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水産への道(二)南氷洋の十三年 —日本水産元社長 垣添直也—

聞き手より 垣添直也さんが日本水産に入社したのは一九六一(昭和三十六)年。 高度経済成長の波が日本を駆け抜けていた時代に、彼が選んだのは捕鯨の現場だった。南氷洋で操業する捕鯨母船の上で過ごした十三年間が、後の経営者としての原点をいかに形成したのか——その話を聞いた。(聞き手・構成:小笹俊一)


その前に念のため、第一話のリンクも掲載しておきます。


捕鯨部へ

一九六一(昭和三十六)年、私は日本水産の門をたたいた。
入社してすぐ、私が配属されたのは捕鯨部の製造部門だった。大学で製造学科を選んだ以上、望むところだった。

当時の日本水産の捕鯨事業は、南氷洋、北洋、近海を漁場としていた。捕鯨船団は母船一隻にキャッチャーボート十二隻、冷凍船が二~三隻に加え、燃料油と製品の鯨油を運ぶタンカーと食糧の補給および冷凍鯨肉を日本に届ける運搬船で編成される。最盛期には一つの船団に千五百人近い人間が乗り組んでいた。それは、漁船というよりも、洋上に浮かぶ一つの町だった。職種も違い、年齢も違う、勿論出身地も違う、でも全ての仕事を自らの手で完結できる技能集団でもあった。

南氷洋への出漁はシーズン制で、年の半分を海の上で過ごす。私はこの生活を、十三年にわたって続けることになる。

勇魚(いさな)という呼び名


日本人にとって、クジラはずっと「魚」だった。
万葉集には「いさなとり」という枕詞が出てくる。「勇魚(いさな)」——勇ましい魚、という意味だ。

西洋の生物学がクジラを哺乳類と分類するよりはるか昔から、日本人はクジラを海の大魚として親しみ、その恵みに感謝してきた。「鯨一頭七浦賑わう」という言葉があるように、浜に流れ着いた一頭のクジラが、一帯の村人を飢えから救うこともあった。クジラを捕ることは、漁業であり、祈りでもあった。各地の捕鯨の里には、捕ったクジラを弔う供養塔が今も残っている。

欧米の捕鯨とはまったく異なる文化が、日本にはあった。それを日本各地から集まった船団員から直に聞けたのは、若かった私にとってビジネスマンとしての背骨形成につながった。

「浮かぶ工場」という世界


捕鯨母船の上は、文字通り工場だった。英語でもフローティング・ファクトリー(浮かぶ工場)と呼んでいた。
キャッチャーボートが仕留めたクジラが甲板に引き揚げられると、解体作業が始まる。肉は冷凍加工され、油は精製される。私の仕事は、その製造工程の管理だった。原料の状態を見極め、加工ラインを動かし、品質を担保する。

大学生の時学んだハンザ同盟とオランダの話に心を奪われた理由が、ここで改めて腑に落ちた。捕鯨の「現場の強さ」は、捕る技術だけではない。捕ってから何をするか、つまり加工とプロセシングの力にこそある。洋上でいかに効率よく、品質高く鯨肉を仕上げるか——それがそのまま、会社の競争力だった。隠れた競争力があった。キャッチャーボートが鯨を捕る時、如何に大きい鯨を捕るか、いかに肉が傷つかないように捕るかに加え母船に渡すまでの鮮度管理の実践が極めて重要なカギを握っていた。日本の捕鯨船団が先進国ノルウェー、イギリスに対し勝ち残れたのは、欧米と違って鯨肉を主製品としていたがため鯨一頭から得られる価値が大きかったこともあるが、この様な隠れた努力が船団の中に定着していたことも忘れてはいけない日本の産業魂であった。

石油の登場と、鯨油の時代の終焉


少し歴史の話をさせてほしい。これは、捕鯨という産業の本質を理解するために、欠かせない話だと思うから。
欧米の捕鯨は、もともと油が目的だった。鯨油は、産業革命の時代に工場の機械を動かす潤滑油として、また街灯や家庭の灯りとして、なくてはならない資源だった。マサチューセッツ州のニューベッドフォードは、十八~十九世紀に世界最大の捕鯨基地として栄えた。最盛期には二百隻を超える帆船式捕鯨船がここを母港とし、世界の海に散っていった。ご承知の通り日本の鎖国に窓をあけたこととも無縁ではない。
そのニューベッドフォードには今も博物館があり、かつての捕鯨船の遺物が展示され、あの時代の繁栄と終焉が静かに語られている。

ハーマン・メルヴィルが小説『白鯨』を書いたのも、自らの乗船体験とこの港町に縁のある時代のことだ。


しかし一八五九年、ペンシルベニアで石油が発見されると、事態は一変した。鯨油を必要とする理由が、突然消えてしまったのである。精製された石油は安価で大量に供給され、鯨油の市場は瞬く間に崩れた。アメリカの捕鯨産業は、鯨資源の枯渇を待つまでもなく、鯨油の需要消滅という形で、静かに幕を下ろしていった。

次の捕鯨の舞台は二十世紀初頭から始まる南氷洋でのシロナガス鯨、ナガス鯨を標的にした近代捕鯨であった。近代捕鯨技術を開発したノルウェーが先行し、これをイギリスが追いかけ、やがて母船式捕鯨として世界各国が参入、日本も後発ながら加わり壮絶な争いは二次世界大戦開戦まで続いた。南氷洋の鯨油(ナガス油)はマーガリン原料として高く評価されたことが、特にヨーロッパ各国が競った要因であった。

五年の空白が教えてくれたこと


生物資源というものの本質を、図らずも戦争が教えてくれた。
第二次世界大戦中、捕鯨船団は軍に徴用され、南氷洋への出漁は約五年間にわたって完全に止まった。「これだけ休めば、クジラの数は回復するに違いない」——誰もがそう期待した。しかし戦後、南氷洋に戻った船団が目にしたのは、期待とは大きく異なる現実だった。https://note.com/hiro1945/n/nde685f6cbda1

クジラは哺乳類である。魚のように大量の卵を産んで爆発的に増えることはない。一頭の母クジラが育てる子は、一度に一頭だ。繁殖のサイクルは遅く、一度減った個体数が回復するには、数十年単位の時間がかかる。五年程度の休止では、取り戻せる量は限られていた。
大学でこの事実を学んでいた私はある種の覚悟を胸に刻んだ。捕鯨という産業は、資源の制約と常に向き合い続けなければならない。それは、いつか必ず終わりが来ることを、最初から織り込んでおかなければならない産業だと。

反捕鯨の芽吹き


日本が南氷洋捕鯨に本格参入したのは、一九三四(昭和九)年のことだ。

ノルウェーは、スリップウェーを備えた洋上加工母船という革命的な技術を一九二五年に投入し、公海上での捕鯨を制した。イギリスはその技術を採用し、一九三〇年には両国合わせて四十隻近い母船と二百隻以上のキャッチャーボートが南氷洋に展開していた。

日本がこの先進技術を学んだのは、まさにノルウェーとイギリスからだった。中古の捕鯨母船を購入から始めすぐさま捕鯨母船の設計図を入手し国内造船所で建造する。そうして完成した捕鯨母船を南氷洋へと送り出した。捕鯨母船は戦時にはタンカーとして、捕鯨船は海防艦として即戦力であったため、海軍からも背中を押された。

しかし、この「後発参入」の時期から、すでに反捕鯨の種は蒔かれていた。かつてクジラを乱獲し、資源を減らした張本人であるはずのイギリスやノルウェーが、今度は「資源保護」を旗印に、日本の南氷洋進出を快く思わなかったのである。捕鯨をめぐる国際政治の複雑さは、この頃から始まっていた。

一九六〇年代末には、鯨類全面禁漁を求める声が国際的に高まり、一九七二年の国連人間環境会議で米国が商業捕鯨の十年間モラトリアムを提案した。私が南氷洋で働いていた時代は、まさにその風向きが変わっていく真っ只中だった。


南氷洋の人間学

狭い船の上での生活は、陸とはまるで異なる人間関係を生む。
千五百人が半年間、逃げ場のない空間で共同生活を送る。陸であれば表面化しないような摩擦が、船の上では増幅される。仕事上の対立、生活習慣の違い、閉塞感からくる苛立ち——さまざまな問題が起きた。

しかし振り返ってみると、あの環境で学んだことが、後年の経営者としての自分を支えた部分は大きい。人は極限状態に置かれたとき、何を優先し、どう判断するか。それを間近で見続けた十三年だったと思う。

問題が起きたとき、頭ごなしに抑えつけても解決にはならない。相手の立場と感情を理解した上で、しかし言うべきことは言う。そのバランスを、私はあの南氷洋の船の上で体で覚えた。

船を降りる日


十三年間、南氷洋、北洋、近海、南ジョージア島での捕鯨の現場を体験した後、私は陸の仕事へ異動することになった。
後ろ髪を引かれる思いがなかったと言えば嘘になる。しかしそれ以上に、新しい問いへの好奇心があった。捕鯨で学んだ「加工する力」の思想を、より広い水産の世界でどう生かすか。その答えを探すための、新しい出発だった。

学生時代から予感していた通り、捕鯨という産業を続けることの難しさ。だからこそ、次の扉を自らの手で開かなければならなかった。船を降りてすぐ、私は魚の世界へ向かうことになる。世界の海から魚を買い付けるという仕事が、私を待っていた。

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