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「私、薬剤師なんで。 〜桜ノ町薬局、本日も平常運転〜」第2話 春日樹、まだ何も知らない

前の話はこちらです。


木曜の夜、午後10時。六畳の部屋では、テーブルの上のスマートフォンだけが明るかった。

冷めたインスタントコーヒーのマグカップ。読みかけの漫画アプリ。リュックのファスナーは半分開いたままになっている。

明日のシフト表は、いつもと同じだ。朝礼、午前の外来、午後の在宅予定。特別なことは、何もない。

そう思ったところで、春日樹の指が勝手にSNSを開く。大学同期の林が、本社研修の飲み会の写真を上げていた。スーツ姿の同期が5人、明るい照明の下で笑っている。

写真の隅で、林はジョッキを持って笑っている。大学の実習で隣の席だった頃と、同じ笑い方のままで。

親指が「いいね」の上で止まる。

(林、向こうで何やってるんだろう)

押せなかった。画面を下へ送ると、誰かの勉強会メモ、誰かの「今日も成長」の文字が流れていく。

午後10時半、メッセージアプリの通知が出た。

父・春日修司(かすが・しゅうじ)。

『同僚が痛み止め飲んだら胃が痛くなったらしい。薬って怖いな』

春日は画面を見たまま、返事を打たない。痛み止めの種類を聞けばいいのか。それとも父は、薬剤師になった息子に、ただ話しかけたいだけなのか。

(父さん、そういうの、いちばん難しい)

午後11時、本棚の下段から『保険薬局業務の基礎』を引き抜く。角には薄く埃。表紙を開く前に、目はスマートフォンへ戻っていた。

今日こそは勉強しよう。そう決めたはずなのに、指は漫画アプリへ戻る。

1話だけ。

そう思って読みはじめた続きは、きりのいいところで終わってくれない。午前2時過ぎ、スマートフォンがテーブルに落ちる小さな音で、春日は一度だけ瞬きをした。充電ケーブルは、床に垂れたまま挿さっていない。

明日も、いつもの金曜のはずだった。

根拠はない。眠る前の春日は、そう思うことにしておく。

翌、金曜の朝。午前6時半、桜ノ町商店街の隣の戸建てで、徳田拓実(とくだ・たくみ)は目覚ましが鳴る前に目を開けた。

腰が重い。布団から起き上がるだけで、背中の奥が鈍く引っかかる。髭を剃り、量販店の紺のスーツに袖を通した。

午前7時、1階のダイニングには白米と味噌汁、焼き魚が並んでいる。妻の江里子(えりこ)が、湯気の立つ椀を徳田の右側へ寄せた。

「今日は桜ノ町薬局さんに寄るのよね? いつも丁寧でしょう。失礼のないようにね」

徳田は新聞を畳む。

「ああ」

食後、内科の血圧の薬と、耳鼻科でもらった鼻炎の薬を水で流し込む。腰の薬は昨夜で切れていた。今日は整形へ寄ってから会社に向かうしかない。

リビングの端で、娘の葉月(はづき)は朝食を半分残したままスマートフォンを見ている。徳田が「葉月、ちゃんと食べろ」と言っても、顔も上げない。江里子が声をやわらげて言い直すと、葉月は無言で味噌汁を一口飲んだ。それで会話は終わる。

部下の数字の抜けは、画面の上ならすぐ見える。だが、食卓で目を合わせない娘に何を言えばいいのかは、分からない。

(会社でも家でも、俺が悪者かよ)

午前8時50分、玄関でカバンを持ち上げ、腰に手を当てる。小雨だ。傘を開くほどでもない雨が、革靴の先を濡らしていく。

商店街の角では、青果の跡地の白い仮囲いが、雨に濡れて立っていた。

多摩関節リハビリクリニックまでは徒歩5分。近いのに、腰が痛い朝は妙に遠い。待合は年寄りで混んでいて、皆、自分より急いでいないように見える。それも苛立ちの種になった。午前9時に受付を済ませ、待合の椅子で部下からの報告メールを開く。数字に抜けがある。こめかみが熱くなった。

『数字が間違ってる。提出前に確認してくれ』

送信してから、言い方がきつかったと気づく。取り消しはしない。

診察と会計が終わったのは、午前10時25分。

(病院で1時間半近く待って、薬局でもまた待たされるのか)

徳田は処方箋をカバンに押し込み、不機嫌のまま自動ドアの方へ歩いた。

同じ朝、午前7時半。春日のアパートでは、アラームが3回目でようやく止まった。

画面の右上に、8パーセント。

「あ、充電」

声に出したところで増えるわけではない。床のケーブルを今さら挿して、洗面所へ走る。

ドリップバッグのコーヒーに湯を注ぎ、コンビニの食パンをそのままかじった。父からのメッセージは未返信のまま、通知欄の下に沈んでいる。

あとで、返事しよう。

午前8時、寝癖はドライヤーに抵抗し、白衣はリュックにうまく入らない。鍵がない。テーブルの上にも、玄関にも、実務書の下にもない。ベッドの隙間で見つけた時点で、時計は8時半を過ぎていた。

春日は徒歩で商店街へ。自分の中では小走りのつもりでも、息だけが先に荒い。シャッターの上がりかけた通りには、惣菜屋の仕込みの湯気と、八百屋の発泡スチロールを運ぶ音。誰もが自分の持ち場で朝を始めている。

ラーメン屋の店主が、店先で水を撒いていた。

「春日さん、おはよう。今日も走ってるね」

頭だけ下げて、桜ノ町薬局の裏口へ飛び込む。

「すみません、遅刻してません!」

福田芳江が奥から顔を出し、いつもの優しい顔で笑った。

「ギリギリよ」

午前8時50分の桜ノ町薬局は、シャッターがまだ半分だけ上がっている。待合の椅子に朝の光が斜めに入り、受付プリンターが試し打ちの紙を一枚吐いた。消毒用エタノールと紙袋の匂い。開店前から、もう全員の手が動いている。

朝礼で、管理薬剤師の柏木千晶は、申し送りメモを見ながら言う。

「今日は午前、待ち時間長めに出ると思います。受付で早めに予告してください。15分超えそうなら、途中で一回声かけ」

浜口柚衣が「はい」と返事をして、端末横の付箋に書く。それから柏木の目が、こちらへ向いた。

「迷ったらすぐ相談して。悩んで止まるより、私か楠山さんに聞いたほうが早い。今日は流れ、詰まるから」

「はい。すぐ相談します」

返事だけはいい。返事だけなら、国家試験満点みたいな顔ができる。自分で分かっているから、余計に居心地が悪い。

「春日、昨日の夜、何してた?」

「勉強を、しようとはしました」

「しようとは」

福田が釣り銭トレーをそろえる手を止めずに、口元だけ笑う。春日は視線を泳がせた。

楠山啓一郎が奥のPCから顔を上げる。

「春日、目、赤いぞ。コーヒー控えろ」

「え、いや、まだ今日は2杯で」

「昨日は何杯?」

「……5杯です」

福田がすかさず差し込む。

「5杯はもう依存」

浜口が小さく吹き出す。いや、でもブラックなので——と言いかけて、やめた。ブラックなら依存じゃない、という理屈は、たぶん通らない。

楠山は表情を変えず、柏木へ視線を戻す。

「柏木、来月、有給消化、考えとけ」

「考えるだけなら毎月してます」

「取れ」

短い。逃げ場がない。柏木は軽く笑ってメモを閉じた。

午前9時。自動ドアの電源が入り、最初の患者が入ってくる。

桜ノ町内科の処方箋が続き、受付前の椅子が一つずつ埋まっていく。浜口の電話声が一オクターブ上がり、福田はマイナンバーカードの確認と会計の間を滑るように行き来した。

春日は鑑査台の端で、ボールペンを耳に挟んで処方箋とお薬手帳を見比べる。真剣になるほど、視野が狭くなるのが自分の癖だ。分かっていても、狭くなる。

「柏木さん、こちら鑑査お願いします」

白カゴを渡すと、柏木は処方箋、お薬手帳、薬歴画面を順に確認して、手を止める。

「春日、これなんで通した? 似た働きの薬が、別の病院でも出てる」

胃の底が、すっと冷える。

「お薬手帳は確認しました。でも、先生もわかってて出したと思って……」

「憶測で判断しない。患者さんに渡る前でよかった」

「……すみません」

「謝るより、止めようとする力を。患者さんに事実確認してきて」

「えっ、僕がですか」

「春日が見つける係で、私が聞く係って決まってないでしょ。行って」

待合へ出る数歩の間に、聞き方を三回組み替えた。患者は白髪の女性で、番号札を膝に置いている。

「あの、お薬の確認をさせてください。い、今回のお薬と似たお薬が、別の病院からも出ているようなのですが……」

「ああ、それね。先生から、前のは止めて今度のに切り替えるって聞いてますよ」

「切り替え……ありがとうございます。確認できました」

それだけだ。それだけのことが、聞くまでは怖かった。聞いてしまえば、患者は普通に答えてくれる。

戻ると、柏木は薬歴に確認内容を残し、白カゴの赤いラベルを外している。

「確認できたじゃない」

「……はい」

春日はポケットの付箋に、大きな字で書く。

確認。

「字、大きいですね」

受付の浜口が、メモ帳の隅に何かを書きながら言う。

「それ何?」

「春日さんの今日の『すみません』です。いま4画目です」

正の字だった。悪意はない。浜口のメモ癖は、こういうとき容赦がない。

「数えなくていいから」

「記録は大事って、柏木さんが」

午前10時半。

自動ドアが開いた瞬間、店内の空気が一段だけ硬くなった。

量販店のスーツに、くたびれた革のバッグ。ネクタイは少し曲がり、腕時計を見る仕草だけが速い。男は受付前に立ったまま、処方箋と、緑、青、茶色の三冊のお薬手帳を置いた。

「急いでるから早くしてくれ。何分でできる?」

「徳田さん、湿布と飲み薬ですね。15分ほどいただきます」

福田の営業スマイルは崩れない。

「なんでそんなにかかるんだ。病院でも待ってるんだぞ」

徳田は座らなかった。長椅子の端に片手を置き、もう片方の手首の腕時計へ視線を落とす。

「番号でお呼びしますね」

福田が待合全体へ声を通す。徳田の苛立ちが、ほかの患者の肩まで固くしないように。待合の空気が詰まっている。受付プリンターが短く鳴り、調剤室の奥では分包機が一度だけ低く唸った。

春日の手元には、その時もう一つ別の白カゴがある。先に受けた患者の14日分。数え終えて、薬袋に入れて、鑑査へ回す。ここまでは、いつも通りにできていた。

それから徳田の白カゴが回ってくる。湿布の束、飲み薬のシート、三冊のお薬手帳。春日は湿布を数えはじめた。指が一枚、戻る。処方箋に目を落とす。もう一度数える。

「おい、そっち。まだか」

春日の肩が跳ねた。白カゴを抱えたまま、一歩、カウンター側へ出る。湿布の束が、カゴの中で少しずれた。

「す、すみません」

「どうしてこんなに待たせるんだ。こっちは半休取って来てるんだぞ。薬局までまた待たされるなら、薬局なんていらないだろ」

白カゴの縁を押さえる指に、力がかかる。白カゴの中には、まだ袋へ入っていない薬だけでなく、確認しなければならない順番も入っている。湿布の枚数、シート数、薬袋の氏名と用法、処方箋との照合。手順は頭に入っているのに、腕時計の秒針が目に入るたび、早く終わらせることだけが正解に見えてくる。

湿布の束の角が、カゴの中で斜めになった。直せばいいだけの角度なのに、徳田の声が重なると、その小さなずれまで自分のミスに見える。

急げば危ない。止まれば怒られる。その二つが、同じ手元に乗っていた。

「昔は病院で薬もらえたじゃないか。なんで今は薬局までわざわざ来なきゃいけないんだ。二度手間だろ、こんなの」

「すみません」

「しかも、あんたら、カウンターにいない時、裏で何やってんだ。薬を棚から取って袋に入れるだけなら、とっくに終わってるだろ。サボってるわけじゃないよな」

徳田の視線が、調剤室の奥へ刺さる。棚と、分包機と、こちらの手元へ。見られている、と思った瞬間、湿布の数字が頭から飛んだ。

待合の端で、別の患者が雑誌を閉じる。浜口の電話声が一拍遅れ、福田の受付スマイルが、かすかに硬くなった。

春日の耳に、自分の脈の音が近くなる。何か言おうとして、唇が動かない。

「すみません」

それで終わり。受付の隅で、浜口のペンが正の字に二画を足すのが、視界の端に見えた。7画目。数えられていることより、数える材料を量産している自分のほうが、ずっと情けない。

柏木が、カウンターへ出た。

「桜ノ町薬局の柏木です」

徳田の目が、春日から柏木へ移る。値踏みするような視線が、一瞬だけ名札に留まった。

「あんた、責任者か」

「はい。管理薬剤師です」

「じゃあ説明してくれよ。なんでこんなに待つんだ」

「あと2分で出ます」

春日は鑑査台へ戻り、湿布の束をそろえ直した。

「2分だぞ」

「はい。——徳田さん」

柏木は、一度だけ端末を確認して、言う。

「今、徳田さんが怒っていること、一つじゃありません」

「は?」

「病院でも待ったのに、薬局でも待つのか。まず、そこですよね」

「そうだよ」

「それから、昔は病院で薬をもらえたのに、今は薬局に来る。面倒だ、という話」

「面倒なんだよ」

「はい。面倒に感じると思います」

その一言で、徳田がちらりと柏木を見るのが分かった。反論を待っていた顔だ。

「もう一つ。カウンターの裏で、私たちが何をしているか見えない」

「見えなきゃ、分からないだろ」

「はい。だから今、お伝えします」

怒っている人の怒りを、三つに分けて受け取る。そんな発想は、春日の頭のどこにもなかった。実務書のどの章にも、たぶん載っていない。

柏木は指を一本立てる。

柏木は投薬カウンターの端末を自分の側へ傾け、患者に見せていい範囲だけを指で示した。

「まず、薬歴を見ます。前にどんな薬をお渡しして、どんなお話をしたかの記録です。次に、飲み合わせや重なりを見ます」

二本目。

「処方箋の内容で気になる点があれば、疑義照会をします。医師に確認する仕事です」

三本目。

「医者に? 薬局からか」

「必要があれば。最後に、鑑査です。そろえた薬と記録を、渡す前にもう一度見ます」

四本目。徳田の視線が、指から白カゴへ移る。

「待ち時間と、裏で何をしているか。ここは、つながっています」

徳田は鼻で息をする。

怒りはまだ引いていない。けれど、少なくとも今は、柏木の言葉を途中で折らない。

「それ、全部、今やってるってことか。俺の腰の薬で?」

「徳田さんの腰のお薬で、です。薬を早く渡すことだけが仕事なら、もっと早くできるかもしれません。でも、私たちの仕事は、薬を早く渡すことではない。安全に渡すことです」

「……裏で、そんなことしてるなら、最初からそう言えばいいだろ」

「すみません。見えにくい仕事なので」

「見えなきゃ、分かるわけないだろ」

「はい。だから今、お伝えしています」

その言い方は、まだ刺々しい。けれど、さっきの「サボってるのか」とは違う場所から出ている。

春日の手は、その間も止まっていない。止まらないことだけが、いまの自分にできる全部だった。

湿布。飲み薬。そして、三冊のお薬手帳。

朝の付箋が、頭の隅で揺れる。確認。憶測で判断しない。手帳は、全部見る。

三冊は、厚みが違う。緑がいちばん使い込まれていて、青と茶色は角がまだ新しい。同じ人の体のことが、三つの場所に分かれて記録されている。

緑の手帳はうちの記録で、腰の薬が並ぶ。茶色は耳鼻科の鼻炎の薬。青は——内科だ。血圧の薬。めくる。先月のページで、指が止まった。

頓用。痛い時に服用。

ページを持つ指が、汗で少し滑った。処方回数は10回分。鑑査台の上で、青い手帳と今日の処方箋を並べる。成分の系統が、頭の中で同じ棚に並んだ。

同じ系統の、痛み止め。

今日の整形の飲み薬と、働きが重なる薬が、青い手帳の中にいた。うちの薬歴には、ない記録だ。三冊に分かれているから、誰も全体を見ていない。

確信はない。先生は知っているのかもしれない。もう飲んでいないのかもしれない。

——憶測で判断しない。

春日は白カゴを持ったまま、カウンターの内側から小声で呼んだ。出した声は、自分でも分かるくらい掠れている。

「柏木さん。青の手帳、ここ……」

柏木は手帳を一瞥して、二秒だけ黙る。それから春日を見た。

「自分で見つけたんだから、自分で聞いて」

「えっ」

「朝、できたでしょ。同じこと」

徳田の腕時計が、また持ち上がりかけている。喉が渇く。それでも、足はカウンターの外へ出た。

「あの……徳田さん。お薬のことで、一つだけ、確認させてください」

「は?」

徳田の眉間に皺が寄る。質問を待ってくれる時間は、たぶん数秒しかない。脈が耳元で鳴る。それでも、質問は具体的に。朝の白髪の女性で、できたことだ。

「内科の先生から、その……痛み止めを、もらっていませんか。頭痛の時とかに、飲む——飲むためのものを」

「……ああ。腰とは別で、前に頭痛で。痛い時だけ飲んでる。先月ももらったけど」

「いま、お手元に、まだありますか」

「家にあるよ。それがどうした」

答えてくれた。春日は息を吐きそうになるのをこらえ、柏木へ振り返る。柏木はもう隣に立っている。

「徳田さん、ありがとうございます。今日の整形の飲み薬と、内科の痛み止めは、同じ系統のお薬なんです。重ねて飲むと、胃に負担がかかることがあります」

「……腰が痛い日に頭も痛かったら、両方飲むだろ、普通」

「そこを整理させてください。今日のお薬を飲む間は、内科の痛み止めを重ねないこと。頭痛の時の使い方は、整形の佐々木先生にもお薬の状況を文書でお伝えしておきます」

徳田は黙った。腕時計を見る。今度は責める動きではない。

「文書は今日中に作って、佐々木先生のクリニックへお送りします。徳田さんの手間は、増えません」

柏木が付け足す。手間、という言葉の選び方が、この人と話してきた半日に合っていた。

「……それ、今分かったのか。その三冊で」

「はい。春日が、三冊を突き合わせて見つけました」

徳田の目が、ちらりと春日へ動く。何かを言いかけて、やめて、結局、手帳のほうへ落ちる。

「俺、手帳、三冊バラバラに使ってるんだけどな」

「そのことなんです。三冊に分かれていると、今日みたいなことが起きます。どの病院も、自分の出したお薬は完璧に見てくださっています。でも、合流する場所がないんです」

「どれを残すか決めていただければ、次からはその一冊に貼っていきます。簡単そうに見えて、患者さんの習慣を変える話なので、今日は提案までですが」

「めんどくさいだろ、まとめるの」

「めんどくさいです」

徳田が、初めて柏木の顔をまともに見る。

「そこは否定しないのか」

「しません。患者さんの習慣を変える話ですから。ただ、一冊にまとまると、徳田さんのお薬の全体が、今日より早く、確実に見えます」

「今日、いま、まとめろって話か」

「今日は提案だけです。腰のお薬をお渡しして、午後のお仕事に間に合わせるのが先です」

「……時間なんか、いつもないんだよ」

「ですよね。だからこそ、です」

徳田は、長く息を吐いた。

「……ふーん。そういうこと、してんのか」

言ってから、すぐ眉間に皺を戻す。

「でも、待つのは待つだろ」

「はい。短くできるところは、短くします」

感心でも納得でもない。ただ、さっきまで「裏で何をやってる」と詰めていた人が、少しだけ黙った。それくらいの変化だ。

徳田はもう、腕時計を見ていなかった。長椅子の背に置いていた手が下りて、三冊の手帳を順に重ね、カバンへ戻している。その手つきが、来た時よりわずかに遅い。

「お待たせしました。いつもの飲み薬と湿布です。飲み方と貼り方は、前回と同じです」

徳田は薬袋を受け取る。まだ少し乱暴な手つきで、けれど奪うようではなかった。腰をかばってカバンを持ち上げ、薬袋の印字を一度だけ確かめて中へ入れる。

「手帳の件は、次回以降で大丈夫です。どれか一冊に決めていただければ、ほかの病院のお薬の記録も、そこに貼っていけます」

「……考えとく」

今日の時点では考えないだろう、という言い方だ。それでも、持ち帰る言葉が一つあれば、次に話を続けられる。

徳田は自動ドアへ向かう。背中はまだ硬い。ドアが開く直前、振り返った。目は合わせない。

「……ありがとう、柏木さん」

それから、視線だけがほんの一瞬、春日の胸の名札をかすめる。

「……見つけたのは、あんたか」

返事をする前に、徳田は出ていった。外の光が床に伸びて、すぐに切れる。

春日は、薬袋を持っていた手をようやく下ろした。ずっと息を詰めていた気がする。

「柏木さん、お疲れさまでした……」

浜口が受付カウンターの端から、電話声とは違う素の声で言う。福田も処方箋の束をそろえながら、同じくらい小さく言った。

「徳田さん、最後、ちょっと変わったね」

「呼び方が変わっただけです。ほんのちょっと」

「ほんのちょっとで十分な日もあるわよ」

それから浜口が、メモ帳の正の字にペンを置いたまま、こちらへ小声で付け足す。

「今のは『すみません』じゃなかったですね」

8画目は、書かれないまま止まっている。

「……数えてたんですか、ほんとに」

「記録は大事なので」

柏木は白カゴを棚へ戻しながら、徳田の薬歴を開いていた。横から覗くと、入力欄に短い文が並んでいく。怒られた、とは書いていない。

「怒られたこと、書かないんですか」

「薬歴は愚痴帳じゃない。次に開く人への置き手紙」

申し送り:次回来局時、手帳を1冊へまとめる意思を確認。

保存ボタンの音がして、画面が閉じた。

「次、14日分、湿布ありです」

「見て」

「はい」

短い返事。声は、出ている。午前は、まだ終わらない。

昼を過ぎると、処方箋の流れがいったん緩んだ。楠山が在宅の急配から戻り、訪問用バッグを所定の位置へ戻す。マスクだけ買いに来た常連が、浜口に会釈して出ていった。

午後1時半。

自動ドアが開いて、入ってきたのは患者ではなかった。白いシャツに黒のパンツ、肩にショルダーバッグ。脇に小型の方眼ノート。

「あの、すみません……桜ノ町薬局さんで合っていますか?」

「はい。お薬ですか?」

「いえ、私、地域情報サイト『タマっこ』の、矢野と申します。商店街の特集で、こちらも取材させていただけないかと」

春日は調剤室の鑑査台から、首だけ伸ばした。記者。この店に、記者。

柏木は名刺を受け取って、すぐに頭を下げる。

「ありがとうございます。ただ、申し訳ないんですが、取材は守秘義務の関係で難しいんです。患者さんのお薬の情報、お顔、お話の内容——すべて薬剤師には守秘義務がありまして。写真も、お話も、中では、ちょっと」

「あ、そうなんですね……すみません、知らなくて。患者さんが映らなければ、待合の雰囲気だけでも……いえ」

矢野は、自分で首を振った。

「それも確認が必要ですよね」

「外観でしたら、商店街の景色の一部として撮っていただく形なら大丈夫だと思います。業務の一般的なお話は、少し確認させてください」

抱えていたノートが、すっと下がる。今日は出さない、と決めた手つきに見える。記者というのは、もっと強引なものだと思っていた。春日は鑑査台の陰で、勝手な想像を一つ捨てる。

柏木が調剤室の楠山へ事情を伝えに来る。楠山は在宅用のバッグを足元に置いたまま、ひとつ頷いた。

「守秘だけ外すな。一般論なら、日を改めろ」

「了解です」

カウンターへ戻った柏木が、名刺を一枚取り出す。

「桜ノ町薬局、管理薬剤師の柏木千晶です。業務の一般的なお話でしたら、日を改めて」

「ありがとうございます! 私、矢野光佐(やの・みさ)と申します」

矢野は名刺を両手で受け取り、文字を一度見てから、名刺入れの上に大事そうに重ねる。それで終わるはずだった。

矢野が、自動ドアの前で足を止める。

「あの、ちょっと、お聞きしてもいいですか。薬局って、どこで受け取っても同じだと思ってたんですけど……大手のチェーン薬局さんと、違うんですか?」

柏木の手が、わずかに止まるのが見えた。

「……それ、いい質問ですね」

「え?」

「今度、お時間ある時に、ゆっくりお話しさせてください。お薬の少ない、火曜の午後あたり」

「火曜の午後。必ず来ます」

矢野は深く一礼して、外へ出ていく。浜口が受付の端から小声で言う。

「さっきの記者さん、感じよかったですね」

「うん。悪い人じゃなさそう」

福田が処方箋の束をそろえながら笑った。

「矢野さんね、また来るわよ。火曜の午後、ね」

午後のピークが、ひと息つく。調剤室の奥から楠山が顔を出した。

「柏木、春日、お昼まだだろ。俺、カウンター見てる。1時間、行ってこい」

「でも、楠山さんが」

「いいから、行け」

二度言わせると、この人はもう取り合わない。春日は白衣のポケットからメモ帳だけ抜いて、休憩室へ向かった。

休憩室は狭い。小さなテーブルと、給水機と、誰かの私物のマグカップが二つ。柏木がドリップバッグに湯を注ぐと、紙のフィルターがゆっくり膨らんだ。

春日はコンビニのおにぎりを2個、テーブルに置く。鮭と昆布。どちらも、まだ開いていない。買ったのは朝で、選んだ理由は思い出せない。

「おにぎり、冷たいまま?」

「……はい。レンジ、面倒で」

「春日」

呼ばれて、顔を上げた。

「……柏木さん、僕、向いてないかもです」

柏木は紙コップを置く。湯気が、二人の間でゆっくり薄くなっていく。

「何が」

「徳田さんに、何も返せなかった。『すみません』しか言えなかった。柏木さんは、ちゃんと答えてたのに」

「手帳の重なり、見つけたでしょ」

「見つけたのは、まぐれです。朝、怒られたから手帳を全部見ただけで……あの場でちゃんと話せたのは、結局柏木さんで」

おにぎりの包装が、くしゃ、と小さく鳴った。

「僕、向いてないかも」

柏木はすぐには返さない。コーヒーの湯気が薄くなっていく。

「私も、今だって、毎日、向いてないかもって思うよ」

「でも、柏木さんは」

「そう見えてるだけ。今日も、徳田さんに説明してる時、内心、ちゃんと伝わってるかなって思ってた」

春日は黙る。メモを取らずに聞いていた。

「でも、伝えるしかない。向いてないかも、と思いながら続けるのが、たぶん、仕事」

休憩室の外で、受付プリンターが短く鳴る。店は止まらない。

「……一個だけ、聞いていいですか。徳田さんが怒ってること、一つじゃないって、なんで分かったんですか」

「スーツ」

「スーツ?」

「何度も座り直した皺が入ってた。朝からずっと、あちこちで待たされてきた人の皺。怒鳴る人の声だけ聞いてると、見えなくなるけどね」

春日は、自分の白衣の袖を見下ろした。皺の読み方なんて、実務書のどこにも載っていない。

「……はい」

それから、鮭のおにぎりの包装をようやく剥がして、一口食べる。

「うん。ちゃんと食べな。おにぎりは温かくなくても、食べれば腹に入る」

「それ、名言ですか」

「ただの事実」

「はい。……ありがとうございます」

「礼はいい。午後も手、動かして」

午後7時。裏口から出ると、湿った夜風が白衣を脱いだばかりの肩にまとわりついた。

商店街は夜の片づけに入っている。ラーメン屋の前では、店主が暖簾を外している。

「おつかれさん」

「おつかれさまです」

朝、ここを小走りで抜けた。それから徳田、矢野。「すみません」を7回数えられた1日だった。8回目は、なかったけれど。

林のSNSを思い出す。本社研修の飲み会。明るい照明、きれいなグラス。林は向こうで、速く進んでいる。

薬学部5年の実務実習で、春日は病院と薬局を見た。大手チェーン薬局では、処方箋が数字みたいに流れていく。番号が呼ばれ、袋が渡り、次の番号が呼ばれる。あの速度に、自分はついていけない。そう思って、桜ノ町を選んだ。ゆっくり育ててもらえる場所だと思って。

ゆっくりは、楽という意味じゃなかった。今日それが、ようやく分かった気がする。

今日、徳田に何も返せなかった。でも、青い手帳の頓用の文字は、自分の指がめくって見つけたものだ。

どっちも、本当のことだ。

春日は、薄明るい舗道を歩く。閉め忘れたリュックのファスナーから、丸めた白衣の端が少し見えていた。

午後8時。徳田家の玄関で、徳田は革靴を脱ぎながらネクタイを緩めた。

「ただいま」

「おかえりなさい。桜ノ町薬局、どうだった?」

江里子の声が、台所から届く。徳田は、すぐには答えない。三冊の手帳と、青くなっていた若い薬剤師の顔と、柏木という名札が、妙な順番で戻ってくる。

「……今日は、ちょっと、勉強になったわ」

「あら、珍しい」

「ふん」

徳田は缶ビールを開けて、椅子の背に腰を預けた。背中の奥が、まだ重い。

午後8時。千晶は自転車のペダルを踏みながら、ほとんど閉まった商店街を抜けていた。

梅雨の夜の空気は重い。街灯の下に、雨の名残だけが細く光っている。

交差点の手前でブレーキを握ると、湿った音が思ったより高く鳴る。

春日は今日、固まって、謝った。それでも手は止めず、三冊の手帳を言われた通りに全部めくっている。言われた通りにやることを、馬鹿にする人もいる。でも、あの子は言われた通りにやって、誰も見ていなかったものを見つけた。

(あの時の私は、聞いたつもりで、自分の判断を優先した)

誰に言うでもない一行が、湿った空気の中に浮かんで、消える。信号が変わった。

ブレーキから、指を離す。

春日は、私よりましな薬剤師になるかもしれない。

シャッターの先に、桜ノ町薬局の灯りの残像がまだ残っていた。

午後9時前。春日のアパートでは、コンビニの袋がテーブルの端に寄ったままだった。

千葉の祖母が、よく言っていた言葉がある。

「樹は、お母さんに似たね」

母は口下手だった。仕事のことも、家の外であったことも、あまり話さない。だけど、失敗した煮物は次の週に味が変わっていた。

僕も、そうだ。

スマートフォンを開く。父からのメッセージが、朝のまま残っている。

『同僚が痛み止め飲んだら胃が痛くなったらしい。薬って怖いな』

痛み止めと、胃。今日、徳田の青い手帳で見たものと、同じ並びだった。

春日は返信欄に指を置き、何度か書き直して、送る。

『その同僚さん、薬局で相談するといいよ。ほかの薬との飲み合わせも見てもらえるから』

既読はつかない。それで十分だと思った。

テーブルの端の実務書を引き寄せる。表紙の埃を、今日は手で払った。目次の中に、「お薬手帳と併用薬確認」という項目がある。今日、自分の指が偶然たどり着いた場所に、ちゃんと名前がついていた。蛍光灯の下で、文字は平たく並んでいるだけなのに、昨日までとは別のページに見える。

読む速度は遅い。何度も同じ行に戻る。それでも、閉じない。

途中で一度だけスマートフォンを開いて、昨日押せなかった林の写真に「いいね」を押した。向こうは向こうの速度で進めばいい。こっちは、こっちの速度でめくる。

コーヒーを淹れようとして、手が止まった。今日、6杯目になるところだ。楠山の朝の注意が、少し遅れて戻ってくる。マグカップを出しかけて、やめて、代わりに水道の水をグラスに注いだ。ぬるい。それでも飲む。

グラスを置くと、窓の外で電車の音が遠く鳴った。この時間まで、町は普通に動いている。

でも、今日のことで一つだけ分かった。知らないなりに、手帳をめくることはできる。

明日はもう少し、ちゃんと見てみよう。柏木が薬歴を開く前に、どこを見るのか。福田が棚の乱れから何を読むのか。浜口の正の字が、何画で止まるのか。

午後11時までに、数ページしか読めない。それでも、読んだぶんだけ前に進める。

夜は、まだ長い。

僕は、まだ何も知らない。でも、ここにいる。


続きはこちらです。

第3話では、登録販売者・浜口柚衣が、自分の名札の重さに向き合います。
薬剤師ではない彼女だからこそ見えている、薬局の仕事があります。

「私、薬剤師なんで。」は、こちらのマガジンにまとめています。

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#お仕事小説部門

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