#8【ビットコイン思想論考】6.5 note公開版限定後書き(1):数えられなかったもののために
ここまで読んでくださった方は、おそらくもう、ビットコインを単なる価格の上下としてだけ見ることはできなくなっているはずである。
ビットコインは、暗号資産であり、投資対象であり、デジタルゴールドとしても語られてきた。
だが本稿群で見てきたのは、それとは少し別の顔だった。
ビットコインは、私たちが普段あまり意識しないまま受け入れている制度の前提を、極端な形で露出させる装置である。
通貨とは何か。記録とは何か。誰が信用を支えているのか。失敗したとき、誰がそれを巻き戻してくれるのか。社会は何を救済し、何を自己責任として切り捨てるのか。
ビットコインは、これらの問いに親切な答えを与えてくれるわけではない。むしろ、親切な答えを与えないことによって、問いそのものをこちらへ差し戻してくる。
もしも世界の流通通貨がビットコインのみだったなら、私たちは発行上限のある、誰にも勝手に薄められない通貨を得るかもしれない。国境をまたぐ価値移転は、いまよりずっと中立的に見えるかもしれない。
だが同時に、通貨がこれまで担ってきた緩衝材も失う。危機のときに流動性を供給すること。破綻を遅らせること。借り手と貸し手の時間差を調整すること。誤りや詐欺や喪失を、どこまで制度が引き受けるかを決めること。
そうした働きは、希少な資産という言葉だけでは説明できない。
通貨とは、価値を保存する器であるだけではない。社会の「ずれ」を引き受ける装置でもあった。
そして、ビットコインをベンサム的に読むとき、別の問いが立ち上がる。社会は何を数えるべきなのか。
ビットコインは、人格を数えない。事情を数えない。善意を数えない。苦痛を数えない。困窮も、後悔も、救済の必要性も、基礎レイヤーの判定対象にはならない。
そこで数えられるのは、有効な署名、有効な履歴、有効な work、規則適合性である。
だからこそ、ビットコインは「冷たい」。だが、その冷たさは、誰かを特別扱いする権限を制度の中心に置かないための冷たさでもある。
これは単純な称賛ではない。
人を見ず、条件だけを見る制度は、たしかに恣意を減らす。だが同時に、救済の余地も狭める。
個別事情を読まない制度は、平等に近づく。だが同時に、公平からは遠ざかる。
誰もが同じ規則のもとに置かれることは、ある者にとっては解放であり、別の者にとっては見捨てられることでもある。
だから、ビットコインの無慈悲さを見つめることは、現実社会も同じように無慈悲であるべきだと主張することではない。むしろ逆である。
ビットコインという極端な制度を見ることで、私たちは初めて、現実社会がどれほど多くの裁量、救済、再分配、情状酌量、保護、信用、保険に支えられているかを知る。
私たちの社会は、人を数える。票を数える。所得を数える。損害を数える。幸福や苦痛でさえ、政策や制度設計の対象として数えようとする。だが、何を数え、何を数えないのか。その境界はいつも揺れている。
ある損失は救済され、別の損失は自己責任と呼ばれる。ある失敗は制度の問題とされ、別の失敗は個人の不注意とされる。ある声は統計に入り、別の声は雑音として消える。
ビットコインは、その境界を決めてはくれない。ただ、境界があることだけを、きわめて冷たく示す。
最初の設計者が本当は何を考えていたのか。
残念ながら、それを確かめることはほとんど不可能である。彼が望んだものが自由だったのか、決済の効率化だったのか、国家や銀行への不信だったのか、それとももっと素朴な技術的解決だったのか。
残されたのは、白書とコードと、そこから膨らんだ無数の解釈だけである。
だが、分からないからこそ、私たちは読み続けることができる。
ビットコインは、完全な答えではない。むしろ、答えの形をした問いである。
価格を見ているだけなら、それは上がった、下がった、儲かった、損をした、という話で終わる。
一方、制度として読めば、そこには現代社会の根に触れる問いが残る。
誰を信じるのか。何を記録するのか。どの失敗を救うのか。どの自由に、どれほどの責任を負わせるのか。
本公開版の論考部分は、ここでいったん閉じる。
しかし、問いは閉じない。ビットコインが記録を消さないように、一度見えてしまった問いもまた、簡単には消えない。
私たちはこれからも、何かを数え、何かを数え損ねながら、制度の中で生きていく。
その問いを抱えたまま、もう一度、思想家たちの集う不思議な空間へと戻ろう。
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