【紫陽花と太陽・中】第一話 死に際[2]
俺は桐華と結婚し、恋人ではなく夫という立場になった。名は、ひろまさという。
去年の春頃にお義父さんときちんと挨拶をした。こじんまりとしたとても静かな小料理屋で、しぼったボリュウムでクラシック音楽がかかっていた気がする。俺はいい歳をしているにも関わらず少し緊張してしまっていた。
桐華のお義父さんは、太い眉と白髪交じりの柔和な顔をほころばせて、開口一番俺に感謝の言葉をくれた。桐華を選んでくれて、ありがとう、と。それから握手をしてそれぞれ席に付き、お義父さんから見たらまだ若輩者の俺の、人生でも有数の緊張する場面……結婚を申し込むという一幕を、ずっとゆっくりと最後まで聞いてくれた。
「へぇ、ひろまさくんは公認会計士という職業なんだね」
「はい、まだ平社員ですが、もっと勉強をしていろんなお客様と関わらせていただきたいと思っております」
「そうかそうか」
お義父さんは始終笑っていた。目尻のシワの深さが、この方が今までどのくらい笑顔でやって来たのかを物語っていると思った。この方は怒ったことがあるのだろうか。
上辺だけ、形式上の笑顔は、仕事柄何度も目にしていた。脱税に近い内容であるにも関わらず、お客様の中には笑いながら頼みますよ、うまくやってくださいね、とお願いする人間もいる。俺の仕事ははたして人の役に立っているのだろうか。生きる意味を探しあぐねて迷った時期もあった。
お義父さんの笑顔は仕事とは何も関係がないのに俺の心を安心させた。
桐華は幼稚園教諭なのでいつも子供たちと一緒に遊んでいる。喜怒哀楽が豊かな、俺には持っていない竹を割ったような図太さも持っている、強いところに惹かれてしまった。
笑顔は強い。俺はこの家族が好きになれそうだと思った。
結婚の申し込みはあっけないほど順調に進み、桐華からは家族の話を山程聞かされているので、お義父さんが普段家にいないことやめったに会えないことも知っていた。次に会うのはいつだろうか。家族旅行の話も出ていたので、俺はその頃を楽しみにしていた。
次はなかった。
結婚の快諾の後、健康診断を受けたお義父さんは精密検査をするための検査入院をし、そのまま二度と退院することなく病院で過ごすこととなってしまったからだ。
家族旅行をゴールデンウィークの繁忙期を避けた五月下旬頃に計画していたそうだが、お義父さんが参加することは厳しかった。代わりに俺が、桐華のご家族に混ざって旅行に参加することになった。
「こんにちは! 僕、遼介と言います」
俺が遼介くんと初めて出会ったのは家族旅行の当日だった。開口一番、俺より先に彼は挨拶をしてくれた。メガネをとって若くしたら、きっと目の前の彼のようなお義父さんだったに違いない。それほどお義父さんと遼介くんは、似ていた。
妹の椿ちゃんは初めての大人の男性に驚いたのか、遼介くんの背中に隠れてシャツの裾をずっと握りしめていた。
少し離れたところで、背筋をぴんと伸ばして控えめに女の子が立っていた。それがあずさちゃんだった。長い黒髪をゆるくねじって可愛いお花の髪留めをつけていて、ものすごく美しい女の子だと思った。
梨枝さんはシャツにスラックスという動きやすい服装で、一人で宿泊手続きを済ませて颯爽とやってきた。
家族との初対面はだいたいこんなイメージだったと思う。
お義父さんが旅行に来れなかったことで、椿ちゃんはすごく悲しんでいた。
遼介くんとあずさちゃんが椿ちゃんを励まして、抱っこまでして宿泊部屋の中を探検したりして、上手に気をそらそうと頑張っていたのが印象的だった。
単身赴任で普段家にいないにも関わらず、家族皆が心待ちにしていた。俺はお義父さんが本当にすごい人だなと思った。
検査入院の結果は喉と食道の病気だった。肺にも少し転移があり、咳を長いことしていたのはそれが原因でもあったようだ。確かに結婚の申込みをした日もお義父さんは少し咳をしていた。
俺は旅行の後から桐華たちと一緒に暮らし始めた。もともと俺は一人暮らしをしていたので、引っ越しをするのは桐華よりも単身の俺の方が手間がかからない。
暮らし始めて、まぁその前の旅行の時からも薄々感じてはいたけれど、遼介くんとあずさちゃんの家事スキルが異様に高いことに驚嘆した。中学三年生とは思えないほどくるくるといつも動いていた。年の離れた椿ちゃんのお世話も、本当の親のように、二人で分担して上手にやっていた。
朝食の支度からお弁当作り、誰が何時何分に出発をするからそれに間に合うように自分たちで手順を考えて。椿ちゃんの保育園の送迎も、やれそうな時は洗濯まで、本当に二人で毎朝立ち働いていた。
あずさちゃんの同居する経緯はお義父さんと桐華から聞いていた。
児童虐待、ネグレクトなどの言葉が頭をめぐった時、お義父さんは俺にこう言った。
「もし、児童相談所の方があずさちゃんを見つけたら連れて行くと思ってね。身の安全はそれでも確保はされるだろうけれど、彼女はまた一人きりになってしまうと思って。遼介を頼って来てくれたということは、遼介は信用に足る存在であると。せっかくそんな人が近くにいるのに、無理やり一人寂しい場所で軟禁状態になるのは俺は何だかちょっと違うと思うんだ」
赤の他人を家族として(養子縁組などの書類上の手続きはせずに)迎え入れることは、危険と隣り合わせのことだと思う。一歩間違えなくとも、人さらいだ。社会的に手続きがオールクリアな状態が良いのか、それとも目の前の彼女が頼りたい相手に頼れるようにする状態が良いのか。どちらを取るか。
あずさちゃんの今の身柄はちゅうぶらりんだ。家族の絆はしっかりあるけれど、やはり本当の家族にはなり得ない。社会のルールからは外れてしまっている。
お義父さんが一回目の腫瘍の切除をする前に、俺はわずかな時間、病院で話をすることができた。
俺は旅行に行った時や一緒に暮らし始めて感じた、素朴な疑問をお義父さんに聞いてみた。
「どうして、桐華や梨枝さんに、母親の代わりになるように、言わなかったのでしょうか」
二人でフルタイムで働けば家のことや椿ちゃんのことは時間的に難しくなる。まぁ、一人暮らしでフルタイム勤務のキャリアウーマン、シングルマザーといった生き方も珍しくもないから、できなくもないことだろうけど……。
「遼介くんは、あとあずさちゃんもですが、今年受験です。家のこと、妹さんのことをこんなにも時間をかけて部活もしないでやっています。……それは、お義父さんはどう思っているのでしょうか」
「……遼介に、負担をかけさせすぎていることは、知っているよ」
「ならなぜ」
「……」
お義父さんは咳をして、両手を前で組み、ふーっと大きな息をついた。
「……俺は、妻が亡くなった時に、桐華と梨枝に言ったんだ」
「はい」
「……自分の、思うように生きろ、と」
俺は返答に困った。白いベッドに座っていたお義父さんは笑っていなかった。
「妻が亡くなった時、桐華と梨枝はやっと就職も決まって、さぁこれからバリバリ働くぞっていう頃だった。……そんな時、妻は死に、一番下の妹はたった三歳だった。妻の代わりとして家のことをするために念願の職を辞めろとは、俺は言えなかった。ただでさえ闘病生活が軽く一年は続いていて、看病で仕事だって何回も休まざるを得なかった。そのまま辞めたら後悔だってするはずだ。もっと仕事したかった、と。……俺は迷った。自分だって仕事を転職するかどうか悩んだ。だが当時の歳で再就職は……やはり厳しかった」
お義父さんは眉間に深くシワを作り、俯いて続けた。
「梨枝はどう考えていたんだろうな。桐華がマイペースでどんどんやりたいことに向かって突っ走っていく性格だったからか、梨枝は割と物事を冷静に見ているフシがあったように思う。……俺はきっと、判断から逃げたんだよ。俺が娘たちにああしろこうしろと言って、その通りに生きてくれて、俺はそれで安心できるのかもしれないが……。娘たちにはそれぞれ人生がある。思い通りにいかないことがあっても、自分たちで選んで悩んで後悔して、それで生きて行ってほしい。自分で選んだ道なら文句は言わないだろう? だから桐華たちに人生を選んでもらった。……それが、今の状況だ」
「遼介くんには、何を」
「あいつには……あいつは、妻が亡くなった時はわんさか泣いていたからなぁ……。よくこんなに涙が出てくるもんだというくらい、一日中泣いていたんだよなぁ……」
「……」
「それで、気が付いたら椿の手を引いて、炊飯器でごはんを炊くようになっていた。妻が入院していたころからもう食事の支度はしていたな。踏み台に乗って、味噌汁も作っていたよ」
「遼介くんは、望んでしていたということでしょうか」
「それは分からない。俺と一緒にいる時は、椿のことでいろいろ相談はしていたけれど、自分の置かれている状況について何か言ってきたことはなかった。いつも笑って、いつも泣いていた、そういう……手のかからない子だった」
お義父さんがまた咳をした。ちょっと咳が辛そうだったのでナースコールを押そうと手を伸ばしたが、やんわりと止められた。
「ひろまさくん、俺は、たぶん次の手術で声が出なくなる。そうしたら、もう今みたいに思ったことをそのまま伝えることは、きっと難しくなると思っているんだ」
「……はい」
俺は唇を噛み締めた。笑っていないお義父さんは、悲しそうというよりは悔しそうな顔をしていた。
「遼介は、今話しながら思い返してみたけれど、確かに『手のかからない』『かからなさすぎる』子だったように思う。もちろん怪我をしたりケンカして泣いたりと、やんちゃな子供だった頃もある。勉強もそんな得意な方ではないし。だから俺は、桐華や梨枝や、椿よりももっと、遼介が心配なんだ。ずっとほったらかしにしていた俺が言うのもおこがましいけれど、心配している」
「俺に……僕に、何かできることはあるのでしょうか」
「ある。ひろまさくんにしか頼めないことがあるんだ。……遼介が、何か相談をしてきた時に、俺の代わりにしっかりと受け止めてほしい」
「相談しなかったらどうしましょうか……」
「そうかな、姉にもあずさちゃんにも言えないようなことが、これからきっと出てくるんじゃないかな」
俺は逡巡した。こんな義兄の立場の俺に、遼介くんは頼ってくれたりするんだろうか。
「俺の代わりに、なんて言うから気負いするんだろうな。すまなかったね。これは俺の、小さいお願いで戯言だから、もし相談してきたら……くらいの気持ちで聞き流してくれて大丈夫だよ」
「いえそんな」
「ははは。本当に、これから死ぬ人間の言葉って、やたらと重みがくっついてきて嫌になるね。かえって話しにくくなる」
お義父さんが困った顔で微笑んだ。
死ぬ覚悟ができている。
俺がお義父さんと腹を割って話した会話は、これが最後だった。
◇
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