水産への道(三) 魚を買いに、世界へ—日本水産元社長 垣添直也―
聞き手より 捕鯨部で十三年を過ごした垣添直也さんが陸の仕事に変わったのは、日本の遠洋漁業が大きな曲がり角を迎えようとしていた時代のことだった。商品鮮凍課長として世界中の港で魚の買い付けを始めた経験が、やがて社長として手がけた一連のM&Aへと結びついていく。今回はその軌跡を追った。(聞き手・構成:小笹俊一)
三社三様の成長
日本の近代水産業は、大きく三つの流れで成長してきた。大洋漁業、日魯漁業(のちのニチロ)、そして日本水産——この三社の歩みを辿ると、日本がいかにして「海の恵み」を産業に変えてきたかが見えてくる。
大洋漁業(ウミオス)を率いたのは、中部幾次郎という人物だ。明石の漁港で鮮魚仲買から身を起こし、朝鮮買魚(朝鮮半島からの鮮魚の買い付け事業)で大成功を収め、やがて下関を拠点にトロール漁業、北洋事業、捕鯨事業へ進出した。朝鮮半島を中心とした漁場で地盤を固めながら、最盛期には大小八百隻を超える船団を擁する巨大企業へと育て上げた。
日魯漁業は、堤清六と平塚常次郎が一九〇六(明治三十九)年に創業した。社名の「魯」はロシアの漢字表記「魯西亜」の頭文字で、その名が示す通り北洋のサケ・マス漁業が主戦場だった。カムチャッカ半島、アリューシャン列島、ベーリング海から北太平洋にかけての漁場で、サケ・マスやカニを獲り、缶詰に加工して流通させる——これが日魯の強みだった。欧米の市場が垂涎した「あけぼの」ブランドの缶詰は、日魯が培った加工技術の結晶だった。その粋はマルハニチロを経て現ウミオスに息づいている。
そして日本水産(現ニッスイ)の源流は、下関に拠点を置いたイギリス仕込みの国司浩助に率いられたトロール漁業である。ニッスイが他の二社と異なる道を歩んだのは、南氷洋捕鯨に本格的に取り組んだことだ。 南氷洋捕鯨が欧米に独占されないため南氷洋進出を急いだ国司浩助は、一九三三年に日本水産(当時の社名は共同漁業)と日本の近代捕鯨の先駆者であった東洋捕鯨を合併させ、一九三四(昭和九)年にノルウェーの捕鯨母船を購入して図南丸と改め、南氷洋へと乗り出した。捕鯨こそがニッスイの飛躍の軸だった。この時共同漁業は日本産業の傘下にあり、日本産業の総帥 鮎川義介は「この国家的新事業こそ、日本産業が敢然として起ち実現しなければならない」と関係者の奮起を促したと言う。
三社がそれぞれの海域で力を蓄えることができた背景には、当時の国際法の恩恵があった。沿岸から三カイリの外はすべて公海——その時代、漁業に規制はほとんどなかった。資源は無尽蔵に見えた。儲かった。だからこそ、田村市郎さんや鮎川義介さんといった財界の大物たちも、水産業を重要な投資先と見なして力を入れた。水産業が「国家の食糧」を担う産業であると同時に、確かな収益を生む事業でもあった時代の話である。
船から陸へ
南氷洋での十三年を終えて陸に異動したとき、私はまず二年間ほど油脂の営業の仕事を経験した。捕鯨の現場で身に付けたのは製造と品質管理の感覚だったが、「売る」という仕事は、また別の景色を見せてくれた。
そして一九七六(昭和五十一)年、私は鮮凍課長に就いた。この鮮凍という表現は、自社で漁獲した鮮魚、冷凍魚を販売するニッスイの基幹機能を指し、社内では漁労部門と双璧の保守本流的位置づけであった。
この転換が、私のその後の経営観をほぼ決定した、と言っても過言ではない。私が命ぜられた鮮凍課長の仕事は、要するに「魚を世界から買ってくる」ことだった。自社の船が捕った魚だけに頼るのではなく、世界の漁場で獲れた魚を仕入れ、日本へ持ち込み、製品にして売る。漁業会社が、ある意味で商社的な動きを求められ始めた時代である。
魚を「買う」という仕事
捕鯨部にいた頃、私は「捕る人間」だった。しかし鮮凍課長になって、私は初めて「買う人間」になった。
この違いは、思った以上に大きかった。捕る仕事は、自分たちの技術と船と網漁具が勝負のキメ手だ。しかし買う仕事は、相手がいる。相手の事情を読み、相手の言語で交渉し、相手の市場の論理を理解しなければならない。
最初は苦労した。魚の目利きは多少できる。しかし価格交渉は別の話だった。相場を読む力、タイミングを見極める力、そして何より現地のパートナーと信頼関係を築く力——これは船の上では鍛えられない種類のスキルだった。
しかし逆に言えば、南氷洋の現場で培った「加工の目」が買い付けの現場で大いに役立った。どの魚がどう加工されれば価値が高まるか、素材の良し悪しを見抜く眼は交渉の武器になった。
世界の港で学んだこと
アラスカから始まり、やがて出張先は拡がった。
アラスカでは、サケ・マス、カニであった買い付け品は間もなくスケソウダラに変わる。サケ・マス、カニの加工技術は短時間でアメリカに吸収され、またアメリカ国内市場が拡がり、製品を日本に買って貰わなくても経営できる時代に様変りした。スケソウダラはそうはいかなかった。すり身に加工しなければ価値が生まれないスケソウダラは、日本のプロセッシング技術なしには事業化は難しかった。スケソウダラ事業は一九九八年に制定されたアメリカ人漁業法により➀加工設備を持つ漁船、②漁船+母船、③漁船+陸上基地の三つのセクターに分けられた。
日本勢はアメリカ政府の様々な規制の中、我慢を重ねながら勢力を拡げた。現地の漁業者や加工会社と交渉しながら、私はアメリカの漁業ビジネスの規模感と、その政治と行政の忖度のない介入に圧倒された。
ヨーロッパでの経験はまた別の意味で深かった。北欧の国々に加え、スペインやフランスには、魚の加工と流通において長い歴史がある。第一回でも書いたが、中世のハンザ同盟がニシンの塩漬けで富を築き、オランダが船上加工で覇権を奪ったように、ヨーロッパの水産業には「加工と流通こそが価値を生む」という思想が深く根付いている。その現場を自分の目で見て、交渉相手として向き合うことで、大学生時代に学んだ歴史が生きた知識として血肉になっていった。
買い付けの仕事をしていた一九七〇年代から八〇年代、日本はまだ「買える国」だった。高度経済成長の果実が財布を厚くし、世界の漁場からいい魚を買い付ける購買力があった。現地の業者も、日本のバイヤーを上客として迎えてくれた時代だ。
購買力の変化——「買い負け」の始まり
しかし、その風景は少しずつ変わっていった。
私が社長に就任した頃には、状況は明らかに違っていた。中国や韓国の経済成長とともに、アジア全体の水産物への需要が急膨張していた。かつて日本のバイヤーにとって当たり前だった「いい魚をこちらの言い値で買える」という前提が、崩れ始めていたのである。
現地の業者が日本より高い値をつける買い手を選ぶのは当然のことだ。「買い負け」——欲しい魚が、より高い値を出す他国の業者に持っていかれてしまう現象が、世界の水産ビジネスの現場に於いて静かに広がり始めていた。
これは単に値段だけの問題ではない。日本円安による相対的な購買力の変化であり、アジアの水産物需要構造の根本的な変容だった。「世界から魚を買って日本に持ち帰る」というモデルが、足元から揺らぎ始めていた。
さらに追い打ちをかけるように、もう一つの問題が浮上してきた。
二百カイリ規制によって遠洋漁業の漁場を失った後、私たちは現地に加工会社を作ることで対応しようとした。資源のある国に拠点を持ち、そこで加工して日本へ送る——それ自体は正しい発想だった。
しかし権益を主張し始めた資源国側は、次第に要求をエスカレートさせていった。漁業権の問題に留まらず、「加工技術を現地化せよ」という圧力が加わってきたのだ。アメリカでの事業のところで触れた私たちが長年かけて積み上げてきた冷凍技術、すり身加工の技術——それを現地に渡すことと引き換えに、操業を続けさせてもらうという交渉を迫られる場面が出現した。
資源国が「資源を持っている」という事実の重さを、改めて突きつけられた経験だった。技術を渡せば競争力を失う。渡さなければ漁場を失う。どちらを選んでも、「現地で加工して日本で売る」というモデルの先行きは明るくなかった。
「海外で買って海外で売る」へ
こうした環境変化の中で、私の中でひとつの結論が固まっていった。
「海外で買って日本で売る」というビジネスモデルは、もはや持続出来ない。次のモデルは「海外で加工して海外で売る」——つまり、調達も加工も販売も、すべてを現地で完結させるグローバルな事業を確立することだ。
日本の市場だけを見ていては限界がある。世界の水産物需要は、欧米は勿論、中国を筆頭に新興国でこれから大きく膨らむ。その需要を、日本経由ではなく、現地で直接満たす仕組みを作る。そのためには、世界各地に「信頼できる加工・販売の拠点」が必要だった。
これが、私がM&Aという手段に向かっていった戦略の核心だった。
ビジネスモデルを変えなければならない
一九七七年、アメリカが二百カイリの漁業専管水域を設定した。他の国々も次々と追随し、日本の遠洋漁業は主要な漁場を一気に失っていった。
さらに一九八八年には南氷洋捕鯨をはじめ日本の母船式漁業が終りを迎えていた。日本水産の歴史において、大きな柱が倒れた瞬間だった。
皮肉なことに、日本水産の業績がピークを迎えたのはその直前、一九八六年頃のことだった。遠洋漁業の黄昏と会社の最高益がほぼ同時期に重なっていた。それだけに「このモデルはもう続かない」という現実を直視することは、社内でも容易ではなかった。しかし私には、すでに見えていた。鮮凍課長として世界を歩いた十年余が、その確信を与えてくれていた。
社長就任、そして最初の仕事
一九八七年、私は突然冷凍食品部長を命じられた。それまでずっと「水産」の仕事をしてきた私が、初めて「食品」の世界に足を踏み入れた瞬間だった。その後、食品本部長、水産本部長、専務、副社長を経て一九九九年に社長に就任した。
社長として最初に直面したのは、ニュージーランドのシーロード社の買収だった。
社長就任前から動いていた案件で、ニュージーランドの漁業権における先住民マオリ族に与えられた権益に関わるという複雑な政治的背景を持つ交渉だった。現地の法律では海外資本の直接保有に制限があり、ファンドを介した間接保有という仕組みを組み立てた。「世界の水産資源をどこで、どう押さえるか」という戦略の第一歩として、意味のある買収だった。鮮凍課長、冷凍食品部長、食品、水産本部長時代からの多くの現地の人脈の支援なしには到底なしえなかった。後日談になるが、2013年6月私は、ニュージーランドの水産業発展への貢献により国家元首を兼ねるイギリスエリザベス女王からメリット勲章を授与されることとなった。
ゴートンズとマクドナルドの日
しかし、この時期のM&Aで最も印象深かったのは、アメリカのゴートンズ社との関わりだった。それは、シーロード社買収から一息入れる間もなくやってきた。海外の大型買収を二件平行で進める会社としての力はなかったし、手元資金にも限りがあった。
ゴートンズは、水産冷凍魚食品のアメリカ最大手だ。そしてマクドナルドのフィレオフィッシュに使われる魚のパティを共同開発し供給していた会社でもある。
買収の話が具体化したとき、私たちはひとつの懸念を持っていた。日本水産がゴートンズを買収しても、マクドナルドは引き続きゴートンズからパティを仕入れてくれるのか——ということだ。世界最大のファストフードチェーンが取引先であることは、ゴートンズの企業価値の核心だった。もし買収後に取引が打ち切られるようなことがあれば、買収の意味が根底から揺らぐ。買収決定にあたり、日本水産の取締役会はゴートンズの意向確認を社長である私に一任した。私は、ニッスイUSAの社長、そしてゴートンズの社長とともに、マクドナルドのシカゴの本社へ直接確認しに行った。日本水産がオーナーになっても、変わらずゴートンズと取引を続けてくれるか——と。
マクドナルド側の答えは、明快だった。「マクドナルドにとりスケソウダラの資源へのアクセスを持つニッスイとゴートンズの品質と供給力の組み合わせは願ってもない話」という回答だった。その言葉を聞いたとき、買収への確信が一気に固まった。戦争中疎開先の岐阜県で見た母の背中から始まった旅は、気がつけば、世界最大の魚のフライのサプライヤーを傘下に持つという場所まで来ていた。「加工する力こそが富を生む」——大学生の時、学んだハンザ同盟の歴史が、半世紀の時を経て、自分自身の経営判断の中に生きていた。

