見出し画像

月が綺麗ですね、とでも訳しておけーー姫失格⑤

「もうすぐだ、杏花。あの丘を越えれば……」
手綱を握る景(けい)皇子の力強い声が、夜風に乗って耳元で響く。
背中からは、彼の逞しい胸板の熱が伝わってくる。
私は彼の腕の中にすっぽりと包まれながら、月の光が照らす荒野を疾走していた。
ドラマティックな逃避行。命懸けの脱出。
これぞまさに「吊り橋効果」の極み。私の心臓は早鐘を打ち、胸のトキメキは最高潮に達していた。
……だったのだが。
ふと、私の脳裏に、ある記憶が稲妻のように閃いた。
それは、トキメキというピンク色の霧を一瞬で吹き飛ばす、冷ややかな警告だった。
「わああああああああっ!! む、無理無理無理! ストップ! ストップですぅぅぅ!!」
「なっ!?」
私は半狂乱で暴れ出した。
突然腕の中で暴れだした私に、景皇子は驚愕し、敏感な黒馬が大きく嘶(いなな)く。
バランスを崩した私は、景皇子の腕をすり抜け、宙に投げ出された。
「あっ」
危うく落馬して首の骨を折る――かと思われたが、そこはさすが武芸の達人・景皇子だ。
彼は瞬時に手綱を離し、私の体を空中でガシッと抱き止めた。
そのまま二人して、もつれ合うように草むらに転がり落ちる。
ドサッ、ゴロゴロ……。
枯れ草の匂いと土の匂い。
回転が止まると、私の上には景皇子が覆いかぶさるような体勢になっていた。
「杏花! 大丈夫か!?」
景皇子が血相を変えて私を揺さぶる。
その瞳は、いつもの冷静さをかなぐり捨て、真剣そのものだ。
「敵襲か? それとも毒矢でも受けたのか!? どこが痛む!?」
彼は素早く周囲を警戒し、私の体に怪我がないか確認しようとする。
私はといえば、草まみれの頭を上げ、気まずそうに視線を泳がせた。
「あ、いえ……あの……敵とかじゃなくて……」
「では何だ? 発作か?」
「ええと……その……」
私は小さくなりながら、蚊の鳴くような声で言った。
「今考えたら、そんな重大なことじゃないんですけど……」
「重大なことじゃないだと?」
景皇子の眉間に、深い皺が刻まれる。
「突然叫び出して暴れ、あわや落馬という事態を招いておいて、重大ではないと? 正気の沙汰ではないぞ。説明しろ」
「すみません……。でも、これには海より深いわけがありまして……」
私は膝を抱え、夜空を見上げながらポツポツと語り始めた。
私の、山田花子としての、切なくも温かい「呪い」の話を。

前にも話した通り、現代での私――山田花子は、家族の中で極めて影が薄い、あるいは「道具」としてしか認識されていない存在だった。
姉にとっては、自分の美貌を記録させるための都合の良いカメラマン兼侍女。
弟からは、欲しいものを買わせるための便利なATM。
そして母親に限っては、人間としてすら見てもらえていなかった。「一姫二太郎」という理想の家族構成を崩した「余計なパーツ」。それが私だった。
リビングにいても、私の居場所はなかった。
姉と母が楽しそうに服の話をし、弟がゲームをしている横で、私はただ空気を読んで、愛想笑いを浮かべているだけ。
「花子はいいわね、悩み事がなさそうで」
そんな言葉を投げつけられるたびに、私はへへへと笑っていた。
そんな孤独な環境の中で、唯一、私を一人の人間として、いや、目に入れても痛くない孫として愛してくれた人がいた。
父方の祖母、おばあちゃんだ。
実家から電車で三十分ほどの距離にある、古びた一軒家。
そこにはいつも、線香と畳の匂い、そして甘辛い味噌の香りが漂っていた。
「花子はええ子だがね、花子はほんとにええ子だがね」
これがおばあちゃんの口癖だった。
皺だらけの手で私の頭を撫で、何度も何度もそう言ってくれた。
花子がいくら「姉ちゃんのほうがきれいだし、弟は男の子だけど、私は何にもいいとこないよ」といじけても、おばあちゃんは首を横に振った。
「いーや、花子が一番ええ子だがね。優しいし、器量良しだがね。あいつらは目が節穴だで、わかっとらんだけだわ」
頑としてそう言い張る人だった。
そんなこんなで、お母さんが「あの人の世話は大変だから」と介護を嫌がり、姉や弟が「お小遣いが貰える時しか行きたくない」と寄り付かないのに対し、花子はずっとおばあちゃんと一緒にいた。
学校が終わると、あえて実家には帰らず、おばあちゃんの家に直行した。
縁側で宿題をし、おばあちゃんが畑で育てた野菜を食べ、テレビの時代劇を一緒に見て、夕飯を食べてから帰る。それが私の青春だった。
高校生になった頃のことだ。
ある日、おばあちゃんが私の大好物であるたくさんの「手羽先」を作ってくれていた。
名古屋の赤味噌をたっぷり使い、砂糖と味醂で甘辛く仕上げた特製ダレ。
揚げたての手羽先にそのタレをたっぷりとかけると、ジュワッという音と共に、香ばしい湯気が立ち上る。
「うわぁ、美味しそう!」
私が目を輝かせて手羽先に齧り付くと、おばあちゃんは向かいに座り、嬉しそうに目を細めてお茶を啜った。
「たくさん食べやぁ。花子はもっと肉つけんと」
「うん! おばあちゃんの手羽先、世界一だよ!」
口の周りを味噌だらけにして頬張る私。
その時、おばあちゃんがふと、真剣な顔をして問いかけた。
「花子、彼氏はできたかん?」
私は味噌カツを喉に詰まらせそうになった。
「なにおばあちゃん、急に! 彼氏なんて……できるわけないじゃん(笑) クラスの男子なんて、私のこと空気だと思ってるよ」
私は自虐的に笑った。
姉からは「あんたみたいな地味な子が色気づいても痛いだけ」と言われ続けていたから、恋愛なんて自分には無縁のものだと思い込んでいたのだ。
しかし、おばあちゃんは笑わなかった。
コト、と湯呑みを置くと、私の目をじっと見つめた。その瞳には、いつもの優しさの中に、強い意志のようなものが宿っていた。
「花子、これだけは言っとくでね」
おばあちゃんの声が低くなる。
「あんたは自分を卑下しとるけど、あんたは宝物だでね。きっと、ええ人と出会って、結婚して、ええ子を生むがね! 幸せになるに決まっとる!」
「おばあちゃん……」
「ええ子を生む」まで叶えられるだろうかとへへへとまた笑う。
「でもな、これだけは覚えとかないかんよ!」
そんな私に真剣な眼差しておばあちゃんはいった。
「ぜったい結婚するまで、男の人と二人っきりになったらいかんでね!」
「……え?」
唐突な貞操観念に、私はきょとんとした。
「急にどうしたの? 昭和じゃあるまいし……」
「ええか、よう聞きやぁ!」
おばあちゃんは私の手を取り、ギュッと握りしめた。その手は温かく、ごつごつとしていた。
「これはな、将来の花子のことを、本当に大事にしてくれる人への誠意だがね!
軽い男や、花子を安く見る男に、隙を見せちゃいかん。
『私は大事にされるべき人間なんだ』って、胸を張っとかなあかんのよ。
安売りしちゃいかん。お前は高い高い宝石なんだで」
おばあちゃんの言葉は、私の心の奥底に染み込んでいった。
家では「いらない子」扱いされている私を、「宝石だ」と言い切ってくれる。
その愛が嬉しくて、そして少し重たくて、私は涙が出そうになった。
「これだけは約束してちょうーよ。おばあちゃんとの約束だでね。結婚するまで、男の人と二人っきりになったらいかんよ!」
おばあちゃんは小指を差し出した。
指切りげんまん。
子供っぽいけれど、おばあちゃんにとっては大切な約束だった。
私は、泣き笑いのような顔で、自分の小指を絡めた。
「わかったよ、おばあちゃん〜。約束するよ〜。大事にするね、自分を」
「ほうだ、ほうだ。ええ子だ」
おばあちゃんは満足そうに笑い、また味噌カツを勧めてくれた。
その数日後、おばあちゃんは嘘のように苦しむことなく亡くなった。
家族の中で、私だけが本気で泣いた葬式だった。
そして、その「約束」は、私の心の中に「呪い」のように、いや「用心棒」のように残り続けたのだ。
悲しいかな、長年家族の中で培われた「ダメンズメイカー」は、そう簡単に拭えるものではなかったのだ。
「宝石」だと言われたその瞬間は心が震えたけれど、日常に戻れば、私はまた「石ころ」以下の自分に戻ってしまう。
だから私は、社会に出てもなお、見事なまでに「ダメンズ」ばかりを引き寄せる磁石と化していた。
バンドマン志望のフリーター、夢ばかり語る起業家崩れ、いつも財布を忘れる年下の大学生。
彼らは私の心の隙間に、甘い言葉と共にスルリと入り込んでくる。
「花子ちゃんって、本当に癒やされるよ」
「俺の夢、応援してくれるのは花子だけだ」
そんな言葉を囁かれるたび、私は条件反射のように財布を開いた。
かつて弟にそうしたように。姉の機嫌を取るために動いたように。
食事代を出し、生活費を貸し、ブランドの時計を貢ぐ。
お金を使っている瞬間だけは、私は彼らにとって「必要な人間」でいられた。「嫌われたくない」「捨てられたくない」という恐怖心が、私の理性を麻痺させ、ATMとしての機能をフル稼働させるのだ。
「私なんて、お金を出さなきゃ、助けてあげなきゃ誰にも相手にされない」
心のどこかでそう諦めながら、私は自分を安売りし続けていた。
しかし――。
そんな泥沼のような関係の中でも、奇妙な現象が起きていた。
あと一歩、決定的な瞬間になると、脳内で強烈なアラートが鳴り響くのだ。
例えば、終電を逃したふりをした彼が、「近くのホテルで休もうか」と私に手を回そうとするとき。
あるいは、「今度の週末、温泉旅行に行かない?」と、甘い声で誘われた時。
その瞬間、私の小指が、ズキリと熱く疼くのだ。
『花子、これだけは約束してちょう』
『安売りしちゃいかん。お前は高い高い宝石なんだで』
とたん、ネオン街の喧騒がかき消え、鼻の奥にふわりと赤味噌と線香の匂いが蘇る。
瞼の裏に、あの日の祖母の真剣な眼差しが呼び覚まされる。
皺だらけの手の感触、小指を絡めた時の強さ、そして「幸せになるに決まっとる」という言葉。
――ああ、おばあちゃんが見てる。
その感覚は、背筋が凍るような恐怖でもあり、同時に、温かい毛布で包まれるような安堵でもあった。
「ご、ごめん! 今日はもう帰らないと!」
「え、でももう終電ないよ!」
「ミカんちに泊めてもらうから大丈夫〜〜」
もう時代は令和なのに、相手からすれば興醒めもいいところだろう。
けれど、私の口は勝手にそう紡ぎ出し、体は拒絶反応を示して強張ってしまう。
「ごめーん、旅行はちょっと……仕事がいそがいいの〜〜」
男たちは一様に呆れ、苛立ち、そして去っていった。
お金という「餌」は撒いているのに、肝心の「獲物」には指一本触れさせない。彼らにとって私は、理解不能な、そして都合の悪い存在になり果てるのだ。
男に振られるたび、私は一人、安いアパートの部屋で膝を抱える。
貯金通帳の残高は減り、心には虚しい風が吹いている。
「ATM」としての役割すら果たしきれない自分に、今日も焼酎のみながら苦笑いが漏れる。
「おばあちゃんの嘘つき。……全然、本当に大切な人なんておらんよ〜〜」
そう毒づいてみるけれど、心の奥底では分かっていた。
おばあちゃんのあの約束は、最後の最後で私が「私自身」を完全に捨ててしまうことを食い止める、最強の防波堤だったのだ。
金は失った。時間も無駄にした。
けれど、尊厳だけは、あの約束のおかげで、なんとか歪まずに残っている。
「二人きりにはならない」
その幼い約束を守り続ける私は、滑稽で、不器用で、どうしようもなく孤独だった。
それでも――私は今日もまた、踏みとどまることができたのだ。

そして、場面は中国宮廷ドラマのあの時代へと戻る。
荒涼とした荒野。頭上には冷ややかな月。
そして私の背中には、この世のものとは思えない絶世の美男子の体温がある。
夜風を切って走る馬の上。
これはもしや、おばあちゃんとの約束――『結婚するまで男の人と二人っきりになったらいかん』という鉄の掟に抵触しているのではないか?
いや、馬がいるから三人(?)か。いや、まだグレーゾーンか……?
思考がパニックを起こし、馬上で暴れてしまった私を、景皇子はなだめて馬を止め、地面へと降ろしてくれた。
「……というわけでして」
私は一連の事情――祖母との「指切り」の話――を終え、しょんぼりと肩を落とした。
足元の砂利を見つめながら、私は身を縮こまらせる。こんな子供騙しのような約束を、いい大人が真に受けてパニックになったのだ。呆れられるに決まっている。あるいは、「面倒な女だ」と捨て置かれるかもしれない。
「おばあちゃんとの約束を思い出したら、急に罪悪感とパニックで……暴れてしまいました。ごめんなさい」
静寂が痛い。
しかし、頭上から降ってきたのは、罵倒でも嘲笑でもなかった。
「なるほど……。亡き祖母との誓い、か」
顔を上げると、景皇子は呆れたように、けれどどこか興味深そうに私を見下ろしていた。月の光が彼の銀色の髪を透かし、その美しさは人間離れして見えた。
彼はフッと、夜風に溶けるような笑みを漏らした。
「そなたの祖母は、極めて賢明な方だったのだな。自分の孫娘が、男を見る目のない、騙されやすいお人好しであることを痛いほど理解し、最期の最期に『防波堤』を築いていったわけだ」
「うっ……否定できません」
図星すぎて何も言えない。おばあちゃんは、私の「安売り癖」を誰よりも見抜いていたのだ。
「だが、安心しろ。私はそなたを『安く』見るつもりはない」
景皇子は優雅な動作で私の前に歩み寄ると、躊躇なくその場に膝をついた。
まるで忠誠を誓う騎士のように、あるいは求婚者のように、私の目線よりも低くなる。
そして、さきほど暴れたせいで泥だらけになった私の服の裾を、白く美しい手で丁寧に払い、そのまま私の手を取った。
「結婚するまで、二人きりになってはいけない、だったな?」
「は、はい……」
「ならば、こうしよう。……私は今、そなたと二人きりではない」
「え?」
景皇子は、空を指差した。
そこには、満月が皓々と輝き、荒野を青白く照らし出していた。無数の星々が、ダイヤモンドを散りばめたように瞬いている。
「まだ人々は外にたくさんいる。月が見ている。天が見ている。私は決して天に背くことはしていない。多くの目撃者に囲まれた、公明正大な旅路だ」
「……っ」
なんという屁理屈。
なんという強引なイケメン理論。
冷静に考えれば「何言ってるの?」とツッコミを入れるところだ。けれど、真っ直ぐな瞳でそう断言されると、不思議と「そうなのかも」と思わされてしまう。これがカリスマというやつなのだろうか。
「それに」
不意に、彼が立ち上がり、距離を詰めた。
私の耳元に唇を寄せ、悪戯っぽく、甘い声で囁く。
「そなたの祖母君との約束を破らぬよう、私が責任を持って、そなたを『大事に』扱ってやる。……結婚するまでは、な」
――結婚するまでは。
その言葉に含まれた意味、未来への含みに、私の心臓が早鐘を打つ。
全身の血液が沸騰したかのように熱くなり、顔が先ほど食べた思い出の手羽先――いや、たっぷりとかけた味噌カツのソースのように真っ赤に染まったのが自分でもわかった。
「さあ、行くぞ。約束は守られた。旅を続けるぞ」
彼は呆然とする私を軽々と抱き上げ、再び馬上の人とした。
私の背後に彼が乗り込み、手綱を握るために腕が私の体を囲む。
先ほどまでは「罪悪感」で針のむしろだったその背中の温もりが、今度は絶対的な「安心感」として伝わってくる。
(この人は私のことを「安くない」って言ってくれたよ。「大事にする」って言ってくれたよ)
夜風の中で、私は小さく呟いた。
「はい! どこへでもお供します!」
馬は再び荒野を走り出した。
冷たい風が頬を撫でるが、胸の奥は温かい。
そして、ふと気づく。
「(……でも『結婚するまで』ってことは、裏を返せば、結婚しちゃえば二人きりでもいいんだよね……?)」
そんな淡い期待と、図々しい解釈。そして新たな種類のドキドキを胸に、私たちは夜の荒野を駆け抜けていった。

血よりも濃い

たどり着いたのは、深い山ひだに隠されるようにして存在する、小さな寒村だった。
月明かりさえも鬱蒼とした木々の梢に遮られ、地上には墨汁をぶちまけたような濃密な闇が広がっている。
馬の蹄が乾いた土を踏みしめるたび、その音は夜の静寂(しじま)という巨大な綿に吸い込まれ、消えていく。
紫禁城からの決死の逃避行。
脳内を駆け巡っていたアドレナリンが枯渇した今、代わりに鉛のような疲労感が全身にのしかかっていた。背後で私を支えてくれていた景(けい)皇子の体温だけが、この冷たい世界で唯一の、確かな熱源だった。
「……ここだ」
景皇子が手綱を引き、馬を止めた。
目の前には、長年の風雪に耐えてきた古木のようにひっそりと佇む、一軒の古びた民家があった。
豪華絢爛な宮廷とは対極にある、質素で、どこか懐かしさを感じさせる佇まい。
しかし、私の心臓は安堵よりも先に、けたたましい警鐘を鳴らしていた。
こんな人里離れた場所に、皇子の「隠れ家」?
まさか、愛人を囲っている別宅とかじゃないでしょうね?
景皇子は馬を降り、私を抱き下ろすと、慣れた足取りで扉へと近づいた。
トントントン。
独特のリズムを刻むノックの音が、夜気に響く。
「……景様?」
やがて、錆びた蝶番がきしむ音と共に扉がわずかに開いた。
漏れ出した暖かなオレンジ色の灯火の中に、一人の若い女性の姿が浮かび上がった。
「おかえりなさいませ。……まあ」
彼女は私たちを見るなり、小さく息を呑んだ。
「お二人ともずぶ濡れで泥だらけではありませんか。夜風は体に毒です。その格好では目立ちますし、まずはお着替えを」
彼女は警戒する様子もなく、慣れた手つきで私たちを中へ招き入れた。
そのあまりにも自然すぎる振る舞い。
「おかえりなさい」という言葉の、日常に溶け込んだ響き。
そして何より、景皇子に向けられた、遠慮のない親しげな眼差し。
(えっ! 景皇子に……女!? 誰よこの女!!)
私の脳内で、空襲警報級の「ジェラシー・アラート」が鳴り響いた。
私の「ダメンズ・ウォーカー」としての悲しい経験則が叫んでいる。
これは怪しい。非常に怪しい。
「実は幼馴染の許嫁がいて……」とか、「身分違いの恋人を人目を忍んで囲っていて……」とか、そういう昼ドラ展開じゃないの!?
私は案内された奥の部屋で、渡された村娘風の簡素な綿服に着替えながら、モヤモヤとした嫉妬心でキャンプファイヤーができそうなほど燃え上がっていた。
「……ふん、なによ。私なんて所詮、行きずりの『ATM兼カメラマン』ってこと?」
ブツブツと文句を言いながら、私は帯を締める。
鏡はないが、手触りでわかる。ゴワゴワとした麻の感触。数時間前までの宮廷でのシルク生活が、遠い前世の記憶のようだ。
でも、不思議と嫌ではなかった。むしろ、この土の匂いのする服の方が、本来の「山田花子」には似合っている気がした。
「お食事の準備ができていますよ」
着替え終わった私が一人で脳内会議(ネガティブキャンペーン)を開催していると、先程の女性が呼びに来た。
彼女は扉枠に寄りかかり、私の顔をじっと観察した後、ふっと小さく、自嘲気味に笑った。
「杏花(きょうか)姫様。……そんなに警戒なさらないでください。私から、貴女様を食ってやろうという気概は感じられませんか?」
「えっ?(心読まれた!?)」
私はビクリとして後ずさった。
彼女はため息をつき、家事のために乱雑に束ねた髪をかき上げた。
「私は、景皇子の侍女の沙龍(シャロン)と申します。……そうですね、誤解を解くには、まずはお顔を拝見するのが一番かと」
彼女は近づき、手燭の明かりを自分の顔に向けた。
ろうそくの揺れる火に照らされた彼女の顔を、私は改めてまじまじと観察した。
そこにあったのは、「傾国の美女」でも「薄幸の可憐なヒロイン」でもなかった。
顔中に散らばる無数のそばかす。
髪は艶がなく、実用性重視でひっつめられている。
そして何より、目元には現代日本で激務に追われていた頃の私と同じくらい、濃く、深い「クマ」が飼い慣らされている。
手を見れば、あかぎれとささくれだらけ。明らかに、長年の過酷な水仕事と労働に耐えてきた「生活者の手」だ。
(……ふっ。大丈夫。このルックスなら、私、圧倒的に勝てる(笑))
私の失礼極まりないマウント思考が、光の速さで駆け巡った。
いや、人として最低なのはわかっている。でも、これは恋する乙女(と書いてATMと読む)の生存本能なのだ。
ライバルが絶世の美女なら勝ち目はないが、この「お疲れ気味の苦労人」オーラ全開の女性なら、少なくとも「色恋」の線は薄そうだ。
私の安堵を知ってか知らずか、沙龍は「やれやれ」といった顔で背を向けた。
「さあ、こちらへ。温かいものを召し上がってください」
彼女の後ろをついていき、居間に入る。
そこには、湯気を立てる鍋と、素朴な木の器が並べられていた。
そして、そこへ。
「沙龍、世話をかけるな」
着替えを終えた景皇子が入ってきた。
その瞬間、薄暗い部屋の照度が一段階上がった気がした。
彼が着ているのは、私と同じ、村人が着るような藍染の粗末な麻服だ。装飾など一切ない。
それなのに。
なぜかパリコレの一流モデルが「あえてヴィンテージを着崩しました」という風にしか見えない。
長い黒髪は無造作に下ろされ、濡れた毛先が白い首筋にかかっている。開いた胸元から覗く鎖骨のラインが、無駄に色っぽい。
(素材が良ければ、ボロ布を着てもオートクチュールになるというのは本当らしい……)
私は自分のヨレヨレ具合と比べて、少しだけ落ち込んだ。
「いえ。……とりあえずこの村の人達には銀子をバラマキ、仲間になってもらっております」
沙龍は淡々と報告しながら、私に視線を向けた。
「それで、景様。こちらの方が例の?」
景皇子は椅子に座り、私を紹介した。
「彼女は杏花。……とある事情で、宮廷から連れ出した。私の大事な……協力者だ」
「協力者……母からは……その、”いい人”だと……」
「……まあ……そんなところだ」
沙龍は意味ありげに片眉を上げたが、それ以上は追求しなかった。
景皇子は私を見つめ、そして沙龍を指差して言った。
「杏花、紹介しよう。彼女は沙龍(シャロン)。私の『乳兄妹(ちきょうだい)』だ。普段は私のいる東宮で私に仕えている。この度は、この村に拠点を作るために先に遣わしたんだ」
「チキョウダイ……?」
私の頭の上に、巨大な「?」マークが浮かぶ。
チキョウダイ。地兄弟? 血兄弟? 知兄弟?
いや、さっき見た限り、似ても似つかない。
景皇子は天上の彫刻、沙龍は地上の苦労人だ。遺伝子の仕事ぶりが違いすぎる。
「先程の、私の乳母の実の娘が彼女ってことだ」
「あー、なるほど! あの宮廷で私を助けてくれた、強そうな女官さんの娘さんね!」
私はポンと手を打った。
確かに、あの老女官のテキパキとした仕事ぶりと、沙龍の無駄のない動きは似ている気がする。
でも……はてな?
ただの使用人の娘だからって、なんで「ちきょうだい」なんて、家族みたいな呼び方をするの?
血が繋がっているわけでもないのに、兄弟?
私の顔があまりにも「わかってない顔」をしていたのだろう。
景皇子は呆れたようにため息をつき、箸を置いた。
「もしかして、乳母(うば)という意味を知らんのか?」
「あー、えー、はい。ちょっとよくわからなくて……」
私は正直に答えた。現代日本にはない概念だ。
私の脳内辞書で「ウバ」といえば……。
(ウバといえば……ウーバーイーツ? 姥捨て山? 乳母車? 結局、おばあさんってことでしょ? おばあちゃんの子供だから、おばさん?)
「知らないならいい! 説明するのも手間だ」
景皇子は説明を放棄し、匙(さじ)を投げた。
彼は少し不機嫌そうに、しかしどこか照れくさそうに私から視線を逸らした。
そして、立ち上がりながら言った。
「私はとりあえず、向こうの部屋で眠る。沙龍、杏花姫を頼む。……これなら、その、『二人きり』にはならんだろ?」
彼は私の顔を見ずにそう言うと、耳を赤くして、そそくさと別室へ行ってしまった。
バタン、と扉が閉まる。
「…………」
残された私と沙龍の間に、沈黙が流れる。
律儀だ。
あの人、本当におばあちゃんとの「結婚するまで二人きりになってはいけない」という約束を、こんな逃亡中の極限状況でも守ってくれている。
ただの逃避行のパートナーなら、同じ部屋で雑魚寝しても誰も文句は言わないはずなのに。
私の貞操と、おばあちゃんへの誓いを、何よりも尊重してくれているのだ。
「……不器用な方ですね」
沙龍がくすりと笑い、沈黙を破った。
彼女は手際よくスープを私の前に置いた。
「さあ、冷めないうちに召し上がってください。宮中のようには材料が揃わなかったのですが、根菜と干し肉のスープです」
「ありがとう……」
私は匙を手に取ったが、どうしても気になって仕方がなかったことを聞いた。
「ねえねえ、沙龍」
「はい?」
「あなたと景皇子って結局どんな関係なの? 『ちきょうだい』ってなんなの? ただの幼馴染とは違うの?」
「はあ……」
沙龍はやれやれといった様子で、自分の分のスープをかき混ぜながら答えた。
その口調は、出来の悪い生徒に教える忍耐強い教師のようだ。
「姫様のお国には乳母の習慣がございませんので? 簡単に言いますと……この国の習慣で、皇族の彦君は強くあらせねばならぬと、実母ではなく、その年に女の子を生ませた健康な女性から一人選び、その者が乳をやり育てるのです」
「うんうん」
「そこで、私の母が『乳母』として選ばれました。景様は、私の母の乳で育ったのです。当時、私も生まれたばかりでしたから」
「えっ!」
「つまり、私たちは同じ時期に、同じ母の乳を分け合って飲んで育った仲。血は繋がっていなくとも、同じ生命の源を共有した兄弟同然の間柄……それを『乳兄妹』と言うのです」
「お、お乳を……分け合った……!?」
衝撃の事実に、私はスプーンを取り落としそうになった。
私の脳内で、強烈すぎるイメージが再生される。
あのクールで、ミステリアスで、ちょっと俺様な景皇子が。
まだ言葉も話せない、ふにゃふにゃの赤ちゃんだった頃。
沙龍のお母さんの温かい胸に抱かれて、必死に、一生懸命に、バブバブとお乳を飲んでいた……!?
そしてその横には、同じく赤ちゃんの沙龍がいて……。
(か……可愛い……!!)
(そして……尊い……!!)
想像してしまい、鼻血が出そうになるのを必死で堪えた。
今の彫刻のような美貌からは想像もつかない、無防備な赤ちゃんの姿。
その姿を知っている沙龍。
なるほど、それは確かに「兄弟」だ。恋愛感情とかそういう次元ではない、もっと根本的な、生存本能レベルでの結びつきだ。
そして同時に、沙龍への嫉妬心は完全に霧散した。
彼女はライバルではない。景皇子の「黒歴史(赤ちゃんの頃)」を知る、親戚のお姉さんみたいな絶対的なポジションなのだ。
「なるほど……そういうことだったのね。疑ってごめんなさい」
私は素直に謝った。沙龍は「いえいえ」と苦笑した。
「それにしても、景様があそこまで女性に気を使うなんて……初めて見ました」
沙龍は真面目な顔になり、私をじっと見つめた。
「よほど、杏花姫様を大切に想っていらっしゃるのですね」
「えっ……そ、そうかな?(照) ただの責任感じゃない?」
「いいえ。あの景様ですよ? 普段なら、『邪魔だ』と言って切り捨てるところです。ご自分の安眠よりも、貴女様の『約束』や『名誉』を優先して、わざわざ不便な部屋割りを選ぶなんて……あり得ませんから」
沙龍の言葉に、私は胸がじわじわと温かくなった。
ただの道具として扱われることに慣れきっていた私。
「ATM」としてしか価値がないと思い込んでいた私。
でも、彼は違った。
私の、今は亡き祖母との小さな約束を、皇子のプライドよりも優先して守ってくれている。
それは、何よりも雄弁な「愛」の証明のように思えた。
(おばあちゃん……)
私、約束を守ってよかったよ。
頑固に守り通したおかげで、本当に「大切にしてくれる人」がどんな人なのか、少しだけわかった気がするよ。
「さあ、召し上がれ。明日は早いですよ。追手が来ないとも限りません」
沙龍に促され、私はスープを口に運んだ。
一口すする。
根菜の甘みと、干し肉の旨味が溶け出した、素朴な塩味。
決して宮廷料理のような洗練された味ではない。
けれど、冷え切った体に染み渡り、強張っていた心をほぐしてくれるような、深い味わいだった。
「……おいしい」
自然と涙が滲んだ。
幼い頃、学校で辛いことがあった日に、おばあちゃんが作ってくれた料理の味に似ていた。
ただそこにいるだけで許されるような、無条件の肯定の味。
沙龍の入れてくれたスープは、思い出の中の、世界一美味しかった手羽先と同じくらい、優しくて温かい味がした。

愛とは、互いに見つめ合うことではなく、共に同じ方向を見つめること

「それで……ぶっちゃけ、沙龍(シャロン)さん的には、景(けい)皇子のこと、どう思ってるの?」
おばあちゃんの「とんかつ談義」で誤解が解け、胃袋も心も満たされてすっかりリラックスした私は、空になった木の椀を指先で回しながら、恋バナにおける鉄板にして最強の質問を投げかけた。
女子会。それは時と場所を選ばない。
たとえここが逃亡先の隠れ家で、外にはいつ追っ手が来るかわからない漆黒の闇が広がっていようとも。相手が初対面の「乳兄妹」だとしても。
女が二人集まり、夜が更ければ、話題が「男」に向かうのは、万有引力の法則と同じくらい絶対的な宇宙の真理である。
それに、私の中の眠れる獅子――もとい「お節介なおばちゃん人格」が疼いていた。
クールでミステリアス、だけどちょっと抜けている美形皇子と、それを影から献身的に支える地味だが家庭的な幼馴染。
このカップリング、現代の漫画やドラマなら王道中の王道だ。もしここに真実の愛があるなら、私は潔く身を引いて、二人の仲を取り持つ「いい人」ポジションに収まるのもやぶさかではない……かもしれない。(ちょっと惜しいけど。だいぶ惜しいけど)。
沙龍は、私が食べ終わった食器を手際よく重ね、表情一つ変えずに即答した。
その動きには一切の無駄がなく、長年染み付いた従者としての矜持と、鉄壁の理性が感じられる。
「どう、とは? 景様は私の主(あるじ)です。この命にかえてもお守りすべき方であり、心から尊敬申し上げております」
模範解答だ。
就職面接なら百点満点だが、女子会では赤点ギリギリのつまらなさである。
教科書通りの答えに、私は「あーあ」とわざとらしく息を吐き、唇を尖らせた。
「ふーん……。尊敬、ねぇ。忠誠心、ねぇ」
私はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、テーブルに肘をついて、彼女の顔を下から覗き込んだ。
ろうそくの頼りない灯りに照らされた彼女の横顔は、そばかすこそあるが、凛としていて意志が強そうだ。だが、その頑なな「鉄仮面」の裏に、何か柔らかく、甘酸っぱいものを隠している気がしてならない。
「それだけ? 本当に? 心臓がトクンってなったり、『好き』とか思ったりしないの? ほら、異性として」
その瞬間。
ガタンッ!
沙龍の手から、木のお盆が滑り落ちそうになった。
慌てて空中でキャッチしたものの、乗っていた茶碗たちがカタカタと小刻みに震え、カスタネットのような音を立てる。
静寂に包まれた室内に、その音はやけに大きく、気まずく響き渡った。
「は……はいっ!? な、ななな、何を仰るのですか!?」
さきほどまで「氷の侍女」のごとくクールで、私のATM体質を一瞬で見抜くほど鋭かった彼女が、みるみるうちに顔を真っ赤にして狼狽え始めた。
頬だけでなく、耳の先、首筋までが見る見るうちに朱に染まっていく。視線は泳ぎまくり、まるで捕らえられた小動物のようだ。
「と、とく、得、『好き』とかそういう不埒なアレじゃないに決まってるでしょ! 現に立場が違いすぎます! あの方は高貴な皇子様、私はただの侍女……天と地、月とスッポンほどの差があるのです! そのような不敬な感情、抱くことさえ許されません! あってはいけないのです!」
早口でまくしたてる彼女の声は、最後の方は裏返って悲鳴のようになっていた。
図星だ。分かりやすすぎる。
「あらあら〜? 沙龍さーん、お声が大きいですよ〜? この家、壁は薄いですよ〜? すぐそこの部屋で寝ている景様に、全部聞こえちゃいますよ〜?」
私はここぞとばかりに、のんべえのOLが新入社員をいじる時のトーンで囁いた。
「っ……!」
沙龍はハッとして、慌てて両手で自分の口元をギュッと押さえた。その瞳には、羞恥のあまり涙さえ浮かんでいる。
この反応。
今まで「仕事の出来るクールビューティー」だと思っていたのに、恋愛の話題になった途端に露呈するこのポンコツぶり。
このギャップ。
私は驚くと同時に、猛烈に面白くなってきた。
(これは……完全に脈ありだわ。しかも、『身分違いの恋に自ら蓋をして、自分の気持ちを殺して陰ながら支えている健気なヒロイン』タイプ!)
私の脳内データベースが高速検索をかける。
『幼馴染』『主従関係』『身分差』『密かな恋心』『絶対服従』。
萌え要素のフルコースじゃないか。ロイヤルストレートフラッシュだ。
私の中の「応援スイッチ」兼「面白がりスイッチ」が完全にオンになった。
「でもさ〜、乳兄妹ってことは、小さい頃からずーっと一緒だったんでしょ? オムツ替えたりとか、一緒にお風呂入ったりとか、泥んこ遊びしたりとかの仲なんでしょ? ほんとうは情が移ってたりして〜?」
私は更に畳み掛ける。逃がしはしない。
「ち、違います! そんな、そんなことじゃありません!」
沙龍はブンブンと、首がちぎれそうな勢いで横に振った。その勢いで、きっちり束ねていた髪が乱れ、後れ毛が顔にかかる。
「あの方は……そう、弟みたいなものです!
手のかかる、わがままで、すぐに無茶をして、放っておくとすぐ死にそうになる、どうしようもない弟!
それ以上の感情など、断じてございません! 私は姉として、乳母の娘として、お尻を叩いてお世話をしているだけです!」
「ふーん……弟、ねえ……(血、繋がってないけどね)」
「そうです! 弟です! それ以外ありえません! ありえてたまるもんですか!」
彼女の必死すぎる否定は、逆に肯定にしか聞こえなかった。
「手のかかる弟」と言い切るその表情には、ただの家族愛と呼ぶにはあまりにも湿度が高く、熱っぽい感情が混じっていた。
それはまるで、煮えたぎる鍋に無理やり重たい蓋をして、「これは煮物ではありません」と言い張っているようなものだ。
吹きこぼれている。完全に恋心が吹きこぼれているよ、沙龍さん。
私は乱れた彼女の髪を見ながら、ニヤリと笑った。
なるほど。景皇子はとんだ罪作りな男だ。
そして、この旅は思った以上に「複雑な三角関係」になりそうだぞ、と私は密かに身震いしたのである。

私がさらに調子に乗って突っ込みを入れ、彼女の可愛らしい本音を引きずり出そうとした、その時だった。
ふっ、と。
沙龍の周りの空気が、変わった。
それは、窓の隙間から冷たい夜風が入り込み、ろうそくの火を一瞬だけ大きく揺らした時のような、劇的な変化だった。
先ほどまでの、赤面して取り乱し、手をパタパタとさせていた純朴な村娘の気配が、嘘のように霧散した。
代わりに室内に満ちたのは、絶対零度の冷気。
彼女の猫背気味だった背筋がピンと伸び、乱れた髪を無造作にかき上げたその仕草には、歴戦の兵士のような、一切の隙のない殺気が宿っていた。
彼女は、真顔で私を見据えた。
その瞳からは感情の色が消え失せていた。暗く、深く、底知れぬ沼のように静まり返り、その奥底に剃刀のような鋭利な光だけが怪しく明滅している。
「……でも」
低く、静かな声。
さっきまでの上ずった可愛らしい声とは別人のような、腹の底に響くドスの効いたトーン。
「もし、景様を害するものがいたら。あの方の輝きを曇らせ、その御心を傷つける不届き者がいたら……私が始末します」
「え?」
私はスプーンを持ったまま、石像のように固まった。
始末?
今、平和な女子会には相応しくない、穏やかじゃない単語が飛び出してきませんでした?
沙龍は、台所のまな板の上に置いてあった果物ナイフを、音もなく手に取った。
柄は古びているが、刃は怪しいほど美しく研ぎ澄まされている。
彼女はそれを指先で弄びながら、無意識なのか、それとも演出なのか、ろうそくの揺れる炎にその切っ先を反射させた。
キラリ、と冷たい銀色の光が私の眼球を射抜く。
「景様は、優しすぎます。才能に溢れ、誰よりも王の器をお持ちなのに、情に厚く、非情になりきれない」
沙龍は独り言のように、うっとりと、しかし呪詛のように呟く。その視線は私を通り越し、虚空の彼方を見つめていた。
「宮廷は魔窟です。狐と狸が化かし合い、笑顔で毒を盛り合う地獄です。あの方の清らかな優しさは、あそこでは致命的な弱点にしかならない。
……だからこそ、私が守らねばならない。影となり、盾となり、時には剣となって、あの方の足元にある泥を全て排除せねばならないのです」
彼女の言葉には、狂信的なまでの忠誠心と、そして煮詰めたジャムのように重く、歪んだ愛が滲んでいた。
それは「恋」などというパステルカラーの甘酸っぱいものではない。もっとどす黒く、逃れられない業のような執着だ。
「……あの方を傷つけたり、裏切ったり、利用しようとする害虫は、たとえ誰であろうと排除します。物理的に、社会的に、この世から跡形もなく消し去ります」
彼女は私の方へ一歩、音もなく踏み出した。
ミシッ、と床板が悲鳴を上げる。
そして、彼女はニッコリと――口角だけを吊り上げ、目は全く笑っていない能面のような笑顔で私を見下ろした。
「杏花姫様。……貴女も、例外ではありませんよ?」
「ヒッ……!」
私は思わずスープを鼻から吹き出しそうになり、椅子ごと後ろにひっくり返りそうになった。
怖い。
めちゃくちゃ怖い。
訂正する。この子、ただの「ツンデレ幼馴染」じゃない。
「忠誠心」という名の皮を被った、ガチの「ヤンデレ」だ。
しかも、精神的に追い詰めるタイプではなく、包丁を持たせたら右に出る者はいない「物理攻撃力カンスト型」の実力行使派だ。
(やばい……ここに新たな恋のライバル登場!? しかも私なんて瞬殺できる武闘派!?)
私の背中を、冷や汗が滝のように流れる。
この隠れ家、追っ手から逃れた安全地帯だと思っていたけれど、実は虎の穴だったのではないか。
景皇子という唯一の猛獣使いが寝てしまった今、私は檻の中で腹を空かせた猛獣と二人きりなのだ。
「け、景皇子が貴女を大切に想っているから、私もお世話をします。貴女が景様の役に立つ限りは、最高の待遇でおもてなししましょう」
沙龍はナイフの切っ先を、ゆっくりと、私の鼻先へと向けた。
「ですが……もし貴女が、景様を悲しませるような真似をしたら。あの方の信頼を裏切り、危険に晒すようなことがあれば」
彼女の手が、目にも止まらぬ速さで動いた。
ストン。
乾いた、しかし重たい音が響いた。
沙龍はナイフを、まな板の上に転がっていた小さな林檎に突き立てたのだ。
正確無比に、その芯を貫いて。
「その時は、どうなるか……わかっていますね?」
パカン、と林檎が綺麗に真っ二つに割れた。
まるで、私の首が胴体からお別れする未来を暗示するかのように。
「は、はいぃぃ! 肝に銘じますぅぅ! 私は景様の忠実な下僕ですぅぅ!」
私は直立不動で敬礼した。
膝の震えが止まらない。
おばあちゃん、助けて。
ここ、全然安全地帯じゃなかったよ。
イケメン皇子とのロマンチックな逃避行、その先に待っていたのは、最強の守護者にしてラスボス候補との同居生活だったなんて。
前門の虎(皇帝)、後門の狼(景皇子)、そして家庭内のヤンデレ(沙龍)。
私の周り、命を脅かす危険人物しかいないじゃない!
私の完全降伏を確認すると、沙龍はふっと表情を緩め、憑き物が落ちたようにいつもの「無愛想だが働き者の侍女」の顔に戻った。
ナイフを置き、手ぬぐいで丁寧に手を拭く。
「聞き分けが良くて助かりますわ。さあ、お湯が沸きました。旅の汗を流してらしてください。着替えも用意してあります」
「あ、ありがとう……ございます……」
「湯加減を見ておきました。……景様がお好きな温度にしてありますから、きっと姫様にも合うはずです」
「……っ!」
彼女は優雅に浴室へ案内してくれた。
「景様がお好きな温度」。
その言葉の端々に滲み出る、「あの方のことは全て私が一番知っている」という強烈なマウントと執着に、私は再び戦慄した。
その背中は、あまりにも頼もしく、そして私の命運を握るかのように恐ろしかった。

失われた胃袋を求めて

チュンチュン……。
静寂な山間の朝を告げる、控えめな小鳥のさえずり。
それと共に、鼻腔をくすぐる香ばしい、そしてどこか懐かしい穀物の甘い匂いが、まどろみの底にいる私を現実へと引き戻した。
「……んあ?」
重い瞼をこすりながら、私はのっそりと半身を起こした。
見慣れない低い天井。煤けた梁(はり)。土壁特有の乾いた匂い。
一瞬、ここがどこかわからなくなり、記憶の糸を手繰り寄せる。
ああ、そうだ。私は昨日、イケメン皇子と命がけの、そしてちょっとときめく逃避行を繰り広げ、この隠れ家にたどり着いたのだった。
冷宮の廃墟でもなく、華妃(かひ)様の豪華絢爛な寝室でもない。ここは、地図にも載っていないような名もなき山村の、古びた民家だ。
薄い布団を跳ね除けると、山の冷気が容赦なく肌を刺す。
ブルッと身震いしながら視線を向けた先、土間にある小さな台所では、すでに白い湯気が優しく立ち上っていた。
窓の外はまだ、夜と朝の境界線にある深い群青色だ。
太陽さえ顔を出していないというのに、そこに立つ人物――沙龍(シャロン)は、とっくに起きて活動していた。
一糸乱れぬ動作で髪をきっちりと結い上げ、薪をくべ、鍋をかき混ぜている。
その背中は凛としていて、一切の無駄がない。かまどの赤い火が彼女の横顔を照らし出し、質素な麻の服を着ているにもかかわらず、そこには一種の「聖域」のような神々しささえ漂っていた。
「おはようございます、杏花(きょうか)姫様。お目覚めですか?」
私が起きた気配を背中のセンサーで察知したのか、彼女は鍋から目を離さずに声をかけてきた。
「お、おはよう……沙龍、早いね……」
「これくらい当然です。陽が昇る前に主(あるじ)の食事と支度を整えるのが、私の務めですから。さあ、井戸端に水を用意してあります。お顔を洗ってらしてください」
完璧だ。
手際が良すぎる。
かいがいしく働くその背中を見ながら、私は心の中で(悔しいけど)認めざるを得なかった。
(この子……絶対にいい奥さんになるわ……。景皇子の胃袋も、生活リズムも、こうやって赤ちゃんの頃からガッチリ掴んできたわけね……)
昨日聞いた「乳兄妹(ちきょうだい)」という関係。
それは単なる幼馴染以上の、同じ命の源を分け合い、生存を共にした絆だ。
彼女は景皇子の影となり、生活を支え、こうして温かい食事を作り続けてきたのだろう。その積み重ねた歴史の重みを感じると、ポッと出の「ATM兼カメラマン」である私など、入り込む隙間なんて1ミリもない気がしてくる。
だが、昨夜の「ナイフ突き立て事件」――『景様を悲しませたら始末します』という、あの背筋も凍るヤンデレ宣言――を思い出し、私は喉まで出かかった称賛の言葉をぐっと飲み込んだ。
ここで彼女を褒めるのは、ライバルに塩を送るようなものだ。
負けてたまるか。私はまだ、土俵に上がってすらいないのだから。
「い、いただきまーす!」
顔を洗い、いてつくような冷たい水で無理やり目を覚ました私は、負け惜しみのように大きな声を出して食卓についた。
そこには、昨夜の質素なスープとはまた違う、清の時代の庶民の朝食が並んでいた。
煌びやかな宮廷料理のような派手さはない。金箔もフカヒレもない。
だが、その湯気の向こうに見える料理は、不思議とどんなご馳走よりも食欲をそそる輝きを放っていた。
主食は、粟(あわ)をじっくりと煮込んだ黄金色の**『小米粥(シャオミージュウ)』
とろりとしていて、穀物の素朴な甘い香りが漂う。米のお粥よりも黄色味が強く、見るからに栄養が凝縮されているようだ。
おかずには、小皿に盛られた
『辣蘿蔔(ラールォボ)』**。
千切りにした大根を、唐辛子と酢、そしてごま油で漬け込んだものだ。鮮やかな赤色が、黄金色のお粥によく映える。
そして、主食の横に添えられているのは、黄色い円錐形をした不思議なパンのようなもの。
**『窩頭(ウォトウ)』**だ。
トウモロコシの粉を練って蒸し上げた、北方の主食。底に指で穴を開けて蒸す独特の形が、鳥の巣(窩)に似ていることからそう呼ばれるらしい。
「ん〜っ! 温まるぅ〜!」
木のスプーンで小米粥を一口すすると、優しい甘みが冷えた胃袋にじわじわと染み渡る。
砂糖を入れているわけではないのに、穀物本来の甘さが引き出されている。
手間暇かけて、弱火でコトコトと、愛情を込めて煮込まれた証拠だ。
次に、窩頭を手に取る。
ずっしりと重い。フワフワのパンとは違う、密度の高い重量感。
かじりつくと、少しボソボソとした食感だが、噛めば噛むほどトウモロコシの香ばしさと素朴な旨味が口いっぱいに広がる。
そこへ、辣蘿蔔を一切れ放り込む。
カリカリッ!
心地よい歯ごたえと共に、唐辛子のピリッとした辛味と、酢の酸味が弾ける。
これが、お粥や窩頭の淡白な味と絶妙にマッチする。
甘み、辛味、酸味、そして穀物の香り。
無限に食べられそうだ。
華美ではないけれど、体の底から生命力が湧いてくる味。
これが「生きるための食事」なのだと実感する。
向かいでは、景(けい)皇子も無言で、しかし満足そうに窩頭をかじっている。
粗末な木の椅子に座り、継ぎ接ぎだらけの麻の服を着ていても、彼の所作は優雅そのものだ。長い指が窩頭を割る仕草さえ、絵画のワンシーンになる。
彼は小米粥を最後の一滴まですすり、ふう、と白く美しい息をついた。
「……美味いな、沙龍。やはりお前の作る飯が一番落ち着く。生き返るようだ」
「もったいないお言葉です。宮廷のような食材が手にはいらず、このような粗末なもので申し訳ございません。景様」
沙龍が嬉しそうに頬を染め、絶妙なタイミングでお茶の入った器を差し出す。
その阿吽の呼吸。入り込む隙がない。
<i1090350|49545>
二人の間には、言葉にしなくても通じ合う「生活の空気」が流れている。
ちくしょう、見せつけやがって。
今の私には、彼の胃袋を満たす術がない。
おばあちゃんの思い出の手羽先くらいしか、武器がない。
くそう、見てなさいよ。
いつか、その胃袋のデータを上書き保存してやるんだから。
私は残りの窩頭を力強く噛み締めながら、新たな野望(レシピ開発)に闘志を燃やすのだった。

毒をもって毒を制す

食事が一段落し、お茶(といっても、茶葉は貴重なので、ほんのりと香りがついただけの白湯に近いものだが)を飲んでいる時だった。
窓の外が白み始め、柔らかい朝の光が室内の土壁を照らし、宙を舞う埃さえも黄金色に染め上げていく。
沙龍がふと、茶碗をコトリと置き、改まった表情で切り出した。
「景様」
「ん?」
「今後のために、一人、『極めて有能で、使い潰しのきく人材』を引き抜いてまいりました」
「人材? 誰だい?」
景皇子が片眉を上げる。
こんな人里離れた山奥の隠れ家に?
我々は追っ手から逃げている身なのに、人を増やすのか? リスクが高すぎるのではないか。
沙龍は立ち上がり、入り口の扉に向かって声をかけた。
その声色は、景皇子に向ける絶対的な敬愛を含んだものとは違う。少し厳しく、冷たく、しかしどこか奇妙な親愛を含んだものだった。
「入りなさい」
ギィィ……。
油の切れた蝶番が軋む音と共に、扉がゆっくりと、重々しく開いた。
強烈な朝の逆光を背負って、一人の男が静かに入ってきた。
その姿が影から光の中へと歩み出た瞬間。
私は飲んでいた白湯を、気管支の限界を超えて盛大に吹き出しそうになった。
「ぶふっ……!! げっ!!」
そこに立っていたのは、見間違いようのない、脳裏に焼き付いて離れないあの人物だった。
透き通るような、病的までに白い肌。日光の下で見ると、青い血管が透けて見えそうなほど儚い。
整っているが、作り物めいた冷たさを放つ鼻筋。
そして何より、一切の感情を映さない、磨き上げられたガラス玉のような瞳。
あの華妃の腰巾着にして、私を追い詰め、スマホを「妖術の板」呼ばわりして没収し、死刑にしようとした冷徹な太監(宦官)。
「よ、姚明(ようめい)!? あの悪徳宦官! なんでここに!?」
私はガタッと椅子を派手に鳴らして立ち上がった。
反射的に懐のスマホ(最強の武器兼命綱)を探すが、今は充電中で手元にない。丸腰だ。
敵だ。こいつは敵だ。
華妃の命令で私を始末しに来たのか?
それとも、景皇子の隠れ家を嗅ぎつけた追っ手か!?
「景皇子、逃げて! こいつは華妃の手先です! ヤバい奴です!」
私は叫んだ。
しかし、景皇子は動かない。むしろ、珍しい生き物を見るように、興味深そうにその男を見ている。
そして、姚明の様子もおかしい。
いつもの、人をゴミ屑のように見下ろす氷のような威圧感がない。
どこかバツが悪そうに視線を逸らし、肩をすぼめている。その美しい顔には、華妃の豪華な宮殿で見せた絶対的な傲慢さはなく、むしろ親に叱られた子供のような気まずさが漂っていた。
彼は、私の前ではなく、沙龍の前まで進み出た。
そして、その場に膝をつき、恭しく頭を下げたのだ。
「……お呼びでしょうか、姉上(あねうえ)」
姚明(ようめい)が、まるで女神に祈りを捧げる信徒のように恭しく頭を下げたその瞬間、私の喉から言葉にならない悲鳴が迸った。
「はああああああああ!?」
私の絶叫が、狭い隠れ家の土壁に跳ね返り、梁(はり)に積もった煤(すす)をパラパラと落とさせるほどにこだました。
窓の外では、驚いた雀が一斉に飛び立つバサバサという羽音が聞こえる。
あねうえ?
今、この男は確かに「姉上」と言った。
あの感情を持たない冷徹なサイコパス宦官・姚明が。
華妃の腰巾着として、私をゴミのように見下し、スマホを「妖術の板」と断じて斬首しようとした、あの氷の彫刻のような男が。
この、そばかす顔で働き者、生活感溢れる沙龍(シャロン)のことを?
私は目を白黒させながら、二人を交互に見比べた。
右には、湯気を立てるお粥をよそっている、麻の前掛けが似合う「肝っ玉姉さん」風の沙龍。
左には、朝日を背負い、場違いなほど優雅な所作で跪く、白磁のような肌を持つ「ビスクドール」のような姚明。
「え、ちょっと待って。脳の処理が追いつかない。沙龍と姚明が、実の姉弟なの!?」
私はスプーンを持ったまま、食い入るように二人を観察した。
「似てなくない? DNAの仕事が雑すぎない? 沙龍はなんていうか、大地の恵みを感じさせる健康的な『そばかす美人』だけど、姚明は……無機質なAIロボットというか、工房で作られた最高傑作の『人形』みたいだし……」
肌の質感からして違う。沙龍は太陽に愛された小麦色、姚明は月の光でできたような青白さ。
目つきも違う。沙龍は意志の強い温かい瞳、姚明は全てを拒絶するガラス玉。
共通点が見当たらない。強いて言えば、二人とも「本気で怒らせると物理的にヤバそう」というオーラくらいか。
私の失礼極まりない感想を聞き流し、沙龍は涼しい顔でお茶(白湯)をすすりながら言った。
その態度は、弟(仮)の登場にも眉一つ動かしていない。
「いいえ、杏花(きょうか)姫様。私たちに血の繋がりはありません」
「へ? 血が繋がってない? じゃあなんで……」
すると、それまで無表情を貫いていた姚明が、急にモジモジとし始めた。
あの絶対零度の能面が崩れ、人間らしい、いや、恋する乙女のような恥じらいの色が浮かんでいる。
「いや、その、血縁などという些末なことは問題ではなくて……あねうえ……その…… やはりここでは格格(げげ)様と呼んだほうがいいですか……」
彼は頬をほんのりと桃色に染め、視線を泳がせている。
気持ち悪い。いや、失礼。
あまりのキャラ崩壊に、背筋がゾワゾワする。
あの冷酷な太監が、初恋の中学生みたいな反応をしているのだ。
しかし、姚明は胸に手を当て、うっとりと沙龍を見上げた。
その瞳に宿る光は、単なる家族愛や、恩人への感謝といった健全なレベルを遥かに超えているように見えた。
熱い。
ドロドロと熱く、それでいて崇拝に近い、重たくて粘着質な湿度がそこにある。
これはなにかある。
私の「ダメンズ・ウォーカー」としての勘と、長年培った「昼ドラ・少女漫画脳」が警鐘を鳴らしている。
こいつ、沙龍に対して「ただの姉弟」以上の感情を持ってる。しかもだいぶ拗らせてる!
一方、沙龍の方は全く気にしていない様子。
「はいはい、また始まった」という感じでスルーしている。
一方通行な想いと、噛み合わない温度差。この狭い空間に、奇妙な空気が充満している……!
「沙龍、これはどういうことだ?」
景皇子が冷静に問いかける。彼も初耳だったらしい。
沙龍は大きくため息をつき、腕を組んで姚明を見下ろした。
「この子が宮廷ではずる賢いことを多くしているということを聞きます。……根は悪い子ではないのですが、どうも性格がひん曲がって育ってしまいまして」
「あねうえ、じゃなかった、格格(げげ)様、人聞きが悪いです。出世は実力です。生き残るための知恵です」
姚明がむっとした顔で言い返す。
その表情は、私が知っている「無機質な能面」ではなく、姉に口答えする生意気な弟のそれだった。
「黙りなさい。今回、華妃の不興を買って便所掃除に左遷されたと聞きましたよ。だから私が拾ってやったんでしょう」
沙龍が冷たく言い放つ。
そうだった。私のスマホ加工写真のせいで、彼は華妃に見限られ、エリートコースから転落したのだった。
それが回り回って、ここで再会することになるとは。運命の悪戯にも程がある。
「便所掃除……」
姚明の美しい顔が歪む。屈辱の記憶が蘇ったのだろう。
彼はゆっくりと私の方を向き、ガラス玉のような瞳でじっと睨みつけた。
「……全ては、そこの方のせいです!」
「ひっ」
「この方が持ち込んだ『妖術の板』のせいで、私の完璧な計画は音を立てて崩壊し、華妃様の審美眼は狂い、私は汚物まみれになりました」
殺気。
明確な殺気が私に向けられている。
ヤバい。恨まれている。逆恨みもいいところだが、彼にとっては私が全ての元凶なのだ。
「ま、待って! あれは生き残るための正当防衛で……!」
「言い訳無用。……ですが」
姚明はふっと殺気を消し、再び沙龍に向き直った。表情が瞬時に「忠犬」に戻る。
「あねうえ、いや、格格(げげ)様の命令とあらば、従うほかありません。……景皇子。本日より、この姚明、不本意ながら貴方様の陣営に加わらせていただきます」
彼は不承不承といった様子で、しかし優雅に景皇子に一礼した。
「華妃の弱点、後宮の裏ルート、資金の隠し場所……全て把握しております。あの女狐がどこにへそくりを隠しているか、誰と繋がっているか、全てデータとして私の頭に入っております。必ずやお役に立つでしょう」
「ほう。それは心強い」
景皇子がニヤリと笑う。
悪役が味方になった瞬間の、あの頼もしさと不安が入り混じった感覚。
「毒をもって毒を制す」ということか。
昨日の敵は今日の友……になるのか? 本当に? 寝首をかかれない?
「ただし」
姚明は立ち上がり、私をビシッと指差した。
「その女の『顔加工』だけは、二度と御免です。あれは文明を滅ぼす邪法です。人の顔をあそこまで歪めるとは……吐き気がします」
「同感ね。あれは詐欺よ」
沙龍があっさりと同意する。
私はガクッと項垂れた。
私の唯一の特技(顔加工)が、この陣営では「邪法」扱いされている。前途多難だ。

「それでは、私は片付けがありますので。失礼いたします」

沙龍(シャロン)が手際よく、まるで舞うような所作で空になった食器をまとめ、鼻歌交じりに台所の奥へと消えていった。彼女の後ろ姿からは、朝の光のような健全さと、揺るぎない生活力が漂っている。パタン、と古びた木の扉が閉まり、遮断された空間には、私と、先ほどから居心地が悪そうに身じろぎしている美貌の元・悪徳宦官、姚明(ようめい)だけが残された。

部屋の空気が、急に重く、そして妙に擽(くすぐ)ったいものに変わる。朝の静けさの中、パチパチと薪が爆ぜる音だけが響く。姚明は、私と目を合わせようとせず、窓の外の景色を眺めているふりをしているが、その横顔は明らかに硬い。

(……ふふん。これは、好機だわ)

私の「お節介おばちゃん」スイッチが、カチリと音を立てて入った。私は木のスプーンをことりと置き、テーブルに身を乗り出した。獲物を追い詰める刑事のように、あるいは恋バナに飢えた女子高生のように。恐る恐る、しかしダイレクトに、核心を突く。

「ねえ、姚明。……ぶっちゃけ、まさかとは思うけど」

私の声に、姚明がわずかに反応する。彼はゆっくりとこちらを向き、ガラス玉のような瞳で私を見下ろした。

「な、なんです? その、ねっとりとした視線は。気味の悪い」

「あんた、沙龍のこと……好きなの?」

「っ!!」

図星だったのか、それとも予想外の角度からの攻撃だったのか。姚明がビクリと、椅子がガタつくほど大げさに肩を跳ねさせた。いつもは氷の彫刻のように冷たく、感情を一切映さないその顔に、劇的な変化が訪れる。透き通るような真っ白な陶器の肌が、カッと音が出そうな勢いで耳の先まで赤くなり、ハッと我に返って青ざめ、そしてまた羞恥で赤くなる。まるで壊れかけた信号機のように、忙しい点滅を繰り返しているのだ。

「な、ななな、何を仰るのですか! そ、そのような不敬な! 滅相もない! 言語道断です!」

彼は早口でまくしたて、袖で口元を隠した。その瞳は泳ぎまくっている。

「不敬って、相手は皇族じゃなくて沙龍でしょ? ただの侍女相手に、なんでそんなに動揺するのよ。そこまで取り乱す方が怪しいわよ」

「た、ただの侍女ではありません! あの方は私にとって……闇の中に差した一筋の光! 泥沼から私を救い上げてくれた人なんです! 」

「重い重い……つまり?」

姚明は深く深呼吸をし、乱れた呼吸を整えようとしたが、その声はまだ上ずっていた。

「もちろん、幼少期よりの長き付き合いですので、姉のように慕っております。人として尊敬しております。心から敬愛しております!」

「敬愛って……教科書みたいな答えね。そうじゃなくて、ほら、もっとこう……」

私はニヤニヤしながら、さらに彼を追い詰める。

「『異性』として! 男として、女として! ふとした瞬間にドキドキするとか、守ってあげたいとか、一緒にいたいとか、そういうのないの!?」

私が畳み掛けると、姚明の表情がふっと、風に吹かれた蝋燭の火が消えるように、暗く沈んだ。先程までの狼狽や赤面が嘘のように消え失せる。そこにあったのは、いつもの冷徹な仮面の下に隠されていた、深い深い「諦観」を纏ったような、静かで哀しい、壊れそうなガラス細工のような顔だった。

「……男として、ですか」

彼は自嘲気味に口の端を歪めた。それは笑顔の形をしていたけれど、泣き顔よりもずっと痛々しかった。彼はゆっくりと、自分の下腹部に視線を落とした。その視線の先にある、決定的な「不在」を確認するかのように。

「そんな。……貴女もお忘れですか? 私は宦官です」

静かな声だった。感情を押し殺した、凪いだ水面のような声。

「貧しさゆえに売られ、5歳で後宮に入る際、とうの昔に『男』を捨てた身。そのような俗世の欲、持ち合わせているはずもありません。……いいえ、持ち合わせていては、いけないのです」

「あ……」

しまった。私は息を呑んだ。現代の感覚で、恋愛トークの延長線上で、あまりにも軽はずみなツッコミを入れてしまった。ここは清朝。そして彼は太監(宦官)だ。彼らは去勢されることで、皇帝の女たちに手を出さない「安全な存在」として、後宮での権力と生存を許されている。それは、男性としての尊厳を代償にした、過酷な契約だ。彼にとって「男として好きか」という問いは、自身の喪失を抉り、古傷に塩を塗り込み、人間としての尊厳を土足で踏み荒らすようなものだったかもしれない。

「ご、ごめん。デリケートな話だったわね……。私、現代のノリでつい……本当に、悪気があったわけじゃなくて……」

私がしどろもどろになって謝ると、姚明は静かに首を横に振った。その動作は優雅で、そしてどこか寂しげだった。

「いいえ。……貴女のような天衣無縫なお人には、理解し難いことでしょう」

「天衣無縫……?」(それって、褒め言葉なの? それとも『デリカシーがない』って遠回しに言われてる?)

彼は一度長い睫毛を伏せ、そして再び私を見た。その瞳の奥には、消え入りそうな、けれど決して消えることのない、熾火(おきび)のような残り火が揺らめいていた。

「ですが、そうですね。……男を失っても、心まで切り取られたわけではありません」

「え?」

「愛でる機能は失っても、愛しいと思う心臓は、まだここに動いているのです」

彼は、白く美しい手を、自身の左胸に当てた。麻の服の上からでも、その鼓動が伝わってくるようだ。

「美しいものを見て美しいと思い、大切な人を守りたいと願い、その笑顔のために全てを捧げたいと願う……たとえこの身が枯れ木となろうとも、想いだけは……朽ちることはないのです」

その仕草があまりにも切なく、私は言葉を失った。身体の一部を失っても、人は人を愛してしまう。報われないとわかっていても、物理的に結ばれることが不可能だとわかっていても、その想いは消せないのだ。いや、手が届かないからこそ、その想いは純化され、結晶のように硬く、美しくなっていくのかもしれない。彼の沙龍への想いは、恋というよりは、願いなのだろう。

姚明は、ふと我に返ったように咳払いをした。

「ゴホンッ!」

そして、瞬時にいつもの冷徹な仮面を貼り直す。甘い感傷も、人間らしい弱さも、すべて鉄壁の理性の下へ封じ込める。

「……お耳汚しをいたしました。今の戯言は、全てご放念を。他言無用ですよ。もし忘れないと、貴女の寝首をかきますよ」

「う、うん。ご放念しといてやるわ。……でも、姚明」

「なんです? これ以上喋ると、舌を抜きますよ」

彼は鋭い眼光で私を威嚇する。だが、今の私には、その威嚇すらも、傷つきやすい自分を守るためのハリネズミの棘のように見えた。

「あんた、意外といいやつなんじゃね?」

私がニカっと笑って言うと、彼は心底嫌そうな、虫唾が走るといった顔をした。

「……は! 心外です。侮辱ですか? 私は冷酷非道、血も涙もない悪徳太監・姚明です。利己的で、計算高く、残忍な男です。貴女のことも、隙あらば井戸に突き落とそうと虎視眈々と狙っていますので、ゆめゆめお忘れなきよう」

彼はフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いたが、朝日に透けるその白磁のような耳は、まだ少し赤く染まっていた。素直じゃない。でも、その不器用さが、なんだか人間らしくて憎めない。

ふと、台所の方を見る。そこでは、沙龍が何事もなかったかのように、鼻歌交じりで鍋を磨いている。彼女の背中は明るく、たくましく、そしてどこまでも鈍感に見える。

彼女は気づいているのだろうか。この、血の繋がらない「弟」が向ける、深淵のような深く重い感情に。自分のために「男」を捨て、悪魔に魂を売り、それでもなお影から支え続ける、この献身に。

いや、聡明な彼女のことだ。気づいていて、あえて「手のかかる弟」という安全な枠に押し込めているのかもしれない。その枠から出してしまえば、二人の関係は壊れてしまうから。あるいは、彼女の心にはもう、他の誰かが住んでいて、他の誰も入り込む隙間がないから。

彼女にとっての一番は、揺るぎなく景皇子なのだから。

姚明は遠い目で、鍋を磨く沙龍の背中を見つめていた。そこには、決して届かないと知りながらも、手を伸ばさずにはいられない哀しい星を見上げるような、一方通行の情愛が漂っていた。

(前途多難だなぁ……この一行)

景皇子をみる沙龍。その沙龍をみる姚明。そして、その輪の外側で、冷めきったお粥の残りをすすっている私。

この奇妙で、切なく、一方通行だらけの逃亡劇。私の「ダメンズ・ウォーカー」としての勘が告げている。この旅は、きっと波乱に満ちたものになるだろうと。

君がため 惜しからざりし命さへ 長くもがなと 思ひけるかな

「……で、宮廷はどうなっている?」
部屋から戻ってきた景(けい)皇子が、飲み干した白湯の器をコト、と音を立てて卓上に置いた。
その乾いた音は、先ほどまでの「乳兄妹(ちきょうだい)」としての柔らかな空気を断ち切る合図だった。
彼の纏う空気が、一瞬にして変わる。
それは、安らぎを求める青年の顔から、冷徹な指揮官の顔への変貌だった。
窓の外では空が白み始め、朝霧が立ち込めている。
世界が目覚める前の静寂。しかし、この狭い室内には、一刻の猶予もない張り詰めた緊張感が満ちていた。
姚明(ようめい)もまた、スッと表情を戻した。
数分前まで、姉への歪んだ恋慕を吐露して頬を赤らめていた、あの情けない弟の顔はもうない。
そこにいるのは、後宮の暗部を支配し、人の弱みを握り潰してきた優秀なスパイ、そして感情を持たぬ冷酷な宦官としての顔だった。
この切り替えの早さと深さこそが、彼らが修羅場を生き抜いてきた証なのだろう。
正直、背筋が凍るほど恐ろしい男たちだ。
「はい。一言で申しますと……少々、いえ、極めて厄介なことになっております」
姚明はガラス玉のような瞳で瞬きひとつせず、淡々と、しかし抑揚のない声で報告を始めた。
「まず、杏花(きょうか)姫様の失踪について。皇帝陛下はまだ『すり替え』が行われたことはご存知ありません。蘭馨(らんけい)は上手に身代わりを果たしてくれているようです」
「蘭馨……」
(蘭馨……!! 私のために、あんな魔窟で体を張ってくれているんだね! 本当にありがとう! 帰ったら絶対、最高級のスイーツとコスメを貢ぐからね!)
「しかし、皇帝はかなりご満悦なようでして、『1日と15日以外はそなたが朕に仕えよ、いや、毎日そばに居れ』とおおせられまして……」
姚明はやれやれと肩をすくめる。
「皇帝が興奮のあまり、宦官を通して夜中に何度も後宮に召喚の命を出したところ、『杏花がいない』ということになり……騒ぎになったのです」
(ぎゃーーーー!! 蘭馨、まじでごめーーーん!!)
私は思わず頭を抱えた。
これは、私の「断れない病」と、誰にでもいい顔をする「八方美人スキル」が招いた歴史的な大惨事だ。罪悪感で胃に穴が開くどころか、胃酸で床まで溶けそうだ。
「そして、ここからが重要です」
姚明の声が一段低くなり、室内の温度が下がった気がした。
彼は景皇子を直視し、告げた。
「皇帝陛下は、ご自身の召喚に応じなかったことに激昂……ではなく、深く傷つき、こう解釈されました。『朕が杏花と過ごし、彼女を帰らせたあと、杏花は何者かにさらわれたに違いない』と。錯乱と嫉妬、そして愛憎のあまり、禁軍(近衛兵)の中でもえり抜きの精鋭部隊に極秘命令を出されました」
「内容は?」
「『杏花を連れ去った賊を見つけ次第、殺しても構わぬ。いや、八つ裂きにして首を刎ねて持って参れ。ただし――杏花は無傷で連れ戻せ』……と」
「殺しても構わぬ、か……。ふっ、まああの父上ならば当然の沙汰だな」
景皇子の目が、鋭く細められた。
その瞳の中で、蒼い炎が揺らめいたように見えた。
皇帝はまだ知らないとはいえ、実の息子に対し、処刑許可を出したということだ。
あの昼間、「好きだ」「孤独だ」と甘い瞳で語り、私に高価な装飾品を贈ってきた皇帝が。
我が子を、恋路を邪魔する「賊」として排除しようとしている。
親子という血の繋がりさえも、あの人の渇望の前では紙切れ同然なのか。私は恐怖で震えた。
「そして華妃(かひ)様ですが……彼女もまた、重篤な禁断症状が出ております」
姚明の美しい顔が、侮蔑と哀れみで微かに歪んだ。
「景陽宮(けいようきゅう)からは、昼夜を問わず獣のような悲鳴と、陶器が割れる破壊音が響き渡っております。
スマホは手元にあれど、『封印(パスワード)』なるものがわからず、画面は真っ暗なまま。
『私の顔が! 真実の美が見えないわ!』
『あの鏡がないと、私はただの醜いおばさんになってしまう! 明かりを消して! 鏡を割りなさい!』
そう叫び回り、手当たり次第に物を投げつけ、宮女たちに当たり散らしております。すでに何人もの女官が、額から血を流して運ばれました」
「……スマホ依存症の、成れの果てね」
私は深く溜息をついた。
加工アプリという「電子ドラッグ」の味を知ってしまった人間に、現実(ノーマルカメラ)の世界はあまりにも過酷で、残酷だ。
彼女はもう、フィルター越しの虚構の自分しか愛せないのだ。
私はかける言葉が見つからなかった。
華妃様の自業自得はおいておくとしても、私のせいで、景皇子は実の父親に命を狙われている。
これはもう、「ごめんなさい」で済むレベルの話ではない。私の存在そのものが、彼にとっての災厄になってしまっている。
「景皇子……私、やっぱり……」
私が弱気な言葉を吐こうとした、その時だった。
景皇子は顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
その瞳に、迷いも、後悔も、恐怖さえもなかった。
「だが、渡さない」
力強い宣言。
低く、しかし部屋の空気を震わせるほどの覇気。
「杏花はモノではない。父上の寂しさを埋めるための愛玩人形でも、華妃の美しさを保つための便利な機械でもない」
彼は立ち上がり、私の椅子に手をかけた。
至近距離で、彼の熱っぽい視線が私を捕らえ、逃がさない。
「それに……お前は、私が生まれて初めて『生きたい』と願った、たった一つの理由だ」
ズキュゥゥゥン!!
本日二度目の心臓直撃弾。
待って。タイム。
今のセリフ、録音していいですか? いや、脳内ハードディスクの最重要保護領域に永久保存します。
何事にも冷めていて、生きることに執着を見せなかったあの皇子が、「生きたい」と言った。
それも、私のために。
でも、ちょっと待って。一度冷静になろう。
この隠れ家のパーティーメンバーと、私を取り巻く状況を見渡してみる。
皇帝(殺意レベルの独占欲と重い愛)→ 私 ← 景皇子(生存理由レベルの激重な愛)
沙龍(狂信的な献身と重い愛)→ 景皇子
姚明(人生捧げた崇拝と重い愛)→ 沙龍
この相関図、湿度が高すぎる。
日本の梅雨もびっくりの湿気だ。昼ドラなら視聴率30%超え確実のドロドロ加減だ。
全員が全員、矢印の太さが極太マジックだ。
唯一、私だけが「えへへ、みんな仲良くしようよ~(涙目)」みたいな、ふざけた軽い矢印を出しているのが申し訳なくなってくる。

「ここもじきに見つかるでしょう。皇帝は、『粘竿処(ねんかんしょ)』と呼ばれる特務機関を動かしたとの情報があります」
姚明の声が、室内の空気を一瞬にして凍らせた。

「『粘竿処(ねんかんしょ)』か……」
景皇子が苦々しげにその名を反芻する。
「皇帝直属の密偵(スパイ)組織……。元は雍正帝が、政敵である兄弟たちを監視し、排除するために組織した影の軍団。蝉を捕る長い竿(粘竿)を操る者たちのように、狙った獲物は決して逃さないと言われる、あの……」

「はい。雍正の御代の後、表向きは解散したとされておりました。しかし……」
姚明は美しい顔を曇らせ、声を潜めた。
「実際には、歴代皇帝の『目』と『耳』として、水面下で脈々と受け継がれております。法の外にある存在、皇帝の影。彼らは宮中の鼠一匹、民間の一言一句さえも聞き逃しません」

「か、宦官たちのスパイ組織……!?」
私は思わず身震いした。
あの「玉」がない人たちが、無表情で、足音もなく、国中のあらゆる隙間から私たちを探している?
想像しただけで、背中に冷たい粘着質な汗が流れる。
彼らは私たちがどこで何を食べているか、どんなパンツを履いているかまで監視しているかもしれないのだ。

姚明は窓の隙間から、油断なく外を窺っている。その横顔は、もはや「弟」のものではなく、プロの警戒色を帯びた「同業者」の顔だった。
「粘竿処の動きは早いです。訓練された猟犬よりも鼻が利く。この村が包囲され、袋の鼠となるのも、時間の問題かと」

緊張がピークに達する。
しかし、景皇子は動じなかった。
彼は深く息を吸い込み、迷いなく決断を下した。
「出発だ。ここには一秒たりとも留まれない」

「どこへ行くのですか? 国内に安全な場所など、もはや……」

「南へ向かう」
景皇子は、煤けた壁に掛かっていた古びた地図を指差した。
その指先は、紫禁城のある北京を遥かに離れ、長江流域の一点――南京を捉えていた。
「あそこは今や、父上…皇帝の力が及ばぬ地。謎の宗教組織『太平天国』が占拠し、実質的な統治を敷いている」

「太平天国……!」
沙龍が息をのむ。それは、朝廷に反旗を翻した、今上帝が最も憎むべき反乱軍の名だった。

景皇子は私を見て、静かに告げた。
「そして何より杏花、そこはお前の父親が関わっていた場所だ」

「えっ……?」
「記憶にないだろうが、お前の父君は太平天国の幹部の一人だった。それゆえに、朝廷によって処刑されたのだ」

その言葉は、雷のように私の頭を打ち抜いた。
錆びついた記憶の引き出しが、勢いよく開かれる。
そうだ……! 最初の観菊の宴のときに、意地悪な側室たちがヒソヒソと陰口を叩いていた。
『あの方、謀反人の娘ですって』
『邪教を信じる賊徒の末裔よ』

あの言葉は、ただの「いじめ設定」なんかじゃなかった。私の父親は、この国を揺るがす組織の幹部で、反逆者として死んでいたのだ。私が宮廷でどこか浮いていたのも、その「設定」があったから……!

「粘竿処とて、太平天国が統治する領域の奥深くまで追ってくることはできまい。最も危険な場所こそが、最も安全な場所となりうる」
景皇子の目は、燃えるような決意を宿していた。
それは、追いつめられた逃亡者の顔ではなかった。敵の懐に飛び込み、一世一代の大勝負を仕掛けようとする野心家の顔だった。

「……はい!」
私は勢いよく立ち上がった。椅子がガタッと鳴る。
不安はある。皇帝の殺意も、粘竿処の追跡も、そして父が関わったという未知の組織も怖い。
でも、それ以上に、体の奥底からマグマのようなワクワクが湧き上がってくるのを感じた。

「わかりました! 行きましょう、南へ! 太平天国だろうがどこだろうが、お供します! 」
私は拳を突き上げた。
「ふっ、頼もしいな」
景皇子が笑い、沙龍が荷物をまとめ、姚明が扉を開ける。

私は部屋の隅で、今一度この奇妙な仲間たちを見渡した。
・天然タラシでATM体質、実は太平天国元幹部の娘という設定を持つ私(山田花子)。
・クールでツンデレ、でも生存理由レベルの重い愛を持つ景皇子(推し)。
・物理攻撃力カンスト、皇子至上主義のヤンデレ侍女沙龍(シャロン)。
・シスコンで毒舌、元・悪徳宦官のスパイ姚明(ようめい)。

パーティーバランスがいいのか悪いのか全くわからない。
RPGなら「回復役不在」「アタッカー過多」「性格悪すぎ」「全員カオス属性」で、最初のボスで全滅しそうなメンツだ。
まともな人間が一人もいない。
だが、退屈しないことだけは確かだ。

「……夜明けだ」
誰かが呟いた。
外に出ると、東の空が白み始め、山々の稜線が金色に輝き始めていた。
朝霧が晴れていく。夜の闇と共に、私たちの「宮廷での日常」も消えていく。

私たちは、古びた民家を出て、馬上の人となった。
冷たい朝の風が頬を叩き、肺いっぱいに吸い込むと、湿った土と草の匂いがした。それは自由の匂いだった。
行く手には、果てしない南への道と、その先に広がる未知の支配領域。
背後には、迫りくる最強帝国の追っ手。

「行くぞ!」
景皇子の号令と共に、馬がいななき、大地を蹴った。
ドドド……と蹄の音が大地に響き渡る。
風が髪を揺らし、鼓動が高鳴る。
目指すは南!
金と、愛と、自由を求めて。

来た、揚げた、勝った

北京を脱出し、遥か南の南京(ナンキン)を目指す私たち一行は、全行程の四分の一ほどを消化したあたり――山東省へと入る手前の、とある運河沿いの宿場町に立ち寄っていた。
北からの乾いた風が砂埃を巻き上げ、運河を行き交う船の喧騒と、商人の活気ある声が響き渡る。
ここは南北の物流が交差する要衝。飛び交うのは粗野だが力強い北方の言葉。店先には小麦文化圏らしく多種多様な饅頭(マントウ)や麺類が並ぶが、南から運ばれてきた物資も溢れ、まさに「物流の大動脈」を感じさせる光景だ。
旅の疲れも忘れ、私はキョロキョロと市場を冷やかしていたのだが、とある醬(ジャン)を売る店の前で、足が釘付けになった。
「……こ、これは……!!」
店先に無造作に置かれた、黒光りする巨大な甕(かめ)。
その中には、ドロリとした黒褐色のペーストがなみなみと満たされていた。
発酵した大豆特有の、むせ返るような濃厚な香り。
私は震える指で店主に硬貨を渡し、少しだけすくって舐めてみた。
舌に乗せた瞬間、稲妻が走った。
ガツンとくる塩気。
後から追いかけてくる、深く、重く、そしてどこまでも芳醇なコク。
鼻に抜ける大豆の力強い香り。
「**赤味噌(八丁味噌)**だわ!!」
いや、正確には中国北方が誇る「黄醤(ホワンジャン)」や、それが熟成して黒くなった味噌の原形なのだろう。
だが、この味は紛れもなく、私のDNAに刻まれた故郷・名古屋のソウルフード、あの赤味噌の魂(ソウル)を持っている!
この瞬間、私の脳内で「名古屋めしスイッチ」がバチンと音を立てて入った。
アドレナリンが噴出する。
(これよ! これなのよ! 毎日、北方の淡白な饅頭や薄味の汁物ばかりで、私の舌は死にかけていたのよ!)
私は拳を強く握りしめた。
景皇子は上品な宮廷料理育ち。きっと繊細な薄味がお好みだろう。
だが、埃っぽい街道を旅して疲れが溜まっている今こそ、必要なのは「優しさ」ではない。「暴力的なまでの旨味(パンチ)」なのだ!
(完璧超人の沙龍は、きっと旅の疲れを癒やす養生スープなんかを出してくる。でも、時にはジャンクで味の濃いものが食べたくなるのが男心ってものよ! ここで「家庭の味(名古屋ver.)」を叩き込んで、あの胃袋に強烈なインパクトを残してやる!)
「おじさん! この味噌、壺ごとちょうだい! あと鶏肉! 手羽先の部分をあるだけ全部!」
私は意気揚々と食材を買い込み、宿の厨房を借りる交渉をまとめた。
今夜のメニューは決まりだ。名古屋が世界に誇る最強のB級グルメ、ビールの親友にして白米の恋人、『手羽先』だ!
甘辛いタレと、ピリリと効いた胡椒、そして赤味噌の隠し味。想像するだけで口の中に唾液が溢れる。
「ふふふ、見てなさい景皇子。あんたを味噌の虜にしてやるわ……」

厨房に入り、腕まくりをする。
さあ、まずはタレの黄金比を確認だ。砂糖と醤油、酒、そして味噌の配合は……。
私は習慣のように、ポケットに手を伸ばした。
「検索、検索っと……あ」
指先が空を切った。
そこにあるはずの、硬質で滑らかな板の感触がない。
ポケットの布地ごしに触れるのは、自分の太ももの体温だけ。
「……あ……」
サーッと、血の気が引いていく。
そうだ。
北京の宮廷を脱出する際、私はあのスマホを華妃(かひ)様の元に置いてきたんだった。
『私が戻るまで、この魔法の鏡で美しさを保っていてくださいね。』
そう言い含めて、彼女をその場に釘付けにするための「生贄」として捧げてきたのだ。
そうでもしなければ、華妃様がすぐに騒ぎ出し、私たちの逃避行は始まって数分で終わっていただろう。
(くっ……私の命綱が! 景皇子との唯一のツーショット写真が入ったアルバムであり、現代知識の結晶であり、全知全能のレシピ本である「Google先生」が!!)
「ど、どうしよう……! 分量は? スパイスの配合は!? 胡椒とニンニクのバランスは!?」
パニックになり、その場に崩れ落ちそうになる。
現代っ子の悲しい性(さが)。
「クックパッド」がなければ、味噌汁の出汁の量さえ不安になる私が、記憶だけで「あのお店の味」を再現できるのか?
失敗したら?
「しょっぱいだけだ」と景皇子に呆れられたら?
隣では、沙龍が涼しい顔で「景様のために、特製薬膳粥を作りますわ。山芋とナツメを使い、気力を補うのです」と、完璧な準備を進めている。
(負ける……。薬膳なんかに、健康食なんかに負けてたまるか! 男は結局、茶色い揚げ物が好きなのよ!)
私は厨房の壁に頭を打ち付けそうになるのをこらえ、深呼吸をした。
焦るな。落ち着け。
スマホはない。検索はできない。
頼れるのは、自分の舌と、記憶だけ。
(思い出せ……思い出すのよ、山田花子! ネットのレシピじゃない。おばあちゃんが教えてくれた、あの味を!)

私は目を閉じ、記憶の彼方へダイブした。
喧騒の宿場町が消え、懐かしい風景が浮かび上がる。
実家から三十分の距離にある、古びた一軒家。
夕暮れ時の、オレンジ色の光が差し込む台所。
換気扇が回る音。テレビから流れる相撲中継の音。
そして、味噌と砂糖が焦げる、あのたまらなく甘辛く、香ばしい匂い。
『花子、よう見ときゃあ。タレはな、泡がブクブクと大きくなるまで煮詰めるんだわ』
割烹着を着たおばあちゃんの、小さくて丸い背中。
皺だらけだけど、魔法のように美味しいものを生み出す手。
『隠し味にな、ニンニクと生姜をちーっと入れるんだ。これがミソだでね』
蘇る。
分量なんて計っていなかった。おばあちゃんはいつも目分量だった。
「これくらい」の色。「これくらい」のトロみ。そして、味見をした時の「ん、うみゃあ」という笑顔。
私の目から、一筋の涙がこぼれた。
そうだ、データなんていらない。
あの時、隣でずっと見ていた。何度も何度も、一緒に食べた。
私の舌が、私の細胞が、あの味を覚えているはずだ。
「……できる」
私はカッと目を見開いた。
迷いは消えた。
私は赤味噌風の醬(ジャン)が入った甕(かめ)に、力強く木杓子を突き立てた。
「待ってて、おばあちゃん。私、この異国の地で再現してみせるよ。世界一美味しい、あんたの手羽先を!」
鍋に火をつける。
油がパチパチと音を立てる。
スマホという「文明の利器」を捨てた私は今、一人の「料理人」として、中華風の厨房(キッチン)に立っていた。

【脳内回想:おばあちゃんの名古屋クッキング・ブートキャンプ】
厨房の喧騒が遠のき、私の意識は一瞬にして、あの懐かしい実家の台所へとタイムスリップした。
換気扇がフル回転しても追いつかないほどの、立ち込める白い湯気。
壁に染み付いた油の匂いと、甘辛い醤油の香り。
その霧の向こうで、割烹着姿の「師匠」――おばあちゃんは、菜箸を指揮棒のように振り回しながら叫んでいた。
「ええか花子。耳の穴かっぽじってよう聞きやぁ! 名古屋の飯(めし)っちゅうのはな、上品に澄ましとったらあかん! 『ガツン!』とこないかんのだわ! 食べた瞬間に脳みそが痺れるくらいのパンチがな!」
コンロの上では、巨大な中華鍋が鎮座し、たっぷりの油が黄金色に輝いている。
その海の中で、鶏の手羽先たちがパチパチ、ジュワジュワと心地よい音を奏でていた。
「手羽先はな、一回揚げて終わりじゃにゃあよ! 『二度揚げ』が命だがね!」
おばあちゃんは、まだ少し色の薄い手羽先を一度バットに引き上げた。
「ここで焦ったらあかん。肉を休ませるんだわ。予熱で骨の髄まで火を通す。じっくり、じっくりだ。
……そして!」
おばあちゃんがコンロの火力を最大にする。
ボウッ! と青い炎が音を立てて燃え上がる。
「油の温度を上げたら、地獄の釜茹でみたいに、もう一回ブチ込む!
そうせんと、外の皮がパリッとならんのだわ!
中身はジューシー、外はパリパリ。このギャップに、人間はイチコロなんだわ!」
ジュワーーーッ!!
高温の油に戻された手羽先が、さっきとは違う、高く鋭い音を立てる。
きつね色が、見る見るうちに食欲をそそる飴色へと変わっていく。
それは魔法のような光景だった。
そして、仕上げのタレ。
赤味噌、醤油、酒、みりん、そして大量の砂糖を煮詰めた、黒く艶めく特製ダレ。
揚げたての手羽先をそこへダイブさせ、一瞬で引き上げる。
「タレは甘辛く! 照りっ照りに輝かせやぁ!
そしてここが肝心だで! 胡椒だ! 胡椒を『親の敵(かたき)』かってくらい振りかけるんだわ!」
バサッ、バサッ。
おばあちゃんの手首のスナップが効く。
白い胡椒が雪のように降り注ぎ、むせ返るようなスパイシーな香りが台所を支配する。さらに炒り胡麻をたっぷりと。
「最後はな、箸なんか使って食ったらあかん! 手だ! 指先をベタベタにして、骨までしゃぶり尽くす!
これこそが一番うみゃあ(美味しい)食べ方だがね!
お上品ぶって小指立てとるようなやつに、本物の味はわからんのだわ!」
おばあちゃんは、熱々の手羽先を一つ摘み、ハフハフと言いながら私の口に放り込んだ。
カリッとした皮、溢れる肉汁、濃厚な味噌のコク、そしてピリリと舌を刺す胡椒の刺激。
「う、うみゃあ!」と叫ぶ私を見て、おばあちゃんはニカッと笑い、ウインクした。
「ええか花子、覚えときゃあ。
男の胃袋掴みたかったらな、気取ったフランス料理や、味の薄い京料理なんか作っとる場合じゃないで!
ふとした瞬間に『あー、あれ食いてぇ……』って禁断症状が出るような、こういう中毒性のあるもんを作らなかんて!
胃袋に直接『楔(くさび)』を打ち込むんだわ! わかったかん?」
――ああ、おばあちゃん。
わかったよ。今なら痛いほどわかる。
綺麗で健康的な料理もいい。
でも、明日も生き抜こうとする男の背中を押すのは、こういう「生きる力」の塊みたいな味なんだよね。
私は目を開けた。
手には、どこからともなく力が湧いてきていた。

「……わかったよ、おばあちゃん!」
私はカッと目を見開いた。
迷いは、中華鍋の熱気と共に蒸発した。
レシピ? 分量? そんなデータごとき、今の私には不要だ。
私の舌が、私の脳髄が、そして全身の血肉に刻まれた「名古屋人のDNA」が、黄金比を完璧に記憶している!
私は厨房にズカズカと踏み込んだ。
「沙龍! 悪いけど厨房のメインコンロ、借りるわよ! 今夜は私が『将軍(景皇子)のための最強スタミナ料理』を作るんだから!」
薬膳粥の支度をしていた沙龍が、目を丸くして振り返る。
「はぁ? スタミナ? 景様は長旅でお疲れなのですよ? 今必要なのは、消化の良い、体に優しい淡白なもの……」
「うるさい! それが『女の理屈』なのよ!」
私はビシッと言い放った。
「男っていう生き物はね、疲れている時こそ、ガッツリした肉と、脂と、炭水化物を求めてるの!
『お腹に優しいお粥』なんて、風邪ひいた時だけでいいの! 今必要なのは、明日への活力! 暴力的なまでのカロリーよ!」
「か、カロリー……?」
呆気にとられる沙龍を尻目に、私は鍋に油を注いだ。
貴重な油だが、ここはケチってはいけない。手羽先が泳げるくらいの海が必要なのだ。
(いくよ、おばあちゃん。見ててね!)
火をつける。油の温度が上がるのを待つ間に、下味をつけた手羽先に片栗粉を薄くまぶす。
温度は低め。まずは160度。
手羽先を投入する。
ジュワァァァ……。
静かで、優しい音が厨房に広がる。
おばあちゃんの教えその一。「二度揚げ」の鉄則。
まずは低温でじっくりと、骨の髄まで火を通す。ここで焦っては肉が硬くなる。私は手羽先たちと対話するように、じっと泡の大きさを見つめる。
一度引き上げ、肉を休ませる。
この数分間が、肉汁を閉じ込める魔法の時間だ。
そして、クライマックス。火力を全開にする。
油から煙が立つほどの高温。190度超え。
そこへ、休ませていた手羽先を一気に戻す!
バチバチバチッ!!
音が変わった。
先ほどの優しい雨音のような音ではない。爆竹のような、攻撃的な音だ。
衣に含まれた水分が飛び、表面が劇的に硬化していく。
色が白っぽいクリーム色から、食欲をそそる黄金色(きつねいろ)、そして香ばしい飴色へと変わる瞬間を見逃さない。
「今だ!」
網で掬い上げると、カラン、コロン、と乾いた高い音がした。
完璧だ。皮はパリパリ、中はジューシー。勝利の音がする。
次はタレだ。
鍋に醤油、酒、たっぷりの砂糖。
そして、この宿場町で運命的に出会った、あの黒褐色のペースト――「赤味噌」の魂を持つ北方の豆味噌を投入する。
グツグツと煮立つタレから、甘く、濃厚で、少し焦げたような香ばしい匂いが立ち上る。
この匂いだけで、白飯が三杯いける。
揚げたての手羽先を、この熱々のタレの海へダイブさせる。
ジュッ! という音と共に、タレが衣に絡みつき、艶やかな黒光りを纏う。
「仕上げは……これでもかぁっ!!」
私は壺から鷲掴みにした黒胡椒と白胡椒を、親の敵(かたき)のように振りかけた。
さらに、炒りたての白胡麻をパラパラと散らす。
スパイシーな刺激臭が鼻を突き、甘辛い味噌の香りと混ざり合う。
それは、中国の大地で生まれた、奇跡のフュージョン。
「できた……!」
大皿に山のように積み上げられた、茶色く輝く手羽先の塔。
繊細さのかけらもない。彩りなんて無視。
あるのは、「旨い」という事実のみ。
「名古屋定食・南下ルート風! 完成よ!」
私は額の汗を拭い、ニヤリと笑った。
その皿からは、空腹の男なら抗えない魅力が漂っていた。

バンッ!
私が足で扉を開けて大皿を運び込むと、宿の部屋の空気は一変した。
それまでの旅の埃っぽい匂いや、お香の静かな香りを瞬時に駆逐し、暴力的なまでに食欲を刺激する「茶色い香り」が充満したのだ。
「な、なんだこの匂いは……!? 鼻腔を直接殴られるような、むせ返るような香辛料の香り……」
姚明(ようめい)が慌てて袖で鼻を押さえた。
彼のような宮廷育ちの人間には、このスパイシーさは「異臭騒ぎ」に近い衝撃なのだろう。
沙龍(シャロン)は、テーブルに置かれた大皿――黒光りするタレが絡まり、山のように積まれた手羽先の塔――を見て、あからさまに眉をひそめた。
「杏花姫様……これは何です? 焦げているのですか? それとも……毒?」
「失礼ね! 人聞きが悪い! これは毒なんかじゃないわ、私の故郷・名古屋の魂(ソウル)、『手羽先』よ!」
「ナゴヤ……?」
沙龍は怪訝な顔で、その黒っぽい物体を凝視している。彼女の美しい薬膳料理の美学とは対極にある、野性味あふれるルックスだ。
しかし、景(けい)皇子だけは違った。
彼は興味深そうに身を乗り出し、その皿を覗き込んだ。
砂糖と醤油、そして北方の醬(ジャン)が焦げた香ばしい匂い。そこに混じる強烈な胡椒の刺激。
それは、彼の本能の奥底で眠っていた「獣」を揺り起こすような香りだった。
「……見た目は奇抜だが、妙に腹が鳴る香りだ」
彼は迷わず箸を取り、一番上の手羽先を掴んだ。
とろりとしたタレが糸を引き、照明を受けて琥珀色に輝く。
「あっ、景様! お待ちください、骨があります。手などを汚されては大変……私が身をほぐして……」
沙龍が慌ててナイフを取り出そうとしたが、私はそれをビシッと手で制した。
「だめ! ストップ!」
「な、なんです!?」
「そんなお上品に身をほぐしたら、美味しさが半減しちゃうわ!
手羽先はね、箸なんか捨てて、手で持って、ガブリといくのが作法なの! こうやって!」
私は見本を見せるべく、自分の皿の手羽先を鷲掴みにした。
そして、大きく口を開け、豪快にかぶりつく。
バキッ! チュルッ!
関節を歯でへし折り、骨と肉の間の旨味を吸い出す。
口の周りにタレがつくことなんてお構いなしだ。
「こうやって、骨までしゃぶり尽くすの! 恥じらいなんて捨てて!」
景皇子は一瞬、目を丸くして私を見た。
皇族が手づかみで食事をするなど、宮廷では万死に値するマナー違反だ。
だが、彼は私の汚れ切った口元と、幸せそうな顔を見て――ニヤリと、悪戯っぽく笑った。
「なるほど。『郷に入っては郷に従え』か。面白そうだ」
彼は箸を置いた。
そして、その白く美しい貴人の指で、ベタベタの揚げ物を直接掴んだ。
「け、景様!?」
沙龍の悲鳴を無視し、彼は手羽先を口へと運んだ。
パリッ。
静かな部屋に、皮が弾ける小気味よい音が響いた。
瞬間、景皇子の目がカッと見開かれる。
(来た……!)
私は心の中でガッツポーズをした。
甘辛い濃厚なタレのファーストインパクト。
その直後に襲いかかる、揚げたての鶏肉から溢れ出す熱い肉汁。
そして最後に、舌を蹂躙する大量の黒胡椒のピリピリとした刺激。
甘い、辛い、旨い、痛い。
味覚のジェットコースターだ。
「……!!」
景皇子の動きが止まった。
言葉はなかった。
ただ、喉がゴクリと鳴った。
そして、彼は無言のまま、骨だけになった手羽先を皿に置き――即座にもう一本、さらにもう一本へと手を伸ばした。
「景様……?」
「……美味い。なんだこれは。止まらん」
あの上品で、食に淡白だった皇子が。
口の周りをタレだらけにし、指先をテカテカに光らせながら、まるで何かに取り憑かれたように夢中で食らいついている。
その姿は、もう「皇子」ではない。ただの一人の「腹を空かせた男」だった。
「でしょ!? これが名古屋マジックよ! 中毒性が違うのよ!」
私は勝利の雄叫びを上げた。
これが「B級グルメ」の底力だ。洗練された料理にはない、脳髄に直接訴えかける麻薬的な旨さなのだ。
ふと横を見ると、異変が起きていた。
「う……うまい……」
なんと、あの潔癖症で冷徹な姚明までもが、両手に手羽先を持ち、リスのように頬を膨らませていた。
無表情な仮面はそのままに、しかしその瞳孔は開ききり、高速で咀嚼を繰り返している。
「あねうえ、いや、沙龍殿……これは危険です。食べ始めると……理性が飛びます。指についたタレさえも愛おしい……」
彼は言いながら、あろうことか自分の指についたタレをペロリと舐めた。
あの姚明が! 指を舐めた!
「姚明!? あなた何て下品な……!」
沙龍は絶句した。
しかし、部屋に充満する匂いと、男二人の狂乱ぶりを見て、彼女もまた生唾を飲み込んだ。
恐る恐る、手羽先に手を伸ばす。
「……そ、そこまで言うなら、毒見として……一口だけ……」
パクッ。
彼女が小さな口でかじりついた瞬間、彼女の背筋に電撃が走ったのが見えた。
目が見開かれ、頬が紅潮する。
「……! なんですか、この暴力的な味は……!
薬膳の調和を全て破壊するような……でも、悔しい……美味しいです……!!」
陥落。
完全勝利だ。
私の「名古屋めし」が、旅路の途中、北の大地の片隅で異世界の宮廷人たちを制圧した瞬間だった。

ダイヤモンドは砕けない

みんなが夢中で手羽先に齧り付いている。
「美味い」「止まらない」という賛辞の言葉と、パリパリと皮を噛み砕く音が、私にとっては何よりのファンファーレだった。
その音を聞いているうちに、私の中でくすぶっていた「名古屋人の血」が沸騰し、さらに調子に乗り出した!
「ふふふ……皆さん、まだ甘いですね。手羽先の真髄は『味』だけじゃないんです」
私はわざとらしく咳払いをし、注目を集めた。
「見ててくださいよ、景皇子。これからお見せするのが、名古屋で3歳児から英才教育される奥義……手羽先の正しい『骨抜き』の儀式です!」
私は自信満々に宣言すると、甘辛いタレでテカテカに輝く手羽先を、指先で優雅に摘まみ上げた。
まずは先端の関節部分を、歯で軽く噛んで固定し、両手で持って「パキッ」と折る。
次に、身の部分をパクりと口に含み、歯で肉をホールドしたまま、二本の骨を指で軽くひねりながら……引き抜く!
スッ!
何の抵抗もなく、スルリと骨が抜ける感触。この快感。
「ほら! ご覧ください! 骨だけ綺麗に取れました!」
私は戦利品を掲げた。
皿の上に、身が一欠片もついていない、標本のようにツルツルの骨が二本、カランと並べられる。
口の中には、邪魔な骨のない、ジューシーな肉の塊だけが残る。
これぞ、名古屋人が生まれながらに習得している特殊スキル『手羽先・骨抜き(別名:名古屋式ツルリ)』だ。
景皇子は目を丸くし、まじまじと私の口元と皿の上の骨を見比べた。
「ほう……。見事な手際だ。まるで宮廷の手品師を見るようだな、杏花。骨と肉を一瞬で分離させるとは、どんな妖術だ?」
「えへへ、これくらいお茶の子さいさいですよ! 慣れれば目隠しでもできます!」
推しに褒められた!
しかも「妖術」ではなく「芸当」として認められた!
私は有頂天になり、鼻の穴を膨らませてドヤ顔で視線を横に向けた。
そこには、普段は隙のない完璧超人の侍女・沙龍が座っていた。
「……」
「……」
沙龍は、眉間に深いシワを寄せ、まるで親の仇を見るような目で手羽先と格闘していた。
普段は針の穴を通すような繊細な刺繍をこなし、暗殺者のように音もなく標的を仕留める彼女だが、この豪快かつ構造が複雑なB級グルメには、大苦戦を強いられているらしい。
「ぬぐぐ……」
上品に少しずつ齧り取ろうとするあまり、口の周りはタレで茶色くベトベト。
美しい指先も油まみれだ。
彼女は骨の構造を理解しようと、解剖学的な視点で肉を凝視しているが、タレの粘着力に阻まれている。
「くっ……なぜ……なぜ骨が抜けないのです……! 関節の構造は把握しているはずなのに……肉が……肉が離れません!」
彼女が悔しそうに唸る。
その口元には、黒胡椒の粒と、甘味噌のタレが、まるで泥棒猫のようにコミカルについている。
いつもの「氷の美女」としての威厳はどこへやら。今はただの「手羽先に翻弄される食いしん坊」だ。
(勝った……! 家事も武術も勝てないけど、料理と食い意地で、ついにあの沙龍に勝ったわ!)
私は心の中でガッツポーズをした。
「完璧な女」の人間味あふれる崩れた姿。これはこれで、絶景である。
すると、その様子を横で見ていたシスコン弟・姚明が、顔を真っ赤にして慌てふためき、ガタッと立ち上がった。
「あ、姉上! お、落ち着いてください! そ、それは姉上が不器用なのではなく、この鶏の構造に先天的な欠陥があるのです!」
姚明はハンカチを取り出し、おろおろと手を泳がせている。
「鶏の骨格がおかしいのです! 決して、姉上がタレまみれで……その、いつもの冷徹さとは裏腹に、リスのように頬張って、わんぱくなお顔になっているのが死ぬほど可愛いとか、そのギャップに萌え死にそうだとか、そういうわけでは断じて……ッ!」
「……黙りなさい、姚明。あとで舌を抜きますよ」
姚明の必死すぎる(そしてダダ漏れな)フォローを、低い声で一喝すると、沙龍は「はぁ……」と深いため息をついた。
彼女は諦めたように手羽先を皿に戻し、汚れた指先を見つめた。
「負けました……。杏花姫様、貴女の勝ちです」
「えっ?」
「その品のない……いえ、豪快な食べ方こそが、この料理の正解なのですね。合理的です。骨を一本ずつ外す手間よりも、口内での分離を選ぶとは」
沙龍は手ぬぐいで口元のタレを拭い、私を見て、ほんの少しだけ悔しそうに、でも柔らかく微笑んだ。
「貴女のその奇妙な食文化には、独自の『美学』があるようですわね。……教えていただけますか? その『骨抜き』のコツを」
「もちろんですとも! 特訓しましょう、沙龍教官!」
こうして、シルクロードの片隅で、謎の「手羽先骨抜き講座」が開講されたのだった。
景皇子と姚明の温かい(そして少し呆れた)視線を浴びながら。

彼女は懐から手拭いを取り出すと、脂とタレで茶色く汚れた口元を、躊躇なくゴシゴシと拭った。
かなり力を入れて拭いたのだろう。粗末な手拭いには、手羽先の濃厚な茶色いタレと共に、何やらボロボロとした『肌色の粉』のようなものまで、べっとりと付着していた。
「ふぅ、失礼いたしました。あまりの美味しさに、つい化粧まで食べてしまうところでした」
そう言って、彼女が顔を上げた、その瞬間。
私の時間は、物理的に停止した。
呼吸も、瞬きも、心臓の鼓動さえも、その光景の前にフリーズした。
「……え?」
そこにいたのは、さっきまでの「そばかすだらけで、肌がくすみ、目の下に不健康なクマのある地味な侍女」ではなかった。
雪山に差す朝日のように白く、陶器のように透き通る肌。
長い睫毛の下に現れたのは、夜空の星をすべて集めて溶かし込んだような、涼やかで深い双眸。
神秘の定規で引いたような完璧な鼻筋に、何も塗っていないはずなのに桜の花弁のように瑞々しい唇。
そこにいたのは、私が今まで見たことがないレベルの生き物だった。
もしも横に並べるなら、自尊心増々の姉も、私の自尊心をへし折り続けてきた美人の姉も、私がアプリで加工しまくった「奇跡の一枚(詐欺写真)」すらも、ただのジャガイモに見えてしまうほどの……。
上の上、いや、SSSクラス。正真正銘、国が一つや二つ滅びかねない「真性の超絶美女」だったのだ。
<i1090353|49545>
「ええええええええっ!?!?」
私は素っ頓狂な声を上げて、椅子から転げ落ちそうになった。いや、実際に尻餅をついた。
「そ、それ何!? 誰!? なんでそばかすが消えるの!? あの濃いクマは!? あなた一体……特殊メイクアップアーティストなの!?」
沙龍は不思議そうに小首を傾げた。
そのたった一つの仕草だけで、周囲に花が咲き乱れ、背景にキラキラとした効果音が見えるほどの美しさだ。
さっきまでと同じ服、同じ髪型のはずなのに、中身が入れ替わったとしか思えない。
「ああ、これですか? ただの化粧ですよ。水や油には強いのですが、こすれには弱くて。手羽先の脂で落ちてしまいましたね」
「た、ただの化粧って……」
彼女は手拭いについた肌色の汚れ(ファンデーション的な泥と粉)を淡々と見つめた。
「な、なんでそんな……普通は逆でしょ!? 女の子はみんな、綺麗になるためにメイクするんでしょ!? なんでわざわざブサイクにするメイクなんて……!」
私が叫ぶと、沙龍はきょとんとして、それから当然のことのように答えた。
「杏花姫様。お言葉ですが、化粧というのは何も美しくするためだけのものではありません。呼んで字のごとく『化かす』ためのものです」
「化かす?」
「ええ。忍びが木や石に擬態するように、私は『風景』に擬態していただけです。私の素顔が知られれば、宮中で色々と面倒なことになりますから」
彼女はため息をつき、遠くを見るような目をした。
「特に、あのエロ皇帝……いえ、失礼。常に周りにお花が咲いておられることで有名な、英雄色を好む皇帝陛下に見初められでもしたら、景様にお仕えできなくなります。どこかのお方のように……」
「……んぐぐ……」
痛いところを突いてくる。
(あ、さっき完全に「エロ皇帝」って言ったよねーーーーー!? 彼女、サラリと皇帝陛下をディスったわ!)
「それに、このような危険な旅路では、女の美貌などリスクでしかありません。村では人攫いに遭う危険も高まりますし、無駄な虫も寄ってきます。
ですから、普段は化粧で『目立たない、疲れた、少し薄汚れた女』を装っているのです。その方が、影として動くには都合が良いでしょう?」
(なんてこと……!)
私は愕然として、口を開けたまま塞がらなかった。
私は現代でも、そしてこの宮廷でも、生き残るために必死で「厚化粧」や「加工アプリ」を使って、自分を少しでも美しく、価値あるものに見せようとしていた。
足し算の美学。それが女の戦い方だと思っていた。
なのに、この子は逆だ。
あまりにも美しすぎるがゆえに、その輝きを隠すために泥を塗る。
ダイヤモンドが石ころのふりをしていたようなものだ。
引き算の美学。
それは、圧倒的な「素材の勝利」がないと成立しない戦術だ。
「……ははっ。なるほどな」
景皇子が、面白そうに、そしてどこか誇らしげに笑った。
彼もまた、その真の姿を見るのは久しぶりなのだろう。
「灯台下暗しとはこのことか。幼い頃から共にいたが、まさか沙龍、そなたがこれほどの美女に育っていたとは。普段の変装があまりに巧妙すぎて、私ですら見落としていたぞ」
「お褒めにあずかり光栄です。ですが景様が見ておられるのは、私の能力と忠誠心という中身ですから。外見など、しょせんは皮一枚の飾りに過ぎません」
沙龍は再び涼しい顔に戻り、手羽先の残骸を片付け始めた。
その横顔は、美女バージョンになったことで、もはや「侍女」というより「亡国の王女」か「冷酷な女将軍」のような迫力を放っている。
「杏花姫様」
「は、はいっ!」
「私の素顔を見たことは、他言無用に願いますよ? ……もしバラしたら」
彼女は、この世のものとは思えない聖母のような微笑みを浮かべた。
そして、その美しい顔のまま、手刀で自身の首を「スッ」と掻っ切るジェスチャーをした。
「……わかっておいでですね?」
「ヒィッ! りょ、了解です! 墓場まで持っていきます! 焼いても喋りません!」
私は全力で頷いた。首がもげるほど頷いた。
美人になっても、中身のヤンデレ・キリングマシーンっぷりは1ミリも変わっていない。
むしろ、この神々しい美貌でナイフとか振り回されたら、誰も勝てない。ギャップ萌えとかいうレベルを超えて、ただの恐怖だ。
(勝てない……。料理では一矢報いたと思ったけど、素材(ルックス)のレベルが違いすぎる……!)
私は、隣で密かに沙龍に見惚れて石化している姚明(こいつは知っていたはずなのに見惚れている)を尻目に、敗北感を噛み締めた。
皿に残った、すっかり冷めてしまった手羽先をかじる。
パリッという音はしたが、先ほどまでの勝利の味はしなかった。
赤味噌の濃厚な味が、心なしか私の涙の成分で、しょっぱく感じたのだった。


いいなと思ったら応援しよう!