90年代アンダーグラウンド・パンク/ハードコアを巡る【第0回:前段】
70〜80年代、“パンク”と呼ばれる前のパンクたち
「パンク」という言葉が日本で広まりはじめたのは、おそらく1980年代に入ってからのことです。しかしそれ以前、1970年代の終わり頃からすでに、パンクの精神に通じるような表現は、確かに各地で生まれていました。
明確なジャンル名も、スタイルの定義もないまま、誰かがギターをかき鳴らし、怒鳴るように歌い、観客の前に立つ。そんな「名前のない表現」が、のちに“日本のパンク”と呼ばれるようになる動きの源流だったのではないかと思います。
1969〜:頭脳警察――政治の言葉で叫ぶロック
1969年に登場した頭脳警察は、日本語ロックにおいて異例の政治性を帯びたグループでした。「銃をとれ」「世界革命戦争宣言」といった楽曲タイトルや、直接的な体制批判を含む歌詞は、当時の社会では強い警戒の目で見られており、放送禁止処分や発売中止といった対応を受けたことも少なくありません。しかしその挑発性は、単なる扇情的パフォーマンスではなく、表現手段としてのロックに可能性を見出そうとする試行錯誤の一形態でもありました。アングラ演劇や反戦運動と同時代的に交差していた彼らの音楽には、「正しさ」を疑う視点が一貫して流れていたように思います。
1970〜:村八分――整わないことの肯定
翌1970年、京都で結成された村八分は、より衝動的で混沌としたスタイルを持っていました。チャー坊こと山口冨士夫のボーカルは、詩とも叫びともつかない言葉を絞り出すようなもので、演奏もタイトとは言えません。けれどその雑然とした空気には、整った音楽には出せない独特の魅力がありました。村八分はスタジオ録音をほとんど残さず、ライブの現場だけで音楽を成立させていた点でも異色です。観客との距離が近く、演奏中に混乱が生まれることもあったようですが、それすらも表現の一部であるかのような、ある種の“生っぽさ”が彼らの魅力でした。
1978〜:フリクション――都市の冷たさを音に変える
東京では、1978年にフリクションが活動を開始します。中心人物のレック(佐藤ミツル)は、渡米経験があり、ニューヨークのノーウェーブやアート・パンクに影響を受けていました。帰国後、日本語による緊張感あるリリックと冷徹なビートを軸にしたサウンドを構築し、1980年にリリースされたアルバム『軋轢』は、その到達点とされる作品です。彼らの音楽は、熱量や怒りといった感情よりも、都市の不安や空虚を音像に置き換えたようなストイックさが際立っており、日本のポストパンク/ニューウェーブの重要な基点とも言える存在です。
1980〜:THE STALIN――衝動をさらけ出すステージ
1980年頃から本格始動したTHE STALINは、表現の衝撃力という点で抜きん出ていました。フロントマンの遠藤ミチロウは、観客に対してあえて挑発的に振る舞い、時にはパフォーマンスの中で下品と取られかねない行動を見せることもあったようです。ただそれは、パフォーマンス芸というより、パンクという表現が“綺麗に収まらないもの”であることを可視化する実践だったのではないでしょうか。代表曲「STOP JAP」などに見られる直接的な語感や、突き放すような言い回しの数々には、演出よりもむしろ本音に近い何かが感じられます。
1980〜:INU――パンクのなかに文学を持ち込む
大阪のINUは、1980年前後に活動を開始しました。町田町蔵(のちの町田康)を中心とするバンドで、1981年のアルバム『メシ喰うな!』は、パンクとしての衝動と、詩的でねじれた言語感覚が混ざり合った、特異な作品として評価されています。INUの特徴は、叫びよりも言葉そのものに重きを置いたスタイルにあります。歌詞の意味は時に曖昧で、読み解きにくい部分も多いのですが、それがかえって、リスナーの中に残り続ける余白を生んでいたように思われます。
1982〜:非常階段――「音楽」の限界線を越えて
1982年以降、非常階段が展開したパフォーマンスは、もはや“演奏”の枠組みから外れていたとも言えます。ノイズ、物音、破壊音、罵声、転倒──それらを音楽として届けるというよりも、「その場でなにかが発生すること」自体を重視したアプローチでした。実際のライブでは、破壊行為や物の投げ合いといったアクションが含まれることもあり、観客との関係は決して一方向ではありませんでした。現在においても彼らのスタイルは、単なるノイズではなく、“聴くことの枠”を意図的に壊す実験的表現”として再評価されています。
1983〜:あぶらだこ――静かさのなかにある強度
1983年に結成されたあぶらだこは、初期はシンプルなハードコアスタイルで活動していましたが、次第に方向性を変え、音数を抑え、静けさと間を生かすサウンドへと移行していきます。1985年のアルバム『あぶらだこ』(通称・赤ジャケ)は、静と動のコントラスト、詩的な日本語詞、沈黙を取り入れた構成などを特徴とし、彼ら独自の道を印象づける作品でした。激しさで押し切るのではなく、沈黙や緊張の中にこそ“パンク的なるもの”を探る視点は、後のポストロックや激情系への伏線にもなっていきます。
1984〜:殺害塩化ビニール――地下を記録する試み
1984年に設立された殺害塩化ビニールは、こうした地下の表現をカセットテープやレコードという物理メディアに刻むことで、“誰にも届かないはずだった音”に居場所を与える活動を行いました。ザ・スターリンや非常階段、あぶらだこ、ばちかぶりなど、既存の流通システムからこぼれるようなアーティストを多く扱い、情報の乏しい時代において、音源の存在そのものが重要な意味を持っていたことがうかがえます。「残す」という行為が単なる記録以上の行為であったことを、このレーベルの活動は証明していたのではないでしょうか。
パンクがジャンルになる前に、すでに鳴っていたもの
こうしたバンドやレーベルに共通しているのは、「パンク」という言葉が定着する前から、すでに“パンク的な表現”をしていたということです。怒り、疎外感、不器用な感情の露出。それらを音に変えて届けようとしたとき、ジャンルはあとから追いついてきたにすぎません。つまり、パンクは「音楽ジャンル」ではなく、「態度」や「構え」だった。そのことが、次の世代へと受け継がれていく鍵となっていきます。
