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世界が隠した最後の切り札と学園一の無能【第四話】見えない手

【これまでのあらすじ】

VR実習の最中、システムがテロ組織に乗っ取られた。ログアウト不可。痛覚の制限も解除された。 この空間で死ねば、現実の身体も死ぬ。 最初の犠牲者は、学園一の無能・鷹宮玲の友人、藤代亮だった。
その夜、玲は誰もいない広間で、床に散らばった小銭を一枚残らず拾い集めた。
「メシまでには終わるって、言ったよな」
「……言ってた」
「遅れそうだ」

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シナリオ上の朝が来た。

大広間の高い窓が、外側から白んでいく。石畳の街並みに光が戻り、雨は上がっていた。それが本物の朝日ではないことを、生徒たちはもう知っている。

天井の隅に、赤い数字が浮かんでいた。

『残り 三十四時間 十二分』

数字は、律儀に減り続けていた。誰も見たくないのに、全員が一度は見上げる位置にあった。


朝になって最初に起きたことは、給仕だった。

止まっていたはずのNPCが数体だけ動き出し、盆に水差しとパンを載せて広間に入ってきた。彫像のような顔のまま、機械的に配って回る。

差し出されたパンを、誰も取らなかった。

盆を持ったNPCが目の前で待っている。表情は昨日から変わっていない。笑っている。生徒たちは、その笑顔から目を逸らした。

「食べろ」

先に手を伸ばしたのは、神代響一(かみしろきょういち)だった。

彼はパンをちぎって、まず自分で口に入れた。ゆっくり噛んで、飲み込んだ。喉が動くのを、周囲の全員が見ていた。

「毒は入っていない。入れる理由がない」

「なんで言い切れるんだよ」

「向こうは我々を生かしておきたいからだ」

響一の声は落ち着いていた。二度目のパンを口に入れながら、彼は続けた。

「昨日の放送を思い出せ。あれは脅しではなく、取引だと言った。取引の相手は、生きていなければ意味がない」

その理屈は、冷たかった。

冷たかったが、正しかった。誰かが手を伸ばし、それを見て次の誰かが手を伸ばした。

三十分後には、広間のあちこちでパンをちぎる音がしていた。誰も、うまいとは言わなかった。


大広間の隅で、鷹宮玲(たかみやれい)はパンを三つ食べていた。

「……あなた」

綾瀬千鶴(あやせちづる)が、呆れた声を出した。

「よくこの状況で食べられるわね」

「腹が減ってたからな」

「三つ目よ」

「一つ目が小さかった」

「二つ目と三つ目は」

「予備だ」

千鶴は、それ以上言わなかった。言い返す気力が湧かないほど、彼女は疲れていた。

一睡もしていない。制服の袖は皺だらけで、髪も乱れている。ドレスの裾には、昨日の埃がついたままだった。手袋は外してしまった。指の付け根の傷が、まだ痛む。

それでも背筋だけは、まだ伸びていた。

彼女は玲の隣に腰を下ろした。大理石の床が冷たい。昨日まで、彼女はこの男の隣に座るのを避けていた。今日は、避ける理由が思いつかなかった。


「鷹宮」

「ん」

「昨日、何をしていたの」

玲がパンを噛む音が止まった。

「拾ってた」

「ええ、見ていたわ。……あれ、何のつもり」

「持ち主に返す」

千鶴は、彼を見上げた。横顔は、いつもと同じだった。眉も動いていない。

「持ち主は」

「死んだ」

「……だったら」

「家族がいる」

短かった。

説明ではなかった。言い訳でもなかった。彼はただ、事実を一つ置いただけだった。

千鶴は口を開きかけて、閉じた。

昨日、彼女はこの男が小銭を数えているのを見て、恐ろしいと思った。人が死んだ直後に、そんなものを目で追える人間がいるのかと思った。

——違ったのかもしれない。

いや、違わないのかもしれない。

わからなかった。わからないことが、この男に関しては一つずつ増えていく。彼女の中の、名前のつかない引き出しが、また少し重くなった。


「なあ」

玲がパンの最後の一口を放り込んだ。

「あんた、ずっと背筋伸ばしてるよな」

「え?」

「昨日から一回も丸まってない」

「……そういう躾を受けたので」

「疲れないか」

「疲れるわ」

「じゃあ丸めろよ」

千鶴は、少しだけ黙った。

膝の上で、指を組んだ。組んでから、それも作法どおりだと気づいた。

「丸めたら、たぶん、もう戻せないの」

その一言に、玲は答えなかった。

代わりに、隣にあった水差しを右手で取って、彼女の前に置いた。

「飲め」

「……いただくわ」

水は、ぬるかった。それでも、喉を通ると身体の中が少し戻ってくる気がした。


広間の隅で、小柄な一年生が膝を抱えていた。

天羽ひばり(あもうひばり)。昨日から、パンにも水にも一度も手をつけていない。

呼吸が浅い。吸う音だけが聞こえて、吐く音が聞こえない。肩が、細かく震え続けている。膝を抱えた腕に、爪が食い込んでいた。

彼女は、天井の赤い数字を何度も見上げていた。三分に一度は見上げていた。

「天羽さん。少しでも食べてください」

北条冴(ほうじょうさえ)が、隣に膝をついて声をかけた。眼鏡を外していた。外していると、その目は思ったより優しかった。

「……はい」

返事だけが返ってきた。

その目は、どこも見ていなかった。

冴はパンを彼女の膝の上に置いて、しばらく隣に座っていた。それ以上、何も言わなかった。言葉が届く状態ではないことが、わかっていた。


日が高くなるにつれ、広間の空気は少しずつ変わっていった。

昨日は恐怖だった。今日は、鈍い倦怠だった。

三十時間以上ここにいる。人間は、恐怖のピークをずっと維持できない。生徒たちは壁に寄りかかり、膝を抱え、ただ時間が過ぎるのを待っていた。喋る者は減り、喋る声も小さくなった。

その中で、響一は動き続けていた。

「西の回廊、五分ごとに二人。北は十分ごとに一人」

彼は膝の上で、床に指で図を描いていた。実際には何も描けていない。だが、その動作をしていると考えがまとまるらしかった。

「巡回の間隔だ。誰か、東の扉の記録を取っていないか」

「東は……昨日から誰も近づいてないです」

「そうか」

響一は舌打ちを一つした。

彼は逃げるつもりだった。いや、正確には——逃げられる可能性を、まだ探していた。

夜のあいだに、何度も同じことを考えた。四十三時間座って待つ。それが最も生存率が高い。理屈ではわかっている。

わかっていても、彼の手は図を描き続けていた。


「会長さん」

背後から、間の抜けた声がした。

玲だった。パンくずを手で払いながら、そこに立っていた。

「西の回廊のやつ、五分じゃないぞ」

「……何?」

「四分四十秒くらいだ。時計がないから正確じゃないけどな」

響一は、玲を見上げた。逆光で、その顔は影になっていた。

「なぜそう思う」

「なんとなく」

「……」

「あと、二人組の後ろのやつ、たまに立ち止まる。前のやつが振り返るまでの間が、毎回同じくらい空く」

玲はあくびをした。

「暇だから見てただけだ。適当に聞いといてくれ」

そのまま柱の陰に戻っていく。歩き方も、いつもどおりだった。

響一は、その背中をしばらく見ていた。

それから、床の図に線を一本書き足した。書き足しても、そこには何も残らない。

「……妙な奴だ」

そう呟いたが、彼はその情報を捨てなかった。

捨てなかったことを、後で自分でも不思議に思うことになる。



異変は、昼過ぎに起きた。

きっかけは、些細なことだった。

天井の赤い数字が、一度だけ大きく明滅したのだ。

『残り 二十九時間 五十八分』

三十時間を切った、というだけの表示更新だった。

意味はない。時間は、明滅しようがしまいが減っていく。

だが、それを見た誰かが小さく声をあげた。声は連鎖した。三十時間、という単語が、あちこちで繰り返された。数人が立ち上がった。

そして、広間の隅で。

ぷつん、と何かが切れる音がした。

音は、たぶん実際には鳴っていない。


「いやだ」

ひばりが、立ち上がっていた。

「いやだ。もういやだ」

「天羽さん——」

冴が手を伸ばした。指先が制服の袖をかすった。

それだけだった。

「いやだーっ!」

小柄な身体が、生徒たちの間を縫って走る。座り込んだ生徒たちの足を飛び越え、誰かの肩にぶつかり、それでも止まらなかった。

「帰る! 帰るの! お母さん——!」

彼女は西の回廊へ通じる扉に飛びついた。

そこは、昨日から誰も近づいていない扉だった。

「だめ! そっちは——!」

扉が開いた。

小さな背中が、薄暗い回廊へ吸い込まれていった。


一瞬、広間が凍った。

そして、もう一つの影が走った。

「ひばりちゃん!」

姫川澪(ひめかわみお)だった。

白衣を翻して、彼女は迷いなく回廊へ飛び込んでいった。止める間もなかった。

彼女は一度も振り返らなかった。振り返れば足が止まると、たぶんわかっていた。

扉が、ゆっくりと閉じた。

蝶番の軋む音が、静かな広間に長く残った。


広間に残された一一七人は、動けなかった。

「……追わないと」

誰かが言った。

だが、誰も足を踏み出さなかった。

昨日、あの扉の向こうで何が起きたかを、全員が見ている。四メートルが渡れなかったことを、全員が覚えている。

「行くぞ」

響一が立ち上がった。

「誰か、五人ついてこい」

声が広間に響いた。

反響が消えるまで、誰も動かなかった。

「五人でいい。四人でも構わない」

手を挙げる者はいなかった。

一人もいなかった。

生徒たちは、床を見ていた。誰かが顔を上げれば、自分も上げなければならない。だから誰も上げなかった。

「……」

響一の顔が歪んだ。

彼は、正しかった。正しい判断をして、正しい指示を出した。それでも誰も動かなかった。

そして彼自身も、一人で飛び出すことができなかった。

ここには一一七人がいる。彼が死ねば、点呼も班分けも、この二日で積み上げたものが全部崩れる。それを想像できてしまう頭が、この男の足を床に縫い付けていた。

「くそ……!」

彼は拳を床に叩きつけた。

痛覚は百パーセントだった。

血が滲んだ。彼はそれを見なかった。


千鶴は、立っていた。

膝が震えていた。昨日から止まらない震えだった。

彼女も動けなかった。

自分が動けないという事実が、屈辱で、耐えがたかった。桐花女子学園(とうかじょしがくえん)の主席。生徒会役員。あらゆる場面で正しい判断を下してきた自分が、たった一枚の扉の前で足を止めている。

昨日、四メートルが渡れなかった。今日も、渡れない。

——動きなさい。

——動きなさいよ。

心臓の音が、耳の内側で鳴っている。

足は、動かなかった。


そのとき、隣で、大きな影が立ち上がった。

「え」

千鶴が顔を上げる。

玲だった。

彼はパンくずを払って、ズボンの膝を軽く叩いた。いつもの、だらしない動きだった。授業が終わって、次の教室へ移る前のような動き方だった。

「あー」

彼はあくびをした。

「めし、まだかな」

「……は?」

「今の給仕、次いつ来るんだろうな」

そう言いながら、彼は歩き出していた。

西の回廊の扉へ、まっすぐに。

歩幅は一定で、足音はほとんどしなかった。座り込んでいる生徒たちが、その進路から慌てて身を引いた。誰も、彼を止めなかった。誰も、彼が何をするつもりなのか理解していなかった。

「ちょ、ちょっと」

千鶴が我に返る。

「鷹宮! そっちは!」

玲は振り返らなかった。

「鷹宮玲!」

彼は扉のノブに右手をかけて、そこでようやく、半分だけ振り向いた。

「綾瀬」

「な、なによ」

「背筋、伸びてるぞ」

「……え」

「そのままでいい」

扉が開いた。

大男の背中が、薄暗い回廊へ消えた。


回廊は、長かった。

燭台の灯りが等間隔に並び、赤い絨毯が奥へ伸びている。窓はない。空気が澱んでいて、蝋の匂いが濃かった。

天井が低い。広間から来ると、押さえつけられるように感じる。

玲は歩いた。

走らなかった。

歩幅は一定で、足音はほとんどしなかった。あの巨体で、絨毯の毛が沈む音しか立てていない。

いつもの歩き方ではなかった。

そして、歩きながら、左手をポケットから出した。

三年間、ほとんど誰も見たことのない動作だった。

指が、一度だけ開いて、閉じた。


四十歩ほど進んだところで、前方から声が聞こえた。

女の子の泣き声。

そして、男の声。

「——立て」

「い、いやです、いやです……!」

「立てと言っている」

玲は角の手前で足を止めた。

壁に背を預けもしない。ただ、そこに立った。

そして、一度だけ、深く息を吸った。


角の向こうには、四人いた。

黒い装備の男が二人。

床に座り込んで泣いている小柄な一年生が一人。

そして、その前に両手を広げて立っている、白衣の少女が一人。

「この子は、まだ一年生です」

姫川澪の声は、震えていた。

震えていたが、退いていなかった。

「怖かっただけなんです。ルールを破るつもりなんてなくて、ただ……お願いします、広間に戻します、私が連れて戻りますから」

黒服は、答えなかった。

一人が、もう一人に何かを短く言った。聞き取れない言葉だった。日本語ではなかった。

もう一人が、頷いた。


銃口が、ゆっくりと上がった。

澪の視界の中で、その黒い円が少しずつ大きくなっていく。

思ったより、細かった。

もっと大きなものだと思っていた。映画で見るものは、いつももっと大きかった。実際には、指で塞げそうなくらいの穴だった。

その穴が、自分の胸の高さで止まった。

背中に、小さな手の感触があった。

ひばりが、白衣の裾を握っていた。両手で、力いっぱい握っていた。指の関節が白くなっている。

——目を閉じたい。

澪は、そう思った。

とても、そう思った。

閉じてしまえば、少なくとも見なくて済む。

でも、閉じなかった。

背中の子が、それに気づくからだ。震えているのは、もうばれている。せめて目だけは、閉じたくなかった。


「規則だ」

黒服の一人が、無感情に言った。

「規則は、昨日示した」

澪は、大きく息を吸った。

吸って、吐いた。

自分の声が震えないように、喉を一度、開いた。それは保健委員として、痛がっている生徒に声をかけるときにいつもやっていることだった。

「ひばりちゃん」

「……はい」

「大丈夫だからね」

嘘だった。

生まれて初めてついた、本気の嘘だった。

黒服の指が、引き金にかかった。


——そのときには、もう終わっていた。


澪は、目を開けたままだった。

だから、彼女が最初に気づいたのは、音だった。

正確には、音がなかったことだった。

銃声がしない。

代わりに、布が擦れるような音が二つ、続けて聞こえた。それだけだった。

そして、正面にあった黒い穴が、消えていた。


黒服が二人、床に倒れていた。

どちらも、まったく同じ姿勢だった。膝から落ちて、そのまま前に伏せている。頭の向きも、腕の位置も、まるで写し取ったように同じだった。

武器は、二丁とも数歩離れた場所に転がっていた。

そして。

その間に、大きな背中が立っていた。

いつからそこにいたのか、澪にはわからなかった。

彼女は瞬きをしていない。目も逸らしていない。それでも、その背中がどうやってそこに来たのかを、彼女は見ていなかった。


「あー、悪い」

玲は頭をかいていた。

左手で。

「うるさくしたな」

「……鷹宮、さん」

「よお」

彼は倒れた男たちを見下ろして、少しだけ考えるような顔をした。

そして、片方の男の足首を右手で掴み、もう片方も掴んで、二人まとめて壁際までずるずると引きずっていった。装備の重さがあるはずだった。引きずる音も、それに見合う音がしていた。

それを、片手でやっていた。

まるで、廊下に転がった段ボールを片付けるみたいに。

「じゃま」

それだけ言った。


ひばりが、玲の脚にしがみついていた。

膝の裏あたりに顔を押しつけて、しゃくり上げている。言葉になっていない。

「せんぱ……せんぱ、い……」

「おう」

「こわ、かった……」

「そうか」

玲はしゃがんだ。

小さな一年生と、目線が同じ高さになる。しゃがむと、彼の身体はますます大きく見えた。

「腹、減ってないか」

「……え」

「パン、二つ持ってきた」

彼は上着のポケットから、潰れたパンを二つ取り出した。すっかり形が崩れて、片方は半分に折れていた。

ひばりは、それを見て、また泣いた。

さっきとは違う泣き方だった。声が出ていた。



そのすべてを、扉の隙間から見ていた者がいた。

千鶴だった。

彼女は追ってきていた。

足が動かないなら、動かないまま引きずってでも来ようと思った。実際、扉の前で二回転びかけた。回廊に入ってからは、壁に手をついて進んだ。

そして、たどり着いたときには——

全部、終わっていた。


最初に来たのは、指先だった。

冷たくなっていた。指の先から、手首の方へ、じわじわと冷たさが上がってくる。

次に、扉から手が離せなくなった。木の枠を握ったまま、指がほどけない。

呼吸を、していなかった。

いつから止めていたのか、わからなかった。思い出したように息を吸ったら、喉が鳴った。

膝だけが、細かく震えていた。

——そのあとで、ようやく頭が追いついた。


彼女が見たのは、断片だった。

回廊の角を曲がった玲の背中。

その一秒後には、二人の男が床に伏せていた。

その間の動きを、彼女は何一つ見ていない。

まばたきをしていない。目も逸らしていない。それなのに、見ていない。

——見えなかった。

その言葉が浮かんだ瞬間、腕の産毛が一斉に立った。

これは、運が良かったとか、不意を突いたとか、そういう話ではない。

装備を固めた大人が二人、抵抗する暇もなく、同じ姿勢で倒れている。

音がしなかった。

叫び声もなかった。

そんな倒し方を、彼女は知らない。知らないどころか、そういうものが存在することを、今この瞬間まで知らなかった。


千鶴は、扉の陰から出た。

足音で、玲が振り返った。

「お」

彼はしゃがんだまま、片手を挙げた。

「綾瀬。来たのか」

「……」

「危ないぞ、こんなとこ」

千鶴は、言葉が出なかった。

出そうとして、喉が渇いていることに気づいた。唾を飲み込もうとして、それも出なかった。

彼女はゆっくり歩いて、玲の前に立った。見下ろす形になった。この男を見下ろすのは初めてだった。

こんなに近くにいるのに、身体が勝手に一歩下がろうとする。それを、足に力を入れて止めた。

「鷹宮」

「ん」

「あなた、何をしたの」

「片付けた」

「そういうことを聞いているんじゃないの」

「じゃあ何を」

千鶴は、息を吸った。

回廊の蝋の匂いが、肺に入ってきた。

彼女は、三年間積み上げてきた自分の常識が、今から音を立てて崩れるのを知っていた。知っていて、それでも聞いた。

「……あなた、何者なの」


回廊が、静かだった。

燭台の炎が揺れた。壁の肖像画が、灯りの中で少し動いた。

玲は、しゃがんだまま彼女を見上げた。

そして、いつもと同じ顔で、いつもと同じ調子で言った。

「鷹宮玲。三年A組。成績は下から二番目」

「ふざけないで」

「ふざけてない。全部本当だ」

「本当のことを並べれば嘘にならないと思っているの?」

玲は、ほんの少しだけ、目を細めた。

その顔は、笑っているようにも見えたし、面倒くさがっているようにも見えた。

「頭いいな、あんた」

「褒めていないわ」

「褒められてないのか」

彼は立ち上がった。

その動作だけで、周囲の空気が動いた気がした。

そして、ひばりを右腕一本で抱え上げた。小柄な一年生が、荷物みたいに脇に収まった。ひばりが小さく声をあげたが、抵抗はしなかった。

「戻るぞ。ここ、そのうちまた来る」

「待って」

「待たない」

「待ちなさい」

千鶴は、彼の袖を掴んだ。

左の袖だった。


玲の動きが、止まった。

一瞬だった。本当に、一瞬だけ。

だが千鶴には、その一瞬がはっきりわかった。掴んだ布の下で、筋肉が硬くなったのが、指を通して伝わってきた。

彼はゆっくりと腕を引いて、千鶴の手から袖を抜いた。

乱暴ではなかった。むしろ、丁寧だった。彼女の指が引っ張られないように、角度を選んで抜いた。

爪の一枚も、痛まなかった。

「……」

千鶴は、自分の手を見た。

何も掴めていない手を。

「悪い」

玲は、そう言った。

謝る理由を説明しなかった。

「行くぞ」


澪が、二人の後ろを歩いていた。

彼女は何も言わなかった。言えなかった。

——さっき、あの人は左手で頭をかいた。

保健室で、あれだけ見せるのを嫌がった左手で。袖の下に、あの傷跡がある左手で。

そして今、掴まれた瞬間に、それを外した。

澪は、白衣の胸元をきゅっと握った。

心臓が、まだ速い。

さっき銃口を向けられていたときより、速い気がした。それが恐怖の名残なのか、別の何かなのか、彼女には判断がつかなかった。

歩きながら、彼女は前を行く背中を見ていた。ひばりを抱えた腕と、だらりと下がったもう片方の腕を。


広間に戻った三人を、一一六人が迎えた。

正確には、迎えることができなかった。

全員が固まっていた。死んだと思っていた二人が、生きて戻ってきた。連れ帰ってきたのは、学園一の無能だった。

「せんぱいが……たすけて、くれて……」

ひばりが泣きながら言った。

「回廊で、黒い人が二人いて……それで、それで、気づいたら倒れてて……」

「気絶してたんじゃないか?」

玲が横から口を挟んだ。

「たぶん貧血だな。三十時間も飯食ってないし」

「え……そ、そうかも……?」

「そうだって」

ひばりは、ぽかんとした顔をした。

「……貧血か」

誰かが言った。

「そうだよな。三十時間、何も食ってねえし」

「じゃあ、あの二人は最初から倒れてたってことか」

「だろ。じゃなきゃ説明つかねえよ」

生徒たちは、口々にそう言い合った。

言い合いながら、誰も相手の目を見ていなかった。

考えるのをやめる、というのは、この状況ではむしろ楽なことだった。


「……」

響一だけが、納得していなかった。

彼は玲を見ていた。じっと、無言で見ていた。

床に描いた指の図を、彼は消していない。もともと何も残っていないのだから、消しようもない。だが、頭の中の図は残っていた。

西の回廊、二人組、四分四十秒。

——なぜ、こいつはそれを知っていた。


千鶴も、納得していなかった。

彼女は壁際に座り込んで、自分の右手を見ていた。

袖を掴んだ手。外された手。

——あの一瞬。

——あの人、私の手を、振り払わなかった。

——外した。

——傷つけないように、正確に、外した。

握力ならば、彼は彼女の腕ごと持ち上げられる。それだけの力が、あの身体にはある。

それなのに、爪の一枚も痛くなかった。

力の差がある人間が、力を使わないでいるのは難しい。難しいのに、彼はそれを一瞬でやった。何度もやってきた人間の外し方だった。

彼女は膝を抱えた。

そして、生まれて初めて、背筋を丸めた。

丸めてみると、驚くほど楽だった。

そのことが、少しだけ悔しかった。


同じ頃。

《アヴァロン》の管理層——生徒たちには決して見えない、無数のログが滝のように流れる空間で。

灰色の外套を着た男が、一つの行の前で手を止めていた。

『警備ユニット二基 応答なし』

珍しいことではない。生徒が暴れて破損させることもある。処理は簡単だ。

だが、男が止まったのは、その次の行だった。

『接触から応答停止までの経過時間 〇・八秒 / 二基同時』

彼は、その数字をしばらく眺めていた。

〇・八秒。

二基。同時。

「……」

指を伸ばし、そのログを消そうとして——やめた。

代わりに、別の項目を開いた。

『対象抽出条件を設定』

男は、静かに入力した。

『行動特徴 左上肢の不使用』

『該当候補を絞り込みます』

(第5話へ)


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