「私、薬剤師なんで。 〜桜ノ町薬局、本日も平常運転〜」第3話 浜口柚衣、名札の重さを知る
前の話はこちらです。
森川晴絵(もりかわ・はるえ)は、横になるたびに鼻の奥がふさがる感覚で、眠りから押し戻された。枕元のティッシュ箱に伸ばした指に、空箱の軽さだけが残る。
熱が出ている感じはない。咳も、胸の奥から続くようなものではない。ただ、仰向けになると空気の通り道が細くなり、息を吸うたびに鼻の奥だけがじわじわ重い。枕を高くしても、右を向いても、苦しさの場所がずれるだけだ。
午前2時を回ったころ、晴絵は寝室の常夜灯を点けた。隣の布団は空いている。夫が亡くなってから、夜中に起きても「大丈夫か」と聞く声はない。水を飲もうと台所へ下り、冷蔵庫の光を見た瞬間、くしゃみが一つ出た。
風邪かしら。
そう思っても、風邪と言い切れるほどの何かはない。熱はない。強い咳もない。けれど眠れないほど鼻がつらい。明け方近くまで、晴絵は薄い布団の中で、呼吸の音だけを聞いていた。
朝になれば治まるかもしれない。そう思って目を閉じても、詰まった感じだけが残る。病院へ行くほどなのか、市販のもので様子を見る程度なのか、寝不足の頭では、その境目もぼやけている。
*
火曜の朝、テーブルの上は小さな薬局みたいになった。
桜ノ町薬局でもらった白い薬袋に、以前、急に具合が悪くなった時に買った市販薬の箱。開封したまま輪ゴムで留めてある袋と、更年期向けと書かれたサプリのボトルが並び、その横に、飲み忘れないように置いてある寝る前の薬と、血圧の薬の袋がある。
晴絵はそれらを一つずつ手に取った。箱の裏には細かい字が並んでいる。注意、相談、使用しないこと。読めば読むほど、自分がどこに当てはまるのか分からなくなる。
「これ、何が関係あるのかしら」
声に出してみても、答える人はいない。
お薬手帳は、いつも黒い肩掛けの内ポケットに入れてある。昨日の雨で濡れた黒いバッグは、玄関脇の椅子に掛けたまま。今日は軽い布のバッグで出るつもりだった。
手帳もあとで。
晴絵はそう思い、先に薬袋やボトルを片づけはじめる。けれど今朝の鼻づまりと、テーブルの上に散らばった袋やボトルを見ていると、何から手をつければいいのか分からなくなった。
処方箋がなくても、聞いていいのだろうか。
桜ノ町薬局は、いつも薬を受け取る場所だ。柏木という薬剤師か、あの若い女の子か、誰かがいる。買っていいかどうかくらい、聞けるかもしれない。
晴絵は薬袋をひとまとめにして、テーブルの端へ寄せた。あとで手帳を布のバッグに入れよう。そう思ったまま、鼻をかんだティッシュを捨てに立つと、次は鍵と財布のことが気になる。
*
浜口柚衣は、白衣の胸に名札を留める前に、一度だけ指を止めた。
登録販売者 浜口
その右上に、小さな「研修中」のシールが貼ってある。
白地に黒い文字は、派手ではない。シールも、遠目にはただの印に見える。けれど、朝の鏡の中では、左胸の布だけが先に薬局へ行ってしまいそうだ。
柚衣は名札の端を、白衣の合わせでほんの少し隠しかけた。すぐに戻す。隠すものではない。分かっているのに、「登録販売者」の五文字と、その横の小さな三文字だけが、朝の鏡の前で少し大きく見えた。
クリップは白衣の布を少し噛んでいる。柚衣は研修中シールが曲がらない位置へ、もう一度だけ名札を押さえた。
「柚衣、今日も雨上がりだから滑らないようにね」
台所から母の声がする。
「はーい」
返事をして、髪を一つに結ぶ。バッグには透明ファイル、4色の蛍光ペン、昨日のメモ帳、帳票に押すシャチハタ。推しの曲をイヤホンで流そうとして、柚衣は再生ボタンを押す前に止めた。今日は商店街の音を聞きながら行きたい。
午前8時過ぎ。雨の上がった桜ノ町商店街は、看板の縁にまだ水滴を残している。パン屋はシャッターを半分開け、惣菜屋の前から油の匂いが漂い始めていた。珈琲舎やすみ木(こーひーしゃやすみぎ)の前を通ると、マスターがガラス越しに手を振り、柚衣も軽く会釈を返す。
資格の勉強を始めた頃、この道を福田芳江と並んで帰った夜がある。
閉店後の商店街は、今より灯りが少ない。柚衣はエコバッグを提げた福田の横で、ずっと足元ばかり見ている。
「今日、風邪薬のこと聞かれて、何も答えられませんでした」
福田は歩く速度を変えない。
「何も、ではないわ。柏木さんを呼べたもの」
「でも、私が分かって呼んだわけじゃないです。分からないから呼んだだけで」
「そこからでいいのよ」
柚衣は、街灯に濡れた舗道を見る。自分の靴のつま先が、やけに頼りない。
「事務だから、薬のことは分からなくてもいいんですかね」
福田は口元だけで笑う。優しい顔のまま、言葉だけがまっすぐだった。
「いいわけじゃない。でも、勝手に答えていいわけでもない」
柚衣は何も言えない。
「資格は裏切らないわよ、ゆいちゃん。勉強した分だけ、見える景色が増えるから」
それにね、と福田は少しだけ声をやわらげる。
「背負うって自分で決めた子の顔は、見ていて飽きないのよ。うちにも一人いるから、分かるの」
誰のことかは、聞きそびれた。
その時は、励まされたのか、宿題を増やされたのか、よく分からない。ただ、その言葉だけは、試験勉強の過去問集より先に頭へ残った。
今朝、名札の重さは、その言葉の重さでもある。
*
桜ノ町薬局のシャッターは半分だけ上がっていた。柚衣が裏口から入ると、消毒用エタノールと紙袋の匂いが、いつもの朝みたいに鼻へ入る。
「おはようございます!」
「おはよう、ゆいちゃん」
福田はすでに受付端末の横で釣り銭をそろえ、柏木千晶は市販薬の棚の前で、値札を兼ねた小さな棚札を手元に掲げている。雨上がりで相談が増える棚の並びを、開店前に一つずつ確かめている。奥のPC前では楠山啓一郎が朝の確認画面を閉じながら、「おはよう」と短く返す。調剤室の奥では春日樹が白衣を着ながら、なぜか自分のポケットを両方叩く。
「春日さん、何探してるんですか」
「ボールペンです」
「耳です」
春日が耳に挟んだボールペンへ手をやり、真顔で「ここに」と言う。柚衣は笑いかけて、すぐ棚へ向き直る。
店では、市販薬の棚をOTC棚と呼ぶ。OTCは、処方箋がなくても買える薬のことだ。
柚衣は鼻炎薬の列を手前にそろえ、湿布の箱を取りやすい高さへ移した。梅雨入り後は、風邪と言い切れない鼻の不調、雨の日の痛み、食欲の落ち込みが棚の前へ来る。
箱をそろえるたび、名札の下の「登録販売者」の文字が白衣に当たって揺れた。薬剤師ではない。けれど、棚の前で最初に声をかけられることはある。手に取った箱をただレジへ運ぶだけなら、この文字はこんなに重くない。
手書きのPOPを一枚見直す。
「鼻づまりに効く」と書きかけて、柚衣はペンを止めた。薬の広告や店頭表示には、薬機法のルールがある。治る、効く、と言い切らない。
柚衣は線を引き、書き直す。
不調をやわらげたい時に。
そこは福田にも柏木にも、何度も直されたところだ。
柏木が棚の端を指で軽く叩く。
「ゆいちゃん、ここ、相談来るよ。雨上がりで鼻、風邪、胃腸、湿布。全部来る」
「全部ですか」
「全部」
春日が横からのぞき込む。
「OTCって、想像より相談多いですね」
「多いよ」
柏木は棚札を戻しながら言った。
「『ちょっと聞いていい?』は、だいたいちょっとじゃない」
福田が釣り銭トレーを閉じながら、くすりと笑う。
「名言ね」
「名言じゃなくて事実」
柚衣はメモ帳を開きかけて、柏木に見られていることに気づいた。
「まだ書いてません」
「書く顔だった」
「顔に出ましたか」
「出てた」
柚衣のメモ帳には、先週の自分が書いた接客の文例が並んでいる。『なにかお探しですか(明るく・高すぎない声で)』。声に出して練習しかけて、福田と目が合い、棚の整理に戻った。
午前9時、自動ドアが開く。最初の患者が入り、受付プリンターが紙を吐き、薬局の朝が本格的に動き出した。処方箋を預かる人、マスクだけ買っていく人、湿布の場所を聞く人。柚衣は受付とOTC棚の間を行ったり来たりしながら、名札が胸で揺れるたびに背筋を少し伸ばす。
*
昼前、柏木はカウンターの端でスケジュール帳を開いた。
「今日、火曜午後。矢野さん来る予定」
「地域情報サイトの方ですよね」
柚衣はレジ横の消毒液を補充しながら答える。前の金曜午後に来た、感じのいい記者。患者の顔や相談内容を写さないと聞いて、すぐにノートを閉じた人だ。
「13時30分。患者さんを写さない、相談内容は個人が特定されない範囲、薬局側が止めたらメモも撮影も止める。もう一回、最初に確認する」
「はい」
投薬カウンターで患者へ薬袋を渡し終えた楠山が、顔を上げる。
「うちは取材のために待合の流れを変えない。そこだけ先に伝えといてくれ」
柏木がスケジュール帳にペン先を置いたまま頷く。
「はい。最初に確認します。春日も、矢野さんがいても普段通り」
「はい。……普段通りも、まだ難しいです」
「そこは自覚あるだけマシ」
柚衣は吹き出しそうになって、会計トレーを整えるふりをした。そのままレジ横の小さな案内板をまっすぐに直す。矢野が立つ位置から受付の個人情報が見えないか、待合と調剤室の入口を見比べるたび、胸の名札が揺れる。
12時半を過ぎても、柏木はまだ昼食を取っていなかった。鑑査を一件終え、記録を保存してから、ようやく休憩室に入ってくる。手にあるのは、コンビニのおにぎり一つだけ。
柚衣は弁当箱の蓋を開けたまま、思わず口にする。
「柏木さん、お昼それだけですか」
柏木は包装を破りながら、無表情で返した。
「33独身、コンビニおにぎりですけど、なにか」
「柏木さん、また自虐ですね」
「笑うところだよ」
「録音しときたいです」
柏木が一瞬だけ目を細める。
「七実さんに送ったら怒る」
「まだ送るとは言ってません」
「言いそうな顔をしてる」
笑いの残りが消えると、柚衣はあらためて柏木の手元を見た。考えてみれば、この光景は今週もう何度目かになる。
「柏木さん、最近は休憩室でお昼食べること多いですね」
「常葉庵(ときわあん)、今日も閉まってた」
「ああ、最近ずっとですよね」
商店街の蕎麦屋は、柏木の昼の定番だ。シャッターはもう何日も下りたままで、間口には貼り紙ひとつない。柏木はそれ以上何も言わず、おにぎりの残りを口に運ぶ。
午後1時になる少し前、福田が休憩室の入口で肩を揺らした。春日も後ろから入ってきて、おにぎりを二つ並べる。その横に、なぜかメモ帳まで置く。
「春日、休憩中までメモしなくていい」
「はい」
柚衣は笑いながら、胸元の名札に一度だけ指を触れた。午前より、ほんの少しだけ軽い。けれど午後の棚は、いつも午前と同じ顔ではいてくれない。
*
火曜、午後1時30分。桜ノ町薬局。
柚衣はOTC棚の端で、レジにも戻れる位置を保ちながら、季節商品のPOPの角を貼り直していた。午前の山はもう過ぎ、待合の椅子には一人。投薬カウンターでは楠山が患者に薬袋を渡し、短く注意点を添えている。
自動ドアが開いた。
入ってきた矢野光佐は、前回と同じ黒いショルダーバッグを肩にかけ、文庫本より少し大きい方眼ノートを胸の前に抱えている。白いシャツの袖口には雨の跡。外では、梅雨の細い雨が降ったり止んだりを繰り返す。
「柏木さん。本日はお時間いただき、ありがとうございます」
矢野は入口で一礼してから、受付カウンターの前まで来る。前回より背筋が伸びている。けれど、目だけは相変わらず前のめりのまま離れない。
「こちらこそ。条件は、事前にお伝えした通りで」
「はい。止めてくださいと言われたら、撮影も録音もメモも、全部止めます」
素直な返事だった。矢野がノートを開きかけ、その指先だけが途中で宙に浮く。市販薬の相談を見学できるのは、来局した本人が了承した場合だけ。病名や生活の事情はメモしない。事前に取り決めた線を、矢野は自分の口でなぞり直していく。
楠山がカウンターの端で頷く。
「販売時の様子を少し離れて見る。そこまでだな」
「分かりました。その条件でお願いします。あの、前に伺った、大手チェーンさんとの違いの話も、今日少しお聞きできたらと思っています」
矢野の声は明るい。明るいが、前回のように「どこで受け取っても同じ」と言い切る軽さはなかった。いったん飲み込んで、問いの形へ変えた声に、柚衣には聞こえる。
柏木の視線が、ふとOTC棚のほうへ動いた。目が合いそうになり、柚衣は棚の前の値札へ視線を戻す。胸元で、白地に黒文字の名札が小さく揺れた。
「答えられるところから、ですね」
「はい。まだ、私も何が分かっていないのか分かっていなくて」
「その自覚があるなら、だいぶ安全です」
矢野が笑いかけ、すぐ口元を引き締める。記者の顔に戻る。柏木はカウンターの外へ出て、来局者の動線を塞がない位置を指で示した。
「見学は、こちらから。患者さんが来たら、少し下がってください」
「はい」
矢野はショルダーバッグのファスナーに触れ、すぐ手を離す。出さないことも取材のうちだと決めてきたような手つきに、柚衣には見えた。
その返事の直後、自動ドアがまた開く。
*
柚衣は、貼り直したPOPの端を指で押さえたまま、入口へ顔を向けた。
見られている。取材されている。そう思うだけで、胸の名札がいつもより重い。けれど、患者の前では、見られているかどうかを理由に声を変えてはいけない。
入ってきたのは、薄いベージュのレインコートの襟を少し立てた女性だった。手には折りたたみ傘。傘の袋を握る指先が、まだ少し湿っていた。見覚えはある。けれど、名前まではすぐに出てこない。
「こんにちは」
「こんにちは」
柚衣はいつもの受付声を出した。女性は処方箋を出さず、OTC棚の前で足を止める。風邪薬、鼻炎薬、のど飴、マスク。梅雨入りしてから、棚の入れ替えは忙しい。
女性は棚を見たまま、困ったように笑う。
「ちょっと聞いていい? 鼻がつらくて、寝る時も苦しくて」
「はい。先に一点だけ確認させてください」
「今日は地域情報サイトの取材の方が来ています。撮影と録音はありません。個人が分かる内容は書かない条件です」
「棚での対応を少し離れた場所から見学しても大丈夫ですか。嫌でしたら、記者の方には下がってもらいます」
女性は、受付カウンターの近くに立つ矢野を見て、眉を上げた。それから、自分の鼻声に気づいたように小さく笑う。
「あら、そうなの。私はいいわよ。鼻づまりくらい、誰かの役に立つなら」
「ありがとうございます。矢野と申します。今日は販売の流れだけ見学します」
矢野が頭を下げる。柏木はカウンターの端から、低い声で釘を刺す。
「矢野さん、病名や薬の内容、生活の事情はメモしないでください」
「はい」
柚衣は女性へ向き直り、棚の前で半歩横にずれた。女性の視線の先には、箱が何種類も並んでいる。似たような色、似たような言葉。選べるように見えて、選べない棚だ。
「いつ頃からですか? 熱や咳はありますか?」
口に出してから、柚衣は自分の声が少し低くなっていることに気づいた。電話声ではない。受付の明るさとも違う。相手が話しやすい高さを探す声。
「一昨日くらいからかしら。熱はないの。咳も、そんなには。昼間はまだいいんだけど、夜、横になると詰まっちゃって。寝る時が苦しいのよ」
「夜がつらいんですね」
柚衣は頷き、胸ポケットから小さなメモ帳を出した。書く量は最小限にする。顔を下げすぎると、女性の表情を取り落とす。
「お顔に見覚えがあります。念のため、お名前をフルネームで伺ってもいいですか?」
女性が少し目を丸くした。それから、ああ、と笑う。
「森川晴絵です」
「森川晴絵さんですね。処方箋のお薬も、うちでお渡ししたことがありますよね。いま飲んでいるお薬、ありますか?」
処方薬の名前を聞いても、柚衣だけでは薬効まで判断できない。登録販売者として確認できることと、薬剤師へ渡すべきことがある。柚衣はメモ帳を持つ指に力を入れる。
「あるわよ。血圧の薬。あと、寝る前に飲むのも、あったと思う」
「寝る前のお薬もあるんですね。お薬の名前は分かりますか?」
「名前までは、ちょっと。袋を見れば分かるんだけど」
「お薬手帳は、今日お持ちですか?」
森川はバッグの中を一度のぞき、気まずそうに肩をすくめた。
「忘れちゃった。バッグ替えた時に、たぶん」
「大丈夫です。確認しますね」
大丈夫、と言いながら、ここで終わらせてはいけない、と柚衣は頭の中で一つ押さえる。
血圧の薬。寝る前の薬。薬名が分からない。お薬手帳がない。鼻づまり。夜。棚に並ぶ箱の中には、鼻の通りを一時的に楽にするタイプがある。鼻の中の血管をきゅっと狭めて、詰まりをやわらげるもの。けれど、誰にでも同じように勧めていいわけではない。
「ほかに、サプリメントや健康食品など、飲んでいるものはありますか?」
「サプリ? ああいうのも関係あるの? 薬じゃないでしょ」
柚衣は、メモ帳に目を落とさずに頷いた。
「薬と一緒に確認することがあります。毎日でなくても、飲んでいるものがあれば教えてください」
「ああ、更年期にいいっていうのをね、友達にすすめられて。毎日じゃないけど、飲んでるわ」
「お薬やサプリを飲んで、発疹が出たり、息苦しくなったことはありますか?」
「それはないわね」
「眠気が強く出たり、ふらついたことはありますか?」
森川の笑い方が、やわらいだ。
「前にね、寝る前の薬を飲んだ次の日、朝ちょっとふらっとしたことはあるの。年のせいかと思ってたけど」
柚衣は短くメモを取る。箇条書きにしない。あとで柏木に渡すための、自分の足場だけを置く。
(ここだ)
胸の中で、声がする。
*
資格の勉強をしていた頃、柏木は週に一度、薬局を閉めたあとでファミレスに付き合ってくれていた——その夜のひとつを、ふと思い出す。
雨の日だった。窓の外を車のライトが流れ、テーブルにはドリンクバーの薄いコーヒーと、柚衣のテキストが開いている。風邪薬、鼻炎薬、眠気、血圧、相談が必要な人。文字は読めて、線も引ける。4色の蛍光ペンで、ページだけはにぎやかになっていく。それでも、向こう側に人の顔はなかった。
「患者さんに聞かれたら、全部覚えてないと答えられないですよ。無理です」
柚衣はフォークで冷めたポテトをつつきながら口にする。問題集の正解番号は覚えられても、棚の前で誰かに聞かれたら、たぶん固まる。そう思うと、胃のあたりが重い。
柏木は向かいの席で、紙ナプキンに短い線を何本か引く。
「全部覚えて即答するためじゃない」
「え?」
「止まる場所を覚えるため」
柏木はそれ以上、きれいな説明をしなかった。柚衣はその時、分かったような顔で頷く。けれど、本当は半分も飲み込めていない。止まる場所、という言い方だけが、問題集の余白に残った。
*
いま、森川が目の前にいる。
血圧の薬、寝る前の薬、分からない名前、忘れたお薬手帳、サプリ、ふらつき。テキストの項目が、棚の前で困っている一人の声と結びつく。急に、森川の顔を持って迫ってくる。
柚衣はメモ帳を閉じない。けれど、ペンは止めた。
「森川さん、鼻づまりをやわらげるタイプのお薬はあります。ただ、今飲んでいるお薬や血圧のことも一緒に確認が必要です」
森川が棚から柚衣へ視線を移す。
箱の印刷は棚の蛍光灯を受けて明るいのに、森川の指先はまだその前で迷っていた。
「やっぱり、関係あるの?」
「関係することがあります。確認のため、薬剤師に代わりますね」
柚衣は、棚の箱に伸びかけていた手を下ろす。ここで箱を取ってしまうと、話が「どれを買うか」に流れる。まだ、そこではない。
柚衣は箱へ伸びそうになる指を、白衣の脇で握る。
紙箱一つ分の軽さが、さっきまで読んでいた販売確認メモより重く感じられた。
柚衣は森川に少し待ってもらい、カウンターの方へ向かう。処方薬の確認が必要だ。見学を続けるか止めるかも、矢野を連れている柏木に委ねる。楠山は投薬カウンターで次の患者に薬袋を示す。
柏木は矢野に目で合図し、ノートを伏せさせる。矢野はすぐに従い、ペン先を紙から離す。
「柏木さん」
柚衣は声を落とす。
「森川晴絵さんです。鼻づまりで、夜が苦しいそうです。熱はなし、咳も強くないです。血圧の薬と、寝る前のお薬あり。薬名は分からなくて、お薬手帳は今日忘れています」
柚衣は一度だけ息を整えた。
「更年期向けのサプリあり。発疹や息苦しさはなし。以前、眠気でふらついたことがあるそうです。鼻の通りを一時的に楽にするタイプの点鼻薬を考えています」
言いながら、足りなかったものが一つ浮かぶ。血圧の状態を、まだ聞けていない。
柏木は頷く。
「ありがとう、ゆいちゃん。ここからは私が確認する」
「はい」
楠山は口を挟まなかった。ただ、カウンター脇から半歩下がり、投薬カウンターまでの通路を空ける。
「森川さん、少しこちらで確認してもいいですか」
森川が柏木のほうへ歩いてくる。柚衣は一歩下がった。ここから先は薬剤師が担う。
柏木はすぐには箱を取らなかった。先に投薬カウンターの端末の角度を変え、森川の立つ位置から画面が見えないことを確かめる。
柚衣は、その手順を見ていた。薬を選ぶ前に、見るものがある。
投薬カウンターの端末で、柏木は森川の薬歴を開く。画面は患者側から見えない角度に保たれている。
「森川さん、血圧のお薬を続けていらっしゃる記録があります。最近の血圧の様子、いつもと比べて大きく変わった感じはありますか」
森川は少し考え、最近の受診時の話をする。柏木は待合に届かない声量で受ける。血圧の値は大きな声で復唱せず、確認に必要な内容だけを拾う。いつもの範囲から大きく外れていないか。医師から特別な変更を言われていないか。寝る前の薬でふらつきがあった時期と今の状況はどうか。順番に確認していく。
「お薬手帳は、次回必ず持参してください。今日の市販薬も、次の受診や薬局で分かる形にしておきたいので」
「そうね。つい、いつもの薬だけだと思って」
「市販薬も、サプリも、全部生活の中では同じ口から入ります」
柏木の声は淡々としていた。責めていない。ただ、線を引いている。
薬歴と聞き取りを確認したあと、柏木は棚の前に戻った。柚衣が考えていた、鼻の通りを一時的に楽にするタイプの外用薬を手に取る。
「今の確認範囲では、このタイプで進められます」
森川は棚の箱へ視線を落とした。柏木が箱を持ち直すと、紙の角が小さく鳴る。
柏木はそこで、棚の前に立つ柚衣へ箱を渡す。
「浜口さん、使用方法と注意点、お願い」
「はい」
柚衣は箱を両手で受け取った。紙箱は軽い。けれど、指先はさっきより慎重になる。
さっきまでなら、説明文の通りに読めばいいと思っていたかもしれない。今は違う。森川の夜の息苦しさ、忘れたお薬手帳、寝る前の薬でふらついた朝が、箱の周りにある。商品棚の一つ分の空白から、森川の台所と玄関まで線が伸びている。
「森川さん、こちらは鼻に使うタイプです。箱に書かれた回数を超えないでください」
森川が小さく頷くのを待って、柚衣は箱を少し持ち直した。
レジ横の確認メモには、さっき聞いたことが短く埋まっている。空欄が埋まって、紙箱はようやく商品ではなく、森川に渡せる薬になる。
柚衣はメモの端を親指で押さえた。薬の名前よりも、いつから、どんな時に、何を飲んでいるかのほうが先に並ぶ。値札のついた棚から取った箱なのに、レジへ通す前に、こんなに遠いところを回ってきた。
遠回りしないほうが、きっと売るだけなら早い。
「長引く時、悪くなる時、熱や強い咳が出る時は受診してください。朝のふらつきがまた気になる時は、処方元にも相談をお願いします」
森川の視線が、箱から柚衣へ戻る。
「続く時や、変だと思う時は、使い続ける前に薬局へも相談してください」
自分の言葉が、朝に棚を整えていた時とは違って聞こえる。箱の角が、手のひらに残る。
森川は説明を聞き終えると、肩の力を抜く。
「聞いてよかった。こういうの、誰に聞いたらいいか分からなかったのよ。前はね、主人が『医者に行け』って言ってくれたんだけど」
軽い言い方だった。軽い言い方しか、できない種類の話なのだと思う。柚衣はメモ帳を握った指をゆるめ、頷いた。
「迷った時は、今日みたいに声をかけてください。処方箋がない時でも大丈夫です」
言ってから、言い切りすぎていないか一瞬不安になり、柏木を見る。柏木は横で小さく頷いただけだった。
森川が会計へ向かう。柚衣はレジに入り、いつもの声で金額を伝える。待合の椅子では、別の患者がスマートフォンから顔を上げ、またすぐ画面へ戻る。薬局の午後は、止まったように見えて、少しずつ流れていく。
柚衣は使い終えたメモ帳を白衣のポケットへ戻した。次からは血圧の様子も聞いてから引き継ごう。メモ帳をしまう順番まで、さっきとは違って思える。
*
森川が自動ドアの向こうへ出ていくと、矢野はノートを胸に抱えたまま、しばらく入口を見ていた。
柏木がレジ横の通路を空けるため、OTC棚の端へ移動する。
矢野が、そっと口を開く。
「今の、記事にするとしたら……どう書けばいいんでしょう。桜ノ町薬局さんだからできること、って書くと、違いますよね」
柏木はすぐには答えない。柚衣はレジの中から、ふたりの間にある棚を見た。風邪薬、鼻炎薬、湿布、胃腸薬。誰でも手に取れるように見える箱の前に、誰でも同じようには選べない人が、さっきまで立っていた。
奥から、楠山の低い声が飛ぶ。
「柏木、そこはうちを盛るなよ」
「分かってます」
「大手さんにも、大手さんの強さがあります。品数も、人員も、仕組みも。確認だって、もちろんしています」
矢野はペンを構えた。今度は柏木も止めない。
「うちは、顔を覚えている人が、いつもと違う相談をした時に、そこに気づける距離の近さがあります」
矢野のペン先が、方眼ノートの上を短く走った。
距離の近さ。
レジ横からも、その文字だけは読めた。矢野は書いたあと、すぐには囲まない。まだ記事の答えにするには早い、と自分でも分かっているような手つきに見える。
「距離、ですか」
矢野は棚の箱を見て、首を傾げる。
「処方箋がない薬でも、ここまで確認するんですね」
「処方箋があるかどうかより、体に入るものかどうかです」
柚衣はレジ横で、空いた箱一つ分の棚を指でそろえた。距離の近さ。さっき自分がやったことの、どこからどこまでがそれなのかは、まだ分からない。
矢野は、もう一度だけ棚を見た。さっき森川が迷っていた棚と、受付のレジと、投薬カウンターの端末。どれも写真に撮れば、ただの店内設備に見える。けれど、誰がどこで止まり、誰がどこで引き継ぐのかは、写真には写りにくい。
やがて矢野はノートを閉じる。ショルダーバッグに入れる前に、表紙を一度だけ手のひらで押さえる。メモを守るような仕草に近い。
「今日はここまでにします。お忙しいところ、ありがとうございます。続き、またお願いしてもいいですか」
「条件を守ってくれるなら」
「守ります」
矢野は深く一礼する。自動ドアが開く。雨は止んでいるが、道路の端には細い水たまりが残っている。
「柏木さん、浜口さん、ありがとうございました」
名前を呼ばれて、柚衣は背筋を伸ばした。
「お気をつけて」
矢野が外へ出る。自動ドアが閉まり、午後の薬局の音が戻った。レセコンのキーボード、プリンターの紙、福田の会計声、楠山が投薬カウンターで薬袋の向きをそろえる音、奥で白カゴが棚に戻る音。
柚衣はOTC棚へ視線を戻した。さっき森川が迷っていた場所に、箱が一つ分だけ空いている。
「距離の近さ……」
小声で復唱しながら、胸ポケットのメモ帳に手を伸ばしかける。
「ゆいちゃん、書く顔してる」
「もう書いてます」
棚の隙間が、ただ売れた跡には見えなかった。
*
午後3時30分を過ぎると、薬局の中に、いったん浅い静けさが戻ってくる。
森川が帰ったあと、OTC棚の鼻炎薬の列は乱れていた。柚衣は、手前にずれた箱を棚の奥行きに合わせてそろえ、手書きの小さなPOPが曲がっていないかを確かめる。処方箋の受付は途切れていないが、午前のような圧はない。レセコンのキーボードを叩く音、奥の分包機の低い音、入口の自動ドアが開閉するたびに入る湿った空気。
さっきまで森川が立っていた棚の前に、今度は若い男性がいた。
黒いキャップを深めにかぶり、薄いパーカーのポケットに片手を入れている。年齢は、20歳前後に見える。
男性は、咳止め系の市販薬を四箱、カウンターに置いた。箱の角はそろえず、最後の一つだけが横へ少し滑る。
「こちらで」
声は普通だった。顔見知りではない。処方箋もない。マスクや絆創膏だけを買っていく人と同じように、商品を持って、レジに来た。ただ、同じ箱が複数並ぶと、会計の前に確認することが増える。
柚衣はバーコードを読み取る前に、商品の棚札と外箱の表示を見た。
指定濫用防止医薬品。
数量だけでなく、使う人と購入状況まで確認してから渡す区分の薬だ。研修で何度もなぞった、その箱が、いま四つ、目の前にある。
朝から白衣の胸についている名札が、その瞬間、重くなった。白地に黒文字で、「登録販売者 浜口」。飾りではない。読める人には読める、責任の表示だ。
「恐れ入ります。こちらのお薬について、いくつか確認させていただきます」
男性の視線が、カウンターの上から柚衣へ上がる。
「何」
「ご使用の目的は、咳などの症状でお使いになるため、でよろしいですか」
「まあ」
返事は短い。言い終わりに、マスクの下でくぐもった咳が一つ、本当に鳴る。芝居には聞こえない、湿った音だった。柚衣はレジ横の販売確認メモに目を落とし、次の項目へ進む。楠山が研修でロールプレイをした時の声が、頭の隅に残っていた。
「ご自身で使用されますか」
「そうだけど」
「ありがとうございます。こちらは、年齢確認をお願いする場合があるお薬です。差し支えなければ、年齢を確認できるものを拝見できますか」
男性の眉が、ほんの少し動いた。
「なんで」
柚衣は声を上げない。表情や声の強さで決める場面ではない。
柚衣は販売確認メモへ視線を落とした。使用目的、自分用、年齢確認、他店購入状況。まだ埋まっていない欄の上で、ペン先が止まる。
ロールプレイではなかった沈黙が、白い欄の上にまだ残っている。
「安全にお渡しできるか確認するためです。確認できない場合は、販売できません」
男性はポケットの中で指を動かした。身分証を出す動きではない。ただ布地がこすれる。
「持ってない」
「承知しました。もう一点、こちらのお薬は販売できる数量にも確認が必要です。今日は四箱ご希望でお間違いないですか」
「四箱じゃだめなの」
「こちらは、一度に一箱までしか販売できないお薬です」
「じゃあ一箱でいい」
柚衣はメモへ視線を落とした。箱の数を減らせば終わり、ではない。年齢確認はまだ取れていない。ほかの店での購入状況も、まだ聞けていない。
奥では春日が鑑査待ちの白カゴを動かし、福田はマイナンバーカードの案内をしている。薬局全体はいつもの午後の流れを保つ。それでも柚衣の前だけ、細い糸で区切られたみたいだった。
(落ち着いて、私)
心の中でそう言っても、指先は冷たい。ロールプレイでは、相手役の楠山がどんなに低い声を出しても、最後には「はい、ここまで」と笑ってくれた。今は違う。目の前の人は、柚衣が練習をしたことなど知らない。知る必要もない。
「念のための確認です。ドラッグストアや別の薬局も含めて、同じようなお薬の購入はありませんか」
「なんで言わなきゃいけないんだよ」
男性の声が硬くなった。待合の端で雑誌を読んでいた患者が、ページをめくる手を止める。
柚衣は確認メモを見る。年齢確認。ほかの店での購入状況。どちらも空欄のままだ。
奥の調剤室では、柏木が薬歴画面から視線だけをこちらへ向けている。
柚衣は、その視線を見た。
逃げたい、と思うほどではない。けれど、代わってほしい、とは一瞬思った。
その一瞬を、飲み込む。
「確認が取れない場合は、販売を控えさせていただくことがあります」
「一つくらいいいだろ」
店内の音が遠い。レジの液晶は、何も打たれないまま青白く光っている。商品はまだ袋に入っていない。患者でも客でも、手元に渡る前なら止められる。
箱の角は、カウンターの上で斜めに止まったままだ。軽い紙箱なのに、そこから先へ動かすには、確認メモの空欄が重すぎた。
柚衣は、柏木を見る。
柏木は割り込まない。ただ薬歴画面から手を離し、調剤室の入口まで出てきた。声を出さずに、柚衣の横へ一歩だけ近づく。その一歩で、柚衣の肩の力が戻った。
柚衣は、登録販売者として、カウンターの向こうへ向き直る。
柚衣はメモの空欄を見た。年齢確認。ほかのお店での購入状況。どちらにも印はつけられない。
柏木が、ごく小さく頷いた。
レジ袋を取ろうとした指が、途中で止まる。
袋に入れたら、渡す流れになる。まだ、その流れに乗せてはいけない。
柚衣は箱を自分の側へ引いた。
「大変申し訳ございません。こちらは、ほかのお店での購入状況も含めて確認が必要なお薬です。確認が取れないため、本日は販売を控えさせていただきます」
男性の口元がゆがむ。
「だから、一箱ならいいだろ」
「申し訳ございません。一箱でも、購入状況の確認が必要です。他の薬局やドラッグストアも含みます」
言いながら、柚衣は自分の声が震えていないかだけを聞いていた。低すぎない。高すぎない。電話声でもない。森川に使った、明るい説明の声でもない。
販売する時も、販売しない時も、柚衣が見る欄は同じだった。今は、空欄が答えになっている。レジ前の沈黙だけが、一拍長く沈む。
柏木が、柚衣の横で静かに言う。
「浜口の説明の通りです。確認できないまま販売することはできません」
男性の視線が柏木へ移る。白衣の胸の名札を見て、柚衣へ戻る。強く言い返す直前、男性が短く息を吸う。
柏木はそれ以上、言葉を足さない。柚衣が言った理由を、言い換えて奪わない。足りない部分だけを、薬剤師として補う。横に立つだけで、前に出ない。その距離が、ありがたい。
柚衣は、レジの画面に指を触れないまま、箱を袋から遠ざけた。会計が成立していないことを、動きで示す。声を荒げない。相手を責めない。ただ、売らない線だけは下げない。
その前に、投薬カウンター脇で薬袋を置く音がした。
楠山が、カウンターの端からレジの近くまで来る。急がない足取りだった。表情は、昼前に取材の段取りへ釘を刺した時とほとんど変わらない。
「申し訳ありません。当店では、確認が取れない場合は販売できません」
楠山の声は大きくない。だが、場を終わらせる声だった。判断を柚衣から奪うのではなく、薬局として同じ結論に立つ声。
男性は箱を指で押す。
「面倒くさ」
柚衣は、カウンターの上の箱をこちら側へ引き取った。相手の手元に残さない。けれど、その動きも荒くしない。
「もし症状がつらいようでしたら、医療機関にご相談いただくか、地域の相談できる窓口もありますので」
柚衣はレジ横の小さな掲示へ一瞬だけ目をやった。薬の使い方で困った時の相談先が、そこに小さく印刷されている。
最後まで言い切る前に、男性が顔をそらした。
「もういい」
自動ドアが開く。湿った外気が入り、男性の背中が商店街の薄い雨の中へ出ていく。誰も追わなかった。追って引き止める場面ではない。販売しなかった事実だけが、レジ前に残る。
ドアが閉まると、店内の音が戻ってきた。
受付プリンターが紙を吐く。待合の患者は、止めていたページをめくった。福田が次の処方箋を端末へ入れ、楠山が投薬カウンターの奥へ戻る。
調剤室の入口で、春日が白カゴを持ったまま一瞬止まっていた。何か言いかけて、言わずに奥へ戻る。
柚衣は、カウンターの上に残った確認メモを見た。使用目的、自己使用、年齢確認、購入数、ほかの店での購入状況。全部、聞いている。聞いたうえで、足りない。
柏木が横から言う。
「追わなくていい。今日は、売らなかった。それでいい」
柚衣はすぐに返事ができない。喉の奥に、遅れて硬さが来る。森川の時は、確認が販売につながった。さっきは、確認できないから渡さない。同じ「聞く」なのに、こんなに後味が違う。
「売れなかった」ではない。
「売らなかった」。
柏木は余計な理由を足さなかった。レジの上に残った未会計の商品を見ても、もう手は震えない。
「はい」
ようやく出た声は、いつもより低かった。
励まされるより、仕事へ戻るほうがいい時がある。柚衣は箱を所定の棚へ戻し、対応時刻と確認できなかった事項を、店内の記録用メモに残した。
文字は角ばっている。それでも読める字だった。
*
閉店後の薬局は、昼間より広く感じる。
シャッターが下りると、商店街の音は金属の薄い壁の向こうへ遠ざかる。蛍光灯の白さだけが、棚の角をはっきりさせていた。OTC棚では、森川が手に取った鼻の薬の箱と、さっき男性が持ってきた箱が、離れた段に並ぶ。
柚衣は、棚の前にしゃがんだ。
箱の向きをそろえる。奥へ入りすぎた商品を前へ出し、棚札もまっすぐにした。日用品のマスク、絆創膏、のど飴。処方箋を持たない人が、ここで立ち止まる。
森川が立っていた場所と、男性が箱を置いたレジの向こう側。その間を、柚衣は何度か目でたどる。
午前中は、登録販売者の名札が背伸びに見えた。白地に黒文字の横長のプラスチック。安全ピンで留まっただけの軽いものなのに、胸にあると、服の布がそこだけ引かれる気がした。
今は、朝より重い。
けれど、嫌な重さではない。
「ゆいちゃん、明日も鼻の棚、お願いね」
柏木の声が、調剤室側から飛んできた。薬歴の記載を終えたらしく、手元の端末を閉じている。
柚衣は棚の前で振り向く。
「はい」
返事をしてから、胸の名札に一度だけ指先を添えた。朝は隠しかけた端が、今はまっすぐ指に触れる。メモ帳の角、箱の紙の軽さ、レジ前の空欄が、まだ白衣の内側に熱を残す。
それでも、今日の自分が何をしたかは、言える。
柚衣は小さく息を吸う。
「私、登録販売者なんで」
声は棚の前で止まるくらいの大きさだった。誰かに宣言するためというより、自分の胸の名札に読み聞かせるくらいの声。
柏木が、口元をゆるめる。
「うん」
それだけだった。
続きはこちらです。
第4話では、二代目オーナー・楠山啓一郎の視点から、桜ノ町薬局が抱える「続けること」の現実を描きます。
やさしさだけでは店は回らない。それでも切れない約束があります。
「私、薬剤師なんで。」は、こちらのマガジンにまとめています。
