【紫陽花と太陽・中】第一話 死に際[3]
母さんが亡くなった時は、ずっと泣いていた気がする。
姉に怒鳴られながら、ぼんやりとした頭で記憶を反芻する。
その頃は父さんがいて、僕や姉たちが泣いていても父さんだけはずっと微笑んでいて、すごく安心できたのを覚えている。背中を優しくさすってくれたっけ。あれ、頭だったっけ? 本当に僕はいろいろ忘れてしまう。
父さんにしてもらったように、椿の、そしてあずささんの背中をさすってきた。手ってすごい。元気が出てくるからね。
僕は、父さんと最後に(あれは確か一昨年の年末だったと思う)したお話だけは絶対に忘れないようにしたい。だから、きちんとメモをした。
お願いは二つあるんだ。
うまくできるか分からないけど、今自分がどんな顔をしているのか分からないけど、僕だってできそうなことを父さんは言ってくれたんだと思うから、やらなきゃいけない。
このお願いが父さんとの最後の言葉だってことは、遺言になるんだろう。
このメモ、表がすごく大事な写真なんだ。
胸ポケットにいつも入れておくためには写真を折らないといけないからちょっと残念だけど、いつでも見れるから仕方ないよね。
葬儀二日目は小雨が降っていた。
生前の父の希望で、葬儀はごく近しい人だけのものとなった。面識のある親戚と、剛の家族。それくらいしか連絡もしないで済んだ。実際に打ち合わせをしてやることを専門スタッフと一緒にリストアップしてみると、桐華姉が恐れるほどやることは山積みではなさそうだった。ひろまささんも一緒だし、姉のフォローは安心して任せられると思い胸を撫で下ろした。
僕は和室で着付けをされるのを待っていた。通夜? 告別式? どっちが何をするのか忘れてしまったが、スーツではなくて着物を着るらしい。真っ黒の喪服。男性は袴を着るみたいで、男女でなんとなく部屋を分けているパーテーションのところに、見慣れない着物一式が引っ掛けられていた。
「お兄ちゃーん! きたよぉ!」
椿がパーテーションの向こうからテテテ……と走り寄ってきた。黒一色のワンピースに白い襟が映える。ちょっと大人っぽい服装に、幼い妹は嬉しそうに笑って僕の目の前でくるりとターンした。
「では、始めるぞ」
続いてあずささんがパーテーションの向こうから静かにやって来た。
始めるって、何を? 僕がキョトンとして首を傾げていると、あずささんが腕まくりをし、髪を結い上げ、両腰に手を当てて僕の前に立って言った。
「脱いでくれ」
いきなり、どうした。僕が唖然としている間にあずささんは僕のクリーム色のパーカーを脱がせ、ハンガーにきちんとかけてからシャツも脱がせ、それもキレイにたたみ直して、肌着に手をかけた。僕は慌てて制止する。
「肌着も脱ぐの? 自分でできるよ?」
「じゃあ、肌着を脱いで、ズボンも脱いでくれ」
「ここで⁉」
「ここで」
パーテーションの向こうから、今度はひろまささんと、僕と同じような袴と喪服を手に持ったおばあちゃんがやって来た。ひろまささんが僕たちの様子を見て苦笑していた。
仕方なく、僕は脱いだ。あずささんは脱いでいる僕を横目に、さっさと白い布地と白い靴下みたいなものと長い紐の準備をし始めた。
「足袋を履いてくれ」
靴下ではなく、足袋を渡された。パンツ一丁の僕が足袋(慣れないので時間がかかってしまった)をはき、何とも情けない格好になる。
僕のそんな心情とは裏腹に、あずささんは淡々と着物を着させてくれていた。
「お嬢さん、お若いのに、着付けができるなんてすごいですねぇ」
隣でひろまささんの準備(着付けと言ったかな)をしていたおばあちゃんが、あずささんを褒めた。確かに、あずささんが普段着とは程遠い着物を人に着せられるというのはすごいことだ。僕は呟いた。
「昔、教わったんだね」
「……そうだ」
「こういうの、着付けっていうんだね」
「そうだ。茶道の基本のき、だ」
「男の人の着物も着付けできるんだね」
僕は思ったことをそのまま口に出した。あずささんは一瞬手が止まったが、すぐ再開した。
「……私は、男として育てられてきたからな。だから小さい時は袴も着ていたことがある」
「……ごめん」
隣のひろまささんがちらりと僕たちを見たような気がした。
しばらく沈黙が続いた。あずささんを見ると額に汗が浮かんでいる。
「あずささん、すごいね。着物を着付けられるんだから。こういうお仕事もできるってことだね」
「仕事?」
後ろを向いてくれと言われ、あずささんに背を向ける。僕は続けて言った。
「うん、こういう会場で、着付けをするお仕事もあるんだなぁって思った。それとか、着物を着たい人に着付けを教えるっていうお仕事もできそうだし」
「……そんなこと、考えもしなかったな」
「そうだよねぇ。……でもいつか、僕もあずささんもお仕事すると思って」
「そうだな……」
ここを引っ張っているからこのままゆっくり前を向いてくれと言われ、また前を向く。
着付けは重労働だ。何枚も着るものがあって、紐でしばったり、手順がとても難しそうだ。
「はぁはぁ……できたぞ」
荒く息をついて、あずささんがようやく立ち上がった。前から、横から、後ろからと僕の姿をまじまじと見て、少し裾を引っ張ったり調整をして、また眺めて、満足そうに微笑んだ。
僕はと言うと、いつもよりもあずささんが近くにいたので、時々香るシャンプーの匂いだったり何やらで心臓が跳ね上がっていた。顔に出ていないことを祈る。
隣の着付けのおばあちゃんにも仕上がりを見てもらい、大きく頷いて合格をもらったので、あずささんは一安心していた。
喪服姿に身を包んだ僕の家族が会場で待っていると、棺に入った父さんがやってきた。
僕は椿と手を握りながら棺を見やり、そういえばあずささんがいないのでキョロキョロと探していた。
「あずさちゃんね、後で来るって」
「そうなんだ。僕の着付けが終わってからかなり経つから、どこにいるかなって心配になったよ」
頑張りすぎて倒れているのかもしれないと思ったので僕は梨枝姉に言った。
この後の流れを僕なりに頭に叩き込み、そういえば今日剛と久しぶりに会えるかもしれないんだなぁと呑気なことを考えていた。喪主の桐華姉は会場に来たお客様(?)にスピーチをするとかで緊張で顔が強張っていた。今日はいつもどこかしらに身に付けている苺のグッズは見られない。全身黒い姿で、髪もきっちりと後ろでまとめてあり、いつもの雰囲気とは全然違う。
親戚がちらほらやって来た。僕たちは挨拶をする。椿は僕の後ろにしがみつき、また無口になってしまった。
大きくなったねぇ、あら椿ちゃんかわいいお洋服着てるねぇ、遼介くんはもう背がお姉さんより高くなったんじゃない? など、葬儀と関係のない他愛ない話が続く。
いつの間にか式場は整い花が供えられ、小さくて立派な会場に仕上がっていた。
「あ、あずさお姉ちゃん」
椿が小さな声で呟いたので僕はすぐあずささんを探した。
あずささんは姉たちと同じような喪服を着て奥の方からやって来た。黒い着物を一分の隙もなく美しく身に付け、肩の下まである黒く長い髪を後ろできっちり結い上げて。実際は桐華姉と梨枝姉と同じ見た目なのに、僕は彼女から目が離せない。
「遅くなってすまなかった」
隣に立つと、あずささんは僕の肩くらいの位置に顔がある。自然と見下ろす感じになってしまう。
「具合悪いのかと思って、もう少ししたら様子を見に行こうかと思ってた」
僕が言うと、あずささんは僕を見上げ首を横に振った。いつも隠れている耳がよく見えた。うっすらお化粧もしているみたいだった。
僕は慌ててあずささんから目をそらし、父さんの遺影写真を見た。最後の記憶と同じように、満面の笑みで会場の皆を見守っている顔があった……。
◇
翠我遼介の父、永眠す。
数年前に最愛の妻と死別し、男手一つで子四人を育てた。
家族と一緒に暮らすことは叶わなかったが、常に微笑を浮かべ、周囲を穏やかにさせた。
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