
「にゃ〜ん! にゃ〜ん!」
私は人間の言葉を捨てた。
プライドも、羞恥心も、山田花子という人格も、すべて捨てた。
ただの愛玩動物になりきって、母の足元にすり寄ったのだ。
母の膝の上でくつろぐ弟を押しのけ、私は頬を母のスリッパに擦り付けた。
「私、子猫よ! だからお母さん、うちは『いちひめにたろー』よ! にゃんにゃんは人間じゃないから、数に入らないよ! お母さんの計画通りだよ! よかったね!」
裏声を使って、必死に訴えた。
今思えば、狂気だ。
小学生の娘が、自分の存在を「ノイズ」だと認め、それを消すために「自分は猫だ」と主張し、必死に母を肯定しようとしているのだから。
それは、あまりにも歪で、悲痛な生存戦略だった。
一瞬、リビングが静まり返った。
しかし、次の瞬間。
母の反応は、私の予想したものとは違った。
「あはははは! 何やってるのこの子は! バカねぇ、本当にバカな子!」
母は、お腹を抱えて爆笑したのだ。
涙が出るほど笑い、そして私の頭を撫でた。
「そうね、花子は『にゃんこ』だものね! 猫だから仕方ないわねぇ! あーおかしい」
母は笑った。
そこに含まれていたのは、娘への尊敬でも、憐れみでもない。
明らかに「下等なもの」「理解不能な愚かなもの」へ向ける蔑みを含んだ、けれど確かに「好意」のこもった笑顔だった。
温かい手。
久しぶりに向けられる、私への関心。
私は安堵した。
(ああ、これでいいんだ。ここにいていいんだ。捨てられないんだ)
たとえそれが、「人間としての尊厳」を捨てた結果だとしても。
「余計な娘」であるよりは、「面白いペット」である方が、この家には居場所があったのだ。
それ以来、母は私を可愛がってくれるようになった。
ただし、人間としてではなく、「面白いペット」として。
私が何か失敗しても、「まあ、猫だからね」と笑って許された。逆に、テストで良い点を取っても「猫なのにすごいわね」と、どこか突き放した賞賛しか得られなかった。
今でも実家では、私は「にゃんこ」と呼ばれている。
三十路を超えた娘を捕まえて、母は平気で「ほら、にゃんこ、ご飯よ」と呼ぶ。
私はそのたびに、条件反射で「にゃーん」と答えそうになり、心の中で血を吐くのだ。
――こうして、私の人格は形成された。
姉によって叩き込まれた、絶対強者への媚びへつらいと、嘘を真実に変える加工(演出)技術。
母によって植え付けられた、自らの尊厳を切り売りしてでも居場所を確保する、道化としての生存本能。
これら二つの呪いのようなスキルが、まさか後宮で「最強の武器」になるとは、当時の私は知る由もなかった。
◇
私は、冷たい大理石の床に這いつくばったまま、震える拳を握りしめた。
私には、高貴な生まれの姫君のような、優雅な所作は身につかなかった。
完璧な女官のような、機械的な正確さも習得できなかった。
けれど、私にはあるじゃないか。
姉の理不尽な暴力に耐え抜き、どんなに罵倒されても笑顔で「ヨイショ」し続ける、鋼のメンタルと太鼓持ちスキルが。
そして、母に愛されるためなら、人間としての尊厳すら投げ捨てて「猫」になりきれる、捨て身の演技力が。
(プライド? 何それ美味しいの?)
(尊厳? そんなものでお腹は膨れないわ)
私は、山田花子だ。
承認欲求の塊のような姉と、無自覚な毒親である母という、二人のモンスターを手懐けてきた猛獣使いだ。
目の前の華妃?
ふん、あんなの、ちょっとメイクが濃くて権力を持っただけのお姉ちゃんでしょ!
「……ふっ」
私の口元から、自然と笑みが漏れた。
蘭馨が、恐怖で引きつった顔で私を見ている。「姫様、ついに気が触れたか」という目だ。
違うわ、蘭馨。
私は今、覚醒したのよ。
「衛兵、やれ」
華妃が冷酷に指を振った。
衛兵たちが私の腕を掴もうとする。
その瞬間。
私はガバッと顔を上げた。
衛兵の手を振り払い、華妃の足元へと膝行する。
その動きは、優雅な宮女のそれではない。
獲物にすり寄る、あるいは主人に甘える小動物のそれだ。
私は上目遣いで、華妃を見上げた。
姉仕込みの「自分が一番可愛く見える角度(左斜め45度)」を完璧にキープして。
瞳には、涙を一杯に溜める。これは、母の前で「捨て猫」を演じた時に習得した、必殺のウルウル目だ。
「華妃様……!」
私の声は、震えていた。恐怖ではない。甘えを含んだ、媚びるような震えだ。
「お待ちください。……私は、悟りました」
「は? 何を……」
華妃が毒気を抜かれたように眉をひそめる。
私は一息にまくし立てた。
「私には、蘭馨のような完璧な女官の真似事はできません。歩けば音が出るし、お腹が空けば鳴るし、緊張すれば手も震えます。所詮は、しつけのなっていない駄犬でございます」
「知っているわ。だから処分すると……」
「ですが!!」
私は声を張り上げた。
かつて、リビングで四つん這いになったあの日のように。
羞恥心を、恐怖を、プライドを、すべて燃やしてエネルギーに変える。
「駄犬には駄犬の、野良猫には野良猫の、使い道がございます!」
私は華妃の豪奢なドレスの裾を、汚れた手で恐る恐る、けれど愛おしそうに掴んだ。
「完璧な人形のような女官は、華妃様の周りにいくらでもおりましょう。彼女たちは優秀ですが、決して華妃様の『心』までは癒やせません。彼女たちは仕事をこなすだけです」
華妃の目が、わずかに揺れた。
孤独な権力者の琴線に、私の言葉が触れたのだ。
「けれど、私は違います! 私は、華妃様が美しい服を着れば尻尾を振って喜びます! 華妃様が誰かに悪口を言われれば、その相手に噛み付いて吠え立てます! 華妃様がお寂しい夜は、足元で丸まって温めます!」
「な、何を言って……」
「私は、人間としての扱いなど望みません。給金も、地位も、名誉もいりません。ただ、華妃様のそばで、その美しさを称え、その威光をお借りしてキャンキャンと吠える権利だけをいただければ、それで幸せなのです!」
私は床に頭を擦り付けた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、ニッコリと――そう、かつて母に向けたあの「にゃんこ」の笑顔で、華妃を見つめた。
「華妃様! 私は無作法な野良犬かもしれません。ですが……華妃様だけの、特別な『愛玩動物』にはなれます!」
スマホを持った猫
「……は? 何を言って……」
華妃の声には、怒りよりも純粋な困惑が混じっていた。
無理もない。
一秒前まで「処刑寸前の罪人」だった女が、突然四つん這いになり、「自分は犬です、猫です」と言い出したのだ。狂ったか、あるいはあまりの恐怖に幼児退行したかと思ったに違いない。
だが、その「一瞬の思考停止」こそが、私が狙っていた隙だった。
私は懐からスマホを取り出し、ササッと――まさに素早い猫の動きで――華妃の元へ擦り寄った。
本来ならば、高貴な方の御前で立ち上がることなく距離を詰めるなど、不敬の極みだ。衛兵が刀を抜いてもおかしくない。
だが、私は今「人間」のルールでは動いていない。「愛玩動物」という別カテゴリの存在なのだ。猫が飼い主の膝に乗っても、不敬罪にはならない。パーソナルスペースなどという概念は、猫には存在しないのだ。
「華妃様、今日はお疲れのご様子……」
私はスマホの画面越しに彼女を見つめ、大袈裟に息を呑んだ。
「眉間に少しシワが……ああっ! いけません、その美しいお顔に影が! このままでは、後世に残るべき美貌が台無しに!」
「なっ、なんですって!?」
「老い」や「衰え」を指摘されること。それが華妃の最大の地雷だ。彼女は反射的に眉をひそめ、不快感を露わにした。
だが、すかさず私はフォローを入れる。ここからが「姉仕込み」の技術だ。
「ですがご安心を! 私めが、そのお疲れさえも『アンニュイな美しさ』へと昇華させてみせましょう。……はい、こっち向いて〜、にゃん♡」
「にゃ、にゃん……?」
華妃が呆気にとられ、力が抜けた瞬間。
その無防備な表情を、私は激写した。
カシャッ。
すぐさま画像編集アプリを起動する。
私の指は、ピアニストのように高速で画面上を舞った。
肌のトーンをワントーン上げ、くすみを飛ばす。
疲れによる目の下のクマを消すのではなく、あえて薄く残しつつ、瞳のハイライトを強調することで、「気怠げな色気」を演出する。
さらに、背景に淡い光の粒子を飛ばし、全体をソフトフォーカスで包み込む。
所要時間、わずか五秒。
「ご覧ください! 『国を憂う貂蝉のような、憂いを帯びた華妃様』です!」
私はスマホを華妃の目の前に突き出した。
彼女は疑わしそうに画面を覗き込み――そして、その目が輝いた。
「……まあ!」
画面の中には、単に「若返った」だけではない、物語のヒロインのような深みのある美女が映っていた。
疲労感が、悲劇的な美しさに変換されている。
「疲れているのに、こんなに美しいなんて……。やはり私は別格なのね……。どんな時でも絵になってしまうなんて、罪な女だわ……」
彼女の自己肯定感が、成層圏まで急上昇していくのがわかる。
すかさず、私はトドメのヨイショを投入する。
「ええ、ええ! その通りでございます! 華妃様は素材が違いますから! 宝石は泥の中でも輝くのです!」
私は畳み掛けるように言葉を紡ぐ。
「周りの無能な女官や絵師たちは、その表面的な疲れしか見えません。見る目がないのです。ですが、この『真実の鏡』と、私という犬だけは、貴女様の心の輝きを知っております!」
「……そうね。お前だけが、私の本当の理解者なのかもしれないわね」
華妃の表情が緩んだ。
彼女はもう、私を「無作法な下女」としては見ていない。「自分を肯定してくれる便利な存在」として認識を書き換えたのだ。
華妃の機嫌が垂直に上がったところで、私は「母攻略モード」に切り替えた。
堅苦しい正座を崩し、華妃の足元に、まるで本物の猫のように丸まって座り込む。
そして、彼女の豪奢な裳裾の下にある脚に、そっと手を伸ばした。
「華妃様、今日はずっと立ちっぱなしでお疲れでしょう。ここが凝ってますね〜。ゴロゴロ……」
私は肉球のような手つきで、彼女のふくらはぎを優しく揉み始めた。
お局様の肩もみで鍛えた指圧テクニックと、母に甘える時のスキンシップの融合だ。
「ちょ、ちょっと、何をして……無礼な……」
華妃が一瞬身を硬くする。
本来、主人の体に許可なく触れるなど死罪ものだ。
だが、私は手を止めない。心地よいリズムで、凝り固まった筋肉をほぐしていく。
「……っ……でも、悪くないわね……。そこ、もう少し強く……」
華妃の力が抜けた。
人間という生き物は、完璧なマナーで接してくる部下よりも、仕事で疲れ果てた時、足元で無心に甘えてくる可愛いペットにこそ、心を許すものだ。
理屈ではない。温もりと、無防備な信頼感。それが、孤独な権力者の心の隙間に滑り込む。
「……ふぅ。お前、本当に変なやつね」
華妃はため息交じりに言ったが、その声にはもう殺気はなかった。
「腐ってももと西国の皇族のくせに、プライドはないの? こんな風に人に媚びて」
「私はすべてを捨てででも、華妃様のお人柄に惚れ込んでいるのでございます」
私は即答した。
「それに、華妃様に可愛がっていただけるなら、私は犬でも猫でも構いません。にゃ〜ん」
私は頭を擦り付けた。
華妃は苦笑し、そして――私の頭に手を置いた。
「……なんだか、落ち着くわ」
彼女は無意識に、私の髪を撫で始めた。
長い爪が頭皮を心地よく刺激する。
勝った。
今度こそ、完全に勝った。
完璧な女官を目指すからボロが出るのだ。
最初から「甘え上手なペット」枠に収まれば、多少の無作法も「動物だから仕方ない」「躾がなってないけど可愛いから許す」という特例措置で処理される!
この勢いで、私は最大の懸念事項である「睡眠環境」の改善をねじ込むことにした。
冷たい板の間で、エビのように丸まって寝る生活など真っ平ごめんだ。
「華妃様……私、夜もずっと華妃様のそばにいたいです」
私は華妃の膝に顎を乗せ、上目遣いで見つめた。
必殺の「雨の日に拾われた捨て猫の目」だ。
「この『鏡』で、華妃様の寝顔も世界一美しく撮ってみせますから……。天使のような寝顔を、記録させてください。それに、夜中に寂しくなったら、いつでも私が喉を鳴らして差し上げます」
「……寝顔、ねぇ」
華妃は少し考え込み、そしてふっと笑った。
「いいわ。お前、今夜から私の部屋にいなさい」
「えっ! よろしいのですか? あの寒くて狭い雑魚の……いえ、女官部屋ではなく?」
「あんな狭いところで、私の専属絵師が風邪でも引いたら困るもの。それに……」
華妃は私の頭を撫でながら、独り言のように呟いた。
「猫なら、寝相が悪くても気にならないしね。私の足元で寝ていればいいわ。温かいし、湯たんぽ代わりになって、私の冷え性も解消できそうだもの」
「にゃ〜ん!(ありがとうございます! 人間湯たんぽ、喜んで務めさせていただきます!)」
私は歓喜の鳴き声を上げた。
華妃様の寝室。そこには最高級のペルシャ絨毯が敷かれ、冬でも暖かい火鉢があり、そして何より、誰にも邪魔されない安眠が約束されている。
足元だろうが何だろうが、あの冷宮の廃墟や、竹棒で叩かれる女官部屋に比べれば天国だ。
こうして私は、一週間の地獄の特訓を「キャラ変」という荒技で無効化し、見事、後宮で最も安全で快適な寝床――華妃様の寝室のふかふかラグの上――を勝ち取ったのである。
部屋の隅で、蘭馨が口をぽかんと開けていた。
「姫様が……本当に猫になられた……。誇り高き皇族の血が……」と呆然と呟いていたが、聞こえないふりをした。
プライド? そんなものは過去に置いてきた。
私は生きる。ふかふかの布団の上で!
それに、この距離感なら、華妃の秘密や弱みも探り放題だ。
飼い猫は、家の全てを知っているのだから。
「さあ、おいでにゃんこ……じゃなかった、杏花」
「はい、ご主人様! にゃん!」
私は軽やかに立ち上がり、華妃の後をついていった。
私の後宮サバイバルは、新たなステージへと突入したのだ。
「華妃の愛猫」として。
奢れるスマホも久しからず
「キャハハハ! 嫌だ華妃様、この『パンダの耳』、お似合いすぎます〜!」
「そう? んふふ……。意外と可愛いじゃない。次はこっちの『キラキラお目々』にするわよ。……にゃん♡」
「出たー! 華妃様の必殺『国傾けキャット』! いただきまーす(スクショ音)!」
カシャッ、カシャッ、カシャッ。
軽快な電子シャッター音が、景陽宮の奥深く、一般の者が立ち入ることさえ許されぬ豪奢な寝室にリズミカルに響き渡る。
床には、最高級のペルシャ絨毯をも凌ぐ価値があると言われる、純白の白虎の毛皮のラグが敷き詰められている。そのふかふかとした雲の上のような感触に身を委ね、私と華妃様はゴロゴロと寝転がっていた。
傍から見れば、それは奇妙な光景だっただろう。
一人は、後宮の権力を握る妖艶な美女。もう一人は、元・謀反人の娘であり現在は猫兼カメラマンの女。
身分も年齢も違う二人が、額を寄せ合い、小さな発光する板を覗き込んで、まるで修学旅行の夜の女子高生のようにキャッキャと笑い合っているのだから。
部屋には、心を蕩けさせるような甘く重厚な伽羅の香りが漂い、足元に置かれた精緻な彫金の火鉢からは、炭の爆ぜる小さな音と共に、絶妙な温もりが伝わってくる。
窓の外は晩秋の冷たい風が吹いているはずだが、この部屋は常春の楽園のように暖かく、平和だった。
かつては「鬼の上司」「ヒステリックな魔女」と恐れられた華妃様だが、今やすっかり現代の文明の利器「加工アプリ」の虜だ。
私の膝を枕にして、うっとりとした、恋する乙女のような瞳で画面の中の自分を見つめている。
「ああ、なんて美しいのかしら……。見て、杏花。この『桃源郷フィルター』を通すと、私の肌がまるで剥きたての白桃のようよ。シミひとつなく、内側から発光しているわ」
「ええ、ええ! おっしゃる通りです! でもそれはフィルターの力だけではありません。華妃様の素材が最高級だからこそ、AIも本気を出せるんですよ! 泥団子を加工しても宝石にはなりませんが、華妃様は元がダイヤモンドですから!」
私は手慣れた手つきでヨイショしながら、華妃様の凝り固まった肩を揉みほぐす。
私の指先から伝わる華妃様の体温は、リラックスしきって柔らかい。
平和だ。
最高に平和で、安泰な後宮ライフだ。
数日前まで、冷宮の泥にまみれて穴を掘り、竹の棒でふくらはぎを叩かれ、空腹に耐えながら雑草を食べていたのが、まるで遠い前世の記憶のようだ。
プライドを捨てて「愛玩動物」に成り下がった甲斐があったというものだ。このまま華妃様の寵愛を受け続け、毎日美味しい宮廷料理を食べ、夜はこのふかふかのラグで眠る。
そんな、安楽で堕落した勝ち組ルートが確定した――。
……そう、信じて疑わなかった。
この温もりが、永遠に続くと錯覚していた。
人が幸せの絶頂で油断し、警戒心を解いているその瞬間に限って、足元の落とし穴の蓋を音もなく外すのだから。
ピロン。
可愛らしい、しかしどこか冷徹な響きを持つ通知音と共に。
画面の右上に、不吉な赤いイナズマが走るまでは。
『バッテリー残量:10%』
「…………ヒッ」
私の喉から、空気が漏れるような、引きつった短い悲鳴が漏れた。
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がる。
血管の中を流れていた温かい血液が、一瞬にして冷水に入れ替わったかのような感覚。
全身の血の気が、足の裏から床下の奈落へと抜け落ちていく。
「あら、どうしたの杏花? 急に手が震えて……手ブレ補正が効かないじゃない。もっとしっかり持ちなさい。私の美しい輪郭がブレてしまうわ」
華妃様が不満げに眉をひそめ、私の腕をペチリと叩く。
しかし、私の震えは止まらなかった。止まるはずがなかった。
バッテリー残量、10%。
その数字の意味する絶望的な重みを、この時代の人間は誰一人として理解できないだろう。
それは単なる機械の停止ではない。
私の「生命維持装置」の停止を意味するのだ。
このスマホは、私がこの世界に来てからというもの、不思議な力(ご都合主義的な異世界補正か、あるいは時空の歪みの影響だと思っていた)で、バッテリーが減らなかった。
だから私は油断していた。
この光る板は永久機関だと、勝手に、都合よく思い込んでいた。
だが、違ったのだ。ただ単に「現代よりも遥かに燃費が良く、すごく長持ちしていた」だけだったのだ。
もし、このスマホの電源が落ちれば?
二度と起動しない、ただの黒くて冷たいガラスの板になれば?
華妃様の「真実の美」は永遠に失われる。
彼女は再び、現実の鏡に映る「老い」と、絵師たちが描く「残酷な真実」に向き合わねばならなくなる。
その時、魔法が解けた彼女の激怒の矛先はどこへ向かう?
「私を騙したのか」「なぜ美しさを維持できないのか」と絶望した彼女は、用済みになった私をどうする?
処刑。
その二文字が、脳裏に点滅する赤信号のように焼き付く。
いや、単なる処刑ならまだマシかもしれない。「美」を奪われた女の恨みは、もっと陰湿で恐ろしい報復を招く。
それだけではない。
現代知識の源であるAI先生も、心の支えである景皇子との連絡手段も、すべて暗闇に消えるのだ。
「か、華妃様……。た、大変です。『鏡』の……燃料が……あとわずかです……!!」
「なんですって!?」
華妃様がガバッと起き上がる。
その剣幕に、私は思わずのけぞった。
「燃料がない? どういうことよ! どうすればいいの? ランプのように油をさせばいいの? それともストーブのように薪をくべるの? 何でも言いなさい、最高級の香油でも何でも使ってよくてよ!」
「ち、違います! そういう物理的なものではなく……!」
私は必死で言葉を探した。
リチウムイオン電池の仕組みを、電子の移動を、電圧を、この18世紀の女性にどう説明すればいい?
「この鏡は生きているのです! 今まではなんやかんやで動いていましたが、華妃様のあまりの美しさを高画質で記録しすぎたせいで……鏡の『生命力』が尽きかけているのです!」
「生命力……!?」
華妃様が青ざめた顔でスマホを覗き込む。
右上の電池アイコンは、虫の息のように赤く点滅し、我々に死の宣告を突きつけている。
「どうすればいいの!? 死なせてはダメよ! 私の『真実の顔』が入っているのよ!? 私の青春が、輝きが、この中に閉じ込められているのよ! 燃料を込めなさい! ほら、気合いで! あんたの気合いを注入しなさい!」
華妃様が私の肩をバンバンと叩く。痛い。爪が食い込む。でもそれどころではない。
「無理です! 気合いじゃ動きません! この鏡は……『電気』という特殊なエサしか食べないんです!」
「デンキ? なにそれ、どこの珍味?」
華妃様がキョトンとした顔をする。
「燕の巣? 熊の手? それとも西域から来る珍しい果物かしら? 金に糸目はつけないわ。すぐに厨房に作らせなさい! いや、私が直接料理長に命じて、国中の食材を集めさせて……」
「食べ物じゃありません! 口に入れるものではないんです!」
私は絶叫に近い声で否定した。
焦りで涙が出てきそうだ。
「それは……雷のようなエネルギーなんです! ビリビリする、空から落ちてくる、あの光の力なんです!」
「雷……?」
華妃様の目が点になる。
「雷を食べる鏡」。
無理もない。電気という概念が存在しない18世紀の紫禁城で、これを理解しろという方が無理難題だ。彼女の目には、私が狂ったか、あるいは高度な冗談を言っているようにしか見えないだろう。
ピロン。
無慈悲な通知音が再び鳴る。
『バッテリー残量:9%』
減った。
確実に、死へのカウントダウンが進んでいる。
あと数分。画面をつけっぱなしにすれば、さらに短くなる。
省電力モードにはした。輝度も下げた。
だが、消費は止まらない。
私は半狂乱で部屋を見渡した。
豪奢な調度品。金の香炉。銀の燭台。絹のカーテン。象牙の櫛。
どこにもない。
コンセントなんてあるわけがない。
モバイルバッテリーも、ソーラーパネルも、手回し発電機も、ここにはない。
(どうする? どうする山田花子!)
冷や汗が滝のように流れる。背中を冷たいものが這いずり回る。
このまま座して死を待つか?
スマホが切れた瞬間、「壊れました、寿命です」と言って、華妃様の怒りを買って井戸に沈められるか?
いやだ。
せっかくここまで生き延びたのに。
泥水をすすり、雑草を食べ、プライドを捨てて猫にまでなって、やっと掴んだこのポジションを、たかだか「充電切れ」ごときで失ってたまるか!
私の脳細胞が、極限状態のアドレナリンによってフル回転を始める。
OL時代の記憶。
中学の理科の実験。
日曜夜に見ていたサバイバル番組の知識。
そして、さっきまで見ていたAI先生の教え。
電気とは何か。
電子の移動だ。電位差だ。
それを作り出すには何が必要か。
磁石とコイル?
いや、強力な磁石もエナメル線もない。一から手回し発電機を作るのは技術的に難易度が高すぎるし、時間がかかりすぎる。
電気の皇子さま
「華妃様! 摩擦です! 摩擦で雷(静電気)を起こすんです!」
バッテリー残量、残り9%。
数字が赤く点滅するたびに、私の寿命も削り取られていくようだ。
思考回路は恐怖で焼き切れ、まともな判断ができなくなっていた。
化学電池の準備ができるまでの時間が惜しい。一秒でも惜しい。
その焦りが、私の脳裏に小学校の理科の実験――下敷きで髪の毛を逆立たせた、あの記憶を蘇らせた。
「マサツ……? なに、体を擦るの? 垢すりみたいなものかしら?」
華妃様が不思議そうに首をかしげる。
「違います! 雷を呼ぶ儀式です! 華妃様、その最高級シルクの寝間着をお借りします!」
私は狂気じみた目つきで、華妃様の寝台の横にあった、漆塗りの画板(下敷きの代わり)を掴み取った。
そして、華妃様が身に纏っている、滑らかで光沢のあるシルクの袖を無遠慮に掴む。
「ちょ、ちょっと! 何をするの!?」
「じっとしていてください! 電子よ、集まれぇぇぇ!」
シュバッ! シュバッ! シュバッ!
私は鬼の形相で、木の板をシルクにこすりつけ始めた。
なりふり構っていられない。
摩擦熱で指が熱くなる。布が悲鳴を上げる。
乾燥した冬の景陽宮。条件は揃っているはずだ。
静電気。それは最も身近な電気エネルギー。冬場、ドアノブに触れただけで指先を走るあの衝撃。あれをスマホに流し込めば、あるいはショック療法のように息を吹き返すのではないか?
「うおおおおお! 充電しろおおおお!」
私は板を激しく摩擦させ、帯電した(はずの)表面を、スマホの充電端子付近に近づけた。
祈りを込めて。
頼む、一瞬でいい。通電のマークがつけば、希望が見える。
バチッ!!
「きゃっ! 痛いじゃない!」
青白い火花が飛び、華妃様が悲鳴を上げて指を引っ込めた。
静電気特有の、針で刺したような鋭い痛みが走ったのだ。
「な、なんなのよ今の! 爪の先が痺れたわ! これが雷なの!?」
華妃様が涙目で指先をさすっている。
しかし、私の目はスマホの画面に釘付けだった。
反応なし。
バッテリー表示は、冷酷に『9%』のまま。
いや、バックライトを点灯させた分、むしろ減っているかもしれない。
「ご、ごめんなさい! でもこれじゃ電圧が足りない……! いや、そもそも電流が制御できていない……!」
私は画板を投げ捨てた。
馬鹿だ。私は馬鹿だ。
静電気は数千ボルトの高電圧だが、電流は一瞬で、しかもアンペア数は極小だ。こんなもので精密機器のリチウムイオン電池が充電できるわけがない。むしろ、回路をショートさせてスマホを破壊するリスクの方が高かった。
パニックで理科の基礎知識さえ吹き飛んでいた自分を殴りたい。
「もういいわよ、痛いだけじゃない。……杏花、あんた本当に大丈夫なの?」
華妃様の視線が、期待から疑念へと変わり始めている。
まずい。
「使えない奴」という烙印を押されたら終わりだ。
「だ、大丈夫です! 今のは予備実験です! 本番はここからです!」
私は冷や汗を拭い、次なる作戦へと移行した。
物理がダメなら、化学だ。
◇
【試行錯誤その2:レモン電池】
「蘭馨! 蘭馨! 起きて! 緊急事態よ!」
私は寝室を飛び出し、使用人部屋の扉をドンドンと叩いた。
「は、はいっ!? 火事ですか! 刺客ですか!」
深夜に叩き起こされた蘭馨が、寝間着姿のまま飛び出してきた。
彼女の目は半分閉じており、髪もボサボサだ。
だが、事情を説明している暇はない。
「厨房に行って! 酸っぱい果物を全部持ってきて! レモン、ライム、カボス、酢橘、なんでもいい! 味見して顔が歪むくらい酸っぱいのが最高よ! あと、銅でできた小銭と、銀の簪……いや、鉄釘の方がいいかも! とにかく金属片をありったけ!」
「は、はぁ……? 酸っぱい果物と、釘……ですか?」
「急いで! 華妃様の命令よ! 遅れたら打ち首よ!」
「ひぃっ!?」
「打ち首」というパワーワードに、蘭馨の眠気は一瞬で吹き飛んだ。彼女は転がるように走り去っていった。
数分後。
豪奢な景陽宮の寝室は、青果市場の裏手のような様相を呈していた。
「ぜぇ、ぜぇ……ひ、姫様、持ってまいりました……」
蘭馨が抱えてきた籠の中には、大量の柑橘類が転がっていた。
現代の品種改良されたレモンとは違う。皮が厚く、ゴツゴツとした、見るからに酸っぱそうな緑色の果実だ。おそらく「枳殻」か、原生種の橙だろう。
そして、華妃様の宝石箱からひっくり返された銅銭の山と、銀の簪、鉄の装飾品。
「でかしたわ、蘭馨! これで勝てる!」
私はナイフを手に取り、果実の一つを真っ二つに切った。
ブワッ、と強烈な酸味を含んだ香りが部屋に充満する。
伽羅の甘い香りが、柑橘の刺激臭によって上書きされていく。
「何をするの? 夜食?」
華妃様が顔をしかめる。
「いいえ、発電所を作るのです」
私は果実の断面に、まずは銅銭を深く突き刺した。これがプラス極になる(はず)。
反対側に、銀の簪を突き刺す。これがマイナス極……亜鉛があればベストだが、銀でも電位差はあるはずだ。あるいは鉄釘の方がいいか?
迷っている時間はない。とりあえず手当たり次第に試すしかない。
果実1つ、銅銭1枚、簪1本。
これを1セットとし、それを10セット作成する。
そして、それらを「直列繋ぎ」にするのだ。
「銅線……銅線がない……」
私は自分の帯を引きちぎり、中に入っていた金糸を探したが、通電性が怪しい。
ふと、華妃様の化粧台に目が止まった。
純金の細い鎖がついた髪飾りがある。
「華妃様! これ、切ってもいいですか!?」
「えっ? それ、西域からの貢ぎ物で……」
「美貌と飾り、どっちが大事ですか!」
「び、美貌に決まってるじゃない! 好きにしなさい!」
許可が出た。私はペンチ(代わりの工具)で金の鎖をバラバラに切断し、それを導線代わりにした。
金は電気を通す。贅沢すぎる配線だ。
10個の果実が、金の鎖で繋がれていく。
銅から銀へ、銅から銀へ。
即席の「ボルタ電池」の完成だ。
部屋の中は果汁でベトベトになり、高価なペルシャ絨毯には酸っぱいシミができているが、構っていられない。
「頼む……! 科学の力よ、奇跡を起こせ!」
最後の難関は、スマホとの接続だ。
現代の充電ケーブル。その白い被膜を、私は震える手で剥いた。
中から現れた、極細の赤と黒のコード。
これをショートさせないように、電池の両端から伸びた金の鎖に接触させる。
このケーブルをダメにしたら、もう後はない。
手が震える。汗が目に入る。
「杏花、まだなの? 5%切ったわよ……」
華妃様の声が焦りで尖っている。
「今、繋ぎます……!」
私は息を止めた。
プラス極(銅銭)からの線を、赤いコードへ。
マイナス極(銀簪)からの線を、黒いコードへ。
接触。
私の脳内では、電流が奔流となってケーブルを駆け抜け、乾いたバッテリーを潤すイメージが出来上がっていた。
エジソンよ、テスラよ、平賀源内よ。
私に力を貸してくれ。
……。
…………。
シーン……。
スマホの画面は、無情にも静まり返っていた。
右上のアイコンに、希望の「イナズママーク」は現れない。
『バッテリー残量:5%』
変わらない。
いや、待て。電圧が足りないのか?
接触不良か?
それとも、この果物の酸度が低すぎるのか?
私は必死に配線をいじり、果実を握りつぶして果汁を出やすくした。
手はベトベトで、傷口に酸が染みて痛い。
「お願い……! ついてよ! お願いだから!」
私は祈るように、端子を押し付けた。
しかし、現代の高度なパワーマネジメントシステムを搭載したスマートフォンは、こんな原始的で不安定な電力供給を受け付けてはくれなかった。
USB-Cの規格は、もっと複雑な信号のやり取り(ハンドシェイク)を必要とするのかもしれない。
あるいは単に、電圧が全く足りていないのかもしれない。
「だめだ……! 電流が微弱すぎるし、そもそもType-Cポートにこんなアナログな方法で給電できるわけがない!」
私はケーブルを握りしめ、床に崩れ落ちた。
部屋の中はカボスの酸っぱい匂いと、鉄錆のような金属臭で充満している。
私の手は果汁と泥で汚れ、華妃様の寝室はゴミ捨て場のようだ。
「……はぁ」
頭上から、冷ややかなため息が降ってきた。
顔を上げると、華妃様が氷のような目で見下ろしていた。
「汚い。臭い。そして、何も起きていない」
彼女は、泥だらけになった金の鎖と、無惨に切り刻まれた果実を蹴飛ばした。
「杏花……。その鏡、もう寿命なんじゃないの? 諦めなさい」
その声には、怒りよりも、諦めと軽蔑が混じっていた。
彼女の中で、魔法は解けかけている。
「真実の鏡」は、ただの「壊れかけのガラクタ」に戻りつつある。
「もういいわ。下がって。……興ざめよ」
華妃様が背を向けようとする。
このままでは、私は「嘘つきの詐欺師」として処理される。
そして明日の朝には、元の冷宮か、あるいはもっと酷い場所へ……。
「諦めません!」
私は叫んだ。
華妃様の足首にしがみつく。
「これが消えたら、私はただの不審な猫耳女に戻ってしまうんです!」
「離しなさい! 汚らわしい!」
「嫌です! まだ手はあるはずです! 雷です! 本物の雷なら……!」
「外は快晴よ! 錯乱するのもいい加減にしなさい!」
華妃様が私を振り払おうとした、その時だった。
ピロン♪
瀕死のスマホが、最後の力を振り絞るように通知音を鳴らした。
◇
私は反射的に画面を見た。
『景』からの新着メッセージ
『……騒がしい猫だ。北の庭園にある「流雲亭」へ来い。光をくれてやる』
「…………え?」
思考停止した脳を、無理やり再起動させる。
光を、くれてやる?
景皇子。あの謎のアカウント。
彼は、私が今ここでピンチであることを知っている? 私の絶叫が聞こえたのか?
まさか、バッテリー残量まで見えているのか?
「華妃様!」
私は部屋に戻り、叫んだ。
もはや論理も科学もない。あるのは勢いだけだ。
「て、天からの啓示がありました! 『北の庭園で月の気を集めよ』と! 月の光を鏡にチャージしてまいります! すぐに行ってまいります!」
「はぁ? あんた、いよいよ頭が……」
華妃様は呆れ果てていたが、私の鬼気迫る形相に気圧されたのか、ため息をついて手を振った。
「よくわからないけど……鏡が直るなら行ってきなさい。直らなかったら、承知しないわよ。その時はお前を剥製にして飾ってやるから」
「はい!(直らなかったらそのまま脱走して亡命します!)」
私はサンダルを突っ掛け、夜の闇の中を全力疾走した。
北の庭園までは距離がある。
残り1%。
お願い、持ってくれ。私の命の灯火よ。私が到着するまで、その瞳を閉じないでくれ。
◇
北の庭園にある『流雲亭』。
普段は人気のない、池に張り出した静かな東屋だ。
月明かりが水面に揺れ、幻想的な雰囲気を醸し出している。
そこに、一つの人影があった。
月光を背に受け、夜風に長い黒髪をなびかせる、彫刻のように美しい青年。
第二皇子、景。
彼は欄干にもたれかかり、私が息を切らして駆け込んでくるのを、無表情で見つめていた。
その手には、この時代の人間が持つはずのない……いや、私にとっては見慣れすぎている「黒い長方形の物体」が握られていた。
「景、皇子……!?」
私は膝に手をつき、荒い息を吐きながら彼を見上げた。
彼は何も言わず、その物体を私に向かって放った。
「受け取れ」
私は慌てて両手を伸ばし、それを空中でキャッチした。
ずっしりとした重み。
ひんやりとした、硬質プラスチックのマットな質感。
そして、側面に空いた長方形の穴――USB-Aポート。
表面には、見慣れたロゴマーク。
『Anker PowerCore 20000』
(アンカーの大容量モバイルバッテリー……!?)
「う、うそ……! なんでこんなものを!? これ、現代の……!」
「早くしろ。死にかけだろう」
彼の低い声にハッとし、私は震える手でスマホを取り出した。
画面は真っ暗だ。落ちたか? いや、まだギリギリ生きているはずだ。
私は持参していた白い充電ケーブルを、バッテリーのポートに差し込んだ。
そして、もう片方をスマホの端子へ。
カチッ。
一瞬の間。
永遠に続くかと思われた沈黙。
そして、画面の中央に、希望のシンボルが大きく表示された。
『⚡(充電中)』
『現在1%』
「あ……あああ……!」
私はその場にへなへなと崩れ落ちた。
助かった。
繋がった。
首の皮一枚で、文明の火が灯った。
「よかった……本当によかった……!」
私はバッテリーを胸に抱きしめて涙ぐんだ。
温かい。いや、実際は冷たいのだが、今の私には焼きたてのパンのように温かく感じられた。
ようやく呼吸が整い、私は顔を上げた。
目の前には、月光を浴びて立つ救世主がいる。
「景様……。どうして、これを……? 貴方も、未来から来たのですか……?」
景皇子は、フッと短く息を吐き、夜空を見上げた。
その横顔は、ドラマで見ていた時の「冷徹な皇子」よりもずっと人間味があり、そしてどこか深い孤独と哀愁を帯びていた。
「……母上の遺品だ」
「お母様の……?」
「母上も、そなたのように奇妙な言葉を使い、奇妙な道具を愛していた。『私は別の星から来たのよ』と笑っていたが……私が幼い頃に亡くなった」
彼は遠い記憶を手繰るように目を細めた。
彼の母――それは、早逝したと伝えられる謎多き側室のことだろうか。
彼女もまた、私と同じ時間旅行者だったのか。
「そなたのその板が光った時、懐かしいと思った。……やはり、同郷の者だったか」
彼は私の手にあるスマホとバッテリーを指差した。
「それは『太陽の光を食らう石』で力を蓄えておいたものだ。母上はそれを『最後の命綱』だと言って、大切にしていた」
ソーラーパネルまであるのか。
この世界のオーパーツ事情はどうなっているんだ。
彼はゆっくりと歩み寄り、私の前にしゃがみ込んだ。
視線が合う。
月光に照らされたその瞳は、スマホの有機EL画面よりも深く、吸い込まれそうな漆黒だった。
初めて間近で見る、推しの顔面。
美しすぎて、画素数が高すぎて、私の脳内GPUの処理が追いつかない。
「杏花。……いや、花子と言ったか」
私の本名を、彼が呼んだ。
SNSのアカウント名を見て知っていたのか。
心臓が跳ねる。
「その『命綱』、そなたに預ける。母上も、草葉の陰で面白がっているだろう」
「えっ、でも……こんな貴重なものを……」
「私には使い道がない。それに……」
彼は少しだけ口角を上げた。本当に、ごくわずかに。
でもそれは、今まで見たどんな笑顔よりも破壊力があった。
「そなたの動画とやら、悪くない。続きが見られないのは、私の退屈しのぎに支障が出る」
「景様……」
「だから……生き延びろ。花子。この狂った後宮で」
彼の大きく温かい手が、私の頭にポンと置かれた。
それは、華妃様に「よしよし」される時のペット扱いとは違う。
もっと力強く、不器用で、そして「守る」という意志のこもった感触。
「あ……」
言葉が出ない。
充電されたのはスマホだけではなかった。
私の心のバッテリーも、一瞬で100%……いや、過充電で爆発寸前だ。
「戻れ。華妃が待っているのだろう。……これ以上ここにいると、私がそなたを喰らってしまうかもしれんぞ」
彼は意味深な冗談(?)を呟くと、風のように立ち上がった。
「ま、待ってください!」
私は慌てて、彼の背中に叫んだ。
「あ、ありがとうございます! あの、また……メッセージ、送ってもいいですか!? バッテリーのお礼とか、動画の感想とか……!」
彼は足を止め、振り返らずに片手だけを軽く上げた。
『通知オンにして待っている』
夜風に乗って、そう聞こえた気がした。
彼はそのまま、闇の中へと消えていった。
残されたのは、私と、充電中のスマホ。
そして、手の中に残る Anker のずっしりとした重み。
バッテリー残量は『5%』まで回復している。
危機は去った。
私は、満充電に向かって数字を増やしていくスマホと、まだほんのり温かい(気がする)モバイルバッテリーを胸に抱きしめ、夜空に向かって無言のガッツポーズをした。
バッテリー確保。
最強のパトロンとの再会。
そして、まさかの「推しとの秘密の共有」。
「……やばい。これ、ドラマより面白い展開になってきたじゃない」
私はニヤニヤが止まらない顔を引き締め(ようと努力し)、華妃様の待つ景陽宮へと走り出した。
サンダルの音も軽やかに。
足取りは、空気のように軽かった。
(待ってなさい華妃様! 充電MAXになった『真実の鏡』で、朝まで撮影会よ!)
そして私は知らなかった。
このバッテリーが、単なる電源ではなく、後宮を揺るがす巨大な陰謀を暴くための「ブラックボックス」になることを。
私の冒険は、ここからが本番だ。
朕は孤独なり
「天は二物を与えず」と言うが、私の場合は少し事情が違う。
天は確かに私に、「女性を篭絡する策士的才能(猫かぶり、お世辞、画像加工)」という強力な矛を与えた。だがその一方で、「男性に対する判断能力」という、この荒波のような人生を生き抜くために不可欠な盾を、根こそぎ奪い去っていったのだ。
これは、山田花子としての人生から続く、DNAの螺旋に深く、あまりにも深く刻み込まれた、逃れようのない呪いである。
私の「男運のなさ」と「押しへの弱さ」は、もはや伝統芸能、あるいは無形文化遺産の域に達していると言っていい。
なぜ、私はこうなってしまったのか。
すべての始まりは、3歳下の弟――タカシという名の、羊の皮を被った狼の存在だった。
記憶のアルバムを開けば、そこには黄金色に輝く幼少期のタカシがいる。
当時の彼は、まさしく子猫そのものだった。
陽の光を吸い込んだようなサラサラの茶色い髪からは、甘いミルクとベビーパウダーの匂いがした。覗き込めば自分の顔が映るほど透き通った、大きなビー玉のような瞳。転んで膝を擦りむいた時の、今にも世界が終わるかのようなあどけない泣き顔。
私のスカートの裾を、紅葉のような小さな手でギュッと掴み、涙で潤んだ瞳で見上げてくるのだ。
「ねえちゃん、だいすき」
「ねえちゃん、いかないで」
その瞬間。
私の脳内では、幸せ物質ドーパミンと母性本能を司るオキシトシンが、ナイアガラの滝のようにドバドバと分泌され、理性の堤防など瞬く間に決壊させてしまう。
(ああ、可愛い。なんて可愛い生き物なんだろう)
この小さな命を守るためなら、私は残りの命の半分を売ってもいい。そう本気で思った。
私は彼に、自分のお小遣いを切り崩して小さなお菓子や、おもちゃを買い与え続けた。自分が読みたかった少女漫画雑誌を我慢してでも、弟が欲しがる『ドラゴンボール』のカードダスを買ってあげた。三時のおやつに出てきたショートケーキの苺を、自分の分まで彼にあげてしまうこともあった。
彼の「わあ! ねえちゃんすごーい! 天才!」という、花が咲くような笑顔が見られるなら、私の我慢など安いものだと思っていた。
「私が守ってあげなきゃ」
「私が喜ばせてあげなきゃ」
「この子の笑顔を守れるのは、お姉ちゃんである私だけ」
その歪んだ庇護欲は、弟の成長と共に癌細胞のように肥大化し、彼が中学に上がる頃には、決定的な変質を遂げていた。
声変わりし、背丈も私を追い越した弟。
あどけなさは消え失せ、口の周りにはうっすらと髭が生え始めた生意気盛りの中学生になった彼にとって、私はもはや敬うべき姉ではなく、「動くATM」兼「都合のいいパトロン」として認識されるようになっていたのだ。
「ねえねえ、金貸して。来月返すから」
休日の午後、リビングのソファにふんぞり返り、スマホゲームの画面から目を離さずに、彼は気怠げに金を無心する。
その「返す」という言葉が、選挙前の政治家の公約よりも信用できないことを、私は痛いほどの経験則として知っている。過去に貸した数万円が返ってきた試しなど、一度たりともないのだから。
「ねえねえ、新しいゲーム機欲しいんだけど。買ってくれたら肩揉んでやるよ」
チラリとこちらを見る視線。そこには、かつての純粋な尊敬はない。あるのは、獲物を品定めするような打算的な光だ。
その対価として提示される「肩揉み」の実態は、せいぜい三秒。猫がふみふみする程度の弱い力で肩に触れ、「はい終わり、疲れたー、握力死んだー」と言って逃げる詐欺行為だ。
普通なら怒るべきだ。
姉として、毅然とした態度で教育的指導を入れるべきだ。
あるいは、親に言いつけるべきだ。「自分で新聞配達でもして稼ぎなさい」「お小遣いの範囲でやり繰りすることを覚えなさい」と突き放すのが、本当の愛だということも、頭では分かっている。
しかし。
彼が私の渋る顔を見ると、戦術を巧みに変えてくるのだ。これが彼の恐ろしいところであり、私の弱点である。
彼はスマホを置き、上目遣いで私の袖をチョンチョンと引っ張る。普段の不機嫌な態度をかなぐり捨てて、声音をワントーン上げ、あの幼き日の面影を再現する。
「頼むよ、ねーちゃん。俺にはねーちゃんしかいないんだよ」
「母親に言ったら怒られるじゃん? 俺の気持ちを理解してくれるのは、世界でねーちゃんだけなんだ」
その、甘えた声。
私だけに向けられる(と錯覚させられる)信頼の眼差し。
「世界でねーちゃんだけ」という、強烈な殺し文句。
すると、私の脳内に何重にも張り巡らせていたセキュリティシステムは、ガシャン、ガシャンと音を立てて崩壊するのだ。
(ああ、この子は私がいなきゃダメなんだ)
(親は厳しすぎるけど、私ならこの子の痛みがわかる……!)
(私だけが、この子の本当の願いを叶えてあげられる救世主なんだ!)
完全に、思考回路がショートしている。
共依存という名の底なし沼に、私は腰まで、いや首までどっぷりと浸かっていた。
「……もう、しょうがないなぁ♡ 今回だけだよ? 本当に今回だけだからね?」
そう言いながら財布の紐を緩める瞬間、私は奇妙な快感に襲われる。
ふわわわーーー キラキラキラーーーーー ドーパミンがとめどなく流れる音が聞こえる。
それは、必要とされているという強烈な優越感と、自己犠牲による陶酔。
身を削って他者に尽くすことで、自分の空っぽな存在価値を確認する。それは、麻薬のような甘い毒だった。
弟が金を受け取った瞬間に「うぃーす、サンキュ」と冷たい態度に戻り、すぐにスマホ画面に視線を戻しても、私は止まらない。
「照れ隠しね。男の子って素直じゃないんだから」
と、脳内で好意的に変換してしまうほどの重症だった。
私は、搾取されることの中に、歪んだアイデンティティを見出してしまっていたのだ。
大人になっても、この致命的な欠陥は修正されなかった。
むしろ、社会に出て経済力を持ったことで、事態は悪化した。被害額の桁が、千円単位から万円、十万円単位へと変わったのだ。
もちろん、私もまともな恋愛をしようと努力したことはある。
職場で「いいな」と思う素敵な男性――誠実で、清潔感があり、安定した職に就き、精神的に自立している人――とのデートにこぎつけたこともある。
だが、彼らからは、私は空気のように扱われるか、あるいは二度目のデートに誘われることはなかった。
というか、私はそういう「ちゃんとした男性」の前では、心がときめかないのだ。というより、そのような男性は私を相手にしてくれないのだろうと、勝手に被害妄想を膨らませて自爆してしまう。
悪友のミカが、居酒屋で枝豆をつまみながら言っていた言葉が忘れられない。
「花子、この前の営業部の佐々木くん、すっごい優良物件だったじゃん。でも彼、裏で言ってたよ。『山田さんは確かに話聞いてくれるし、いい子なんだけど……なんか気を使ってるようなオーラがすごくて。一緒にいると、俺が上司で彼女が部下みたいな気分になるんだよね。なんか俺、山田さんを疲れさせちゃったかな。やっぱ俺じゃあだめだなぁーーー『ごめんね』って伝えといてくれる?』って。」
そう。
彼らは自立しており、私に依存する必要がない。
私の「尽くしたい欲求」「ダメな部分を埋めてあげたい欲求」が入り込む隙間が、彼らにはないのだ。
健全な人間関係において、私の過剰な奉仕や顔色伺いは、「重い」か、あるいは「不気味」なだけなのだ。私は「対等なパートナー」ではなく、「便利なケア要員」になろうとしてしまい、相手を引かせてしまう。
その代わり。
「どう見ても地雷」「歩く事故物件」な男性からは、なぜか猛烈に、磁石が吸い寄せられるようにアプローチされる。彼らの嗅覚は、サバンナのハイエナよりも鋭い。
例えば、二十五歳の時に出会った、自称・起業家の男、自称・中本悟(ナカモトサトシ)。
彼は薄暗いカフェで、MacBookを広げながら熱く語った。
「俺、世界を変えるアプリを作るから。シリコンバレーも注目するような、パラダイムシフトを起こすんだ。これは革命なんだよ、花子」
瞳はキラキラと輝き、手振り身振りで語る夢は壮大だった。
しかし、現実は家賃滞納三ヶ月。電気も止まる寸前。
「サーバー代が足りないんだ。ここさえ乗り切れば、億単位の金が入る。花子、これは借金じゃない。投資だと思って貸してくれないか? お前を最初の出資者として、歴史に名を刻みたいんだ」
私は「未来のビル・ゲイツを支えるのは私だ」「私が彼の才能を一番理解している」と信じ込み、結婚資金として貯めていた定期預金50万円を解約して彼に渡した。
後日。
連絡が取れなくなった彼のアパートを訪ねた私。チャイムを鳴らしてもでてこないので窓の隙間を除いた。
カップラーメンの容器が散乱する部屋で、彼が血走った目でスマホを連打している姿を。
「よしっ! きたあああ! SSR『銀河の歌姫』ゲットォオオ!!」
後で聞いた話、彼が世界を変えるために必要だと言った「サーバー代」の大半は、美少女ソシャゲのガチャ(重課金)に消えていたのだ。
彼は悪びれもせずこう言ったという。
「これも市場調査だろ? ユーザー心理を知らずにアプリが作れるかよ」
そんな話を彼の知り合いの知り合いから聞いた私。流石に膝から崩れ落ちたが、それでも「彼には彼なりの、凡人には理解できない独自の感性があるから……」と自分を納得させてしまった私は、末期症状だった。
そして、記憶に新しい、あのヒモ男・バンドマンのケンジ。
「束縛されたくないんだ。俺は風だから。定住したら音楽が死んじまう」
そう言いながら、私の家に転がり込み、唐揚げと毎月三万円を貢がせ、最後は堂々と「肉じゃがを作る女」の元へ風のように去っていった男。
彼らの手口はいつも同じだ。マニュアルでもあるのかと疑うほどに。
最初は強引に近づく。
そして、私の母性本能をくすぐる弱み――孤独、夢、過去の傷、社会への不満――をチラつかせる。
「俺、実は家庭環境が複雑でさ……」
「誰にも理解されなくて……社会の歯車にはなれなくて……」
そんな不幸話をスパイスに、決定的な一言を放つ。
「花子、お前しかいないんだ」
「世界中が俺を否定しても、お前だけは俺を信じてくれるよな?」
「お前の作る唐揚げが一番だ(金がないから外食できないだけ)」
そんな薄っぺらい、透け透けの言葉。
冷静な第三者が聞けば、鼻で笑うような安っぽい口説き文句。
だが、直球で愛を囁かれると、私の理性は蒸発する。脳内の「タカシ・スイッチ」が、バチンッ!! と音を立ててオンになるのだ。
その瞬間、私の視野は極端に狭くなる。
彼の欠点も、借金も、怠惰も、すべてが「愛すべき傷」に見えてくる。
「私がついててあげなきゃ……!」
「この人の才能を理解できるのは私だけ……!」
「私が捨てたら、この人は野垂れ死んでしまう!」
という謎の使命感が暴走し、気づけば泥沼。
貯金残高と反比例して増えていくのは、男の借金と、私の黒歴史だけ。
私の人生は、まさに「 ダ男製造機 」の見本市だった。
そして今。
まさか、この現代社会で培われた悲しき才能が、時空を超えたこの清朝の後宮で、国を揺るがす大惨事を招くことになろうとは。
◇
その日、私は景陽宮の広大な庭園で、ひとり茂みの中を彷徨っていた。
手にしているのは、モバイルバッテリーで満充電になった最強の武器、スマートフォン。
華妃様の新しい動画企画『宮廷庭園で優雅なかくれんぼ〜見つけたら即・処刑(嘘)〜』のロケハン中だったのだ。
「ここなら逆光で、華妃様の髪が綺麗に映るわね……。あっちの岩陰からのアングルも捨てがたい……」
スマホを掲げ、一人でブツブツ言っていた時だ。
庭園の曲がり角、柳の木陰から、大勢の足音が近づいてくるのが聞こえた。
砂利を踏む規則正しい音。衣擦れの音。そして、漂ってくる高貴な龍涎香の香り。
現れたのは、黄色い龍の刺繍が入った服を着た、初老の男性だった。
白髪交じりの髪を丁寧に結い上げ、背筋を伸ばして歩くその姿。
周囲には数十人の太監たちが付き従い、蠅を払うように恭しく道を開けている。
皇帝陛下である。
(げっ! 陛下だ!)
私はとっさにスマホを懐に隠し、道端の草むらに身を投げ出すようにして平伏した。
心臓がバクバクと鳴る。
皇帝陛下は、華妃様の元へ通う途中で、気まぐれに庭を散策していたのだろうか。
見つかったら怒られる。いや、最悪の場合、「不敬罪」で首が飛ぶ。
私は石になり、草になり、空気になろうと努めた。
(早く通り過ぎて! お願いだから気づかないで!)
しかし。
私の祈りも虚しく、その足音は私の目の前、鼻先数センチのところでピタリと止まった。
「……面を上げよ」
頭上から降ってきたのは、威厳ある、しかしどこか甘く粘り気のある声だった。
逆らえない重圧。
私は恐る恐る、ゆっくりと顔を上げた。
そこには、優しげだが妙にギラギラした目をした皇帝が立っていた。
初老とはいえ、腐っても皇帝。整った顔立ちをしているが、その瞳の奥には、すべてを手に入れた者が抱える特有の「渇き」のようなものが揺らめいている。
彼は私を見ると、大きく目を見開いた。
「おお……! なんという無垢な瞳だ……!」
(へ? 無垢? ただのビビって引きつってる目ですけど?)
皇帝は屈み込み、私の手を取ると、ぐいっと強引に引き寄せた。
太監たちが息を呑む気配がする。
「朕は長く生きてきたが、このように飾らぬ、自然な美しさを持つ娘は初めて見た。宮廷の女たちは皆、厚化粧で仮面を被り、媚びを売ることしか知らぬが……そなたは違う。野に咲く一輪の杏の花のように、清らかで、素朴だ」
(いやいや陛下、騙されないで! 私、今はたまたまスッピンですけど(華妃様のメイク係と動画編集で徹夜して顔洗うの忘れてただけ)、中身はゴリゴリの加工アプリ中毒者ですよ!? フィルターなしじゃ生きられない女ですよ!?)
私の心のツッコミは、当然ながら届かない。
皇帝の熱っぽい瞳が、至近距離で私を射抜く。
その手は、私の泥だらけの手を離そうとしない。むしろ、熱く湿った掌で、ねっとりと撫で回してくる。
「そなた、名は?」
「え、やまだはな……じゃなくて……き、杏花……にございます」
「杏花か。よい名だ。……朕の宮へ参れ。今宵、そなたと朝まで語り合いたい」
その言葉が落ちた瞬間、周囲の空気が凍りついた。
太監たちが顔を見合わせ、動揺しているのがわかる。
これは事実上の「召喚の命令」だ。
しかも、「自分の宮へ連れてこい(養心殿への召喚)」というのは、ただの後宮入りではない。特別待遇、寵愛の始まりを意味する。
ここで私の脳内会議が、緊急サイレンと共に招集された。数々の脳細胞という私の中で働く官僚たちが議論を繰り返す!
【脳細胞A 理性大臣(議長)】
『断れ! 全力で断れ! お前の主人は華妃だぞ! 主人の恋人(夫)を寝取るとか、一番やっちゃいけない裏切りだ! 華妃に知れたら井戸じゃ済まない、八つ裂きにされて肥料にされるぞ!』
【脳細胞B 恋愛脳推進委員会(景皇子推し)】
『無理無理無理! お前が好きなのは息子の景皇子でしょ!? 親父のところの行っちゃったら、永遠に結ばれなくなるぞ! 昼ドラ展開すぎる!推しの専心の心を思い出せ! 』
【脳細胞C 生存本能対策本部長(SE)】
『そもそも皇帝に気に入られたら、後宮中の女性から刺される! 皇后、華妃、その他の側室……全員敵に回すことになる! スマホを守るどころじゃない、逃げろ!』
答えは明白だ。
「恐れ多いことでございますが、私は華妃様にお仕えする身……」とかなんとか言って、辞退すべきだ。
景皇子のためにも、華妃様との友情(?)のためにも、そして私自身の平穏なサバイバル生活のためにも、絶対に断らなければならない。
しかし。
皇帝は私の手を両手で包み込み、潤んだ瞳――捨てられた子犬のような、あるいは愛に飢えた老犬のような瞳――で、こう言ったのだ。
「頼む、杏花。朕は……孤独なのだ」
ズキン。
私の心臓が、嫌な音を立てた。
「孤独……?」
「ああ。誰も彼も、朕の権力を愛しているだけ。朕の顔色を伺い、富と名声を求めて群がってくる。……だが、そなたの目は違う。そなたなら……朕自身を見てくれる気がするのだ」
皇帝は私の手を自分の頬に押し当てた。
温かい。
そして、その目は、かつて私に金をせびり、愛を囁いたダメ男たちと同じ、「依存」の色を帯びていた。
『俺にはお前しかいないんだ』
『世界中で俺を理解してくれるのはお前だけだ』
普通なら「うわっ、重い」「権力者が何甘えてんだ」となるところだ。
だが、山田花子の悲しき性。
「必要とされている」「好きだと言われた」「この人は孤独なんだ」という事実が、鉄壁の理性をショートさせる。
(ああっ……だめ……この人、私がいないとダメなタイプだ……!)
(国のトップなのに孤独? 可哀想……癒やしてあげなきゃ……!)
(私だけが、この人の本当の寂しさを埋めてあげられるのかもしれない……!)
ドーパミンの放出量が限界値を突破した! 長年の「ダメンズ教育」によって歪みきった母性本能が、暴走を始める。
景皇子のクールな顔が脳裏をよぎるが、目の前の「今すぐ助けを欲しがっている男」の引力には勝てない。脳内議会に非常戒厳が宣布された!!!
そう、私の口が、脳からの停止信号を無視して、勝手に動き出した。
「……は、はい。喜んで……」
言っちゃったーーーーーー!!!!!
私の口から出た言葉に、自分自身が一番驚愕した。
バカ! 私のバカ! ATM体質! ダメンズ・ウォーカー!
なんでここで「はい」って言うの!?
親子丼(比喩ではなく恋愛的な意味で)なんてハードル高すぎるでしょ!
しかも相手は皇帝! 国一番の権力者にして、国一番の「面倒くさい男」確定じゃない!
皇帝の顔が、パァァッと輝いた。
「おお、杏花! やはりそなたは、朕の運命の女だ!」
彼は私を抱きしめんばかりの勢いで喜び、太監たちに「今夜の宴の準備をせよ! 最高のご馳走を!」と叫んでいる。
私は引きつった笑顔のまま、心の中で絶叫した。
終わった。
私の平和なカメラマン生活も、景皇子との純愛ルートも、すべてが音を立てて崩れ去った。
これから始まるのは、皇帝の寵愛を巡る血で血を洗う女たちの戦いと、そして何より――「寂しがり屋の皇帝」のメンタルケアという、終わりのない介護生活だ。
まさか、この「ダメンズ・ウォーカー」の才能が、後宮で国を揺るがす大惨事(修羅場)を招くとは。
遠くで雷が鳴った気がした。それは、景皇子の怒りの雷か、あるいは華妃様の嫉妬の雷か。
どちらにしても、私の未来は「詰み」確定だった。
◇
「……杏花。貴女、正気?」
景陽宮に戻り、荷物をまとめている私を見て、華妃様は氷点下の声を出した。
その声は、怒鳴り声よりも遥かに恐ろしく、部屋の空気を一瞬にして凍てつかせた。
いつもなら甘い伽羅の香りが漂う寝室が、今は針の筵のように痛々しい。
華妃様は、豪奢な長椅子に座り、震える手で何かを握りしめていた。
私がプレゼントした「盛れる鏡」――スマートフォンだ。
画面には、数時間前に私たちがキャッキャと笑いながら撮影した、加工済みの美しいツーショットが映し出されているはずだ。
だが今の彼女には、それを見る余裕すらない。美しい顔が、裏切られた怒りと屈辱で般若のように歪んでいる。
「裏切り者。恩を仇で返すとはこのことね。私が目をかけてやったのに。泥の中から拾い上げ、専属の地位を与え、あまつさえ私の寝室で寝ることも許してやったのに……!」
彼女の長い爪が、スマホのカバーに食い込む。
「よりにもよって、陛下に取り入るなんて。私の目の届かぬところで、陛下を誘惑したのね? そうでしょう?」
「ち、違います華妃様! 誘惑なんて滅相もない! 取り入ったんじゃなくて、なんかこう、陛下が寂しそうで、断れなくて……気がついたら『はい』って言っちゃってて……!」
私は必死に弁明した。
嘘ではない。本当に、私の「NOと言えない病」と「ダメ男ホイホイ体質」が化学反応を起こした事故なのだ。
「同じことよ! 結果がすべてだわ!」
華妃様が立ち上がった。
右手に握られたスマホが振り上げられる。投げつける気だ。
私は身をすくめた。あの中に、私の全財産と、景皇子との絆と、AIの知恵が詰まっているのに!
「死になさい!」
振り下ろされた腕。
しかし、その手は寸前でピタリと止まった。
彼女の視線が、画面の中の「奇跡の一枚」に吸い寄せられたのだ。
これを壊せば、彼女の「真実の美」も永遠に失われる。その葛藤が、彼女の理性をギリギリで繋ぎ止めた。
「……っ、ああもう! 腹立たしい!!」
華妃様はスマホを投げるのを思いとどまり(やはり惜しいらしい)、代わりに手近にあった私の枕を、全力で投げつけた。
バフッ!
枕が私の顔面に直撃し、無力に床に落ちる。
「出てお行き! 今すぐによ! 二度と私の前に顔を見せないで! 次に会うときは、貴女が古井戸に沈む時よ!」
「か、華妃様……」
騒ぎを聞きつけて、麗華姫も駆けつけてきた。
事態を聞いた彼女は、扇子で口元を覆い、信じられないものを見る目で私を見つめた。
「杏花……貴女、バカ!? ほんもののバカなの?」
麗華姫の声には、いつもの棘はなく、純粋な呆れと、隠しきれない心配が滲んでいた。
「せっかく華妃に取り入って、安全地帯を確保したと思ったのに。あの好色爺(陛下)の毒牙にかかるなんて……。皇帝の寵愛なんて、一時の幻よ。飽きられたら終わり。その後は後ろ盾もなく、後宮の女みんなから敵にされて、死ぬよりも恐ろしいことになるのよ! 安息なんてどこにもないんだからね!」
「ううっ、否定できません……! 自分でもなんであんなこと言っちゃったのか……!」
麗華姫は呆れ果て、そして悔しそうに唇を噛んだ。
彼女なりに、私との「動画仲間」としての友情を大切にしてくれていたのだ。それが、私の浅はかな行動で壊れてしまったことが、悲しいのだ。
「こうなったからには、何としてでも赤ちゃん、それも男の子を作るしかないわよ! できなかったら、そのへんの庶民だろうがなんだろうがこっそり赤ちゃんを連れてきて皇帝のご子息ですっていいと押すしかないでしょうね! そしてその男の子をなんとしてでも……立太子は無理でも……郡王以上にはさせないといけないわ。それしか生き残る方法はないわよ!」
「そ、そんなーーーー」
ここまで来て、事の重大さがやっと飲み込めてきた。もう皇帝の妃というアイデンティティを命をかけて守らねばならないのだ。宮廷の諍い女の、あの泥沼の権力争いに身を投げ打たねばならない! でも、それじゃあもう景皇子は! OL山田花子はーーーーーー
「姫様……どうして……いいえ、わたくしが悪うございました……」
蘭馨は、冷静を取り繕おうとしているが、明らかに目の奥に恐怖が曇っている。
「わたくしが……わたくしがもっと厳しく、殿方を見る目を養う訓練をしておけば……。シャシャシャシャ歩きよりも、そちらを優先すべきでした……!」
「蘭馨、ごめん……。本当にごめん……」
こうなったからには蘭馨にも大きな影響が出ることだろう。
私も泣きたい。
なんで私の「NOと言えない病」は、時空を超えて、宮廷に来てまで発動するのよ!
しかも相手は皇帝。
一度あやふやに言ってしまった以上、もう後戻りはできない。
◇
華妃様に景陽宮を追い出され、私は行く当てもなく、黄昏時の庭園をトボトボと歩いていた。
私の手元にあるのは、身一つと、景皇子から託されたモバイルバッテリーだけ。
スマホは華妃様に没収されてしまった(というか、置いてこざるを得なかった)。
「はぁ……」
深いため息が漏れる。
秋の風が冷たい。
華妃様の部屋の、あの暖かな火鉢とふかふかのラグが恋しい。
私は自ら、あの楽園を捨てて、修羅の道へと足を踏み入れてしまったのだ。
「……愚か者め」
不意に。
風の音に混じって、低く、凍えるような声が聞こえた。
ビクリと肩を震わせ、顔を上げる。
庭園の柳の木陰。夕闇が濃くなり始めたその場所に、一つの人影が立っていた。
鋭い視線を、私に向けて立っていたのは――景皇子だった。
「……杏花」
彼の声は、かつてないほど低く、冷たく、そして静かだった。
ドラマで見ていた「冷徹な皇子」の演技など比ではない。本物の殺気と、激情を孕んだ静寂。
私は足がすくみ、その場に立ち尽くした。
「け、景皇子……」
「噂は聞いた。……父上の所へ向かうそうだな」
彼はゆっくりと、一歩ずつ私に近づいてくる。
その足音は、死刑執行人のように規則正しく、重い。
「父上が庭でそなたを見初め、夜伽を命じたと。……そしてそなたは、それを承諾したと」
彼の瞳には、軽蔑の色が見えるかと思った。
「やはりお前も権力に弱い女だったか」と、見下されるのだと思った。
だが、違った。
夕闇の中で光る彼の瞳にあったのは、燃えるような怒りと、深い悲しみ。
そして――強烈な、ねっとりとした嫉妬の炎だった。
「そなたは……私が救った命だ」
彼は私の目の前で立ち止まった。
その距離、わずか数センチ。
彼の吐息がかかるほどの至近距離で、私は彼を見上げる。
「あの夜、バッテリーを渡し、生き延びろと言ったのは私だ。私の知恵で、私の与えた光で、そなたは今日まで生き延びてきた」
彼の言葉には、所有欲が滲んでいた。
彼は私を「一人の人間」として見ていると同時に、「自分が生かした女」としても認識していたのだ。
「それを、よりにもよって……父上が奪うだと?」
ガシッ。
彼は私の手首を掴んだ。
痛いほど強く。骨が軋むほどの力で。
「……断れなかったのか」
問いかける声が震えている。
「も、申し訳ありません……。私、押されると弱くて……『君しかいない』とか『孤独だ』とか言われると、つい……」
「呆れた女だ」
彼は吐き捨てるように言った。
だが、手首を掴む手は離さない。
それどころか、彼は私を強く引き寄せ、逃げ場を奪うように抱きすくめた。
「っ……!?」
白檀と、雨の匂いが混じった彼の香りが、私を包み込む。
彼の心臓の音が、私の胸に直接響いてくるようだ。速い。激しい。
いつも冷静沈着な彼の、制御できない感情の奔流。
「だが、覚えおけ」
彼は私の耳元に唇を寄せ、低い声で囁いた。
その声は、甘い愛の囁きではなく、呪詛にも似た誓いの言葉だった。
「……私は、欲しいものは手段を選ばず手に入れる」
「え?」
「父上だろうと関係ない。皇帝だろうと、天だろうと、私の邪魔はさせない」
彼は私の手首を掴んだまま、私の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳の奥にある暗い炎が、私を焼き尽くすように揺らめいている。
「そなたを、必ず奪い返す」
ドクンッ!!
その瞬間、私の心臓が爆発した。
なにこれ。
ヤンデレ? 略奪愛?
それとも、親子を巻き込んだ泥沼の骨肉の争いの幕開け?
私の「ダメンズ・ウォーカー」の才能が、ついに最強最悪のルートを引き当ててしまったのか。
孤独な皇帝(父)と、執着する皇子(子)。
その間に挟まれた、意志薄弱なATM体質の女(私)。
昼ドラでもここまでドロドロしない。
「い、今は……無理です。皇帝陛下の命令には逆らえません……」
私が震える声で告げると、景皇子はフッと自嘲気味に笑った。
「わかっている。……行け。……今は、な」
彼は、未練を断ち切るように私の手を突き放した。
その手には、私の手首の熱が残っているようだった。
「だが、忘れるな。そなたの『充電』をしたのは私だ。その命の所有権は、まだ私にある」
彼はそう言い残し、漆黒の衣を翻して闇の中へと消えていった。
残されたのは、手首に残る痛さと、耳元に残る彼の熱い吐息の余韻だけ。
「……はぁ、はぁ……」
私はその場にへたり込みそうになった。
なんなの、今の。
心臓が持たない。
恐怖と、ときめきと、絶望がないまぜになって、脳みそがショートしそうだ。
風立ちぬ、いざ生きめやも
私は迷路のような回廊を抜け、ようやく景陽宮の自室に戻った。
扉を開けると、そこには既に異様な空気が充満していた。
「敬事房」の太監たちと、数人の無表情な宮女が、まるで獲物を待つ狩人のように待ち構えていたのだ。
「杏花姫様、お迎えに上がりました。さあ、刻限が迫っております。急ぎご準備を」
太監長らしき男が、抑揚のない声で告げる。
その瞬間、私の意思決定権は剥奪された。ここからは、ベルトコンベアに乗せられたマグロのように、私の意志とは無関係に、厳格かつ奇妙な儀式が進んでいった。
① 洗浄と化粧
「さあ、こちらへ」
有無を言わさず、私は部屋の奥にある湯殿に放り込まれた。
湯気の中に、数人の宮女が待ち受けている。彼女たちは私を見ると、一斉に襲いかかってきた――いや、体を洗い始めた。
「痛い痛い! 皮が剥ける!」
宮女たちは無言で、ヘチマのようなもので私の全身をゴシゴシと洗う。隅々まで、それこそ指の先から耳の裏まで、執拗なまでに磨き上げられる。それは「入浴」というよりは「洗浄」、あるいは「消毒」に近い作業だった。
そして風呂から上がると、今度は顔面工事だ。そとで女官たちが待っている。
「姫様、今宵は陛下のお好みである、古風で艶やかなお化粧を施します」
宮女が重々しく告げると、私の顔に白粉が塗りたくられた。
パフパフと粉が舞う。喉が詰まりそうだ。
現代のナチュラルメイクとは対極にある、能面のような厚塗り。眉は剃り落とされたかのように細く描かれ、唇には血のように赤い紅が差された。
鏡の中の私は、もはや山田花子でも杏花でもなんでもない。昔から「粉飾太平」とはよく言ったものだ……
② 武装解除
「では、お召し物をすべて脱いでいただきます」
「……すべて着替えるということですね……」
「はい。御存知の通り、簪一つ、布切れ一枚残してはなりません。暗殺の武器を隠し持っていないことを証明するためです」
太監の声は事務的だが、その視線は私の全身を値踏みするようだ。
私は簡素な、内衣のみとされた。
恥ずかしいとか言っている場合ではない。これは検疫だ。危険物を持ち込ませないための、徹底した身体検査なのだ。
心臓が早鐘を打つ。怖い。このまま、本当に皇帝の元へ運ばれるのか。逃げ場はないのか。
③ 簀巻きの刑
そして、太監が巨大な黄色い厚手の布団を床に広げた。
龍の刺繍が施された、皇帝専用の寝具だ。
「さあ、こちらへ」
私は布団の端に転がされた。
そして、海苔巻きの具材のように、くるくると厳重に巻かれていく。
手足の自由が奪われる。視界が塞がれる。
厚い綿の感触と、独特のお香の匂いが鼻孔を満たす。
私は完全に拘束された「荷物」となった。
足首だけが外に出され、そこを太監がガシッと掴んで担ぎ上げる。
「いざ、参る!」
太監の掛け声とともに、身体が宙に浮く。
私はミノムシ状態で担がれ、夜の渡り廊下を運ばれていった。
視界は真っ暗。揺れる振動だけが伝わってくる。
太監の足音、遠くで聞こえる夜番の鳴らす拍子木の音。
恐怖で呼吸が浅くなる。
(戻りたい。帰りたい。誰か助けて……)
心の中で叫んでも、声は布団に吸い込まれて消えていく。
◇
養心殿。
どれくらいの時間が経っただろうか。
扉が開く重厚な音と共に、周囲の空気が変わった。
温かく、そして甘い龍涎香の香りが漂う寝室。
ここが、国の中心。皇帝の寝所だ。
ドサッ、と私は巨大な龍の寝台の上に置かれた。
「陛下、お連れいたしました」
太監の恭しい声と共に、毛布の端がめくられる。
まぶしい光が目に飛び込んでくる。
私は目を細めながら、恐る恐る視線を上げた。
そこには、寝衣姿の皇帝陛下が座っていた。
「おお……杏花。待っていたぞ」
皇帝は、簀巻きから転がり出た私を見て、満足げに頷いた。
白粉で塗り固められ、緊張で強張ったその顔を、彼は愛おしそうに見つめる。
「昼間見た時とはまた違う美しさだ……。やはり余の目に狂いはなかった。」
皇帝は優しく、しかし拒絶を許さない力強さで私の手を取り、引き寄せた。
彼の指が、私の頬を撫でる。
その手は熱く、湿っていた。
恐怖で喉が張り付き、声が出ない。ただ、操り人形のように頷くことしかできなかった。
◇
「時間でございます――!!」
その鋭い声は、甘美な夢を切り裂く処刑人の刃のように、養心殿の重厚な空気を震わせた。
30分。それが、皇帝の健康と、後宮の秩序を守るために定められた絶対的な刻限だった。
蝋燭の炎がゆらりと揺らぎ、壁に巨大な龍の影を落とす。皇帝陛下は名残惜しそうに、けれど規則には逆らえぬという諦めを含んだ溜息を漏らし、寝台から身を起こした。
再び太監たちが、影のように音もなく、けれど迅速に入ってくる。
彼らの手つきには一切の無駄がなかった。再び物言わぬ「荷物」として処理される。
鮮やかな黄色の羅紗でできた巨大な布団が広げられ、私はその中心に転がされた。
抵抗など許されない。私はまな板の上の魚のように、あるいは出荷を待つ絹織物のように、手際よく、かつ厳重にくるまれていく。
視界が遮断され、分厚い綿の匂いと、皇帝の残り香である龍涎香の甘ったるい香りが鼻腔を満たす。
ミノムシのような簀巻き状態。手足の自由は奪われ、ただ呼吸をするだけの存在となる。
「いざ、参る!」
太監の低い掛け声とともに、身体が宙に浮く。
再び、あの暗く長い回廊の移動が始まった。
ゆらり、ゆらり。
担ぎ手たちの規則正しい足音が、心臓の鼓動と重なる。
厚い布団越しに伝わる夜風の冷たさが、火照った頬をかすめる。
暗闇の中で、私は安堵の息を吐いていた。
終わったのだ。
最も恐ろしく、最も長く感じられた夜が、ついに幕を下ろしたのだ。
全身の力が抜け、泥のような疲労感が襲ってくる。張り詰めていた糸が切れ、指先が微かに震えているのがわかった。
どれほどの時間が経っただろうか。
景陽宮の自室に戻り、慣れ親しんだ寝台の上に、ドサッと重い音を立てて降ろされた。
布団の隙間から、見慣れた天井の梁が見える。
太監たちは「お務めご苦労様でした」と事務的に、感情のこもっていない声で告げると、足早に去っていった。彼らにとってこれは毎夜繰り返される業務の一環に過ぎないのだ。
部屋に、重苦しい静寂が戻る。
いや、完全な静寂ではない。衣擦れの音が近づいてくる。
そこに一人の老女官があらわれた。老女官と言っても30前後だろう。しかし、周りの女官は皆10代であるからして、相対的に老女官だ。彼女は、部屋の隅で様子を伺っていた若い宮女たちを一瞥した。その眼光だけで、すべてを悟らせる威厳があった。
「杏花姫様、お疲れでございましょう。そなたたちも下がりなさい。後のことは私が引き受けます」
謎の老女官はその場にいるすべての宮女を下がらせた。
扉が閉められる音が響き、閂が下ろされる。
部屋は私と老女官だけである。
誰の目もない、完全なる密室。部屋には、張り詰めた静寂だけが満ちていた。
もぞり。
私は毛布を必死にもがき、芋虫のように這い出した。
幾重にも巻かれた拘束を解き、冷たい空気を肌に感じる。
乱れた髪、汗ばんだ肌、そしてまとわりつくような残り香。
「はぁ……はぁ……死ぬかと思った……」
全身汗だくだ。それはただの暑さのせいではない。極限の緊張と恐怖が噴き出させた冷や汗だった。
足が震えて立ち上がれない。這うようにして、部屋の奥にある化粧台へと向かう。
鏡の前。
揺れる灯火に照らされたその場所へたどり着くと、私は水桶に手を突っ込んだ。
氷のように冷たい水が、熱を持った肌を刺す。
濡らした手拭いで、顔を覆う厚塗りの化粧を、皮膚が剥がれるほどの勢いで乱暴に拭い取った。
ゴシゴシと擦るたびに、水が白く濁り、朱色の紅が血のように滲んでいく。
塗り固められた「皇帝好みの仮面」が剥がれ落ち、その下から、隠されていた真実の肌色が露わになる。
そして、鏡の中に映った「すっぴん」の顔を見て――
そこにいたのは、杏花こと山田花子ではなかった。
そこに映っていたのは、恐怖と緊張で青ざめ、目元を赤く腫らし、魂が半分抜け落ちたような表情をした、侍女の蘭馨の顔だった。
「……ひ、姫様ぁぁぁ……!!」
鏡の中の蘭馨が、堰を切ったように泣き出した。
身代わりとして務め上げたのは、この忠実で健気な侍女だったのだ。
彼女は震える手で顔を覆い、子供のようにしゃくりあげた。
どれほど恐ろしかっただろうか。
バレれば即座に処刑される極限状況。正体を隠し通したその精神的負荷は計り知れない。
老女官は、ゆっくりと蘭馨に近づいた。
その表情は、先ほどまでの冷徹な策士の顔ではなく、慈悲深い母のような温かさを帯びていた。
「よくできました……」
短く、しかし深い労りのこもった一言。
そう言い残した。
蘭馨は鏡の前で泣き崩れたーーー
うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
蘭馨の口から、押し殺していた絶叫に近い慟哭が溢れ出した。
床に崩れ落ち、体を小さく丸めて泣きじゃくる彼女。
その小さな背中が、あまりにも痛々しく、そして尊かった。
老女官は彼女をそっと抱いた。
震える肩を包み込み、乱れた髪を優しく撫でる。
「宮女にあるまじきことですが……今日は泣くことを許しましょう……。そなたのその涙が、主君の未来を繋いだのですから」
◇
時を少し遡ろう。
「無理! 無理無理無理! やっぱり無理ーーー!!」
湯気が立ち込める景陽宮の湯殿。
薔薇の花びらが浮かぶお湯に浸かりながら、私(杏花)は錯乱状態に陥り、パニックを起こしていた。
お湯の温かさなど感じない。全身の毛穴から冷や汗が噴き出している。
「断れない病」でここまで来たが、いざ現実が数十分後に迫り、私のチキンハートは粉々に粉砕されたのだ。
皇帝陛下。国の最高権力者。
昼間は「寂しい」という言葉にほだされたが、冷静になればなるほど事の重大さに押しつぶされそうになる。
それに、何より。
脳裏にちらつくのは、夕暮れの庭園で見た、あの景皇子の悲しそうな顔だ。
『必ず奪い返す』という、背筋が凍るほどの執着と情熱を秘めたヤンデレ宣言。
これじゃあ景皇子への裏切りとなる。
それだけは嫌だ! 絶対に嫌だ!
「蘭馨! 助けて! 私、お腹痛い! 仮病使う! 『正体不明の急性の疫病、そう、新型コロナ陽性が出た、パンデミックだ』って言って!」
「ひ、姫様!? ぱんでみっく とはバンバンジーの仲間ですか?! 今更そんなこと、通用しません! 皇帝陛下を愚弄した罪で、その場で首が飛びます! 姫様だけでなく、わたくしも、華妃様も、全員道連れです!」
「じゃあどうすればいいのよぉぉ! もう窓から飛び降りたいぃぃ!」
泣き叫び、湯船のお湯をバシバシと叩く私を見て、蘭馨はだいぶ呆れていた……いや、彼女もまた絶望的な表情で、一緒にオロオロするしかなかった。
ところが!
私が湯殿から上がり、濡れた髪もそのままに、宮女たちに取り囲まれて白粉を塗られ始めた時のことだ。
「失礼いたします」
不意に、部屋の空気が変わった。
音もなく、まるで影から滲み出るように入ってきたのは、見慣れぬ年配の女官だった。年配と言っても年はおそらく30前後。だがこの宮中では、精神年齢が現代と比べて20歳くらい増々に見える。
目つきが鋭く、その所作一つ一つに洗練された無駄のなさが宿っている。
彼女が懐から、龍の紋章が刻まれた小さな印籠のようなものを見せると、周りの宮女たちはハッとしたように顔を見合わせ、まるで催眠術にかかったかのように、一言も発さず無言で部屋から退出していった。
(えっ、なに? 新手の暗殺者!? 口封じ!?)
私がタオルで胸を隠しながらガタガタと震えていると、その女官は私の目の前に立ち、私の顔をじっと見つめた後、短く告げた。
「杏花様。これより『入れ替わり』を行います。時間はありません」
「い、入れ替わり……?」
彼女は私の返事を待たず、手際よく私が着せられかけていた高級なシルクの寝間着を剥ぎ取ると、あらかじめ用意していた粗末な下級女官の服を押し付けた。
「これを着て、裏口から出てください。北の城壁沿いにある『古井戸』のそばまで走るのです。そこで待っている者がおります」
「えっ、でも、皇帝陛下が……! 待っておられるのに、誰も行かなかったら……!」
「陛下のお相手は、こちらに務めさせます」
謎の女官は、ものすごく鋭い視線を、部屋の隅で小さくなっていた蘭馨に向けた。
そして、躊躇することなく蘭馨の手を引き、強引に化粧台の前に座らせたのだ。
「ひぃっ!?」
老女官は、マジックのような手つきで蘭馨の顔に筆を走らせ始めた。
白粉を厚く塗り、眉の形を変え、唇に紅を引く。その手際は、メイクというよりは「変装」のプロフェッショナルだった。
「蘭馨、そなたは顔の骨格が杏花様に似ている。目元の配置も近い。厚化粧で化け、部屋の明かりを落とせば、特に観察力がいいわけでもない陛下には、暗がりなら誰も気づきません。……覚悟はできていますね?」
「か……覚悟とは……それは……つまり……!」
蘭馨の声が裏返る。
それはつまり、皇帝との時間を、姫の代わりに務めるということ。
それはつまり“すべて”を捧げるということ。
そして何より、バレたら「皇帝を欺いた大罪人」として、最も残酷な方法で処刑されるリスクを負うということだ。
「覚悟ができているのかと聞いているのです!」
女官の一喝が飛ぶ。
蘭馨はあまりに突然のことで、恐怖とあまりの任務の膨大さに涙目になり、唇を血が出るほど噛み締めた。
しかし、彼女は私の顔を見た。
震える私を見て、彼女の目に光が宿った。
「は、はいっ……! 姫様のためなら……! この命、惜しくはありません!」
蘭馨は、ギリギリのところで涙腺の防波堤を貫き通し、悲壮な決意で頷いた。
やはりここは後宮で仕える宮女だ。主君のためなら己を殺す、その忠誠心は本物だった。
「蘭馨……っ! ごめん、本当にごめん……!」
私は泣きながら謝った。
自分の尻拭いを、この大切な友人にさせてしまう。その罪悪感で押しつぶされそうだった。
老女官は私に向き直り、鋭く言った。
「さあ、早く! 蘭馨の献身を無駄になさるな! 景皇子様がお待ちです!」
「け、景皇子……!?」
やはり、これは彼の手引きだったのか。
私は頷き、下級女官の服の帯を締めた。
私は蘭馨の手を一度だけ強く握りしめ、その冷たく震える指先に自分の体温を伝えた。
「絶対に戻ってくるから! 死なないで! 必ず迎えに来るから!」
そう叫んで、私は振り返ることなく裏口から飛び出したのだった。
背後で閉まる扉の音が、私の退路を断つ音のように聞こえた。
夜の闇が、私を飲み込む。
ここからは、私自身の戦いだ。走り続けなければならない。蘭馨が命懸けで作ってくれたこのチャンスを、無駄にするわけにはいかないのだ。
◇
そして現在。
私は下級女官の服を纏い、夜の闇に紛れて走っていた。
冷たい夜風が頬を切り裂くように吹き抜ける。粗末な麻の衣擦れの音が、静まり返った紫禁城の裏道に不気味に響いた。
心臓が破裂しそうだ。
ドクン、ドクン、ドクン。
肋骨を内側から激しく叩くその音は、まるで早鐘のようだった。
もし、ここを通る巡回の衛兵に見つかったら? もし、誰かが私の顔を覗き込み、それが「皇帝の寵愛を受けるはずの杏花姫」だと気づいたら?
即、打ち首獄門。
言い訳も、弁解も通用しない。私だけでなく、身代わりになった蘭馨、手引きをした老女官、そして関わった全ての人間の命が、露と消えるのだ。
(北の古井戸……北の古井戸……!)
頭の中で呪文のように繰り返す。
足がもつれる。履き慣れない布靴の底が、石畳の冷たさをダイレクトに伝えてくる。
恐怖で足がすくみそうになるたびに、蘭馨の泣き顔と、彼女の手の最後の温もりを思い出した。
「走れ」
私の足に力を込めるのは、生存本能ではない。友への誓いだ。
息を切らし、喉が焼け付くような痛みを覚えながら、ようやく指定された場所にたどり着いた。
そこは、華やかな表御殿とは無縁の、鬱蒼とした木々に囲まれた一画だった。
長く使われていない古井戸が、黒い口を開けて静かに鎮座している。周囲の空気は澱み、湿った土と枯れ葉の匂いが鼻をつく。人目につかない、まさに密会にはうってつけの場所だ。
月明かりの下、一頭の黒馬が静かに佇んでいる。
闇に溶け込むような漆黒の毛並み。筋肉の隆起した逞しい脚。鼻息が白く蒸気となって立ち上り、生き物としての圧倒的な熱量を放っている。
そして、その手綱を握っている人影があった。
「……遅かったな」
その声に、私はへなへなと座り込みそうになった。
低く、涼やかで、けれど微かに焦燥を含んだその響き。
張り詰めていた緊張の糸が、一気に緩んだ。
「け、景皇子……!」
そこにいたのは、夜の闇よりも深い漆黒の外套に身を包んだ景皇子その人だった。
月光が彼の整った横顔を照らし出す。いつもの氷のように冷ややかな表情の中に、隠しきれない焦燥と、そして私を見つけた瞬間の安堵の色が混じっているのを、私は見逃さなかった。
「謎の女官に言われて……。あれは、貴方の差し金ですか?」
まだ信じられない思いで尋ねる。
あの厳格な、しかしどこか温かみのある老女官。彼女の鮮やかな手引きがなければ、私は今頃、皇帝の寝台の上で絶望に泣いていただろう。
「私の乳母だ。宮中で、私が最も心を許せる人間だ」
景皇子は短く答えた。
その言葉の裏に、彼がこの宮廷で抱えてきた孤独と、乳母への深い信頼が垣間見えた気がした。彼は、私を救うために、自身の最も大切な「切り札」を使ってくれたのだ。
彼は私の返答を待たず、黒革の手袋に包まれた手を差し伸べた。
「来るんだ、杏花。ここから出るぞ」
「で、出るって……どこへ?」
「どこか遠くへだ。父上の手の届かぬ場所へ」
彼の瞳には、迷いなど微塵もなかった。
皇帝から女を奪う。それは、実の父への反逆であり、皇族としての地位を捨てるに等しい行為だ。
それを、彼は事もなげに言ってのけた。
彼は有無を言わせぬ力強さで私の腕を引き、軽々と馬上に引き上げた。
私の体が宙に浮く。
次の瞬間、私は鞍の上に座らされ、すぐ背後に景皇子が飛び乗ってきた。
私の背中に、彼の温かい胸板が密着する。
ドクン、と心臓が跳ねた。これは恐怖ではない。ときめきだ。
分厚い外套越しでも伝わる、彼の体温と、力強い鼓動。
白檀の香りと、夜露の冷たい匂い、そして馬の獣臭が混じり合い、私の感覚をくらくらとさせる。
「しっかり掴まっていろ。舌を噛むぞ」
耳元で囁かれる低い声。吐息が耳にかかり、背筋がゾクゾクと震えた。
「えっ、ちょっ、タンマ! 心の準備が――!」
ヒヒィィン!!
私の抗議も虚しく、景皇子が手綱をさばくと、黒馬はいななきを上げ、矢のように駆け出した。
「きゃあああああ!!」
悲鳴は、瞬く間に後方へと置き去りにされた。
風が、ごうごうと耳元で唸る。
景色が流れる。いや、溶けるように後方へすっ飛んでいく。
私たちは宮廷の裏道を、信じられないスピードで疾走した。
かつてOL時代、終電間際のタクシーで飛ばしたことならある。
だが、生き物の背に乗って疾走する感覚は、それとは別次元の恐怖と高揚感があった。
馬の背中が波のようにうねり、そのたびに私の体は大きく揺さぶられる。
振り落とされないように、私は必死で景皇子の腕にしがみついた。彼の腕は鋼のように硬く、手綱を巧みに操っている。
「誰だ!」
「止まれ! 曲者だ!」
衛兵たちの怒号が聞こえる。松明の灯りが、あちこちで揺れる。
城内は騒然とし始めていた。
だが、景皇子は止まらない。
彼は迷路のような後宮の道を熟知しているようで、衛兵の死角を縫い、暗がりを選び、風のように駆け抜けていく。
「あそこだ……!」
景皇子が短く呟いた。
目の前に、巨大な北門が迫ってきた。
紫禁城の裏門にあたる、堅牢な鉄の門。
閉ざされた門。その前には槍を持った数十人の兵士たちが、蟻の這い出る隙間もないほどに立ち塞がっている。
絶望的な光景だ。
あの壁を、この馬で飛び越えることなど不可能だ。
「景皇子! 門が閉まってます! 激突します! 死にます!」
私は目をぎゅっと閉じた。
だが、景皇子の腕に込められた力は緩まない。
「問題ない!」
彼は叫ぶと、片手で手綱を操りながら、懐から何かを取り出した。
月光を浴びて黄金色に輝く、重厚な金属の板。「通行手形」だった。
「緊急勅命である! 道を開けよ!!」
雷鳴のごとき怒声。
その声には、単なる大声ではない、生まれながらの支配者だけが持つ「覇気」が込められていた。
凄まじい気迫と、闇夜でも隠しきれない皇族のオーラに圧倒されたのか、兵士たちは咄嗟に道を開け、門の閂に手をかけた。
「開門――ッ!!」
兵士長の震える声が響く。
ギギギギ……と、錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、重たい門がゆっくりと開き始めた。
完全に開ききるのを待つ時間はない。
「行けッ!」
景皇子が馬腹を蹴る。
黒馬がさらに加速する。
私たちは、開きかけた扉のわずかな隙間へ、弾丸のように飛び込んだ。
一瞬の暗闇。
そして。
抜けた。
外だ。
外界の空気が、顔に当たる。
それは、澱んだ宮廷の空気とは違う、冷たく、乾燥した、自由の匂いがする風だった。
馬はそのまま速度を緩めず、広大な平原へと躍り出た。
「はぁっ、はぁっ……!」
私は荒い息を吐きながら、後ろを振り返った。
背後に遠ざかっていく紫禁城。
赤い壁、金色の屋根。あんなに巨大で、絶対的で、私を閉じ込めていた牢獄が、みるみるうちに小さくなっていく。
それはまるで、悪い夢が夜明けと共に消え去っていくような光景だった。
「はぁ……はぁ……すご……本当に、出ちゃった……」
私は馬上で、景皇子の腕にしがみついたまま、震える声で呟いた。
これは誘拐? 駆け落ち? それとも亡命?
どれも正解で、どれも違う気がする。
私は今、歴史の表舞台から転がり落ち、名もなき荒野へと逃げ出したのだ。
「……言っただろう」
頭上から、低い声が降ってきた。
夜風に消え入りそうな声だったが、私の耳にははっきりと届いた。
鼓膜を震わせ、心臓を直接掴むような、重く、熱い響き。
「必ず、奪い返すと」
私は恐る恐る顔を上げ、彼の顔を見た。
月明かりに照らされたその横顔。
整った鼻筋、長い睫毛、そして固く結ばれた薄い唇。
いつもは能面のように感情を見せない彼が、今は少しだけ口角を上げ、清々しく、そしてどこか楽しげに見えた。
父の呪縛を断ち切り、自分の意志で運命を選び取った男の顔だ。
「景様……。でも、こんなことをしたら、貴方の立場が……」
皇位継承権の剥奪はもちろん、反逆罪で追われる身になるかもしれない。
私のために。たかが、一人の女のために。
「構わぬ」
彼は前を見据えたまま、言い放った。
「父上と女を奪い合うなど、反吐が出る。だが……そなたをあの薄暗い後宮で腐らせるよりは、よほどマシな選択だ」
その言葉に、胸が熱くなった。
彼は、私の「価値」を認めてくれた。
都合のいい女としてではなく、一人の人間として、リスクを冒してでも救う価値があると判断してくれたのだ。
それは、私が今までの人生でずっと求めていた、何よりも欲しかった「肯定」だった。
彼は手綱を握り直し、馬の速度をさらに上げた。
黒馬は風になり、荒野を切り裂いていく。
「行くぞ、杏花。私の秘密の隠れ家がある。そこなら、誰も追っては来れない」
「隠れ家……」
私は、彼のたくましい腕の中に身を預け、前を向いた。
背中の温もりが、冷え切った私の心を溶かしていく。
私の心のエネルギーも、今は満タンだ。
「はい! どこへでもお供します! ……私、もう戻れませんから!」
私の叫び声が、夜空に吸い込まれていく。
馬は夜の荒野を、風のように駆けていく。
行く手には、果てしない闇と、無数の星々が広がっているだけだ。
身代わりになった蘭馨のことだけが気がかりだが、あの謎の女官(乳母さん)がついているなら、きっと上手くやってくれるはずだ。(と信じたい。ごめんね蘭馨、必ず迎えに行くからね!)
こうして、杏花こと山田花子は、皇帝との約束をすっぽかし、イケメン皇子と共に宮廷を脱出するという、前代未聞の大罪人にしてヒロインとなったのである。
行き先は不明。明日の運命も不明。
確かなのは、今、私の人生がドラマのクライマックス並みに盛り上がっているということだけだ。
