【残唐五代史演義伝】第十八回 李存孝、永豊倉に火を放つ
李存孝は十八騎の将卒を率い、葛従周を執拗に追撃し続けた。
七日七夜、馬を休めることなく、ついに霸陵川を越えて長安城に突入した。
一方、葛従周は星夜を駆けて長安に戻り、慌ただしく皇城に参内して黄巣に報告した。
「臣は主君の命を受け、黄河に軍を駐屯させ、大唐・李克用および二十八鎮諸侯の軍勢を阻む任務に当たっておりました。
まず孟絶海に班翻浪・彭白虎を率いさせて先鋒を務めさせ、敵の虚実を探らせましたが、思いがけず李克用配下の十三太保・飛虎将軍・李存孝が出陣し、わずか二度の交戦で孟絶海を含む三将が討たれてしまいました。
その後、李克用は二十七鎮の諸侯を率いて黄河の岸に陣を張り、軍を調整しました。
李嗣源は南側に、李存孝は北側に軍を布陣し、連日の交戦の末、李存孝に多くの精鋭を討たれました。
そこで我が軍は一度長安に退却し、主上のご裁可を仰ごうとしました。
張権が再三策を練り、李存孝を陥れるべく長蛇陣を布きましたが、李存孝は勇猛無比なうえ、陣法にも精通しており、見事に陣を破られました。
張権は最初に討たれ、続いて四十八名の名将が次々と命を落とし、兵士たちも敗走しました。
李存孝は兵を指揮し、我が軍を完全に崩壊させてしまいました。
私は命からがら長安まで逃れましたが、後軍からの報告によれば、李存孝は潼関を突破し、すでに霸陵川に到達したとのことです。
もしこのまま李存孝が長安に突入すれば、到底防ぎきれるものではありません!
どうか主上、早急に対策をお立てください。
遅れれば全てが手遅れになります!」
黄巣は葛従周の報告を聞き、大いに驚いて言った。
「もしそれが事実ならば、どうすればよいのか?」
すぐに命令を下した。
「城門を固く閉ざし、守門の将士に警戒を厳重にさせよ。明朝、群臣を招集して対策を議論する」
一方、李存孝は十八騎の将卒を率いて葛従周を追撃しながら長安城に突入した。
しかし、李存孝はそこが長安城だとは知らず、ただ葛従周が城内に逃げ込んだと思い、無警戒のまま十八騎を率いて城内に進んだ。
李存孝は頭上を見上げて壮大な城壁を眺め、四将に語りかけた。
「この城はとても立派だな。だが、ここがどの府郡なのか全く分からない」
ちょうどその時、通りがかりの一人の市民を見つけた李存孝は声を張り上げて問いかけた。
「そなた、この城は何という府郡だ?」
市民は驚きながら答えた。
「将軍、ここは帝京・長安の城中でございます」
これを聞いた李存孝は市民を放し、将卒たちに小声で言った。
「知らぬ間に長安に迷い込んでしまったな……。もし賊兵が我らを囲み、弓弩で一斉に攻撃されたら、この十八騎はひとたまりもなく討ち死にしてしまうぞ」
そう言うと、李存孝は将卒たちとともに東へ西へと城内を彷徨い、やがて永豊倉に行き着いた。
李存孝は糧倉を見上げて言った。
「ここは賊の糧食を貯蔵している場所のようだ。糧倉を焼き払えば、奴らの生命線を断つことができる」
そこで将卒たちに命じた。
「一斉に火を放て!」
将卒たちは倉廒に火を放ち、瞬く間に激しい炎と黒煙が空高く立ち上った。
風が火を煽り、猛烈な勢いで糧倉全体が燃え広がった。
その炎は夜空を赤く染め、長安の街は上下ともに真っ赤な光で照らされた。
黄巣は群臣を集めて対策を議論している最中、突然急報が入った。
「李存孝の兵が城内に突入し、永豊倉に火を放ちました!戌字倉が燃え広がっております!」
これを聞いた黄巣は驚き、すぐに群臣に問いかけた。
「誰か兵を率いて李存孝を討ち取り、火を鎮める者はおらぬか?」
そのとき、黄珪が進み出て奏上した。
「臣が兵を率いて火を鎮め、李存孝を生け捕りにいたします!」
黄巣はこれを大いに喜んだ
「御弟が力を尽くしてくれるとは頼もしい!そなたに褒美として『渾紅馬』を賜るぞ。また、羽林軍三千を率いて行け!」
黄珪は感謝の意を示し、「ありがたき幸せ!」と言うと、すぐに甲冑を身につけて馬に乗り、羽林軍三千を率いて城内を進軍し、李存孝を捜しに向かった。
黄珪は出発前に皇城の守門軍に命じた。
「門を閉じる必要はない。私が李存孝を捕らえたらすぐ戻るから、その時まで門を開けておけ」
こうして黄珪は渾紅馬を駆って李存孝との一騎討ちに向かった。
李存孝は将校たちとともに永豊倉の火勢が激しく燃え広がるのを見て、こう考えた。
「これほどの火災であれば、必ず賊兵が救援に来るだろう。早く城から脱出せねばならぬ!」
李存孝たちは城門を目指して街道を探したが、急いでいる最中、李存孝の愛馬が突然鼻血を流し、動けなくなってしまった。
これを見た李存孝は驚き、大いに焦った。
「どうしたものか!馬がこの状態では、もはや逃げられぬ。空もすでに暮れ始めている……」
そのとき、遠くから無数の灯火が瞬き人馬が四方から押し寄せてきた。
そして、その中央に一人の大将が勇ましく騎馬で現れた。
その姿は壮麗で、気迫に満ちていた。
頭戴嵌宝三叉紫金冠 身披嵌珠鎖子黄金甲
(頭には宝石を散りばめた三叉の紫金冠を戴き、身には真珠をあしらった黄金の鎖帷子をまとう)
襯著猩猩血染絳紅袍 袍上班班錦織金翅雕
(その上に猩猩の血のように深紅に染めた長袍を羽織り、袍には錦織で金の翼を広げた鵰が織り出されている)
腰繫白玉帯背插虎頭牌 左辺袋内插雕弓右手壺中攢硬箭
(腰には白玉の帯を締め、背には虎の頭をかたどった牌を差している。左の袋には彫刻の施された弓を納め、右手の壺には堅い矢が収められている)
手中掿丈二鉄桿槍 座下赤鬼紅鬃馬
(手には丈二(約三・六メートル)の鉄の槍を握り。乗るは真紅のたてがみを持つ名馬)
李存孝は遠くからその赤鬼紅鬃馬を見つけると、思わず連続して声を上げた。
「いい馬だ!これこそ欲しかった馬だ!駿馬の方からやって来たぞ!」
四将は苦笑しながら言った。
「しかし、今はまだあちらの馬ですぞ」
李存孝は自信たっぷりに答えた。
「心配するな。しばらくすれば、あれは俺が乗ることになる」
四将たちは改めてその馬を眺め、その見事な体躯に驚嘆した。
火中照見五名駒 恍若龍飛実罕希
(炎の中から伝説の五名駒の一頭が輝き現れた。龍が空を翔けるかのようでまことに稀なものだった)
四足襯銀踏白雪 渾身噀血染紅脂
(四つの蹄は銀色に光り、雪を踏むように軽やかに地を駆ける。その全身は、まるで噴き出した血で染め上げたかのように真紅に燃えている)
追風千里原無價 遇主残唐信有時
(風を追うように千里を駆け抜け、その価値は量ることもできない。やがてこの馬は、唐の末期に真の主と巡り合う運命にあった)
天賜英雄非小可 掃除巣賊奠皇基
(この馬は天が英雄に授けたただならぬ贈り物である。英雄はこれを得て巣賊を掃討し、帝の基盤を築くことになるだろう)
黄珪は李存孝に向かって馬を進め、大声で叫んだ。
「貴様は何者だ?」
李存孝は堂々と答えた。
「我こそ大唐飛虎将軍、十三太保・李存孝だ!お前は何者だ?名を名乗れ」
黄珪も引けを取らずに名乗り返した。
「我は大斉皇帝の御弟・黄珪である!」
そう言うや否や、黄珪は馬を駆り、手にした鉄叉で李存孝を突こうとしたが、李存孝はそれを素早く払いのけた。
李存孝は猿臂の怪力を発揮し、一瞬で黄珪を捕らえると、そのまま火の中へ投げ込んだ。
「火の中で紅亀のように焼けるがいい!」
こうして黄珪は炎に飲まれて絶命した。
続いて李存孝はその場で赤鬼紅鬃馬を掴み取り、素早く馬に飛び乗った。
「この馬は俺のものだ!」
夜の闇の中、城門がどこにあるか分からず困った李存孝は言った。
「兄弟たちよ、この馬を先に歩かせる。きっとどこかへ導いてくれるだろう。ついて来い!」
実はこの赤鬼紅鬃馬は正陽門を覚えており、李存孝を正確に正陽門まで連れて行った。
守門人は遠くから馬鑾鈴の音が響くのを聞き、叫んだ。
「きっと大王が李存孝を捕らえ、勝利の凱旋を遂げたのだ!門を開けよ!」
守門軍士は城門を大きく開いた。
李存孝は暗闇の中でそこが皇城の門だとは知らず、ただ長安城の門だと思い込んで外に出た。
李存孝は仲間たちに呼びかけた。
「兄弟たち、門が開いたぞ!早く城を出るのだ!」
十八騎の将卒はすぐさま馬を駆り、李存孝に従って外へと出た。
やがて彼らは五鳳楼の前にたどり着いた。
その周囲には煌々とした火炬の光が輝き、立派な宮殿が目の前にそびえ立っていた。
李存孝は目を見開いて周囲を見回し、仲間たちに言った。
「もしこれが長安城外なら、茅葺きの家や荒野が広がっているはずだ。だが、見よ!ここは絢爛たる彫刻が施された宮殿だ!これはどういうことだ?」
そのとき、両脇に整列した軍士たちが大声で尋ねた。
「ここはどこだと思っている?貴様は何者だ!」
さて、黄巣は文武百官とともに高所から火災の様子を眺め、黄珪の帰還を待っていた。
しかし、ふと五鳳楼の前が喧騒に包まれているのを耳にする。
左右の者が慌てて報告した。
「大王、黄珪はまだ戻っておりません。
それどころか李存孝が人馬を率いて五鳳楼に押し寄せています!このままでは危険です!」
黄巣は大いに驚き、足を踏み鳴らしながら尋ねた。
「どうすればよいのだ?何か策はないか?」
文武官たちは口々に進言した。
「李存孝のような猛将に対抗できる者はおりません。我が君にできる唯一の策は、李存孝を招安し、極位の官職を与えることです。それ以外に彼を退ける方法はございません!」
黄巣はこれを聞き、自ら李存孝に呼びかけた。
「唐主は無道であり、賢才を見抜くことができぬ。
そなたほどの武勇を持ちながら、なぜ無駄に命を投げ出して功を立てようとするのか?
もし我が軍に帰順すれば、そなたに望みの高官を与えよう!どうだ?」
李存孝はこれを聞いても何も答えず、将校たちに小声で告げた。
「すでに目の前に黄巣がいる。ここで逃してはならぬ。お前たちは時間を稼げ。奴が話している間に、私は弓を取って一箭で射殺してやる。これで戦いを終わらせよう」
安休休は頷き、黄巣に向かって叫んだ。
「もし我らを帰順させたいのであれば、どのような官位を授けるのか教えてくれ」
黄巣は嬉々として答えた。
「そなたら兄弟全員を諸侯王に封じよう!」
その言葉が終わらぬうちに、李存孝は弓を手に取り、矢を弦に掛け、黄巣を狙った。
五鳳楼前勢儼然 英雄誤入策非全
(五鳳楼の前には堂々たる威容を見せていた。英雄ながら敵地に踏み込んだ策は万全ではなかった)
神威信是無人敵 一箭先教射巨天
(だが、その神威力には誰一人抗える者はいない。その一矢は、黄巣を討ち倒す端緒となった)
李存孝は満を持して矢を放った。
その矢は黄巣に向かって一直線に飛び、黄巣の平天冠を射抜いた。
冠が吹き飛び、黄巣は驚きのあまりその場に倒れ、気絶してしまった。
文武百官は慌てて黄巣を抱き起こし、様子を確認した。
やがて黄巣はゆっくりと目を開き、冠を見つめた。
冠の頂には矢が刺さり、貫通していたが、黄巣自身には傷はなかった。
しばらく茫然としていた黄巣だったが、やがて怒りに満ちた表情で叫んだ。
「この賊め!なんと憎たらしい奴だ!」
黄巣はすぐに命令を下した。
「各城門に一万の兵を増派せよ!健将十名を加え、城門を堅く守るのだ。
もし李存孝を見つけたら、必ず捕らえよ!捕らえ次第、『万剮凌遲』に処し、朕の恨みを晴らすのだ!」
左右の者たちは命を受け、ただちに兵を増派し、猛将を選び配置した。
李存孝は黄巣が矢に当たるのを見て死んだものと思い込み、将卒たちを率いて皇城を出た。
しかし間もなく、城内には怒号と命令が飛び交い、兵が増派されて城門が厳重に守られる様子が聞こえてきた。
李存孝は状況を悟り、顔を曇らせて言った。
「どうやら黄巣は死んでおらず、逆に兵を増強して城門を固めているな」
すると、安休休が急ぎ進言した。
「我らは少数、敵は大軍。まともに戦えば勝ち目はありません。幸い、まだ夜が明け切っておりません。
今のうちに急いで城を出ましょう!」
李存孝は頷き、
「お前の言う通りだ!早く城を抜けよう!」と言うと、すぐに将卒たちを率いて城門へ向かった。
しかし、城門に到達する寸前、二人の将が軍を率いて行く手を阻んだ。
李存孝が大声で問いかけた。
「貴様ら何者だ!?この李存孝の行く手を阻むとは無礼者め!」
そのうち一人が堂々と名乗った。
「我が名は李罕芝!」
もう一人も名乗る。
「我が名は傅存審!」
李罕芝が叫んだ。
「お前は李存孝だな?我らは大斉皇帝の命を受け、貴様を捕らえるためにここに来た!覚悟しろ!」
李存孝は激怒し、馬を駆けて李罕芝に向かって突撃した。
李罕芝も鉄棒を振り上げ、李存孝を打ち据えようとしたが、李存孝は素早く棒を掴んで受け止めた。
李罕芝は李存孝の渾鉄搠を奪おうとしたが、びくとも動かない。
李存孝はその力強い攻撃を見て心の中で思った。
(この男たち、なかなかの好漢だ。無闇に殺すべきではない)
そして、李存孝は畢燕檛を振り上げ、一撃で李罕芝の手の虎口を裂き、鉄棒を取り落とさせた。
さらに、その棒を片手でひねり、鉄棒をまるで桶の箍のように曲げて捨てた。
これを見た李罕芝と傅存審は驚き、李存孝の豪胆さに感服して馬を下り、ひれ伏した。
「太保将軍!我らはあなたの勇猛に心を打たれました。どうかお許しください!
二人ともこれより将軍に帰順し、お力添えをいたします!」
李存孝は微笑んで言った。
「もし真心からの帰順ならば、我らは兄弟同然だ。互いに礼を尽くし、八度の拝礼を交わそうではないか」
二将は大喜びして感謝の意を示し、李存孝と兄弟の契りを結んだ。
李存孝は曲げた鉄棒を拾い上げ、素手で再びまっすぐに伸ばして李罕芝に返した。
この二将はそれぞれ三千の兵を率いており、李存孝の十八騎と合流して軍を一つにまとめた。
李存孝はすぐさま光太門を目指し、一騎先頭に立って進んだ。
城門にはまだ鍵がかかっていたが、李存孝は手を伸ばして鉄の錠を一瞬で粉々に破壊し、城門を大きく開いた。
「兄弟たちよ、門は開いた!早く外へ出るのだ!」
李存孝たちは一斉に馬を駆け、長安城を脱出した。
抾棒渾如鉄桶円 立降二将卒三千
(鉄棒を掴めばまるで桶の箍のように丸めてしまうほどの怪力。たちまち二将を降伏させ三千の兵を従わせた)
長安非是無弓箭 天祐英雄獲万全
(長安に弓や矢がないわけではないが、天が英雄に味方し完全なる勝利をもたらしたのだ)
李存孝は軍を率いて行軍中、哨馬が急報してきた。
「黄桑店の道に鄧天王の軍勢が陣を張り、進路を遮断しています!」
これを聞いた李存孝は怒りを露わにした。
「この賊のせいで、わざわざ長安まで走らされたというのに、またここで現れるとは!」
一方、哨馬の報告を受けた鄧天王は笑みを浮かべて言った。
「河中府で孟絶海を生け捕りにした将軍がここまで追ってきたのか?
人の生死は天命に従うものだ。今こそ、戦うほかあるまい!」
鄧天王はすぐに馬に乗り、槍を手に陣前に姿を現した。
李存孝は鄧天王をじっと見つめた。
その姿はまさに天神が地上に降臨したかのような威風堂々としたもので、全身が輝いているようであった。
頭には、紫金で作られた冠を戴き身には、輝く黄金の甲冑をまとう。
その上から、深紅に染めた長袍を羽織っている。
黒く塗られた彫刻入りの弓を手にし、背には狼牙の矢を差している。
乗るのは、駱駝のように大きな体躯を持つ黄毛の駿馬。
手には、二丈四尺(およそ七メートル)の柄を持つ方天戟を自在に操る。
その威風はまるで天神が降臨したかのごとく、陸地の金剛と称するにふさわしかった。
李存孝は高らかに叫んだ。
「そこにいる将よ!
そなたは俺の名を騙り、嗣源兄上の陣を襲った賊将ではないか?」
鄧天王は堂々と答えた。
「その通りだ!」
李存孝は冷笑して言い放った。
「ならば、潔く下馬して命を差し出せ!」
これを聞いた鄧天王は激怒し、馬を拍ち、方天戟を構えて突撃した。しかし、李存孝は軽々と戟を払いのけ、大喝した。
「奸賊め! どこへ逃げるつもりだ!?」
李存孝の圧倒的な力の前に、鄧天王の軍は次々と逃げ散り、旌旗も馬も散乱した状態で引き返すだけだった。
最後に李存孝は鄧天王を生け捕りにして馬の上に引きずり上げた。
その様子は、まるで、痩せた豺狼が、堂々たる白額の虎を引き倒したかのようだった。
空高く舞う白鳥を、海東青が撃ち落としたかのようだった。
李存孝は鄧天王を捕らえて自らの陣営に連れ帰り、六将に命じた。
「この賊の首を刎ねて、父王に報告するぞ!」
これを聞いた鄧天王は声を上げて号泣した。
李存孝は不思議に思い、問いただした。
「お前は大の男だろう。死を恐れて泣くのか?」
鄧天王は涙を拭いながら答えた。
「将軍、私は死が怖くて泣いているのではありません。
ただ、この世に未練が残る二つのことがあるゆえに涙を流しているのです」
李存孝は興味を引かれて尋ねた。
「その二つとは何だ?」
鄧天王は告げた。
「第一は、家に八十歳になる老母がいるのに、黄巣のために仕えて、今も家に黄金を入れる暇がなかったこと。
第二は、私の武芸が未熟で、本気で方天戟を振るう間もなく、将軍にあっさり捕らえられたことです」
母一人子一人で育った李存孝はその言葉に心を動かされ、さらに尋ねた。
「お前はどこの出身だ?」
鄧天王は答えた。
「私は曹州の者です」
李存孝はしばし黙考した後、穏やかに言った。
「よし、今日はお前の命を助けてやる。
だが、黄巣にはもう仕えるな。曹州へ帰り、老母をしっかりと世話するがよい。
そして、本当の武芸を磨き直し、いつか再び私に会いに来い」
そう言うと、李存孝は鄧天王に鎧や武具を返し、馬に乗せて送り出した。
鄧天王は地にひざまずき、感謝の意を示した。
「太保将軍のご慈悲、生涯忘れません」
彼は馬に乗り、涙ながらに李存孝へ別れを告げると、そのまま曹州へ向かって去っていった。
晋王は二十七鎮の諸侯とともに黄河の陣営に滞在していたが、李存孝が葛従周との戦いで大勝し、無数の猛者を討ち取ったとの報告を聞いた。
さらに、葛従周は長安へ逃亡し、李存孝がその後を追撃していることを知り、大いに驚いた晋王は軍師・周徳威に言った。
「敵はすでに大敗しているとはいえ、存孝が孤軍で追撃しているのは心配だ。
我らがここに長く留まっているわけにはいかぬ。どうしたものか?」
周徳威は冷静に答えた。
「李存孝殿は確かに英勇無比ですが、万が一のことを考えれば、我らが接応するべきです。
今こそ『破竹の勢い』で追撃し、長安を奪還する絶好の機会です」
晋王は深く頷き、ただちに命を下した。
「諸侯に命じて軍をまとめ、ただちに出発せよ!」
その後、二十七鎮の諸侯たちは軍を整え、一斉に陣営を引き払った。
一声の号砲が響き渡り、大軍は黄河を渡り、昼夜を行軍しながら長安を目指した。
暁行暮宿を繰り返し、気がつけば軍は霸陵川に到着していた。
晋王はここで軍を一旦停止させ、陣を張って李存孝の動静を見守ることにした。
李存孝は六将と三千の兵を率い、黄桑店を出発し、ついに霸陵川に到着した。
父・晋王がここに陣を構えていると聞き、ただちに軍を進め、晋王の本営に到着して拝謁した。
晋王は嬉しそうに李存孝を迎え入れ、尋ねた。
「わが子よ、どこまで行っていたのだ?」
李存孝は膝をつき、丁寧に答えた。
「父王、わたくしは鄧天王を捜し求め、ついに長安まで赴きました」
晋王はさらに尋ねた。
「では、その遠征で成果はあったか? 功績は立てられたのか?」
李存孝は微笑みながら答えた。
「父王、どうかお聞きください。
まず、私が黄河を渡った後、耿彪をねじ伏せて殺し、崔受を投げ殺し、張龍を追い詰めて死に至らせ、李虎を打ち倒しました。
さらに長蛇陣を破り、張権を討ち取り、巣賊の将四十三名を誅し、魏南三県を奪い、潼関を制圧し、霸陵川も手中に収めました。
その後、十八騎だけで誤って長安に突入し、戌字永豊倉に火を放ちました。
さらに赤鬼紅鬃馬を奪い、黄巣の弟・黄珪を摔り殺し、正陽門を突破し、五鳳楼にまで到達しました。
そこで黄巣を狙撃し、平天冠に矢を命中させました。
その後、傅存審と李罕芝を降伏させ、光太門を打ち破り、ついに黄桑店で鄧天王を生け捕りにしました。
これが私の今回の行いでございますが、これが果たして功でありましょうか、それとも過ちでありましょうか?」
諸侯たちは李存孝の功績を聞いて口々に称賛した。
「これこそ遮るもののない真の功績である!」
晋王は大いに喜び、すぐに宴を催して李存孝を労い、功を祝うことにした。
一方、長安城では黄巣が李存孝に城内を蹂躙されたことに深く憂慮していた。
翌朝、黄巣は急ぎ朝廷を開き、重臣たちを召し出した。
尚譲、斉克譲、傅景様、傅道昭、辺彦隨、柳彦璋、葛従周ら両班の文武百官を前にして言った。
「朕は李存孝に追われて城内に逃げ込み、倉を焼かれ、御弟の黄珪を討たれ、五鳳楼にまで迫られて矢を放たれた。
もし奴らが城外で李克用と合流し、二十七鎮の諸侯と力を合わせて再び攻め寄せれば、わが国は危機に陥るだろう。どうしたものか?」
すると葛従周が進み出て奏上した。
「臣に一計ございます。
今、李晋王は霸陵川に陣を張り、大軍を率いておりますが、聞けば日々酒宴にふけり、軍務を怠り、兵士たちは弛緩しきっています。
もし陛下が親自で軍を率いて夜襲をかければ、敵は無防備であり、我が軍がその陣営を破壊し、さらに戦力を立て直して廝殺すれば、必ず勝利を収めましょう。
陛下がどうお考えか、お聞かせください」
黄巣は頷きながら言った。
「朕が天下を得たのも、お前たちの計略のおかげだ。今日もお前の計略を信用しよう」
すぐに命令を下した。
「大軍十万を動員せよ! 鑾駕を準備し、文武百官を従えて御駕親征する!」
金瓜がぎっしりと並び、鉄斧が整然と列をなし、方天戟がずらりと並ぶ。
龍と鳳凰を刺繍した旗が隊列をなし、緑と赤の旗旒がひと塊りごとに風に舞い飛んでいる。
玉で作られた鐙や彫刻入りの鞍が、一つひとつ珠玉に囲まれ翠に彩られて輝き、飛龍の紋を掲げた傘は、青雲と紫の霧を撒き、飛虎の旗は吉兆の雲と瑞気を巻き上げる。
左には文官たちが、右には武将たちが整列している。
黄巣もこの出陣のために堂々と装いを整えた。
頭には天に向かって角を伸ばした金色の襆頭を戴き、身には日月と雲肩を刺繍した九条の龍が舞う長袍をまとう。
腰には金箱に宝石を嵌め込んだ精緻な玉帯を締め、足には金の縁飾りが施された雲根模様の朝靴を履いている。
黄巣が長安を出て道中を進軍していると、突如一人の道士が現れた。
その道人は黄衣を身にまとい、手には一本の拐棒を持ち、道の真ん中に立ちふさがった。
黄巣の護衛たちが声を張り上げて追い払おうとしたが、道士はその場から動こうとしない。
やがて黄巣の鑾駕が近づくと、道人は大声で叫んだ。
「黄巣! お前は長年にわたり、我が『混唐宝剣』を不義に用いてきた。
今日こそ、それを返してもらう!」
黄巣は怒り、護衛たちに命じた。
「この無礼者を捕らえよ!」
しかし、道人はその場で拐棒を振り上げ、黄巣に向かって一撃を加えた。
拐棒が黄巣に当たった瞬間、黄巣は車上から地面に転げ落ち、気絶してしまった。
道人はそのまま風のように姿を消し、混唐宝剣も忽然と消え失せていた。
黄巣の側近たちは驚き、急いで彼を介抱した。
しばらくして黄巣は目を覚ましたが、腰に差していた混唐宝剣がなくなっているのに気づき、激怒した。
その場で護衛数名を手打ちにし、怒りを発散させた。
その後、黄巣は気を取り直して軍を率い、長安を発ってから日々三十里(約十二キロ)の行軍を続けた。
ある場所で軍を休ませた際、文武百官に向かって言った。
「朕の軍がゆっくりと進むのは、疲労を避けるためだ。十分に力を蓄え、戦場で疲れないようにするためである!」
文武たちも賛同した。
「主君のお考えはまことにごもっとも。しかし、夜襲は迅速かつ不意を突くものでなければなりません。
どうか御注意を」
黄巣は大きく頷き、
「それも道理だ。迅速に動くとしよう!」
そう言うと、軍を再び速やかに進軍させ、ついに霸陵川に到達した。
この続きは次回に語ることとしよう。
このような詩がある。
巣賊親征李晋王 道人奪剣数当亡
(黄巣は自ら軍を率いて李晋王を討とうとしたが、道士に剣を奪われ命運は尽きた)
皇天眷徳分明報 強暴何曾得久長
(天は正しき道を重んじる者に報いを与える。強暴な者が長く栄えることなどない)
明代の学者・李卓吾は語る。
炎で黄珪の遺体を焼き払い、矢で黄巣の冠を貫いた。
その勇猛さは言うまでもない。
また、傅存審と李罕芝を降伏させ、鄧天王を助命して老母を養わせるなど、李存孝の孝行と義の心には感服せざるを得ない。
これぞ真の英雄である。
