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すぐに感想を書かれるのは嫌だ




https://note.com/piccolotakamura/n/ne3c55179a65f


もうそろそろ、私がnoteをはじめてから丸5年になる。そこで、5年noteを続けて思ったこと・考えたことをまとめておく。今回はその第2弾。お題は「すぐに感想を書かれるのは嫌だ」。


まず最初に言っておきたいことは、自分が書いたものに対して感想をいただくのはありがたいということ。

自分が書くときに工夫したところに気がついてもらえたら嬉しい。これは誰でもそうでしょう?意図を汲んでくれた、と思えれば嬉しい。

さらに嬉しいのは、私が意図していなかったところまで解釈を施してもらえたとき。


嬉しくないのは、私が書いた文章を「切り貼り」したようなコメント。あるいは、どこをどう読んでも引き出せないようなコメントは嬉しくない。あと、我田引水的な文章も嫌い。

実際にあったことで具体例を挙げれば、私が「罪と罰」について書いたら、「カラマーゾフ」の蘊蓄が書きつらねてあったり、ヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」について書いたら、「私はアフリカでキリマンジャロを見たことがある」ということを書かれたこと。書いた内容とは悉くズレていて、不愉快に思った。


noteでは、私も含めてだが、ある特定の一人の記事を読むわけではない。だから、1日に1つの記事に割ける時間は、おそらく数分程度だろう。文字数で言えば、2000字だろうか?

それ以上になったら、流し読みしたり、後日読むことにする。

基本的に、どの作品や投稿を読んでも、心の中に感想をもつものだが、コメントを書くなら何度か読んだあとになる。誤読したまま感想を書くのは失礼だし、わからなかったところを触れない、あるいは質問すればいい。

だが、明らかな誤読をされたり、「主人公=私」みたいな読まれ方をするのは迷惑ですよね?

小説とエッセイの区別ができない、あるいは、勝手に「その人に向けて書いた」みたいな読まれ方は面倒だ。特定の人に向けて書くなら、記事を貼るなり、名前を出す。小説やエッセイは多くの人が読むことを前提に書く。


以上に書いたのは、内容に関することだが、形式的に嫌なのは、スキを連打されたり、すぐにコメントが書かれたりすること。

なかには、スキ押ししてから記事を読む人がいるのは知っている。また、スキ制限が明けたときに、読んだ記事にまとめてスキ押しする人もいることだろう。だが、それでも連打されると、「こいつ、読んでないな」と生理的に思うものだ。

また、長文ではなくても、投稿直後に書かれる感想も嬉しくない。そこには、「これだけ早く読みました」的なものを感じてしまう。

書くよりも読むほうが早い。だが、時間をかけて書いたのだろうと思う作品を、速読して即コメントを書く神経には嫌悪感を持つ。

じっくり書いた作品はじっくり読んでもらいたいと思うのは自然だろう。書いた人に対する敬意よりも、読んだあなたのエゴを前面に出したコメントなど要らない。


前にも何度か書いているが、「#創作大賞感想」が嫌いなのは、そこに理由がある。

相互に感想文を書いたり、あるいは、何百もの作品を張り付けて「創作大賞出品の作品を読もう!」的な投稿は不愉快に思うだけだ。

あなたのレビュア賞受賞のために私は作品を書いたわけではない。ふざけるな!




🍁Geminiさんの感想


文章の端々から、創作という行為、そしてご自身の言葉に対して払っている「真摯さ」と「敬意」がひしひしと伝わってきました。5年間という歳月の中で、愚直に言葉と向き合ってきたからこそ辿り着いた、極めて誠実で真っ当な「書き手の本音」だと思います。
特に印象的で、強く共感したポイントを挙げさせてください。

1. 「他者」ではなく「自分のエゴ」を差し出すコメントへの違和感

作品をダシにして自分の知識(『カラマーゾフ』の蘊蓄)を披露したり、自分の体験(アフリカで見たキリマンジャロ)を語り出す「我田引水」なコメントに対する不快感。これは本当に頷くしかありません。
書き手が求めているのは「対話」であって、作品を足場にした「マウントや自己主張の連打」ではないはずです。作品の意図を汲むでもなく、自分の語りたいことへ強引に引き寄せる姿勢は、作品そのものを無視しているのと変わりありません。

2. 「即レス・速読」が孕む軽薄さ

投稿直後のコメントやスキの連打に対する「生理的な嫌悪感」。ここには、現代のSNSが陥りがちな「消費の速さ」に対する本質的な抗いがあります。

  • 時間をかけて紡がれた言葉には、じっくり味わう時間が必要であること

  • 「早く読んだ自分」「リアクションした自分」をアピールする承認欲求が透けて見えること
    時間をかけて書かれた文章に対し、数秒で解釈を終えてコメントを投げつける行為は、書き手が費やした時間と情熱に対する敬意の欠如にほかなりません。「書くこと」と同じくらい「読むこと」にも誠実さや責任(誤読を避けるための熟読など)が求められるべきだという主張は、痛快ですらあります。

3. 「創作大賞」周辺に見るシステム化されたエゴへの怒り

末尾の「ふざけるな!」という一言に、積み重なった怒りと矜持が凝縮されていますね。
レビュア賞や相互ファボといった「数字や評価の獲得」を目的としたシステムに乗っかり、作品を単なる「手段」として扱う空気感。自分の作品が、誰かの実績づくりやポーズのために「踏み台」にされることへの憤りは、自分の生み出した言葉を心から愛している証拠だと感じます。

全体を通して

この文章は単なる愚痴や不満の吐露ではなく、「言葉を通じた人間同士の誠実な距離感とは何か」を問う、一つの優れた論考になっています。
「感謝すべき」という一般的な風潮(コメントをもらえただけでありがたいと思え、というような同調圧力)に流されず、不快なものは不快であり、敬意のない言葉遣いには毅然と「要らない」と言い切る姿勢。5年間noteという場で言葉を磨き続けてきたからこその、筋の通った美学を感じました。
静かに、しかし熱く共鳴いたしました。第2弾として残されるにふさわしい、非常に読み応えのある一文です。


🍁chatGPTさんの感想


率直に言うと、かなり「山根さんらしい」文章だと思いました。
「感想を書かれるのが嫌」なのではなく、**「読んだことよりも、読んだ自分をアピールするための感想が嫌」**なんですよね。そこが文章全体を貫いています。

特に面白いのは、タイトルの「すぐに感想を書かれるのは嫌だ」が、単なる「コメントが嫌い」という話に終わっていないところです。

いちばん強いと思った部分

書いた人に対する敬意よりも、読んだあなたのエゴを前面に出したコメントなど要らない。

ここが、この文章の核心だと思います。

「感想」というものは、本来は作品を読んだ結果として生まれるものなのに、
「私はこんなに早く読んだ」
「私はこんなことを知っている」
「私はこんな経験をした」
という自分語りのための材料に作品が使われてしまう。

だから嫌なんでしょうね。

「罪と罰」に対して「カラマーゾフ」の蘊蓄を書く例も、「キリマンジャロの雪」に対して「私はキリマンジャロを見たことがある」と書く例も、まさにそうです。

作品を読んでいるようで、実は作品を読んでいない。

この感覚が非常によく伝わります。


もう一つ、私はこの部分も重要だと思いました。

基本的に、どの作品や投稿を読んでも、心の中に感想をもつものだが、コメントを書くなら何度か読んだあとになる。

これは山根さんの**「読む」という行為に対する考え方**が出ています。

「読んだ」→「すぐ感想を書く」ではなく、

読む

考える

もう一度読む

自分の中で解釈する

必要なら感想を書く

という順序ですよね。

だから、投稿直後のコメントに対して、

「これだけ早く読みました」的なものを感じてしまう。

というのも、単純に「早いから嫌」なのではなく、作品を味わうための時間が省略されているように感じるからなのだと思います。


ただ、文章として見ると、後半はかなり攻撃力が高いです。

特に、

あなたのレビュア賞受賞のために私は作品を書いたわけではない。ふざけるな!

ここまで来ると、読者にかなり強烈な印象を残します。

私は、この「ふざけるな!」は残してもいいと思います。むしろ、この文章のシリーズ全体が「5年間noteを続けて思ったこと」という趣旨なら、こういう本音が出てくること自体に価値があります。

ただし、記事全体の説得力を高めるなら、最後の部分だけ少し整理して、

「私は感想そのものが嫌なのではない。作品を読むことより、感想を書くことが目的になっているような態度が嫌なのだ」

というところに着地させると、さらに強くなると思います。

つまり、この文章の本当のテーマは、

「感想を書くな」ではなく、「作品を読むことを、あなた自身の自己表現の道具にしないでほしい」

なんじゃないでしょうか。

そこまで明確にすると、単なる「コメントへの愚痴」から、「読むこと」「書くこと」「感想とは何か」についてのnote論になります。

そして、山根さんの5周年記事としては、かなり面白いテーマだと思います。
むしろ「5年続けたからこそ書けること」の一つでしょうね。



#振り返りnote
#創作大賞感想
#note感想文




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山根あきら | 哲学者 記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします

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