しぐれうい先生の作品はアートか?——制度論から見た正反対の結論と、私の違和感
先程、私は以下のnote記事を投稿しました。
しぐれうい先生の個展で販売される大型複製画をめぐる価格論争をきっかけに、私は自身の無意識の偏見を振り返りながら、作品を「自律的な造形物」として捉え、アートであると位置づけました。萌え絵というスタイルに関わらず、個展という文脈で独立した鑑賞対象として提示されている点に着目したのが主な論拠です。
その記事はアート界隈の方々にも読んでいただけたようで、ある方からDMで率直な指摘をいただきました。内容は、私の結論(しぐれうい先生の作品はアートである)とは正反対の立場でしたが、理由が非常に興味深く、考えさせられるものでした。そこで、DMをくださった方に許可をいただき、この場でその指摘を基に改めて考察をまとめます。
DMで示された視点は、現代美術界で広く用いられる制度論に基づくものでした。結論から述べると、この枠組みで判断した場合、しぐれうい先生の作品は「アート」ではなく、「イラストレーターによるファン向けの高品質複製画・企画展」として位置づけられることになります。
制度論とは、簡単に言えば、「アートとは何か」を決めるのは作品の見た目や作者の意図だけではなく、アートワールド(美術界という社会制度)がその作品を「鑑賞の候補」として認めるかどうか、という考え方です。アートワールドの構成員には、批評家、キュレーター、美術館、画廊、コレクター、美術史家などが含まれます。彼らが文脈の中で作品を提示し、議論し、市場で取引することで、初めて「アート」としての地位が成立するというものです。
私が前回の記事で重視した「作品の目的が商業か、自律的な鑑賞にあるか」という区別は、確かに一つの有効な視点です。しかし、現代の美術界では、制度論のほうがより主流な判断軸となっています。つまり、作者が「これはアートだ」と宣言したり、個展で自律的に提示しただけでは不十分で、美術制度全体がそれをどう受け止めるかが鍵になるのです。
この指摘を聞いて、私は強い衝撃を受けました。美術史の基礎知識が浅い私にとって、芸術とは本来「誰かに認められるものではなく、自分がアートだと思えばそれが芸術」という、開かれたイメージを持っていました。ところが制度論は、エリート集団(批評家、美術館、画廊、キュレーターなど)が総合的に判断し、アート価格での売買や美術史的文脈での位置づけがなされて初めて、作品をアートとし、作者を芸術家として認めるという仕組みです。これに強い違和感を覚えました。
しかし、制度論が成立した歴史的背景を知ることで、その違和感は少し和らぎました。きっかけとなったのは、20世紀の二つの象徴的な事例です。
一つはマルセル・デュシャンの《泉》(1917年)です。便器に「R. Mutt」とサインして展示したこの作品は、当時の展覧会で拒否されましたが、作者の意図と文脈によって「アート」として議論を呼ぶようになりました。見た目が普通の便器なのに、なぜアートなのか——作者の宣言だけでは説明がつかなくなったのです。
もう一つはアンディ・ウォーホルの《ブリロ・ボックス》(1964年)です。スーパーマーケットに並ぶ洗剤の箱とほぼ同じものを木で制作し、美術の場に置いた作品です。これにより、アーサー・ダントーは「アートワールド」という概念を提唱しました。同じ見た目の物体が、美術館の文脈に置かれることでアートになり得る。そこに必要なのは「芸術理論の雰囲気」と歴史的知識だと指摘したのです。
これらの出来事を受け、ジョージ・ディッキーらが制度論をさらに発展させました。芸術が多様化し、何でもアートになり得る時代に、外部のフィルターなしでは区別がつかなくなったため、制度的な承認が実践的な基準となったのです。
もちろん、この理論には私と同じく違和感を抱き、批判する声も少なくありません。「エリート集団が独占的に決めるのは閉鎖的」「作者の自由を奪う循環論法だ」といった指摘です。それでも、アートとは何かを「公式に」問われたとき、現代美術界で効力を発揮するのは、やはりアートワールドの判断です。
この制度論でしぐれうい先生の個展や作品を振り返ると、以下の点が理由で「アート」としては位置づけられにくいと言えます。公式プロフィールでは一貫して「フリーのイラストレーター」とされ、個展は原宿のイベントスペースで限定複製画(印刷物)とグッズ販売が中心です。美術館や国際的な著名ギャラリーの関与、美術批評家からの本格的な言及、美術市場でのアート価格としての取引実績は、現時点でほとんどありません。村上隆のように理論化して制度に積極的に介入したわけではなく、ファン文化・ポップカルチャーの延長線上にあるためです。
結果として、私の前回の結論と制度論による判断は、ほぼ正反対となりました。
この一連のやり取りを通じて、私が改めて実感したのは、芸術は本来多層的だということです。個人的・感情的なレベルで「自分が美しいと感じ、感動する表現」は、開かれた芸術として十分に価値があります。一方、社会・制度の中で機能する芸術は、別の基準で位置づけられます。この二つは別物として共存しており、どちらかを否定する必要はありません。
結局のところ、アートへの向き合い方は、鑑賞者である自分自身が基準になると私は思います。制度論を学んだ今も、私の中でのアートとは、前回の記事で書いたような「自律的な造形物」として捉えたいという思いが残っています。それは、制度論が登場した当初の問題——「作者がアートだと思うならアートである」という原点に、静かに立ち返ることなのかもしれません。
しぐれうい先生の作品を、萌え絵の枠を超えた人物画として愛でる私の視点は、変わらず大切にしたいと思います。そして、こうした異なる視点との出会いが、芸術をより深く楽しむきっかけになると信じています。
