【残唐五代史演義伝】第三十六回 晋王、兵を起こし朱温を討たんとす
朱温は帝位に即き、自ら『太祖皇帝』と称した。
その日、空は晴れ渡り、風も穏やかで、群臣は皆拝賀を終えた。年号を改めて開平元年とし、天下に大赦を布告し、国号を『大梁』と定めた。
同時に勅を下し、昭宗を『済陰王』と封じ、その地に住まわせ、召しがなければ朝廷に参内することも許されなかった。
また、張文蔚・楊涉を平章事に任じ、蘇循・薛貽矩を左右僕射とし、王彦章を馬歩禁軍都元帥、王彦龍を保駕上将軍に封じた。尚譲・斉克譲ら巣賊の将たちもまた、皆節度使に任ぜられた。
そのとき、李英が進み出て奏上した。
「臣には天下を奪うという大功がございます。他の諸臣とは功績が異なりますのに、陛下はなぜ私だけをお取り立てくださらぬのですか?」
これを聞いた梁帝・朱温は大いに怒り、言った。
「貴様のような逆臣、まだそんな口をきくか!
朕が思うに、昭宗は何か貴様に咎められることをしたか?ただ貴様は天下を売り、金銀をむさぼり、子に栄誉を、妻に富貴を授けたかっただけだろう。
そもそも、唐朝が滅んだのは、貴様のような奸臣のせいだ!もし貴様を朝廷に残せば、他の者もそれに倣い、国家の規律が崩れてしまう!」
すぐに命じて、廷尉に引き渡し、斬首させた。
これを証す詩がある。
害人人害禍先招 禍福災殃卻怎逃
(人を害そうとすればかえって自ら禍を招く。禍も福も災いも禍いもどうして逃れられようか)
只想百年人富貴 豈知今日中鋼刀
(人はただ百年の富貴を夢見るばかりだが、今日鋼の刃に倒れるとは思いもしなかった)
それからのち、済陰王(昭宗)は、開平二年春正月、朱温の命により、王彦龍の手で縊られて殺された。のちに『唐哀皇帝』と諡された。
さて、ある者が太原へ駆けつけ、李晋王にこう報じた。
「朱温が唐の天子を弑し、自ら大梁皇帝と称しました。いま大梁では、軍馬を調練し、遠征の構えを見せております」
これを聞いた晋王は声を上げて一日中泣き、深く哀しみに暮れた。そして直ちに百官に命じて喪服を着けさせ、北に向かって哭し、昭宗の霊を弔わせた。
その翌日、報告があった。
「およそ千騎ほどの兵がやってきました。皆、赤旗を掲げ、赤い袍をまとい、赤馬にまたがって、風を巻くように馳せ参じております」
晋王が自ら陣営を出てこれを見たところ、来たのは潞州王の李傑であった。
李傑は地に伏して慟哭し、こう述べた。
「昭宗陛下が弑され、朱温が帝位を奪いました。
いま兄上は、蛮・漢あわせて四十万の精兵を擁していながら、なぜ未だ兵を挙げられぬのですか?我らはこの恨みを晴らすため、軍を率いて参じました」
晋王はこれを聞いて言った。
「我が胸中にも、すでにその志はある。
だが、李存孝を失って以来、まことに頼れる者を欠いているのだ。そなたにその志があるならば、すぐに檄文を発し、諸道に報じよう。
王族・諸侯を招集し、共に起兵して仇を討とう」
李傑はこれを聞いて大いに喜び、その日のうちに晋王は諸将を召集し、起兵の議を定めた。
時に岳彦真・赫連鐸をはじめ、各鎮の節度使や文武の臣僚たちが整然と集い、皆が復讐を誓い、国家再興の志に燃えていた。
こうして総勢およそ四十万の兵馬を引き連れ、并州を発して、まっすぐに鶏宝山へと進軍し、そこで陣営を張った。
一か月も経たぬうちに、天下の諸侯たちは次々に起兵した。
時に、河南王・李善、青州王・李畢、蘇州王・李演、四川王・李輔、江夏王・李遜、膠州王・李漢、雲南王・李弘らが兵を挙げた。
彼らはすべて唐王室に連なる者たちである。それぞれ兵力の大小は異なるものの、関外の二十七鎮の諸侯もまた挙兵し、鶏宝山に集結した。
その総勢はおよそ九十四万の兵馬に及び、『百万人』と称された。
集った名将は八百四十人を数え、『千人』と称し、文官・武将もまた数えきれぬほど、皆こぞって鶏宝山へと馳せ参じた。
各自陣を張り、三百余里にわたって軍営が連なった。
晋王は牛馬を屠って大宴を催し、唐室の宗族を集めて盛大にもてなした。諸王は礼を尽くして席に着き、年齢と位階に応じて左右に分かれて列座した。
宴が和やかに進むなか、やがて軍議となり、いかにして賊を討ち進軍するかが論じられた。すると潞州王・李傑が言った。
「今、我らが兵を挙げるのは、すべて君父の仇を討たんがためである。
諸卿は皆、晋王の指揮に従い、強きを頼んで弱きを侵すことなく、数に驕って敵が寡兵と侮ってはならぬ
心をひとつにして、力を合わせ、忠義を全うするのだ!」
これを聞いた列座の諸王は皆、声をそろえて言った。
「命のままに従います!」
晋王は続けて問いかけた。
「誰か、先鋒として軍を率いてくれる者はおらぬか?」
二太保・李思昭が進み出て、恭しく頭を下げた。
「恐れながら、この李思昭、お引き受けいたします」
晋王はこれを許し、李思昭は兵を率いて、まっすぐ鶏宝山関へと向かった。
発せられた檄文は、次のとおりである。
『唐晋王、唐室の宗親諸王、諸侯、二十七鎮の節度使、列位大臣、百官百姓に告ぐ。
按ずるに、朱全忠はもと塩賊の徒から起こり、やがて行き場なき窮寇の身となって我が朝に帰服した。先帝はこれを哀れみ、赤子のごとく遇し、賊徒であったにも拘らず、釜の中の魚を救うように命を救い、責めることなくその罪を赦し、爵位を授けて官に任じた。恩はすでに極まり、義もまた尽くされている。
しかし、朱全忠は忠を知らず、凶心を抱き、ついには武力を以って都を梁に移し、ついに天位を盗むに至った。匹夫の無道、ここに極まれり。君を弑した賊、万民これを誅すべし。
我ら今、諸侯を率いて百万の軍を起こし、千人の戦将を従えて征伐に向かう。降伏を願う者には寛大に応じ、賊を助ける者は一人として赦さぬ。
これをもって檄文とする。この文に接する者は、各々よく心得よ』
さて、その頃、関を守る将は関隘を厳重に守りながら、早馬を使って皇城へ急報を送っていた。
梁帝は即位の後、日々酒宴にふけり、夜更けにようやく席を離れるありさまだったが、このたびの緊急報に接して、驚愕した。
「李克用が諸国の王子らを糾合し、大軍を率いて関前に迫っておる。
これは昭宗の仇を討たんとするものじゃ。これを防ぐ策、誰かあるか?」
このとき、王彦章が進み出て奏した。
「臣に兵をお任せくだされば、敵を打ち払ってご覧にいれます」
梁帝はこれを喜び、王彦章を征討大将軍に任じ、歩兵・騎兵あわせて十万の軍勢を授けた。
また、世子朱友珪を副将に添えて、即日出立を命じた。
このような詩がある。
梁晋交兵二百場 残唐五代動刀槍
(梁と晋は二百回もの激しい戦を繰り広げた。唐の滅亡から五代にかけて絶え間なく刀槍が交わされた)
打虎将軍太原死 今日才興王彦章
(虎を斃すほどの勇将も太原の地で命を落とした。そして王彦章がようやく台頭してきたのだ)
さて、晋王は鶏宝山に陣を構え、遠く王彦章の率いる前衛十万の精兵が布陣するさまを望み見て、その壮勢に心を驚かされた。
まだ太保を出陣させるほどではないと判断し、河南王・李善と、歩軍の将・鄭績に向かって言った。
「汝らは河南の猛将として名高い。
ならば、王彦章を討ちに行ってまいれ」
鄭績は喜んで命を受け、槍を手にして馬にまたがり、まっすぐ陣前へと駆け出した。
一方、王彦章は横槍を携えて馬上に立ち、まるで神将のような風貌で軍門の下に現れた。その装いはまことに堂々たるもので、このように言い伝えられている。
頭に戴くは、烈火で鍛え上げた紫金の兜。
額を守り、肩にかかる双の鳳の翼をいただき、鋭く尖った角は剣も鞭も寄せつけない。
身にまとうは、天上の王母が裁ち、玉女が紡いだ紅の戦袍。
獬豕の文様に竜と鳳の刺繍、重なる十段の錦、猩猩の血で染め上げた大紅の衣。
鎧は、神の鍛冶師が火で鍛えた黄金の甲冑は、槍を砕き、矢を折り、斧を退け、刃すら跳ね返す無敵の護り。
締める帯は、八つの宝を散りばめ、七重の絹で織られた獅蠻の戦帯。
胸に渡して甲をしっかりと締め、金色にきらめく。
右手に握るは、虎の眼を思わせる硬鞭は、見る者すら戦慄させ、鬼神をも退ける破魔の武器。
左手には、雪のように白く輝く昆吾の剣。
鮫革の鞘に収められ、鉄さえも切り裂く鋭き刃を隠す。
背には、龍の鱗を描き、虎筋の弦を張った宝弓を負い、金糸で巻かれた矢筒には、珠を連ねた精鋭の矢が揃う。
手に持つ槍は、賓州の鉄で鍛えた一丈八尺の渾鉄槍は、赤い纓が風に揺れ、まるで錦をまとった蛇のようにしなる。
駆る馬は、耳尖り、蹄丸く、険しい山をも越える南方の赤兔、胭脂馬。
太陽をまたぎ、千里を一気に駆け抜ける火龍のごとき名馬なり。
また、このような詩がある。
大将威風手段高 金盔金甲大紅袍
(大将は威風堂々その強さは誰にも負けない。金の兜、金の鎧、大紅の戦袍を身にまとい)
等閒不敢抬頭覷 帯馬連人似血澆
(うかつに顔を上げて見ようものなら命を落としかねないほど。馬も人も血に濡れ、まるで血の雨に打たれたようだ)
さて、鄭績はまっすぐに王彦章をめがけて攻めかかった。
王彦章は大喝して馬を駆け、迎え撃つ。三合も交えぬうちに、王彦章は槍をひと振りして鄭績を陣前にて突き倒した。
晋王はこれを見て大いに驚き、
「まことに勇将である!」
と感嘆した。
これに対して太保の李思昭が馬に乗り、矛を携えて進み出て、陣頭に駆け寄り、王彦章を大声で罵った。
「この俺が貴様を討ち取ってくれよう!」
しかし王彦章は答えず、馬を交えたそのただ一合で、李思昭を槍で馬より突き落とした。
続いて李存直が名乗りを上げて出陣ようとし、晋王はこれを許した。
李存直は馬を飛ばして王彦章と刃を交えるが、すぐに不利と見て馬を返して逃げ出した。王彦章は追いつき、ひと振りの鞭で李存直の頭を粉砕し、その軍を半ば斬り伏せて悠々と自陣へ帰った。
晋王は連続して二人の太保を失ったことを思い、大いに心を憂えた。
この日はすでに暮れたが、翌朝になると、王彦章の弟・王彦龍が甲冑をまとい、槍を手に馬に乗って兵を率い、陣前に現れて戦いを挑んできた。
晋王は尋ねた。
「誰か、出陣する者はあるか」
すると李存龍・李存虎・李存海・李存豹・李存江・李存愛の六将が進み出て、叩頭して言った。
「我ら六将、出陣いたします!」
晋王はこれを許した。
六将は陣営を出て軍を布き、声を上げて問うた。
「名乗れ、来たる将は何者か!」
王彦龍は答えた。
「汝ら、保駕大将軍・王彦龍の名を知らぬか?」
これに対して李存龍が槍を掲げて怒鳴った。
「逆賊め!貴様など誰が知るものか!」
すぐに戦いが始まり、各地の諸侯は一斉に声援を送った。
しかし、李存龍の槍術は次第に乱れ、王彦龍はますます気勢を上げた。
これを見た李存虎が刀を手にし、馬を躍らせて飛び出した。
王彦龍はそれを見ると、李存龍を振り捨て、李存虎と戦った。後方より李存海ら四将が駆け出し、王彦龍を囲んで攻めたが、わずか数合で六将すべてが槍に突かれて倒れ、軍勢も総崩れとなって逃げ散った。
王彦龍は馬を返して陣に戻った。
それから間もなく、今度は王彦章が自ら出陣して戦いを挑んできた。
このとき、晋王は恐れおののき、振り返って将たちに尋ねた。
「誰か、なお一戦を挑む者はあるか?」
そのとき、陣中よりひとりの将が馬を飛ばし、槍をかかげて飛び出した。
見ると、それは同台節度使・岳彦真であった。
両騎が交わると、五合も戦わぬうちに、王彦章の槍に突き落とされて討たれた。
岳彦真の子・岳存訓は、父の死を見て怒り、刀を振って馬を駆り、仇を討たんとしたが、数合も交えぬうちに王彦章の鞭を受け、馬上で討たれてしまった。
王彦章はそのまま陣中で混戦し、左右に駆け、突き進んだが、誰ひとりこれに敵する者はなかった。
そこへ、青州王・李畢、薊州王・李演、泗川王・李輔、江夏王・李遜らが兵を率いて駆けつけ、ようやく王彦章を退かせた。
しかし、この戦いにより各所で人馬の損耗は激しく、軍を三十里後方まで退かせて宿営することとなった。
諸王子や節度使たちは皆一堂に会し、敵を破る策を協議した。
ちょうど憂え悶いているところに、小校が駆けつけて報告した。
「王彦章がまた戦いを挑んで参りました!」
そこへ劉知遠が進み出て、甲冑をまとい、馬に乗り、安漢刀を手にして陣を出た。
劉知遠は王彦章と五十合余りを戦ったが、王彦章は怒りを増し、手に鞭を取って叫んだ。
「この鞭をくらえ!」
劉知遠は不意を突かれ、一鞭に打たれ、鞍に抱きつくようにして血を吐きながら逃げ帰った。
さて、要塞にいた晋王は幕舎を立てていたが、早馬が駆けつけて報告した。
「劉知遠様が大敗を喫しました!」
晋王は大いに驚いた。
「まさか、劉知遠ほどの男までもが王彦章に敗れるとは!」
すぐに諸王子と節度使たちを集め、対策を議した。
潞州王・李傑は言った。
「先日の出兵では、すでに多くの将士を失いました。今日また、劉知遠があの水賊に敗れるとは、我らの鋭気も大いに挫かれるばかりです」
しかし、諸侯たちは誰ひとり言葉を発しなかった。
議論しているうちに、斥候がまた来て報告した。
「王彦章が鉄騎を率いてまっすぐ寨前に押し寄せ、大声で罵り、戦いを挑んでおります!」
晋王は嘆いて言った。
「我らこれほど多くの軍を擁しながら、一人の王彦章に敵せぬとは、いかにして朱温を滅ぼすことができようか!」
その言葉が終わらぬうちに、鄆州の赫連鐸が進み出て言った。
「拙者に出陣をお命じください!」
晋王は大いに喜び、ただちに赫連鐸を出陣させた。
ところがほどなくして急報が届いた。
「赫連鐸、王彦章と三合も戦わぬうちに斬られました!」
これに諸王子たちは皆驚き慌てた。
河南王・李善は進み出て言った。
「我が上将・楽榮こそ、必ずや王彦章を討ち取ってくれるでしょう!」
晋王は急ぎ楽榮を召し出し、出陣を命じた。
楽榮は命に応じ、大斧を手にして進発したが、やはり間もなく飛報が入った。
「楽榮、またもや王彦章に斬られました!」
これに諸王たちは皆、顔色を失った。
晋王は深く嘆き、言った。
「惜しいことだ!もし李存孝が生きておったならば、どうして王彦章ごときに好き勝手を許したであろうか。
これほどの王子たち、これほどの将士たちがいて、なお王彦章に対抗できる者もおらぬとは……!」
言い終えると、晋王は声をあげて痛哭した。
この先、いかなる事態が待ち受けるか、続きは次回に明らかとなるであろう。
明代の学者・李卓吾は語る。
李克用は君命を受け賊を討たんとしながら、戦いを重ねては敗れ、将士の鋭気は尽く挫かれた。惜しむらくは勇南公・李存孝。彼さえ生きていれば……。
この時において、悲しみに暮れたのは、晋王のみではなかった。
