何かを作る、生み出すというのは、なんだって苦しくて難しい
25/12/24追記:関連すること
音楽だって、DTMをなんとなくやってた時のものは、確かに伸びていない。あれは時代の経過に耐えられるものではとてもない。
文章だって、何度も何度も書き直しているものをこうして公開しているわけだから、いきなり書けているわけじゃない。
……そんなことを思ったので、そんなようなことを書いていきます。
何もないところから何かが生まれることはない
なぜ自分はこうして文章を書くことができているのだろうと考えてみると、それは日々本を読んで外に出て人と関わって常に考えているから、そして書くことを継続しているから書けるのだろうなぁということを思いました。
いや、これはすごく当たり前のことを言っていますが、あえて。
どんな分野だって続けることで成果がついてくるし、続けないと見えてくるものも見えてこない。
やってみなくてもわかることはあるけど、やってみないとわからないこともある。
なんだって、どんな仕事だってそれの積み重ねの連続なわけだろうと思います。
……だけど、初めのほうを見てみて何かをわかった気になり、「なんかできるかも」「自分ってすごいかも」ということを思うじゃないですか。
いつだってダニングる
……これは僕だけなのでしょうか? どうなのかわからないけど、僕はそうなのです。
そうだった、と言いたかったけれど、新しく取り組むものには今も相変わらずダニング・クルーガー効果をいかんなく発揮してしまうので、どうにかならないものかなぁと思っています。
なんかできそう! と思って始めてみて、そこにどハマりして一気に入り込んでしかしある程度を覗いたらやめる、ということをあらゆることで繰り返すというのがお決まりのパターン。
しかしこれは別に全てが悪いこととは思っていないというか、むしろさまざまなことを知ることができるので、困った面もありつつおもしろい性格をしているのではないかなぁとも感じてる。
幼い頃は工作とか料理とか絵とか、ある程度成長してからはピアノやギターをなんとなく弾く、今は無きブログを書く、DTMを見つけた、今のnoteで書き始める、クラシック音楽を学び始める……という、さまざまななものに出会ってそこから色々取捨選択していったら今があった、というわけなのだなと振り返ってみて思いました。
そうやって残ってきたのは、続いているのは言葉と音楽だった。
執筆と音楽だけは、ずっと続いてる。歯磨きとか筋トレとかも入れるなら他にも続いていることは結構あるけど。
これらは「続けよう!」と決めたから続いているということも大いにありそうだけど、もはや続けることが当たり前になっていて、やめてしまうことのほうができない領域に来ています。
そして続けることそのものはあんまり苦じゃない。
……いや、苦しいこともかなりあるけど、でもその先にあるものがとても楽しいから、中和されていい感じになっているから続けることができているのだろうなぁと。
何かを突き詰めて極める、ということ
文章だったら比較的簡単に書けると僕は感じているのですけれど、しかしよく考えてみたらこれはただの思考の吐き出しであって、細かい構成を考えているのか? と言われたら、あまり突き詰めてはないのです。
タイトルや見出し、冒頭の文章と結論といったものはなるべく整合性がとれるように意識しているつもりだけど、でも、例えば推理小説のような完璧な整いは何もない。
だから、偉そうにこんなものを書いてしまっているけどそもそも僕は何かを作ったことがあるのだろうか? ということを思いました。
上で「続いている」と言ったばかりだけど、難易度が低いから続いているのであって、実は何も大したことがないのではないか、と。
なんだろ。本を一冊でも商業出版することができたら「俺はなにかを作ったぞ!」と言えるような心境になるのでしょうか。わかりません。
少なくともわかることは、数学の定理だって物理法則や医学の新発見だって、ありとあらゆるもの、新しいものを生み出すというのは本当に大変なのだろうということです。
これは至って当然のことだと思います。しかし僕は子どもすぎた(今でもそうかしれない)というか世の中を知らなさすぎているというか、何かを極めるということはこんなにも険しい道のりであったのか、ということに音楽をやったおかげでようやくそのことを気がつくことができたのです。
そんなすぐパッとできるものは、まずない。もしかしたらあるのかもしれない。でも、僕はそんなものは知りません。
そして今後もそういったものが登場する気配はまるでしていない。
……
新しいものを生み出すというのはとても苦しくて、めちゃくちゃストレスが溜まる。
先ほど「自分は何も作れていないのではないか」ということを言いましたが、一応何かを作っている、ということにさせてください。
その上で、音楽や書くことはめちゃくちゃ苦しいながらにそれでも続けているのは、やっぱりその先にあるものが好きだから、フロー状態に入っている時の圧倒的な高揚感が好きだから、ということに尽きるわけで。
あとは、おこがましいかもしれないけど自分のアウトプットするもので何か他の人の人生が少しでも良くなることへの貢献ができていたら嬉しいな、ということがあるのです。
いや、もっとでかいことを言うと、何か圧倒的なインパクトを与え、社会を変えたいと思っている面はかなりある。別にいきなりドカン! と変わるとは全く思っていないしならなくていいけど、じっくりと、じんわりと何かはきっと変わっていくのだろう、いってほしいと切に願っている。
そう、何かを生み出すというのはものすごく苦しいけれど、しかし現状を打破し世界を変えることができるかもしれない、と思うととてつもなくワクワクして脳内物質がなんか大量に分泌されている気がするからやめられないのです。
一度何かを生み出すことの圧倒的な力を知ってしまうと、もうそれまでの自分がいた世界は存在しなくなっていて。
「これでこんなもの作れそうだな、書けそうだな」という目で世の中を見るようになり、自分もその世界に影響を与えることができるのだと自信を持つことができる。
というか僕の場合は、文章も音楽も書かなくなったら、それはもう自分が自分ではなくなります。そんな領域にいつのまにか来ていた。そして今後ももっと深く潜っていく。どこまでもどこまでも。
「目標のある人生こそが良い」とか「何者かになるべきだ」とかは僕は全く思っていません。
そうではなくて、単に、何かをつくるということはめちゃくちゃ面白くて、あまりにも最高だぜということが言いたいのです。
どこまでも自由な世界がそこにはあるから。
オープンワールドゲームを遊んでいると悲しくなります。結局、その世界には終わりがあることを遊び始めたその瞬間から、いやその作品を買った時からわかってしまっているから。
しかも他者が作った場所だから、自分の自由にすることはできない。これは既存の作品を批判しているとかそういうことでは全くなく、単に自分以外の誰かが生み出したものにはその人が決めたルールや枠組みがあるから、自分に完全フィットした場所ではないということだけです。
全くの無から自分で何かをつくるというのは、一切の制限がありません。頭の中を無限に働かせて想像力を用いれば、いつだってそこが自分の居場所になる。自由に空間を表現し構築することができる。
そして人生は終わりがいつか必ずくるわけで。だからきっと、それまでの間に自分の居心地の良い世界をどこまでも拡張していきたいのかな、ということを今思いました。
そもそも、世の中が生きづらすぎる。これはいつだって思っています。
確かに最近は楽しくて幸せなこともある。でも、僕は心のどこかで根本的に何かを常に思っているのです。絶対来るわけないだろうけど完璧な世界のようなものをどこかで求めていて、なんとかしてそう生きることができないだろうか、とあらゆることを考えている。
まぁそんな抽象的なことでなくても、地球温暖化とか覇権主義、思考停止の排外主義や未来をまるで考えない大衆迎合主義の台頭とか、少子高齢化とかGDP低迷とか社会保障の先行きとか……そういうのまじ大丈夫そ?? っていつも思っているし、まぁおそらく大丈夫じゃないだろうから、多分僕はそれらに目を背けてしまっているのです。
真剣に向き合うと絶望的な気持ちになるよ。
だから、創作の世界に閉じこもろうとしている。そしてこれは先にも述べたけど、閉じこもることで生まれた何かから、ちょっとでも世界に影響を与えることができたらいいなと思ってます。
思い返してみれば、僕はずっと学校が嫌いだったし、今でも人から指示されるのが嫌いだし、有機物無機物問わずありとあらゆることに疑問を持つし……というか疑ってかかるのがデフォルトだし(人間不審ではないです)、既存の枠組みが全然はまりませんでした。
なので、僕みたいな性格の人は何かを作る道に行くと幸せかもしれません。
何度も書いてるけど、何かを生み出すということは苦しいです。そしてそれを突き詰めよう極めようと思うと、さらに困難になる。
でも、他のあらゆるどんな人生の選択をしたって困難がない状況なんかほとんどまずなさそう(な気が僕はしている)だと思うので、だったら好きなことに沼って苦しむの最高じゃない? って。
で、最近の努力関連に付随しますが、何かを成し遂げた人というのは確かに生まれつきの才能とか恵まれた環境はほぼ確実にあるけれど、それでもやっぱり確実に努力しているものでした。そう思います。
僕の周りの人とか、言いたくないけど言ってしまうと僕は努力しているから、だからこそ見えてきた世界がある。
涼しい顔して飄々としている人も、実は裏ではめちゃくちゃもがいているし、人生どこかで必ず苦労しているし、嫌な気持ちを乗り越えてきた。
それが、見えない。見えないから誤解する。
わからないものに蓋をしてしまうと、もしかしたらわかるかもしれないのにずっとわからないまま。
だから結局、これまで才能がどうとか努力がどうとかあれこれごちゃごちゃ言ってきましたが、
それぞれ向いている(才能がある、得意、とかいろいろ)ことや好きなことにひたすら没頭していると、努力を努力と思わないので最強。そして、そうやって日々を生きているといつのまにかそれが他者貢献をすることに繋がっており、なんか全体もハッピーになっていい感じだよね
ということを今は思っています。
コスパの良い人生なんか、そもそもどこにも無い気がした
コスパの良い人生とか、効率的な人生とか、そんなものを僕は追い求めてきました。だからそれを希望する人の気持ちはわかるはずだし、「いやーそうっすよねぇ」って思う。
けど、なんだろ。
何か本気になれるものがあるっていうのは、めちゃくちゃ幸せなことだということは言いたいのです。
ここでいう幸せっていうのは、何も快楽主義的な”気持ちの良いこと”だけを追求するのではありません。きもちいいことだけにハマっていったら、何も残らない。
だから、道中には苦しいこともあるけど、そこも含めて受け入れて、全体(自分も、大切にしたい身近な他者も)の幸せを目指していく。
結果とか最初に掲げた目標とかを何も達成できなくても、周りからみたらどんなに馬鹿げていて意味も価値もなくてくだらないものでも、本人の中でそれが大切な思い出として心に刻まれていれば、それはどこまでも豊かで深く、本質的なかけがえのない体験じゃあないかと。
例えば。相撲をガチる人(つまり力士)の気持ちが僕はよくわからないのですね。あ、相撲をみるのは好きですよ。
太って不健康だし、上下関係厳しいの絶対嫌だし、怪我めっちゃくちゃ痛そうだし、毎日辛い稽古したくないし。
もっというと、いつかの時代に誰かが相撲というものを考えてなんか知らんけど勝手にルールを決めただけなわけです。なんかわからんけど太ってる人同士がぶつかり合う、というただそれだけなわけで。
がしかしすべてのものに言えることですが、自分で決めた目標に取り組む人はそこに人生を捧げて全力でぶつかっているわけです。泥の中を這いつくばってしがみついて目標を目指して。
コスパや効率を求める観点から見ると全くもって非合理極まりない人生設計な訳ですけど、しかし確実に、そこにしか存在し得ない、そこでしか体感することのできない何かがあるから人はそこに熱中し、圧倒的な感動が生まれる。圧倒的な高揚があるのです。
冷めた目で、希望が持てなくて人生を捨てたいような気持ちの時は、今の僕が思うことは全く響かないでしょうし意味をなさないでしょう。実際、過去の僕はそういう時期が何年もあって無気力そのものでした。
でも、何かちょっとでもいいから、元気であるならば自分がどハマりできるものを見つけてそこに没頭してのめり込んで打ち込めるものがあると人生はやっぱり楽しい。初めは本当にうっすらだけど、確かに光を帯びてくる。
音楽だったら楽器の演奏をするために練習をしなければならないけど、それを仲間とバンドを組んで演奏するとかは絶対楽しいし、そこで喧嘩別れをしたとしても、それは青春(人生はいつだってそうなれる)のワンページなわけです。
なんか、クサイことを言っている自覚はあります。
でも、最高にロックンロールじゃないか!
バンドのようにエネルギーが全面に出ているものでなくても、本の読み方をちょっといつもとは変えて「自分だったらどうやって書くんだろう?」みたいなことを考えてみたり、新しいお茶の種類を調べて作ってみたりとか、静かなものでも、なにかを学びそして自分で作るということをしてみると確実に毎日の何かは変わってくるのです。
インプットばかりだと、人生の何かが寂しくないですか。少なくとも僕は、インプットとアウトプットのバランスがちょっとでも崩れると、精神にかなりの悪影響をきたします。
……で。
そうやって何かを作る人が増えて、世界に様々な作品が溢れると僕はめちゃくちゃ嬉しい。
もちろん、すでにたくさんのものが溢れている。
でも、それは資本主義的マーケティングに基づく競争に明け暮れた他者の目を意識させた消費を煽る購買行為──というのは、ただ高いだけでどうでもいいブランドバッグ(僕にとっては)みたいなもの──のことじゃなくて、子どもが純粋に描きたいから絵を描くように、そんな圧倒的な内発的動機による自由な世界が、それぞれの人が持つオリジナルの惑星、地球のようなものがたくさん満ちている世界が来るといいなと願っているのです。
……なんだろう。
「もっと熱くなれよ!!」とかを言う性格ではないしそもそも言いたくないです。人に強制したくない。
がしかし、「熱くなれることがあるっていうのは、人生の幸福度を結構あげてくれるよ」っていうことは言いたいかもな〜という感じです。
なので、ここまで長々と言ってみました。
それに、非効率的なところからこそ、圧倒的なよろこびが生まれるものです。人間関係はそれの最たる例。人と関わることはどんなに好きで仲の良い関係でも疲れることなわけで。
だけど、そこからしか生まれることのない、どこまでも豊かで深く心のやすらぎと楽しみのある時間があることを知っているから、そこに人生をつかう。自分として地球上に存在していられる限りある時間を使って、今ここ、その瞬間に全力で集中する。没頭する。
それに付随してこれはよく思っていることなのですけど、僕は一人の時間が好きです。しかしこの一人の時間というのは、確かな人間関係が構築された状態でふとそこを離れ読書をしたりコーヒーを味わったりするから幸せなのであって、完全に社会から隔絶された状態で独りになったとしても、全く幸せじゃないです。
言い切れるのは、過去に引きこもり不登校だった時期がありそこで絶望を味わい続けてきたから。
生成AIは創作の危機じゃない
と、僕は今のところ思っています。
過去には「やばい人間終わった!」みたいなことを思ったりしていましたが、現在は全くそう思っていません。
なぜそう言えるかというと、これは過去にも書いてきましたが、
何かを作ることそのものの行為が、めちゃくちゃ楽しい
ということがあるからです。例えば文章を書くのだったら、Chat GPTをはじめとしたAIを使えば、簡単に長文を作成することができます。いま僕が使っているnoteでも、AI機能があって文章を書いたり校正したりしてくれるっぽいです。
ぽいというのは、一度も使ったことがないから。
なぜなら、それはやっぱり自分で文章を書くということがものすごく楽しくて面白くて達成感に満ち溢れていることであるからということ。
日々あれこれ考えて新しいものを目にして、そこから生まれた感情を言葉にしていくことがものすごく面白い。
だからなんでしょう。
人それぞれ好きなことをやったらいい、というのはやや抽象的でここでの文脈に沿わないので詳しくいうと、AIを使いたければ使えばいいし使いたくないなら使わなければいいだけということです。
翻訳だったら、AI、というかそれ以前にもあったDeepLとかで一瞬であらゆる外国語を日本語にすることができます。で、そういった機械翻訳技術は今後どんどん進化していくでしょう。そこには圧倒的な需要があるわけだから。
でも、人が自力で翻訳をすることは決して消滅しないと僕は思っています。言葉って、おもしろいのです。
直訳できるものはなくて、人それぞれによって、確実に何かが変わってくる。ちょっとしたニュアンスや手触り、心の繊細な機微なんかが、そこに確実に現れてくる。
これは有名かもしれませんが、「木漏れ日」という言葉を英語にすると、「sunshine filtering through the leaves (of trees)」(ジーニアス英和辞典)になるっぽいです。がしかし、なんか別の言い方もできそうじゃない? みたいな。
「Dialektik」というドイツ語は、日本語でそのまま「ディアレクティーク」と言ったり弁証法と言ったりし「対話を重ねて高次の認識に至ろう」みたいなことなわけですが、「そもそも対話ってなんだろう?」「人と人が会話をするって何かなぁ」みたいなことを思ったら、別の訳し方もあるんじゃない? と考えてみる、みたいな。
僕はこういったことに興味がとてもあるのですが、ない人は全くないと思います。それなら機械翻訳を使えばいいし、パパッと解決して他のことに時間を使いましょう、という。
そういうことです。
最後に
自分ってこういう”泥臭い努力”みたいなこと言う人間だったっけ? というのをここまで書いた後に読み返してみて思いました。
人は変わるものですね。だから人生はおもしろい。
……いや、でも今回の記事に書いたような心は、昔は確かに持っていました。それが、どこかのタイミングで失われてしまって、でも今回こうしてまた復活してきた。
そうだ。それがすごくしっくりくる。
長くなってきたので、この辺で終わります(ここまででおよそ7,800文字みたい)。
お読みいただきありがとうございましたm(_ _)m

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(´・ω・)つ旦