【小説】小指の神様-①Pedicure
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そういえばマニキュアは、ほとんど塗ったことがない。
手指は目に付くから、手入れして色を纏うと気分が上がるし、人からも褒められるから好きという話を聞く。
「そうだな」と思ってすぐに「そうかな」と訝しむけれど、深追いするには些末すぎて「そうかも」の一言で流してしまう。
そんなことを考えながらペディキュアを塗っていた。此方は欠かしたことがない。色はいつも、カーマイン。
たぶん私は公の場ではひっそりと無色でいたいのだ。その代わり、帰宅して殻を脱いだあとは、自分の色に戻ったことを目視したくて足指の爪を染めている。
念のため、これも「そうかな」の検閲にかけてみたけど、どこにも引っ掛からなかったので、きっと本当にそうなのだろう。
少し乾かしてから重ねて色を足した。他人事だったカラーが馴染んでいく。ただ左足の小指だけは何も塗らない。
神様がいるからだ。
以前、実家の近くに母方の祖母が住んでいた。
子どものころは、二軒の間を伝書鳩のように往来して、祖母宅にもよく泊めてもらった。夜中に目が覚めて天井と目が合ったとき、どちらに居るのかわからないほど。
母は年若く結婚して私を産んだため、祖母といっても五十路に届く手前の若さで、三人でいるときには祖母が母親で、母と私は長女と年の離れた次女に間違われることもあった。
そのせいか物心ついたときから祖母のことを梢さんと呼んでいた。
たしかに普段から着物を着て、どことなく浮世離れして見える祖母は、「お祖母ちゃん」というより下の名前で呼ばれる方がしっくりくる風情の女性だった。
私は梢さんが好きだった。奥二重の目元に丸みのある声、甘いものに目がないところや、からしき家事が駄目なところも。でも、とりわけなのはその肌だった。
為体の肌よ
そう言って
梢さんは空を眺めた
祖母はうら若いころ、祖父の浮気が原因で離縁して、乳飲み子だった母を連れて実家に戻ったという。
旧家の一人娘で、地方議員を務めた父親に溺愛され、株で成した多財を生前贈与されていた。だから地に足をつけずとも生きてこられた。
「為体」とは、そんな不労を映す柔肌に対して皮肉を込めて言ったのだろう。
年端もゆかぬ私には、その意味がよくわからなかった。そんなことよりも早く緩やかな肌理に触れたくて一緒にお風呂に入ろうとせがんだ。
莉子ちゃん
はい、ここ
梢さんは風呂場の青褪めたタイルの床にぺたんと座り込んで、腿の上に私をちょこんと乗せる。
お尻が両腿の肉の船に吸われていく感触を私は楽しんだ。そして膨らむほど泡立てた石鹸で、まず洗ってもらうのは左足の先っぽだ。
こっちの
一番小っちゃい指には
神様がいるのよ
だから
毎日ちゃんと
綺麗にしてあげてね
そう諭しながら、薬指と小指のすき間に泡を滑りこませる。今思うと、それは右利きの子どもの手が、一番届きにくい左足の小指の先まできちんと洗えるようにという親心から生まれた空事だった。
でも、そのとき「神様がいる」ことは真しやかに聞こえた。だからそう信じた。
― 今は、どうだろう
信じているとはいい難い。ただ、あまりにも染み付いた嘘が故なのか逆に真偽を越えて、いくら丁寧に洗っても、むしろ洗えば洗うほど「神聖なもの」としての存在が強化されていた。
ペディキュアは左足の親指から順にしていく。中指までは易々と刷毛が進むのに、薬指がちらつくころ、小指がざわつき始める。実在に欠ける大きさにも関わらず、紅く染めるには清らかすぎて、しぶしぶ右足の親指へと撤退するのだ。
そうして洋紅色と白い肌のコントラストの片隅に取り残された空白の神様が生まれる。
しばらくの間、私はその空白を通して梢さんを見つめていた。
年月とともに幾分か薄れて、日常に追われる平時に思い出すことは少なくなった。でも、こうして三週間ごとに爪を塗り直すたび、コントラストが極まるたび、どうしても考え込んでしまう。
― 梢さんはどうしているのだろうと
そう、あれは七年前のちょうどこの時期、間延びした夏がようやく草臥れかけた九月の末ごろだった。
梢さんは姿を消した。その行方は今でも杳として知れなかった。

