思い切って消したら生まれた
これまで定期的にパソコンから不要なアプリやファイルを消してきたものの、いつのまにか膨れ上がっていました。
それら書類やその内容を書いたメモは細かくフォルダ分けもしていたのですが、しかし結局は管理できなくなって全て消しました。
という話です。
今回は長くなり、どうやら16,000字以上あるっぽいです。
お暇な方はお付き合いください。
その時にしかないもの
noteが今より全然みられていなかった時のスクショ、その時は「これでいける!」と思っていた思考体系メモ、聴いてきたけどハマらなかった音楽の数々、当時は楽しく観ていたけどもうまるっきりアクセスしなくなったYouTuberやニコニコ動画、数々のニュースサイト、読んで売った本や漫画たち、大量の下書きnoteたち、みてきた映画やドラマ、アニメのリストたち、読んできた新聞や経済誌のリスト、大学の授業復習メモ、作った楽譜のPDFと音源のファイル、思いついたメロディや楽曲の構想、人から紹介されたけど結局聴いていない音楽とかのリスト、使えそうと思って作ってきたアイキャッチ画像、バックアップ用に取っておいたファイルたち、買ったけど結局メルカリに出したものたち……
……
それらはデジタルデータなのでいくら増えても実質無限に保存できるわけですが、しかし人間の認知機能は有限であり、いくら溜め込んでも活用することができなかったらそれは箪笥の肥やしでしかないわけです。
使わないで取ってあるものはスペースを占有し続け、それだけでなく、そのせいで確実に何かを失ってしまう。
しまっておいた中で一番大切である文章や思考の書き溜めに手をつけるのはずっとずっと避け続けてきていて、なんとか延命させようとこれまでこんなものを書いた
こともあったのですが、しかしついに全てを消しました。
上に書いた羅列の他にも、当時「これは絶対に伸びる!!」と思って勢いで書きまくった7千字くらいの記事の数々、でもそれはただ自己正当化をしたかっただけの中身のないものだったり、思考の解像度が悪すぎて何が言いたいのか全然わからないものだったり。
そう、本当にさまざまなことを大量に書いていました。
「最強の方法を見つけた!」とめちゃくちゃワクワクしていたけど実はありきたりなことであった場合とか、「クソほど嫌なことを言われたけどその時言い返せなかった……!!」という怒り憎しみ悲しみをぶつけたものから、「こんなこと言われてものすごく嬉しかったー!」という喜びの記憶、いつかやりたいと思っていて書いていたアイデア、大学の先生との対話でなるほどとその時は響いてメモってきた言葉、等々。
それらをふと、「これは消してもいけるな、大丈夫そうだ」と直感したのです。
生きていれば今後メモが増え続けていくのは当たり前のことで、これから人生経験が増えればそれは加速していくのも容易に想像できます。
過去、本棚に本が入らなくなってしまい全て買取へ出して電子書籍で買い直したことがあるのですね。
それら商業出版されている書籍は読みやすいようにまとめられているから沢山溜め込んでいても何も問題ない(むしろ嬉しい)ですけど、なんの脈絡もない雑多なメモをただ持っているだけでは、脳が混乱するだけで何も生まないどころかマイナスでしかないじゃないですか。
大切なことは、必ず残り続ける
ファイルをゴミ箱に入れて完全消去する前に、当時考えていたことを見返してみたら、やっぱり今の自分は確実に成長してきているということがよくわかりました。
あの時あんな人に出会った、今はこんな人と関係がある、その時はあの人に対して微妙な気持ちだったけど、今では結構好きになっている。
最初はとても良い人そうに思えたけど、実はそんなことなかった。
色々な感情が蓄積されていて、だからこそ今ここに自分がこうして存在することができている。
部屋でも物でも心でも、空きスペースがないと新しい事物は入っていかないもの。
ここまで紹介してきたように「後でこれを書こう」と思ってせっせと文字をメモにしまい込んでいたのですけど、数ヶ月、そして数年と経つうちに成長するわけで。
そしてそんな自分に合わせるように周囲の人間も変化していき──というように思えているだけで、自分が変わると付き合う人が変わるから周囲が変わったかどうかはわからないけど──、それに今振り返ってみると過去のメモは別に大した思考を構築していないな、ということにも気がつく。
本当に大切なことはずっと覚えているものだし、もし忘れたとしても過去にそういうことがあって今の自分があるということに一切変わりはないわけだから、どんなに記憶の彼方に追いやられたとしても決して失われうことはないというか。
なんだろう。
僕は、「言葉にすれば救われる」「”失われた6年間”をついに清算しきることができるかもしれない……!!」と心のどこかで思っていたのでしょう。
無駄にしたと後悔している過去のことを全て文字言葉にすることで、長文という作品(なっているかはわからないけど)にすることで虚空だった時を有意義な何かへ昇華させようとしていたのだろうなと。
実際、過去のことを思い出して振り返って(これをする時点で今から昔を見ているわけだから記憶が書き換えられていることにはなるのだけれど)文字として書きまくる、書きおこす、というのは何度も何度もしてきました。
で、これまた結局、その時にはそれが最高のものであると信じていたけれどでも振り返ってみてみたらあんまり、いや全くそんなことなかったなぁっていうのは結構よくあることで。
誰かと喧嘩をしその時は「もう絶対一生口きかねぇよ!!」と言ってしまっても、しばらく経ってみるとそのことを猛烈に後悔し始める、みたいに。
人間は常に変化しているものだし、文章も音楽も、大して良いものではないと自分が感じたらそれはそういうものなのだから、わざわざ取っておく必要はないと思ったということです。
ちょっとした調べ物から新聞の電子版、ショッピングまで、ネット検索して訪れたページは全てスクショして保存していたのですけど、これは「何かしらの形で後で使おう、役立てよう」としていたため(今思うと、これは脅迫性、神経症の何かかもしれない。過去に精神科で実際それの傾向があると医者に言われたこともあるし)。
しかし「後で言おう、まとめよう」とわざわざ保存しておかなくても、本当に言いたいことであるならばそれについては日々考えているのだから、時が来れば自然と自分の内から発することができるんじゃないかなということに気がついて。
鳥肌が立った素晴らしい景色は写真に撮らなくても覚えているものだし、というか写真や動画としてのこすことのできていない記憶こそが本当の記憶なのではないか? と。
記憶の記憶、と二重表現っぽくなってしまっていますが、これは生物(人間)として自分の脳に刻まれたものと、2進数で管理構成されているデジタルデータを言い分けているからです。
デジタルデータとして保存されているその景色が、記憶が、光景が、それがメインになっていやしないか? と思います。
なんでも簡単に写真として保存することができるからこそ、今その時その時を生きることを疎かにしてはいないだろうか? と。
このことは情報化社会になってから耳タコで言われてきたことですけど、僕は最近忘れてしまっていたのかもしれません。
ふとした時のちょっとした表情の変化とか、空気感とか、やっぱり写真や動画には残せないんじゃないだろうか。
僕はそういったビジュアルフォーマットのものには疎いので、プロの写真家や動画制作者の方には申し訳ないですが、しかしカメラを向けると表情は固くなってしまうし、役者さんのように撮られるプロであってもやっぱりそれはその人の真の姿ではない(何を”真”とするかだけど)わけで。
オレンジに染まる夕焼けに心が大きく動いた時、そこにスマートフォンを向けたくなる気持ちはめちゃくちゃわかります。というか僕はしょっちゅうそうしてしまう。
でも、スマホを取り出してその画面を覗いているとき、自分の目はその空を観ていない。0と1で管理された世界が切り取ったものを見ている。
そこの差が、心のどこまでも繊細な機微を捨ててしまっているのではないか、と思うのです。
いつから保存をするようになっていたのだろうか?
そもそも今から6年くらい前は、検索をしても何も保存していなかったように思います。
それがある時から、ここまで書いたように検索結果のスクショや考えたことを全て残さないといけない! みたいな強迫観念のようなが生まれてきてしまった。
それはやっぱり数年前にDTMを始めて、そしてnoteを始めたあたりからなのかも。
そもそも世の中にはコンテンツが溢れすぎていて、それを全て摂取することは現在の人類の寿命では不可能なわけです。自分の意思で取捨選択をし続けていく必要がある。
僕は、限りある人生の中でなるべく良質なコンテンツに触れたいということがあります(自分の書くものがそうなれているかはわかりません。なるべく良いものを書こうと常にしていますが……)。
なのに、雑多なメモや記憶に残らなくて覚えておく必要のない検索結果のスクショなんかに押し潰されてそこで埋もれて時間を使ってしまうのはとてつもなく勿体無いことなんじゃないか? と。
これまでのことの追加になりますが、誰のふとした発言に優しく静かに現れていた細微な心境とか、そこでその人の口からは語られなかったけれど本当は言いたそうだったことを書いておいたりとか。
それらはやはり「これは使えるんじゃないか」と思ってすぐにメモしていたのですけど、しかし本当に大切なことなら後からしっかりと思い出せるのです。実際に今思い出せた。
他にも、楽器の練習や作曲について先生から言われたことや、それらの練習中に自分で気がついた体の使い方をメモったりもしていたしそれをnoteに書いてきたこともあったけれど、結局意味なくないか、というか、書いたことで満足しそうになってしまっていて。
実際の作品や演奏に反映させてこそ初めて意味があるのであって、「ここで右手首を柔軟にし思い切って力を抜いて滑らかなに機能させる」みたいなことを書いただけじゃ何もならんのです。そりゃそうなんですけどね。
僕は情報を集めるのがものすごく好きなのでそれで満足しがちなのですが……
そして何より、「これは使えそう」とかいってメモをしていることが相手にとても失礼なんじゃないか? と気がついたのです。
目の前に相手がいるならそこに耳をしっかりと傾けたほうが自分の心にも相手の印象にも前向きなものが残るだろうし、これもやっぱり本当に大切なことなら記憶に自然と残っている。
仮に残っていなかったとして、もしまた使いたくなったら探しに行けばいいし、探しに行ったとしてそこになかったのなら、それはもう潔く諦めることで心がものすごくスッキリするかもしれない。
生きてきた痕跡
きっと僕は自分の生きてきた跡を残したいのだと思います。
それも、とてつもなく強い爪痕を。
あの時に受けた衝撃を、変化していく関係性を、全てをこぼすことなく書き留めておきたい。世界に記録しておきたい。
だから、あらゆるファイルはどんなにつまらなくてちっとも他者の心に響きそうになくてボツになりそうなものであっても、せっかく自分が生み出したものなのだから取っておきたい、という気持ちがものすごく強く働いているのだと思います。
が、それは誰も求めていないし、そもそもできない。
論文でも料理でも同じな気がしていますが、言いたいことがたくさんあったとして、じゃあそれを全部盛り込んだら最高の作品ができるのか? といわれたらそんなことはないじゃないですか。
ただそのまま全部合わせただけで何がしたくて何をアピールしたいものなのか何にもわからない、元々素材が持っていた素晴らしさをゴリゴリに削り散らしながらくっつけてまとめてはい! となっているだけみたいな。
今ここまでの文章がそうなっていないことを願いたいです。
……
個人的なことだと(ずっと個人的なことしか言ってないけど)、この記事
のアイキャッチ画像として使った自作曲は、7分30秒くらいありました。
でも、最終的なものとしては4分弱までカットし全体の構成も大きく見直し細かいところまで何度も何度も書き直したので、もはや原型を全くとどめていません。
全然違う別の曲になっている。消されていった数えきれない音符たちがある。
だけど、明らかに生まれ変わった楽譜のほうが魅力的だと感じるし、原型を留めていないと言ったけれど、その消された原型があったからこそ新しいものは生まれることができたのだと考えることもできる。
執筆でも、何が言いたいのかよくわからなかった長文をよりコンパクトでシンプルな上位互換として生まれ変わらせることができたときは本当に快感。
人生規模で言うと、僕の場合はこれまでの人生よりもこれからの人生のほうが圧倒的に長い(と信じてる)わけで、であれば全ての過去の保存に囚われるよりも、これからの未来のために空間を開けておきたいじゃないか、と。
そして思ったのは、もし全て消してしまったとしても、自分でそれを思考し文字にしたということに変わりは一切ないわけだから、その時点で目的は達成されていると言えるよな、てことです。
脳がそれを処理して自分の言葉としてアウトプットすることができたのだから、テキストファイルやメモ帳として出現したデータとしての文字は消してしまっても何も問題はないのではと。
これ、結構そうだと最近思うのです。
ささっとメモを書いたその時点で脳が整理されるのを強く感じるので、十分、いやむしろそこにこそ本質的な意味があるんじゃないか? って。
「全部を保存したい、取っておきたい」ということを突き詰めると、それは目にカメラを埋め込むしかないような気がしています。
いつかできるのかもしれないし、しかしその技術が実現したとしても僕はそんなことをしたくありません。
登山へいき、ちょっとした雲の移り変わりやどこまでも澄んだ空気を身体全体に取り入れるときのその瞬間は、どうやっても切り取ることができないと思うから。
そしてだからこそ人は、今まさに僕がこうして言葉を書いているように、何かしらの手段でその記憶を残そうとするのではないでしょうか。
自分の表現技術を日々向上させ、あの時の感情をいかに形としてパッケージングするのかということに夢中になる。
そしてそれは、完成品として目に見える形では含まれていないものの、そこに至るまでの過程で大量に削ぎ落とされていった確かに存在した気持ちの欠片たちを想像させるようなものでありたいなと思います。
文章執筆と作曲の性格的問題?
取り組んでいる僕の性格があると思うのですが、文章と音楽は保存しておくことができます。
いや、これはもちろんデジタル媒体なら全てそうですがそういうことではなく。
言葉と音楽は、作品として完成しているものは当然保存しておくことができます。本として、音源として、楽譜として。
そして、制作途中でも保存しておくことができるのです。
時間を遡ることもできる。
付け加えて言うと、その作品の中に没入している状態に限って捉えてみたら、それらの制作中にはまさに自分でこれからの世界を作っているわけだから、未来の時間を体験しているとも思えるわけで。
僕は常に何かしらを考えていて、この”考えている”というのは日本語で思考をしているのでそれはつまり常に言葉を用いて執筆をしている、ということも言えてしまうわけです。
いつも思考を張っていることで、自分に向いたチャンスが来た時に確実に掴めるようになる。
音楽だったら、ビビッと来たもの、神曲とされるものに出会ったとき、勉強して知識を持っていればなぜそれが人の心を打つものなのかを説明することができ、その後の学びを大きく加速してくれる。
……とか偉そうになんか語っているけど、本当は何もわかっていないです。
わかった気になっているだけ。
なんでもいいから掴もうとして、ただひたすらにあらゆるものに正面から体当たりし続けているだけ。
昨日は「もう一生絶対作曲なんかしねぇ!!!!!クソ!!!!!!!!!!」と一日中なっていたのに、しばらくしたら、気がついたら、また向き合ってしまっている。
なんてこった。本当に意味がわからない。
いつだって神になりたい
ここまで書いて思ったことに、僕はそういった”全てを作り上げてコントロールしたい欲”がめちゃくちゃ強いのではないかということがあります。
つまり神になりたいのかもしれません。
消したメモに残っていた言葉や音は、新たなる世界を作ろうとした際に崩れ落ちた必然。
怪しさしかないですが、僕は無神論者(どちらかといえば消極的無神論。みんな自由に生きたらいいと思っているから)で無宗教な科学信者──科学”信者”という矛盾めいたもの──なので安心してください。
安心しなくてもいいですけど、まぁなんでしょう。つまり永遠の厨二病なのです。小学生かもしれない。
「おれこんなの作ったんだぜ! すげーだろ!」「こんな新しい遊び考えたからみんなでやろう!」「魔法使いになって夢みたいなことがしたい!」っていう気持ちがずっとある。
いや、ずーーーーっとある。
そして大人になったって、そういう子どもめいた純粋な爆発力や突き進み力は、ずっと忘れずに大切にしていたい。
……
でも、わからないものはわからないし、いつだって課題は投げ出したくなるし、ストレスは常にあるし、人生の不安定さに吐きそうになる、というか吐いたし、何かを作ることはいつだってやめたいし、いつだって続けていたい。
毎日、バカデカい矛盾を抱えながら生きている。
こんなわけのわからない生き方をするのはもうやめたらいいじゃないか、何かを作ることから身を引いて、消費に徹して生きていけばいいじゃないか、と思ったこともあります。
しかしそんな生き方はそもそもできないのだ、ということにすぐさまぶち当たるわけで。
働く、仕事をするということは社会、つまり他者の集合体である一種の共同体へ何かしらの価値を提供することであり、それは作曲とか執筆とか料理とか作画とかそういう成果をぱっと見でわかりやすく箱詰めできるようなことだけでなく、いかなるものでも提供をすることは求められるわけじゃないですか。
不登校とか半年ほどのニートを経験してきて思うのは、その期間は満足に生きることがまるで出来ていなかったということです。
確かに、自由に使える時間は潤沢にあった。学校へ行っていなかった頃は10代前半であったので視野も思考力も低く(今が高いということが言いたいのではなく)、それは無限のように感じられた。
昨年の無職期間はどうったのか? と思うと、昔に比べると確かに成長しており自分の意思であらゆる選択をすることができた。
が、常に何かが燻っていて。肩身が狭かったというか、自分という人間の存在理由をずっと疑ってしまっていた。
これはニートや生活保護批判とかそういうことでは一切なく、僕自身はそういう感じかたをしていたというだけのことです。
なんでしょう、そう、まぁつまり僕はすごく弱いということです。
何かしらの居場所が欲しい。それも究極に安心できるものが。
「自分はこんなことができる、だからここに居させてくれ……」というプロセスをいつだって実行していないと、安心して生きることができない。
だから、そう。
これから先もずっと、心を崩壊させて復活させてそしてたまに超絶ハイテンションになって、を繰り返しながら時を重ねていくのだろうなぁと思っています。
未来から振り返るとわかること
その時は「ヤベェ! 人生終わった!!!!」ってなってることでも、数ヶ月後、数年後に振り返ってみると意外と大したことなかったなぁ、ってなるのが大体のパターンです。
自分はめちゃくちゃ気にしていても、周りの人は全然覚えていなかった、みたいなこともほとんど全てのパターンでよくある。
これは、シングルフォーカス気味というか、その時そこで発生している自分の興味のあることにものすごく集中するためそれ以外がまるで見えなくなるといったように僕の脳発達が凸凹している(らしい)ことも関係あるのかもしれませんが……
自由の変化
「歳をとる、大人になるってこういうことなのだろうなぁ」とここ最近強く感じています。
実際もう僕は23歳なのでれっきとした成人なわけですけど、なんだろう、子どもの頃とか、もっというと数年、というのは前の大学に所属していた三年くらい前まででしょうか。
その辺りまでは、「大人って自由がなくてなんてつまらないんだ、ずっと子どものままでいたい!」みたいなことを結構強く思っていました。
しかし最近は、心身経済ともに独立を果たすことができればそれってめちゃくちゃ自由なんじゃない? ということを非常に強く思います。いや、どこまでも自由だと言い切れる。
やっぱり、若いって疲れるんですよね。いや、僕はまだ若いですよ23歳なので。
しかし10代をみていると、「若いねぇ!」っておじさん心が発動してしまうのです。
「うん、自分にもそんなことがあったあった〜」って微笑ましい気持ちで見ている自分が確かにそこに居て。
ちょっとした些細なことで心を病んだり気にしたり、人との衝突でものすごく深く傷ついたり、社会のあらゆることに憤ったり。
……これは、別に今も変わらないです。でも、確かに一つづつ様々なことを踏んで経験してきたことで、「これ前もあったな、で、乗り越えてきたな〜よしよし」って思えるから、次のことへ行くことができる。
なんだろな。
大人のほうが自由だよなぁと感じるのは、創作活動をしているからということは相当に大きいかもしれません。前回の記事
に書いたことでもあるけれど、想像力を働かせて何かを作り上げるって、本当にどこまでも自由。
空に広がる水色よりも、海に広がる青よりも、宇宙をまたがる漆黒よりも広大かもしれない。
だから、大人は自由なんだ。
……
どうして自分はこういうことを言っているのだろうか?
「こんな平凡でありきたりな、つまんねぇこと言う大人だけには絶対にならねぇ!」って豪語してたんじゃないの?
ってこれを書きながら思っているわけですけど、しかし今の人生に後悔はあるものの(いつか払拭できる見込みがある、というか絶対にそうすると決めている)子どもに戻りたいかと言われればまっぴらごめんなのです。
これは今の僕が大人になってしまった、というような後ろ向きなものではなく、日々成長することにものすごく大きな喜びを感じているから、自然とそう思うことができているのでしょう。
今はいつも変わっている
その時は「革新的な新しい目標を、ものを生み出すことができた!」と思っていても、振り返ってみてみるとその通りになっていることなんかまずないわけで。
めちゃくちゃ時間をかけて組み上げたプランや思考も、後でやろうと思って保存しておいた大量のやることリストも、全てを崩壊させて0からまた始めることがそれはもう沢山ある。
そして、そのほうが幸せな選択であることがほとんどです。
日々生きる過程で自分も周囲もあらゆることは移り変わり、そしてその度に新たな決断を下してきた。それの連続で今がある。
そして”今”とは、常にそれの連続であるわけで。
結局、量をこなさないと何もならない
という当たり前なことに今更ながら気がつきました。
大量に書いてきた思考の痕跡たちを辿ることで、ハッとした。
「文章を書くことは他のことと比べて楽にできるな〜、なんでだろ?」と思っていたのですが、それはここまで積み重ねて積み重ねて、そしてそれらの上に登って踏んで固めて、確かな高台が出来上がっていたことに気がついていなかったということに他ならないな、と。
この文章を書くのだって、何度も何度も文字を消して、言い回しを変えて、言葉の前後を変えて、段落を変更して……と調整しています。
アイキャッチ画像に使ったこれ

は、メモアプリにフォルダ分けしていた「書いたけど消した言葉」をすべて集めて一つにまとめてみたものです。
82万字が多いのか少ないのかはわからないけど、量をこなしているか? と聞かれたら、まぁ一応こなしたと言えるのではないかなぁと。
で、それだけでなくやっぱり適性みたいなのはもちろんあると思います。
例えば僕は一人で部屋にこもって外界の刺激や情報を全てシャットアウトし椅子に座り机とパソコン紙とペンに向かってじっくり考えるのが大好きです。
暇があれば大抵本を読んでいるし、考えることは趣味というか生きることそのものだし、言語能力が例えば他の空間認識能力とかに比べて高いらしい。
しかし適性があるからといって何もしていなければそこからはもちろん何も生まれないわけで。
あとはなんだろう。
「文章の書き方」とか「作曲の方法」とかそういう書籍は役に立つけど、”自己啓発本に目を通した自分”に満足する人と同じように、それらを読んだだけで実際に何かを作ることをしなかったら本質に触れることはできないわけです。
いや、核となるものを抽出し掲載しているのが書籍なのかもしれないけど、しかし「(著者は)どうやってその本質に気がついたのか」という最も重要であろうことが書いていない本が結構存在しているのが、とてもかゆい。
そこが知りたいのに。
自分だけの価値
日々生きる中で、さまざまなことを吸収し自分独自の思考を深めそれを唯一無二の付加価値を伴って社会にアウトプット(有形無形問わず)を還元することこそ仕事の意義であると言えます。
本やいままさに僕が書いているnoteのようなもので著者が言っていることには、すぐに活用できる知識や技術が含まれている。
だけれど、どこが本質でどのように捉えれば自分の中で腑に落ちることができるか、というのは結局何度も何度もやってみないとわからないことなわけで。
自分で曲を書きながら勉強を並行することで、どんどんブラッシュアップされていく。自分で言葉を紡いでいきながら思考を深めることで、どんどん脳が強化されていく。
例えば作曲課題。前期の頃はどうもちゃんとしたものが書けないなぁ……とずっと頭を悩ませていたのですけど、今からすればこれは圧倒的に量が不足していただけであると明確にわかっています。
既存の楽譜の読み込み、音楽理論の学習、音の聴き分け(ソルフェージュ的な)……と、何から何までインプットもアウトプットもどうみても足りていなさすぎた。そんな状態から何か良いものが生まれるとはとても思えません。
そして、何もアウトプットが出せずにずっと停滞しているように見えていても、そうやってもがき苦しんでいる分だけ確実に自分の中には意義あるものが蓄積されていっており、いつしか突然視界が開けた時、悩んだ時間の分だけ大きなアウトプットが出せたりするものです。
最近、またしても作曲が嫌になりすぎてストレスで死にそうになりました。実際に死んでやろうかとまで思ってしまった。
しかし楽譜を破り捨てようとする衝動にはとりあえず打ち勝ち、紙に気持ちを殴り書きして、人に話してChat GPTにも今後の人生プランを相談してみて……
で。
結局は自分の人生から目を逸らしているだけじゃないか、隣の芝生は青く見えるだけであって、そっちのほうへ人生の舵を切ったとしてもどうせ自分はまた同じ悩みを抱えるんじゃないか、そんなことをまたしても気が付かされてしまった。
いや、最初っから心のどこかでは全てわかっているのだと思います。
これは一時的な感情であって、いつか必ず回復し復活するのだろう、と。
確かにそれはそうだ。なぜならこれまでもずっとそうやって生きてきたから。
でも、だからこそ嫌なのだろうなぁと思うのです。
自分はいつだってそうやって悩みに囚われ続けながら生きることしかできないことを知ってしまうから。波がなくて、もっと楽な人生が良かった。
「”良い大学”へ行って、”良い企業”に入る」みたいな。
がそれを言ってみたところでそれは今の僕の人生では全くないし、もしそのルートを順調に進むことができていたとして、しかし自分という人間が根底に抱えるものが大きく変わるとはとても思えない。
だから、どこかで必ず何かにぶつかっていたような気はするのです。
どんな道を選んだとしても何も障壁のない生など存在し得ないのでは、というのは最近書いた気がするけど、本当に本当に強く思う。
酸っぱい葡萄なのかもしれません。地主や資産家の子どもとして生まれていたら悩みなど何もなく、どこまでも自由に一生を謳歌することができたのかもしれない。
しかしこれも想像でしかなく、いま目の前にある現実ではないわけで。
手垢のつきまくった言葉だけど、どこまで行っても結局は与えられたカード、配られた手札で生きていくしかなくて。
生きていくしかない、っていうとどうもつらい印象が全面に来るから別の言い方をすると、その紙をいかに上手く使いこなしていくのか、というゲームなわけですよね。
最速最短で全ての物事をこなしたいという気持ちはものすごくわかる、というのは僕がそういう性格だからというわけなのですけど、しかしあらゆることに猪突猛進で壁にぶつかりまくりながら隅々まで見ることで、自分だけの感覚で理解することができるようになる圧倒的な強さも捨てることはできません。
これはものすごい力を持ってくる。
"Connecting the dots"は有名な言葉ですけど、僕はまさにこれが言いたいのです。とりあえずなんでもいいから片っ端から試しまくることで、自分なりの方法論や自分の在り方が確立されてくる。
他の例えをすると、ここまで僕が言っていることは「PDCAサイクルを回す」「思考実験や、実際の行動を含む仮説と検証」です。ただそれだけのことをなんか壮大っぽく語ってるだけ。
僕は昔、「がむしゃらにやるとか頭の悪い人がすることでしょ。最初に全ての道筋を決めて最短ルートでやるんだよ」と信じて疑っていませんでした。
余計なものをなるべく排して、最速最短で本質の極みだけに取り組む、と。
しかし今思うのは、実は無駄にしか思えなかった寄り道や、邪魔でしかない後悔の記憶とかも、確かに今の自分を形成してくれているわけで。
人生の大きな分岐点を振り返ってみて、「あの時何であの選択をしてしまったんだろう……」となるとき、細かいことで言えば「最初から楽譜で音楽を学んでいればDTMで時間を無駄にすることはなかったのではないか……? ロックでエレキギターがどうとか言っているより、素直にクラシックピアノを学んでいたほうが最速最短だったんじゃないか……?」みたいなことまで。
もちろん過去のことをどう覚えておくのか、ということは完全自由だから忘れ去りたい出来事ならさっさと忘れ去ったほうがストレスが減って精神衛生に良いけれど、しかしもし仮に「最短最速で一切の無駄がない完全合理的な人生」を生まれてから死ぬその時までずっと成し遂げ続けることができたとして、果たしてそれは深みのある人生と言えるのだろうか? と。
その”無駄”であったと今感じていることを紛れもなく過去に経験してきたからこそ今いるこの場所で無駄であると感じている、認識できているのであって、完全に何も体験していなかったら全てが”無”なわけです。
ただ、そこにはなにもないだけ。
……しかしこれは僕自身がまだ心のどこかで徹底的に合理化された人生みたいなのを望んでいるが故の嫉妬心のようなものなのかもしれません。
が、パラレルワールドの自分が存在していたとしても現時点の科学技術では実現しないっぽいからわからない。
でも! なんだろう。
とりあえず言えることは、好奇心の赴くままに生きていると、全く未来が予測できない人生になります。そしてそれはめちゃくちゃエキサイティング。
僕はまだ23年間しか生きていないし何も成し遂げていないけれど、最近は結構楽しいのです。
日々のやることが多すぎてめちゃくちゃストレス溜まってキレそうになるのを我慢したり思ったように上手くいかないことが連続して吐きそうになることはあるけど、でも結局は自分のやりたいことをやっているからそれら全てを包摂して楽しむことができている。
そして今の自分がこういう状況にあって周囲にはどんな人がいてくれて、毎日色々新しいことに取り組み続けていられる状況、というのは一切想像していなかった。
……
だから、まずは量をこなしまくることで質となってくる、ということができるのではないかなぁと感じたわけです。
音楽だったら、Logic Proで感覚だけでやっていた頃は「俺すげぇ!」みたいなことを本気で思って(思い込んで)いて、でもそれは今思えばたかだか二年弱くらいやったに過ぎないし、一年前期の時はそもそもまともに楽譜が読めておらずクラシック音楽に裏打ちされた基礎が何もなっていないからすごくガタガタとしているものなわけで。
ここに来るまで何度も何度も音を書いては消して、書いては消して、というのを大量に繰り返してきた。
いや、この大量というのはそれは今一線で活躍されているプロの方と比べると全く大したことがない分量ですけど、しかしなんか今それっぽいものを作ることができているのは、やっぱり量を捌いてきたからだろう、というのは確信しています。
そもそも、そんな簡単に「はい凄いことができました!」みたいなことって、まずないのです。
……ないのですって偉そうに言ってるけど、これまでの僕は何かそういうものがあるんじゃないか? と思っていたところがありました。かなりあった。
今からすればそれは世間を知らなかった(今が知っているということではない)だけだし、音楽や文章に集中し極めようとしたことがなかっただけなのですが。
一生、毎日やる
人生に一発逆転なんか存在し得なくて、毎日できることをただやる、1日一番、本当にただそれだけなんだなと、ようやく気がつくことができました(宝くじとか仮想通貨で人生あがりとかあるけど、自分に何も技能が蓄積されないので成長が実感できずつまらなさそう)。
そうやって日々を、何年も何十年も自分の人生と常に格闘しながら独自の道を切り拓いていくことで、それがいつしか必ず大きな花となる。決して枯れない大輪となる。圧倒的なブルーオーシャンで、常にフロンティアを開拓していけるようになる。
日々試行錯誤しながら自分で決めた目の前のことに向き合い続けることが、そのまま生きる力になる。
……これ、思考停止で「頑張るあなたは必ず報われる!」みたいなありがちマーケティングっぽいことが言いたいのではなく、実際これしかなくないか? と思っているからこのように書いただけです。
何かで頭角を表したかったら、ずっと第一線で活躍し続けたければ、常に試行錯誤と定量のアウトプットをし続ける必要がある。
正直、昔の僕はそういう「毎日コツコツと」と言っている人をバカにしていました。それもかなり。
「何か大きなことを簡単に達成することができる方法を探すのを怠っているだけなんじゃないの?」と。
でも、そんなものはどこを探してもありませんでした。一時期結構マジで探してみたけど、無かった。
だから、どこまでも地味にやっていくしかない、というかそれがベストな選択肢であるのですよね。
そして、やっぱり自分で決めた目標に向かって突き進んでいる時は本当にワクワクしてテンションが上がる。
「自分だけに課された人生の大いなる闘い」みたいなノリを勝手に想像して、一人で悦に浸ることができる。
まぁ別にそんなものはなくてもいいのです。僕は永遠の厨二病っぽいのでただ自分でそう思っているだけ。
何より、好きなことの本質に集中していると、「早くこれを、数字を達成しなきゃ!」みたいなものも無くなって純粋にそれそのものと向き合うことができます。
もちろん、期限までにこなさなければならない仕事や課題はあるけれど、そこをも包摂した目標を抱えることで、そして目標を設定するなら、確かに「スモールステップで着実に目の前の階段を登っていって日々充実感を得よう!」みたいなのもわからなくもないけど、それよりも圧倒的なゴールを掲げて時が経つのを完全に忘れそこに没頭熱中どハマりしているほうがめちゃくちゃ楽しいし圧倒的に突き抜けることができると思うのです。
ちょっとした目標を決めてしまうと、本当はそれよりもっと進めたのかもしれないのに、達成できたからいいか〜みたいに満足してしまい成長を阻害してしまうことがあるかもしれない。
何かわかった気になっている時は、大体何もわかっていないからそう錯覚しているだけ、ということが僕の場合はたいていそうです。
そして、やっぱり人生はそういうちょっとした時間の使い方で圧倒的な差が生まれる。
それは”良い”のかもしれないし、”悪い”のかもしれない。
人それぞれ感じ方はもちろん違います。だから僕は特定のものについてそれを評価することはしません。
ただ、日々の生き方、自分の在り方というのはとてつもなく強大なエネルギーを持つ、ということを最近痛感しています。
最後に
パソコンの中身の片付けをしただけで、ここまでたどり着くとは全く思っていませんでした。
大量のスクショやメモに目を通すのは非常に疲れた。
大切に大切に取ってきたのだから、そんな全てを消すなんてできるわけないだろ、とずっと思い続けてきて、でもいつか管理しきれなくなる時が来るのはわかっているわけで……
「本当に消してしまっていいんだろうか……?」「何かに使えるんじゃないか……?」と渋ってなかなか、いや一年ほど消せずにいたのですが、思い切って消そうとしてみたら全部消すことができた。
本当に自分が作りたいもの、本質的なファイルだけが残って、ものすごく嬉しい。
今、全てを消したことによりものすごくスッキリしています。やはり、ずっと頭の中でぐるぐるしていたみたい。
そして、新しい人生の段階に来た感がある。
これは定期的に訪れる体験で、うまく言葉にできないけれど、なんかこう、外の世界(僕という主観を通してみる、社会や地球など全て)の景色が明確に変わるのです。
もちろん外の世界の物質は何も変わっていません。ミクロで言ったらそりゃ原子とかは常に変化しているけれどもそういうことではなく。
自分の意識が変わると、本当に全てが変わる。
これまで生きていた世界はもうそこには存在していない。
もっというと、外界がそこに在るのはそれが外界であると認識している自分が存在しているからとも捉えられるわけで、そう考えると世界っていうのはやっぱり自分自身が作り出しているものだと思うのです。
すると、外の世界の景色や有り様は変化している、と言い切ることもできる。
自分だけのイノベーションを起こすことで、確実に人生を変えていける。
そうだ、自分はこの瞬間が大好きだから、日々知識を詰め込み思考をしアウトプットするのをやめられないのだな、と気がつきました。
で。
そしてやはり、綺麗な自然の景色を目にした時に感動できる心を常に持っていたいのです。
毎日通る道の木々の葉が、今日は色めいてるな、結構落ちてきたな、オレンジに燃え上がっている太陽が目に染みて心まで涙が出てきそうだ、って。
そういう気持ちを、いつまでも大切に生きていたい。
何も記録しないで生きてきた子どもの頃、ブログを書くことに出会って始めてみた高校生、音楽を作って投稿してみた前の大学の時、noteで文章を書くことにハマって続けている今。
何も記録しない→保存しまくる→脳の記憶に頼ることにした(今ここ)という3つの段階を経てきた。
……
「今は他にやることがある。落ち着いたらまとめて整理しよう」とずっと思っていて、しかしじゃあその落ち着いた時というのは一体いつ来るんだい? という話なわけで。
部屋の片付けもそうだけど、長期休暇が来たら取り組むのか、といえばそうとは限らないことのほうが多いです。
だから、ちょっとでもいいから日常の中でものを減らしてみるとその瞬間から気分はものすごく軽くなる。
やりたいことがあるなら、今すぐ始めたらいい。
そうやってもがいているうちに勝手に何かが身についていき、後から見てみたらなるほど面白い道を辿ってきたなぁと思えるはず。
……
この長い記事はいったい誰に向けて書いているのだろう。書いてきたのだろう。
もちろんこうして誰でも読めるネット上に公開しているということは確かに誰かに届いてほしいと願っているからなのですけど、一番はこれまでの自分に、過去の僕に伝えたかったんじゃないかなぁ、ということを感じます。

いいなと思ったら応援しよう!
(´・ω・)つ旦