短編 | イニュピアックの冬物語
2025年2月27日。
私はアラスカのアンカレッジで開催される「ウィンター・リテラチャー・フェア・イン・アラスカ」(Winter Literature in Alaska)という小さな文学フリマを訪れるべく、飛行機に乗っていました。
この文学フリマに行こうと思ったのは、現地の友人から「雪と氷でできた本が並ぶ、奇妙で素敵なイベントだよ」と聞いていたのがきっかけでした。
日本を離れ、アラスカへ向かう道のりは、それはそれは非常に長いものでした。
しかし、徐々にアラスカに近づく飛行機の窓から見えたツンドラの風景に、私の心は躍りました。そして、寒さへの覚悟を決めることができました。
文学フリマ会場は、アンカレッジのダウンタウンから少し離れた場所にありました。凍った湖のほとりに設営されていました。
気温はなんとマイナス15度!!
吐く息は白く舞い、一瞬でダイヤモンドダストに変わります。ブーツで雪を踏むたびに、キシキシと音が響きました。
およそ50ある、それぞれの『イグルー』(日本語で敢えて言うなら「かまくら」のことです)には、地元の作家やアーティストがいて、手作りの本が並んでいました。
中でも私の目を引いたのは、透明な氷のブロックに文字が彫り込まれた「雪の本」と書かれたイグルーでした。その文字に触れると、私の指先は冷たく痺れました。しかし、不思議なことに、私の心は次第に温かくなっていったのです。
そこで私は、一冊の本を手に取りました。タイトルは『イニュピアックの冬物語』。イニュピアック族の古老が語り継いできた神話が、氷の中に刻まれていました。
売り手は毛皮のフードをかぶった女性で、「これは私の祖母の話を元にしたものよ。読むなら寒い場所で読んでね、すぐに溶けちゃうからさ」と笑いました。値段は10ドル。現金払いのみ可。
私が10ドルを手渡すと、彼女は本を麻布の袋に包んで渡してくれたのでした。
その夜、宿泊先のログキャビンに戻り、薪ストーブのそばでその本を読み始めました。ストーブの火がパチパチと鳴り、窓の外ではオーロラが淡く揺れていました。
氷の本は少しずつ溶け始めました。手に持つと冷たい水滴がしたたり落ちました。
作者の女性の「寒いところで読んでね」という言葉が頭をよぎりましたが、なにしろこの寒さです。私は薪ストーブを焚いたまま、本を読み続けました。「最後のページまで何とか持ちこたえてくれ!」と願いながら、懸命に先へ先へと読み続けました。
物語はいよいよクライマックスに近づいてきました。そこには、氷の下で眠る精霊や、冬を生き抜くクジラの話が綴られていました。文字が溶ける前に急いで読み終えましたが、私のもとに残ったのは、床の上に出来た小さな水溜まりだけでした。
日本に帰ってきた今、私は各地でサクラが開いたというニュースを聞いています。
私の手元には『イニュピアックの冬物語』はすでにもうありません。しかし、確かに私の心の中で、それは生きつづけています。
実在の本としての『イニュピアックの冬物語』は、もうこの世には存在しません。しかし、誰であろうと、今も私の心に残る文学フリマの思い出を否定することはできません。
冬物語も、かの地での思い出も。
…おわり
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記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします