長編小説「3色だんごの子連れ旅」 2-13
涙と汗と砂などで汚れきった顔が、乾いてかぴかぴになっている。
トレイが両の瞳をあけると、ぱっと涙が舞った。
銀色の瞳に映っていたのは、ものすごいスピードで駆け抜ける石畳。
(浮いて……いる……?)
トレイが驚いて首をひねると、すぐ近くにレンの顔があった。
端正な横顔。あれほど戦い続けていたというのに、レンの顔には疲れがちっとも出ていない。
「…………飛んで、る?」
目を見開いてトレイが言うと、レンの声が耳元で響いた。
「あぁ、飛んでいる。おれが、翼を生やしたからな」
ミントはというと、レンが小脇に抱えていた。
トレイはレンに抱きかかえられている状態で、それはレンの背中にはいま翼——レッドドラゴンが持つ赤くて薄い膜——があるからで、右に左にとすこしブレながら、わりと速いスピードで飛んでいた。
「すまん。この姿に慣れてねぇから、うまく飛べてねぇ」
「きゃぁ——! レン、飛んでる! ミントたちも飛んでるぅ!」
驚いて絶句しているトレイとは対照的に、ミントはおおはしゃぎだ。
ぴゅうぴゅうと汗だくの髪に風がなびいて、気もちが良かった。
トレイは改めて自分たちが飛んでいるということを認識した。
「…………マリンバは、いるか?」
眉根を寄せたレンは、やや首をひねって辺りを見回す。飛ぶことに集中しているようで、なかなか周囲を確認することが難しいらしいと察したトレイは、レンの代わりにマリンバの姿を探した。
「……いました! ぼくたちの、斜め後ろをおなじように飛んでいます!」
「……そうか、見てくれて助かった、トレイ」
レンの言葉に、トレイはほっと息をした。
すこしでもレンの役に立てて嬉しいと思った。
「ダーク・ウィッチは?」
ミントが尋ねると、レンは「仕留め損ねてはいると思う」とこたえた。
「あいつ、ミントとトレイを丸呑みにしようとしやがった……!」
レンの瞳がぼんやりと赤く光る。トレイはぎゅっとレンにしがみついた。あの氷柱が崩れはじめたときに見た、近づいてきた影はやはりダーク・ウィッチだったのだ。
「ミントの白いローブの力が欲しかったんでしょうか?」
「……そうだろうな」
「ミントより、ローブが欲しいのか?」
ミントがぷぅと頬を膨らませて言った。
「知らないんだろう。ミントの着るローブは、着たものの魔力が高くないと効力を発揮しないのだということを。丸呑みしたところで、防御力が高まるわけじゃねぇのに」
レンはそして決意する。
——ダーク・ウィッチを必ず仕留める……!
野放しにすればこれからも闇雲にたべて、能力を得ようとするだろう。何より奴はレンを怒らせた。レンの大切にしている者たちに手を出した。それは、レンの激情を揺さぶるのに十分な理由だった。
「ダーク・ウィッチは追ってきてるでしょうか……」
そう言うとトレイは、レンには見えにくい背後をきちんと確認できるように体勢を変えた。ごうごうとスピードが速いので風の音も大きい。トレイは必死に辺りを注視する。
「……レン、ごめんなさい。ハープさんが崩れてしまっているのに……ぼくたちを助けるために……もっと、そばにいたかったはずなのに……」
レンの首にしがみついてトレイは小さく言った。
逃げ出すとき、声を上げたくはなかった。レンに気を遣わせるのが嫌だったから、必死で黙ってミントの手を引っ張って走ったのだ。
「……うぁっ!」
トレイが短く呻いた。
「別に、ハープはもう百年もむかしから氷柱へ入っているんだ。贄になった瞬間から話だってできない。だから、もう、いいんだ」
レンは、人の気配がなくひらけた場所を探しながら飛んでいた。
ダーク・ウィッチとの決戦は人間がすくない場所のほうが都合が良い。
レンの言葉にトレイの返事はなかった。
かなり飛び、植物なども控えめでちょうどいい丘があったので、レンはそこに着陸しようと高度を落とした。ミントが叫んだ。
「レン! トレイの、トレイの顔が赤いよぅ!」
「……赤い?」
岩がごつごつと飛び出しているような丘へ、レンたちはそっと降りた。
そしてレンは驚愕する。
トレイの、顔半分から血が滴っていた。
「トレイッ!!!!!!」
急いでトレイの額に張り付いた前髪をめくってみると、頭部の外傷ではなさそうだった。顔の片側に鮮血がみられ、どこかが切られているようだった。
「いつだッ! どうして、早く教えてくれなかったッ!」
レンが怒鳴ると、トレイは弱々しく
「…………レン、を、邪魔……したくなかった……」
と言い、ぐったりと力を失った。
ミントが目をまんまるにしてトレイの手を握る。何度も名前を呼んだが、トレイからの返事はなかった。唇がみるみるうちに紫色になり、鮮血が激しい箇所が黒ずんできた。
「マリンバァァアア!!!!!!」
「……っ! な、なによ、ここにいるわよ……!」
レンの突然の絶叫に、遅れて着陸したマリンバは狼狽えた。
「マリンバ! ……頼む、この子を、トレイを、助けてくれッ! 顔のどこかを切られた! 腫れと色がおかしい! ダーク・ウィッチの攻撃だとすると、奴はヒュドラをのみ込んでいる! 毒がトレイに回っているのかもしれない! 頼む! いますぐにマリンバの治癒で……!」
呆然と立っているマリンバの前で、レンはがばりと地に伏せた。
額に岩が当たるのもかまわずに、レンは頭をマリンバに下げ続けた。
「そ、それは……やってみるけど……でも……」
「頼む! いまこの状況ではお前にしか頼めない……! おれにできることならなんでもする! おれの持っているもので、必要なものがあるならなんでも使って構わねぇ! 血も、鱗も、翼も、皮も、何だって……ッ!」
遠くで地響きの音がした。
あとからやってくる、おぞましいぞっとするような殺気。
「ダーク・ウィッチが来たわ……!」
素早く後ろを見やり、睨みつけるマリンバ。
レンは腰にさしていた短剣で己の赤い翼をすっぱりと切った。
「……これで、ミントとトレイを包んでくれ。こんなもの、おれはいらねぇ。たのむ。治療してくれ……! ……すぐに、カタをつけてくる……ッ!」
マリンバは戸惑いの視線をレンに送る。治療行為を渋っているわけではない。もちろん、トレイの状態を鑑みれば悠長なことは言っていられないことも分かるのだが。
「……分かったわ。……ま、あなたなら……」
小さくつぶやく。それを聞いたレンは、まっすぐマリンバを見た。
二人が、すれ違う。
背を向け、お互いがやるべきことに集中する。
ミントの隣で横たわっているトレイにマリンバはそっと近づいた。
マリンバは一度手を叩いたあと、両手をやわらかく握って、すっと天へと掲げた。ふわふわと何もないところから光の粒が集まってきて、やがて、水のせせらぎのような音が聴こえてきた。光がすこしずつ白みを帯びてくる。
とろり。
マリンバはハープほど膨大な魔力を持ってはいない。
ただ、レンはハープから以前聞いていた。
マリンバは、魔力を与えることよりも、扱うことのほうが得意だと。
誰もが得意、不得意なことがある。
ハープが贄になることを断れば、代わりに妹が贄となるだろう。
それがブルードラゴンの、魔力の高き者の定めなのだという。
マリンバはいつしか涙を流していた。
わたしの代わりに贄になってくれたハープねえさん。
そのねえさんが愛した人が、レンなのだ。
——いえ、レンというのは愛称で、
ほんとうの名前は別にある
カムイ・オーグルナーブ
四大ドラゴンの頂点に立てるほどの強さを誇る者
カムイは『神の威厳』を持つ者として授けられた名前だとか。
それほどのレッドドラゴンが、なぜひとりの子供にそこまで頭を下げる?
とろり、とろり。
マリンバの両手から溢れ出す清らかな水の調べ。
それは、やさしく、やわらかくトレイの顔を濡らし、目元を癒やす。
悪しきものを浄化せよ。
本来の生命活動を続けられるように。
必要な菌は残して不必要な菌だけ滅せよ。
——でも、それはいまは気にするべきことではないわ、ハープねえさん
崩れ落ちてゆくハープの氷柱を最後まで見届けずに、踵をひるがえして背に赤き翼を生やしたレン。彼を視界の端に見たマリンバは、ハープへの愛はそれほど持っていなかったのかと、レンに対して憎しみを持った。
だが、そうではなかった。
レンはまっすぐにダーク・ウィッチが狙っていた子供二人をかっさらい、そのまま守るために飛んでいったのだ。
それほど大切な存在が彼にはあった。
マリンバは治癒魔法をトレイに施しながら、先ほどのレンの表情を思い出していた。
恐ろしいほどの殺気を伴った顔。
——足るを知れ……!
何度もレンはダーク・ウィッチにそう言っていた。
マリンバは涙をこぼしながら、祈り願う。
この子供に罪はない。
マリンバが心血を注ぐに足る理由は、それだけで十分だった。
(つづく)
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