「なぜ私は他の誰かではなく、この私として生まれたのか?」~私的哲学論考~
子供は子供だった頃、
いつも不思議だった
なぜ僕は僕で君ではない?
なぜ僕はここにいて、
そこにいない?
人が見ているのを
見ることはできるが、
聞いているのを
聞くことはできない。
マルセル・デュシャン
わたしたちはみんな、「わたし」の中に、
「わたし」の身体に閉じこめられています。
そして、そこから抜け出すことができないまま、
やがて死んでゆくのです。
私達は人間としてこの世に生を受け、やがて人生を全うして消えていく儚い存在です。それにもかかわらず「なぜ私は、他の誰かではなく、この私として生まれたのか?」という究極の謎に直面します。
この問いに答えようとした二人の哲学者をご紹介したいと思います。一人目は実存主義に関わったジャン=ポール・サルトルです。彼は「私」として生まれたのは偶然であり、その後の人生をどのように生きるべきかに焦点を移しました。
また、現象学の視点からもアプローチがされています。二人目の哲学者はエドムント・フッサールです。サルトルは「存在⦅実存⦆」に焦点を当てたのに対し、フッサールは「意識」に焦点を当てました。
しかし、フッサールの「私」は具体的な人格(年齢、職業、生い立ち)ではなく、抽象的な概念である「意識の構造=超越論的自我」そのものにフォーカスしています。
そのため「なぜ私は、他の誰かではなく、この私として生まれたのか?」という究極の謎については沈黙しました。
私がこの記事でお伝えしたいのは、究極の謎について答えを導くことではありません。私自身の問いを、皆さんと共有したかったからです。
この問いが生まれた、私の「3つの視点⦅個人的見解⦆」についてご紹介します。
①世界は私というフィルターを通して把握される対象だ
🔵世界は客観的に存在してはいない (唯識思想の影響)
🔵私の五感や思考を通して把握される
②私は身体に閉じ込められた孤独な存在だ
🔵私は他者の身体に入ることは出来ない (私の意識だけは疑えない)
🔵他者の痛みを完全に共有できない
🔵私の感情や思考は、私の身体の内側でしか起きない
③自分自身を直接に眺めることはできない
🔵他者の顔を見たり、表情を読むことはできる
🔵自分の顔は、鏡などを使って間接的にしか把握できない
以上の視点から生まれたのが「なぜ私は、他の誰かではなく、この私として生まれたのか?」という究極の謎であり、かつ永遠の謎かもしれません。
この究極の謎について、哲学者・永井均氏は「第一人称性の謎」という言葉を使って問題提起をしています。
「第一人称性の謎」とは何か(簡潔に)
哲学で言う「第一人称性の謎」とは、端的に言えばこうです。
なぜ世界は「この私」から経験されているのか?
もう少し噛み砕くと、
客観的には
●人間は無数に存在する
●脳も物理法則も誰もが同じ構造を持つ
それなのに
なぜ私は「この身体」「この視点」から世界を見ているのか?
この「なぜ この 私なのか」は、
●科学でも
●論理でも
●因果でも
説明できません。
フッサールの現象学では「世界は私によって意味を与えられ、構成されている」と主張します。世界は私の意識の働きに応じて、様々な姿で立ち現れるのです。私の内面が豊かになれば、世界も豊かになるのです。
私達はそれぞれの身体に閉じ込められた孤独な存在ですが、内面の悲しみや喜び、そして豊かさを外に向かって解放(表現)するならば、お互いの関係性を深める契機となるのです。そういう意味でnote は解放の場なのです✨
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