水産への道(一)母の背中 —日本水産元社長 垣添直也—
聞き手より 忘れもしない、二〇〇二年に私が初めて訪れた株主総会は日本水産だった。以来、私が中興の祖と仰ぐ垣添直也さんに、その人生を伺った。話は、岐阜の疎開先で見たという「母の背中」から始まった。(聞き手・構成:小笹俊一)
寂しそうな背中
母の寂しそうな背中が、今も目に焼き付いている。 わずかな野菜と米を抱え、肩を落として戻ってくる小さな背中。大事にしてきた着物を手に農家を回り、物々交換を頼んだものの、交渉など経験のない母は、思うほどの量の食べ物とは交換してもらえなかったのである。 岐阜の疎開先。戦争末期の、ある日の光景だ。 なぜ私が生涯を水産業に捧げることになったのか。その答えは、すべてあの背中から始まっている。少し長くなるが、お付き合いいただきたい。
戦火の足音
私は一九三八(昭和十三)年、大阪で生まれた。父は銀行員、母は田舎育ちの穏やかな女性だった。前年には日中戦争が始まっていたが、当初はまだ社会にいくばくかの余裕があったように思う。しかし、戦況は日に日に悪化し、平和な日常は影を潜めていった。
やがて私たちは、父方の実家がある岐阜・飛騨古川への疎開を余儀なくされる。母の実家も同じ岐阜にあったが、父の実家とは離れた場所にあった。父は大阪、家族は岐阜とばらばらにならざるを得ない時代のうねりの中に、わが家も飲み込まれていったのである。
疎開先の孤独
岐阜での疎開生活は、厳しいものだった。大阪から来た「余所者(よそもの)」である私たち四兄弟の次男だった私は、地元の子供たちからいじめを受けた。心細い日々の中で、さらに私たちを追い詰めたのが飢えだった。
父は岐阜で軍隊に召集されたものの、持病が悪化し、戦地へ赴くことはなかった。それでも子ども達の名前に長男に尚(平)、次男に直(也)、三男に忠(生)、四男に武(士)とつけ襟を正した。一家離散は免れたが、食糧難は深刻を極めた。
そして、冒頭に書いた母の背中である。
田舎の旧家育ち、交渉事など不慣れだった母にとって、見知らぬ農家の戸を叩いて頭を下げることが、どれほどの苦痛だっただろう。幼い私にはわからなかったが、今なら少しはわかる気がする。
「国は守ってくれない」
八月になり、映画『火垂(ほた)るの墓』がテレビで放映されると、今でも自然と涙がこぼれる。劇中で亡くなる幼い妹の姿に、当時の空気を重ねてしまうからだ。野坂昭如さんが描いた妹さんは、売るべきものも、頼るべきものも何も持たなかったために栄養失調という悲劇に見舞われた。
わが家は些少ながら着物という蓄えがあったからこそ、飢えをしのぎ、生き延びることができた。しかし、それは国が守ってくれたからではない。
いざという時、国は個人を救ってはくれない。自分の身は自らで守り、備えなければならない——この冷徹な現実が、子供心に深く刻み込まれた。
今思えば、後年の私が経営判断において、常に「最悪の事態への備え」を怠らなかったのも、あの疎開先での体験が原点にあるのだろう。
新宿という街
一九五〇(昭和二十五)年に上京し、最初は新宿にある父の会社の社宅に入った。その後、荻窪(おぎくぼ)へ移り、やがて父は永福町に家を構えたが、私は新宿という街に強い愛着を抱き続けていた。学区の縁もあり、私は新宿高校へ通うことを決め、住まいが変わってもそのまま通い続けた。
自由な校風のこの学び舎(や)で過ごした日々は、私にとってかけがえのない時間だった。後に外食産業を率いることになるゼンショー創業者の故・小川賢太郎さんも、同じ校舎で青春を過ごした一人である。面識こそ深くはなかったが、後年、彼が掲げた経営理念を知ったとき、戦後の飢えを知る者同士、同じ方角を見ていたのかもしれないと思ったものだ。その話はまた、いずれ書く機会もあるだろう。
「二度と、あのようなみじめな思いを誰にもさせない」
その一念が、私を水産という未知の領域へと向かわせることになる。
三つの道
東京水産大学(現・東京海洋大学)に進んだ私を待っていたのは、三つの道だった。
船で魚を追う「漁業」。魚を育てる「養殖」。そして捕らえた資源を食料に変える「製造(プロセシング、マーケティング)」である。
当時、私の周りには船に乗ることを夢見る同期が多くいた。北洋へ、南氷洋へ——戦後復興の象徴として、遠洋漁業は若者たちの憧れだった。
ビキニで被爆した第五福竜丸を、ご覧になったことがあるだろうか。あれは木造船である。決して立派とはいえないあのような船ですら、大漁を夢見て遠洋へと乗り出していった時代だった。
しかし私は、迷わず製造学科を選んだ。
鯨が日本人を救った
なぜ製造を選んだのか——その話に入る前に、当時の水産業がどのような時代背景の中にあったかを書いておきたい。
敗戦直後、飢餓に苦しむ日本人を救うために、GHQのマッカーサーは思い切った決断を下した。連合国諸国の大反対を押し切って、日本に捕鯨の再開を許したのである。一九四五年に小笠原捕鯨を、翌四六年には南氷洋捕鯨を、相次いで許可した。
しかし、捕鯨船はすべて戦争中に軍用に徴発され、海の底に沈んでいた。大洋漁業もニッスイも、文字通りゼロからの再出発だった。沈んだ船を引き揚げて修理し、輸送艦を改造して捕鯨母船に仕立て上げた。タンパク質に飢えた国民のために、なりふり構わぬ復興だったのである。
ところが、当時の日本にはまだ食の自由市場が存在しなかった。昭和二十五年に統制が撤廃されるまでは、捕った鯨の肉は配給に回され、鯨油は輸出されて貴重な外貨獲得の手段となった。
鯨が、文字通り戦後の日本人を救ったのである。
私が水産大学に進んだのは、そうした時代の余韻がまだ色濃く残る頃だった。「魚を捕る」ということが、国家の再建そのものと直結していた時代である。だからこそ、漁業に憧れる若者が多かったのも当然だった。
ハンザ同盟とオランダの教え
では、なぜ私はそれでも製造を選んだのか。
大学の講義と書物の中で、私はある歴史に心を奪われたからである。
十三世紀から十五世紀にかけて、北海のニシン漁を支配したのはドイツの「ハンザ同盟」だった。彼らは内陸の岩塩の流通を独占し、塩漬けニシンの取引で莫大(ばくだい)な富を築いた。当時、バルト海のニシン資源もさることながら魚の保存に欠かせない塩は、国力を左右する資源だったのである。
その独占を打ち破ったのが、十四世紀末に技術を開発し、十七世紀に全盛期を迎えたオランダだった。ニシン漁場が北海に移ったこともあり彼らは船上でニシンをさばき、内臓を除いて塩漬けにする技術を編み出した。海の上で一次加工を完結させる——寄港を待たずに鮮度を保ち、効率的な流通を可能にしたのである。
さらに十七世紀初頭、新大陸アメリカへ渡った開拓者たち食料調達に苦しみ、多くの餓死者を出した。彼らの目の前の海にはタラが溢(あふ)れていた。しかし彼らは、その魚をどう捕り、どう調理し、保存加工すべきかを知らなかったのである。
資源があっても、それを食料に変える知恵と技術がなければ、人は飢えを免れない。
この歴史の真実は、私の胸に深く刻まれた。
「加工する力」こそが富を生む
富を生むのは「捕る力」ではない。「加工(プロセシング)する力」とマーケティングする力である。
母が経験したあの惨めな思いを打破し、不安定な自然資源を安定した富と食料に変える。科学と工業による加工と流通の仕組みこそが、人々を救う盾になる——私はそう確信したのである。
大海原へ
一九六一(昭和三十六)年、私は日本水産(現・ニッスイ)の門をたたいた。
あの疎開先で見た母の背中を、笑顔に変えるための長い戦いが、そこから始まった。
(つづく)
第二話
