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【紫陽花と太陽・中】第三話 縁田さん[3]

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 夜。
 姉たちが帰宅するのを待って、僕はアルバイトのことを話した。
 案の定、桐華とうか姉は渋った。
「アルバイト⁉︎」
「う、うん。今日、履歴書を出してきたんだ」
「はぁ? 何でそういうことを今まで黙ってたのよ」
「今話してるよ」
「履歴書を出す前に、相談するのよ、普通」
「そうなのか」
 僕が言うと、桐華姉ははぁーっと大きくため息をついた。
「で、何の仕事? 仕事場はどこにあるの? 書類、出したら相手はなんて言ってたの?」
 姉の眉間にシワが寄っている。これはまずい。よく考えて口に出さないと反対される。
「ええと、喫茶店で働く仕事。接客……業かな。それで、お店はここから歩いて十五分くらいかな」
「それで?」
「店長に、あ、縁田さんっていうんだけど、どのくらい働けそうなのか、時間とか、一度家族と相談してみてくれって言われたよ」
 縁田、という名前にあずささんがちょっと反応した。旅行から帰った後、あずささんとお話をした時にも縁田さんのことは話題に出したからだ。
「時給は?」
「ジキュウ?」
「時給。一時間働いて、いくらもらえるのか」
「う、まだ教えてもらってない」
「そういうところ、大事だから。バイトするにしても、学校終わってから働くことになるのよね? そしたら遅い時間になるってことよね?」
「……そうなるね」
「店長さんは、週にどのくらい働けそうか確認してきてってことよね。遼介自身は、どのくらい働きたいの?」
「……」
 僕は返答に困ってしまった。できることならたくさん働きたいんだけど……。
「できることならたくさん働きたいんだけど」
 思ったとおりに口に出してしまった。姉は冷静な目で僕を射抜く。
「そう、じゃあ週五くらいになるのかしらね。募集するチラシとかに、普通は何時から何時までの勤務可能な人を募集しますって書いてあると思うんだけど、何時になってたの?」
「……ええと」
 店は一七時に始まるって言っていて、クローズの時間は確か二〇時だったと思うんだけど……。僕が返答に詰まってしまったので、あずささんが隣で控えめに言ってきた。
「遼介……何かメモとかお店から渡された書類みたいなものは、ないのか?」
「ああ!」
 僕はポン! と手を打った。縁田さんから募集ナントカと書かれた紙をもらったのを思い出した。ダッシュでリュックサックを取りに行き、紙を取り出し眺めた。
「一六時半から二〇時半まで、の間で勤務可能な時間を応相談、と書かれているな」
「お店の営業時間と違うなぁ」
「準備と、後片付けの時間が必要なのではないか?」
「あ、そうか」
 あずささんが、僕のナントカ紙を隣で見ながら上手にフォローしてくれた。ちょっと顔が近いので心臓がドキリとしたが、気にしないフリをする。
「ちょっと募集要項を見せて」
「ヨウコウ」
 姉に紙を手渡すと、姉が僕をジロリと見やった。
「あんた、漢字読めてなかったでしょ。募集要項って書いてあります」
 背中に汗が流れた。まずい流れだ。
 姉がフンフンと紙をざっと眺め、梨枝りえ姉にも手渡し、二人で順番に見た。
 そういえば、ひろまささんはまだ帰宅していないみたいだな……。僕はひろまささんがいない時にバイトの話をしたことを少し後悔した。彼がいる時は家の中の雰囲気が少し和らぐ気がするのだ。それに、今みたいにキツい姉をやんわりとなだめてくれるので、僕はひろまささんがいる時間が好きだった。
「梨枝さんは、どう思う?」
 桐華姉は梨枝姉にまず尋ねた。そぉねぇ……、と梨枝姉は口元に指をあてて、それから言った。
「やってみてから、考え直すのでもいいかなとも思うけれど」
 考え直す、そうする必要があるような言い方だ。
「学生の本業は、学業だから、まずは勉強をしっかりやってもらいたい」
 僕は頷いた。
「アルバイトをしてみたい、というのは分かったわ。週五っていうのも一応分かった。……ただ、私は学校が終わってさらに週五は難しいと思う。体力的にも精神的にも。特に遼介は家のこともすごくやっているから、なおさら大変だと思う」
「……」
「夜二〇時半まで働いて、着替えて家につくのは二一時近く。それから晩ごはんを作っていたんじゃ間に合わないわよね?」
「そうだね……」
「ってことは、あずさちゃんに晩ごはんのお願いをするってことになるのよね? 週五で」
 僕は愕然としてあずささんを見た。あずささんは表情を変えずに、小首を傾げた。
 僕は両手をギュッと握った。
「あずさちゃんにはそのことを話したの? 今急にバイトの話を聞いたような感じだったわよ? まぁそれはいいけれど、私も桐華さんも、急に仕事の帰宅時間を変えられないのは分かっているわよね? こっちはずっと働いてきているんだから。急には難しいの。それで、今私が感じている遼介への不安というのは、思いつきで行動していないかってこと。実際に働いたらどんな風に生活が変わるのか、想像してから行動してほしいってこと。何がきっかけになったのかは分からないけれど、やっぱり急すぎるって思うの」
「あんたさぁ」
 梨枝姉は、冷静に、淡々と、わかりやすく、端的に、説明をしてくれた。それに被せるように桐華姉が容赦なくたたみかける。
「やってみて、ダメだった、辞めますって、それでいいとでも思ってるんじゃない? 学校の授業じゃないんだよ? お金もらうってことなんだよ、バイトってさ。お客さんが相手なんだよ? 遊びじゃないの。やるなら勉強もバイトも家のことも、しっかりやれるって証明して見せてよ。初めてやることで週五って、何も考えてない証拠じゃん。もっとよく考えなさいよ。あんただけの問題じゃない。あずさちゃんにも迷惑をかけるってこと、もっと自覚しなさいよ」
 ぐぅの根も出なかった。口が鍵をかけられたかのようにピクリとも動かなかった。
 僕なりに考えてよく考えて行動したつもりだったけど、やっぱり甘かったという事がよく分かった。
「……遼介」
 あずささんが心配そうな声で、僕の服の裾をつい、と掴んだ。

 結局この日は、あずささんが姉たちに「今夜、遼介とゆっくり相談してみます」と言って幕を閉じた。


 気持ちが浮上したと思った矢先にまた塞ぎ込んでしまった。思わずため息がこぼれ出た。
「縁田さんのところで働いてみたいんだな」
 パジャマに着替えて後は寝るだけだ、という状態で、僕とあずささんは自室のベッドの上に座っていた。
「うん……。でも、今日はごめん。何だかギスギスした空気になっちゃって……」
「遼介が謝ることではない」
「いや、僕が悪いよ。あまりにも考えなしだった。もっと対策を考えてから話し始めるべきだった」
 僕が言うと、あずささんはちょっと考えて、それから微笑んだ。
「桐華さん達が帰るなり、目を輝かせてバイトの話をしていたので、出会った頃を思い出していた」
「えっ」
「私と出会った頃は、今日みたいに思ったことをそのまま話しかけていたぞ」
「う、それは……昔の話だよ」
 僕は恥ずかしくなって俯いた。出会った頃の僕はあずささんがどういう気持ちでいるのか分からなさすぎて、とにかく気が付いたこと、その日朝あった出来事などをつらつらとしゃべっていた気がする。
「昔の遼介も、今の遼介も、私にとっては同じだ」
「そうなんだ……」
「優しいところが変わらないと思っている」
 優しい? 小首を傾げた。
「縁田さんを、助けようとしていたのではないか?」
「どうしてそれを……」
「本当なのか」
 あずささんがじっと僕を見つめた。決して責めている目ではない、僕の心の中を知りたい、というような瞳だった。
「確か、旅行の時に縁田さんと奥さんは、珈琲屋さんで『もう会えないかもしれないので』と言っていたと聞いたが。奥さんは体調があまり良くないとも遼介は話していた気がした」
「たぶん、言った気がする。今日は、奥さんは店の奥で休んでいるらしかった」
「そんなに体調は悪いのか?」
「……あずささん、僕は……」
 僕は泣きそうになった。バイトをしたいと思ったきっかけは、確かに奥さんの体調不良のことがあったからだと思う。でも縁田さんは何も困っていない。勝手に僕がお店の求人募集を見て応募しただけだ。どうしてか、心が動いたのだ。何に対して身体が勝手に動いたのか、自分でもまだよく分かっていない。それなのにただ行動して、考えなしに姉たちに話をして、反対されて、落ち込んで……。
「遼介は、縁田さんの元でアルバイトをしてみたいと、今も思っているか?」
 反対することも賛成することもない、率直な質問。
「うん。してみたい」
 でも……と、僕が続けようとしたらあずささんが手を優しく握りしめてきた。僕はびっくりして、それからまた心臓がバクバク鳴り出してしまった。
「それなら、どうしたら次に進めるか、考えよう」
「えぇっと……」
「まずその一、晩ごはんに関しては、バイトの日は私が担当する」
「待って待って! あずささんに迷惑がかかるから! 考え直すから!」
「迷惑とは思っていない。だから、まずこの点はクリアだ」
「……」
「その二、勉強はおろそかにはしない」
「そ、そうだね……」
「これを証明しなくては桐華さんは納得しないだろうが、証明するには学力を示す数値的なものが効果的だと思う」
「はぁ」
「だから、次のテストで、おろそかにはしていないことを証明すればいい」
「はぁ」
「こればかりはバイトもやってみて、テストを受けてからでないと証明のしようがないから、保留だ。次。その三」
「はぁ」
「不明瞭だった情報を明らかにする」
「はぁ」
「遼介が先ほど即答できなかった項目を答えられるようにしておく。紙にまとめておくのでもいいかもしれない。時給とかだな。勤務時間も、二つほど候補を出しておくのもいいかもしれない」
 僕は頭を抱えた。心の底からあずささんは頭がいいと思った。
 つまりは、先ほどの姉たちが渋った原因となる事柄を全て答えられるようにすればいいということだ。うまく説明できないようなことは紙に書いて、僕の伝えたいことを明らかにして、見せる。
 失敗を元に次に繋げる。あずささんは過去を悔やむより、目の前の出来事にどう立ち向かっていくか、それに全力を注ぐ。

 次の日、その次の日と、僕とあずささんは椿が寝た後で自室で相談しあい、A四一枚の紙とメモを作成した。
「桐華姉」
 今度はひろまささんも帰宅していたリビングで、僕はあずささんに見守られながら、姉に紙を手渡した。
「アルバイトの件です」
「あんたまだ言ってるの」
「考え直して、それでもやってみたいと思ったので、お願いをしに来ました」

 姉たちが僕とあずささんが作った紙を見た。ひろまささんはざっと見て感嘆した。
「まるでプレゼン資料だな」

 緊張していたので一度軽く咳をした。
「この前答えられなかったことはその紙にまとめてある。それで、週五はやっぱり最初は難しいと思ったから、週三から始めようと思う。縁田さんに相談をして、働き始めてから状況を見て勤務日を増やすことはできるってことを確認してある。……椿の授業参観とかで休みがほしい時とかは、事前に休み希望を言えば調整してもらえることも確認してある。……働いてもらったお金の使い道はまだ考えていない。働きたいのはお金がほしいからじゃないから。理由は、その紙に書いてある通りだ」
「……そう」
「家のこと、学校や椿のことも、今と同じようにできるように頑張る。難しかったら相談する。仕事をすぐ辞めたりはしない。……何を言っても、今は口先だけになっちゃうけど」
 最後は尻すぼみになってしまったけど、紙の効果は絶大だった。
 しどろもどろで説明するより書いてあることを読めばいい。それで、伝わる。

「分かったわ」
「やってみましょう」
「僕も、できることはやるから。……無理はしないでね」
 うちの大人三人の了解が得られた。
 僕は止めていた息を大きく吐き出した。

 こうして、僕はアルバイトをすることになった。

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