第5話 | いつかこれがペンでなくなる日が来るなんて
第5話 決別の署名 | いつかこれがペンでなくなる日が来るなんて
「もしこの万年筆が100万円になるのなら」
目の前で私の用意した食事を黙って食べ続ける夫を見ながら、今後の構想が頭を駆け巡った。
自分の預貯金とその100万円があれば、私はこの場所から抜け出せる。
「あのさぁ、このおかず…」
夫が大声を出した。
「おいしいでしょ?私、これ試食しておいしかったから」
私がそう言うと、夫は私をジロッと睨んだ。
「お前さぁ、どういう馬鹿舌してるの?こんなの、不味くて食えたもんじゃねぇ」
いつもことだ。たしかにそんなに高いものではない。が、人にいつも作らせておいて、わざわざ言うことだろうか?毎日、毎日。
「お口に合わないようでしたら、処分しますが…」
「最初から処分するような食い物を出すんじゃねぇーよ、このババアが」
私は何も言い返さなかった。たしかに夫より年上だ。けど、2つしか違わない。私より若いのに、ハゲ散らかしているクセに。心の中に出かかった言葉をグッと呑み込んだ。
このとき、私の意思は決定的に固まった。この夫とは、到底やっていけない。私は和やかな気持ちで、残りの人生を過ごしたい。たとえ、一人きりで生きて行くことになっても。
私は新しい住居の目星をつけて、夫に内緒で仮契約までこぎ着けることができた。あとは、離婚届に署名してもらうだけだ。
「あなた、別れましょう。もう、お互いに無理でしょう?」
私は勇気を持って切り出した。猛烈な反発が来ると思ったが、夫は冷静だった。
「別れてやる。ただし、ここから出てゆくのは、お前だ。当たり前だが、慰謝料はない。それでいいなら」
どうせ私が出ていけないのだろうと、たかをくくっていたのかもしれない。だが、私にとってはラッキーだった。
「ええ、もちろんです。離婚届は私が用意いたします。引っ越しは今月中に完了させますから。長い間、お世話になりました」
翌日、私は離婚届を役所に取りにいった。夫が仕事で家にいない時間に、自分の名前を書くことにした。あの万年筆で。
そうしたら、この万年筆は質に流す。それだけで私の新しい人生が始まるのだ。
…つづく

こちらのマガジン(↓)に全話収録します。
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