#9【ビットコイン思想論考】6.6 note公開版限定後書き(2):これから生成されるブロックのために
時空のはざまにあるその店では、終わり方を知らない夜が、なおも続いていた。
窓のないバーには、相変わらず、どこの時刻とも折り合わない時計が三つ掛かっていた。一つは進みすぎ、一つは遅れすぎ、もう一つは針を持たないまま、ただ沈黙していた。
長いカウンターの上には、乾いたグラスと、まだ重みの残るグラスが入り混じっていた。赤い葡萄酒、黒ビール、ただの水、薄い琥珀色の酒。
どれも同じ場所に置かれているのに、誰にとっても同じ意味を持っているわけではなかった。
最初に言葉を置いたのは、ベンサムだった。
彼は空になりかけたジョッキを持ち上げず、底に残った泡の跡だけを見ていた。どこまでが飲まれ、どこからが残されたのか。
彼の視線は、酒の名残というより、帳簿の余白を確かめるそれに近かった。
「結局のところ、問題は何を数えるかだ」
誰かへの返答ではなかった。むしろ、散らばりかけた議論を、もう一度カウンターの上へ整列させるための言葉だった。
「その制度は、人間を数えない。善意も、苦痛も、後悔も、困窮も数えない。数えるのは、有効な署名、有効な履歴、有効な work、規則適合性だ。だから冷たい。だが、その冷たさによって、誰かを特別扱いする権限を中心から外している」
フーコーは、細いグラスを指先でゆっくり回していた。中の透明な酒はほとんど減っていなかったが、光だけが、その表面でわずかに角度を変えた。
「中心から外したからといって、権力が消えるわけではない」
声は静かだった。だが、その静けさは、店の空気から少しだけ湿り気を奪った。
「むしろ、顔を持たない権力ほどしぶとい。人が命令しない。だが、記録が残る。誰かが見ているとは限らない。だが、いつか読まれうる。そういう配置の中で、人は自分で自分を整え始める」
フッサールが、眼鏡の奥で視線を上げた。彼の前の白ワインは、まだ液面に店の灯りを受けていた。
「自由になったはずなのに、ですか」
フーコーは、すぐには答えなかった。グラスを回す指だけが止まった。
「自由になったからだ」
それから、彼はようやくグラスを置いた。
「誰かに預けないということは、自分で持つということだ。自分で持つということは、自分で管理し、自分で失敗し、自分で痕跡を残すということでもある」
その言葉に、レヴィナスがかすかに目を伏せた。
彼の前の薄い琥珀色の酒には、ほとんど手がつけられていなかった。グラスの中の色よりも、その向こう側にいる誰かの沈黙のほうを見ているようだった。
「しかし、その痕跡には顔がない」
声は柔らかかったが、逃げる余地を残さなかった。
「署名は見える。履歴も見える。規則に合っているかどうかも判定できる。けれど、そこで誰が傷ついたのか、誰が初心者だったのか、誰が騙されたのかは見えにくい。制度が冷たくあることで守られる自由はある。だが、その自由が置き去りにする一人もまた、どこかにいる」
ベンサムは、すぐには反論しなかった。
持ち上げかけたジョッキを、彼はもう一度カウンターへ戻した。底に残っていた泡は、ほとんど消えていた。
「だからこそ、現実の制度は苦労するのだろうな」
彼は、コースターの縁を指先でほんの少しだけ直した。
「税を数える。票を数える。損害を数える。所得を数える。幸福や苦痛まで、何らかの仕方で数えようとする。だが、何を数に入れ、何を数に入れないのか。その境界は、いつも揺れている」
「そして」
水のグラスの縁に、細い指が触れた。
デリダは、すぐには顔を上げなかった。グラスの表面には、他の酒とは違って、色も香りもほとんどなかった。
ただ、店の灯りと、針のない時計の影だけが、かすかに映っていた。
「数えられなかったものも、消えたわけではありません」
彼はそこで、針のない時計を見上げた。
「記録されなかったもの。署名にならなかったもの。白書に書かれなかった意図。去った者が残さなかった説明。そういうものは、空白としてではなく、読む者に仕事を強いるものとして残る」
「その不在の名のことか」
ハイデガーの声は低かった。暗い色をしたビールの泡はすでに落ち着き、表面だけが重く光っていた。
デリダは、答えたとも答えなかったともつかない顔で、少しだけ笑った。
水のグラスから指を離す動きは、言葉を置くというより、言葉を半歩だけ遠ざける仕草に見えた。
「その名が亡霊のように読まれ始める前、彼が何を考えていたのかは、分かりません。自由だったのか。決済の効率化だったのか。国家や銀行への不信だったのか。それとも、もっと限定された技術的解決だったのか。残されたのは、白書とコードと、そこから膨らんだ解釈だけです」
「だが、分からないからこそ、読まれ続ける」
コペルニクスは、赤い葡萄酒の香りが開いていくのを、どこか星の運行を見るように受け止めていた。
最初に出されたときより、酒の色は少し深く、店の灯りを鈍く返していた。
「中心に誰がいるか分からない。いや、もしかすると、中心は人のいる場所から退いている。だから人はなお、どこに尺度があるのかを探す」
「尺度、ですか」
フッサールが、今度は白ワインではなく、カウンターそのものへ目を落とした。
磨かれた木目は一つにつながっているようで、見る角度によって別の線を浮かべた。
「同じ数値を見ているつもりでも、同じ意味を見ているとは限りません。ある者には価格が希望として現れ、別の者には警鐘として現れる。同じ記録が、同じ対象として共有されながら、異なる仕方で与えられている」
「それでも」
ハイデガーは、黒い液面を見つめたまま言った。
「それは世界の中にある。単なる数字ではなく、待つこと、失うこと、持つこと、返せないこと、戻れないこととして現れる。人は価格だけを見ているのではない。自分の世界の揺れを見ている」
しばらく、誰も、何も、話さなかった。
言葉が見つからなかったのかもしれない。
あるいは、言葉にした瞬間に背を向ける真理があることを、全員が知っていたのかもしれない。
沈黙の中で、店主だけが静かにグラスを拭いていた。その手つきには急ぐ様子も、議論を止める様子もなかった。
誰の意見にも頷かず、誰の誤解も正さなかった。
ただ、曇りを取り、指紋を消し、何も書かれていない場所へ、もう一度透明さを戻していた。
やがて、ベンサムがふたたび口を開いた。
「通貨とは、希少な資産であるだけではない。社会の緩衝材でもあった」
今度の声は、先ほどより少しだけ遅かった。消えた泡の跡を、彼はもう見ていなかった。
「危機のときに流動性を与えること。破綻を遅らせること。借り手と貸し手の時間差を調整すること。誤りや喪失を、どこまで制度が引き受けるかを決めること。そうした働きもまた、人々の苦痛をどこまで減らし、どの幸福を守るかという問題に関わっている。発行上限だけでは、それは説明できない」
「その緩衝材を剥がしたあとで」
レヴィナスは、酒に手を伸ばさなかった。代わりに、薄い琥珀色の向こう側へ、まだ誰も座っていない席を見るように目を向けた。
「残された者はどうなるのでしょう」
フーコーが、わずかに口元を動かした。笑ったのではなかった。何かが露出したことを確認しただけのようだった。
「救済が減れば、支配も減るとは限らない。むしろ、救済されないことを前提に、自分を管理する主体が作られる。自由な主体。責任ある主体。失敗しても、自分で引き受ける主体」
「そして、その主体は」
デリダは水のグラスを見つめたまま続けた。
「いつも、すでに別の言葉で呼ばれています。自由な利用者。自己主権者。投資家。被害者。初心者。愚か者。どの名で呼ばれるかによって、その失敗の読み方も変わる」
「厳密には」
フッサールが静かに言葉を整えた。
「同じ失敗が、同じ失敗として与えられているとは限らない、ということでしょう。送金者には後悔として現れ、受取人には未着として現れ、観察者には履歴として現れる。同じ出来事でも、与えられ方は一つではありません」
ハイデガーが、深い色をたたえたビールの底に沈む暗さを見ていた。泡の名残は消え、グラスはただ重い色を抱えていた。
「記録が、一つの世界を開くのかもしれない。人はただ残高を持つのではない。残高のある世界に住む」
「それに」
奥から、別の声がした。
それまで静かにビールを傾けていたボーアが、少しだけ身を乗り出していた。グラスには、最後の一口とも、まだ残された余白とも言える量のビールが残っていた。
「確定とは何か、という問いも残っています。未承認の取引は存在していないのか。1承認は確定なのか。6承認なら十分なのか。条件を変えれば、同じ取引の意味も変わる」
その隣で、アインシュタインが小さく笑った。彼は壁の時計を見上げたが、その目つきには、時計を信用している者の確かさはなかった。
「それなら、10分が誰にとっての10分なのかも聞きたいところだね」
ベンサムは、今度こそ少し呆れたように息を吐いた。だが、その呆れ方には、議論を止める者の苛立ちではなく、まだ片づけるべき勘定が残っていることを認めた者の諦めがあった。
「まだ今夜は長そうだな」
「ここまでの議論を踏まえて」
レヴィナスは、店主のほうを見ずに言った。
「まだ先に進むのですね」
店主は、そこで初めて手を止めた。
布に包まれたグラスは、曇りも指紋も残していなかった。彼は誰の顔を見るでもなく、カウンターの上の、誰の署名もない勘定帳へ視線を落とした。
「ブロックは、生成され続けるものです」
その声は、店の中のどの時計よりも静かだった。
「過去の記録を引き継いで、チェーンのようにつながっていく。そこに、それを検証し、未来へと渡す者たちがいる限り」
誰かのグラスの中で、氷が控えめな音を立てた。
ただ、針のない時計だけが、相変わらずどこにも進まず、どこにも遅れずに掛かっていた。
カウンターの上では、空になったグラスと、まだ残っているグラスが並んでいた。
夜は、まだ終わっていなかった。
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