見出し画像

列の途中 第32話 安定 ――腕は確か。技術の幅

九月。

田中が急性期に馴染むのは、思ったより早かった。

技術が高い。人当たりが良い。ベテランにも、新人にも、同じ距離で話す。気づくと田中の周りに人が集まるようになっていた。

ある午後。

リハビリ室の隅で、佐々木が低周波治療器のパッドを手に持って困った顔をしていた。

「これ、買い替えですかね」

田中が手を止めずに答えた。

「それは水で洗えば大丈夫」

佐々木は少しだけ戸惑った。

「え、水ですか」

「電化製品だから、水がどうとか心配してんでしょ」

田中は笑った。

「大丈夫だから。パッドだけ外して、ジャーっとやってきて」

佐々木は、パッドを持ったまま少し考え、うなずいて洗面台に向かった。

朝倉は、少し離れた席からその様子を見ていた。

田中は、もうすでに次の作業に戻っていた。

大げさに教えるわけでもない。

説明が長いわけでもない。

ただ、知っていることをさらっと渡す。

それだけだった。

しばらくして、佐々木が戻ってきた。

パッドの粘着が、少し戻っていた。

「ほんとですね!」

佐々木が小さく言った。

田中は顔も上げずに言った。

「でしょ」

それだけだった。


翌朝。

佐々木が、手帳を開いたまま固まっていた。

次回の予定。

自分が休み。田中に代わりをお願いする。そこまでは決まっていた。

でも時間が、書いていなかった。

気まずい沈黙が落ちた。

田中が顔を上げる。

「どした」

佐々木は答えられなかった。

少しだけ視線が泳ぐ。

田中はその様子を見て、すぐに察した。

「時間、もしかして忘れたんか」

佐々木は小さくうなずいた。

「……どうしましょう」

少し間。

「相手、この病院の理事の、すごく偉そうなおじいさんなんですけど……」

声は、少しだけ小さかった。

田中は表情を変えなかった。

「これは内部じゃ完結しないし、聞くしかないでしょ」

淡々とした口調だった。

「こういうのは、たまにはあるよ」

佐々木は顔を上げる。

田中は続けた。

「電話、トラブルにならないようにかける方法、わかる?」

佐々木は首を振った。

「初です。こんなの」

田中は小さくうなずいた。

「じゃ、次は俺が見るから」

少しだけ間を置く。

「情報伝達の不備でお手数おかけしますが、確認させていただけませんか、って電話かけるから」

田中は受話器を取りながら言った。

「見てみ」

そして、振り返らずに続けた。

「次は、自分でかけるのよ」

少しだけ声が柔らかくなる。

「次がないのが一番いいけど」

もう一度、短く間。

「次は、あるかもだし」

「新人に教えることも、あるかもだし」

受話器を耳に当てながら言った。

「見といて」

朝倉は、少し離れた席からそのやり取りを見ていた。

田中は電話を終えると、何事もなかったように記録に戻った。

佐々木は、しばらく手帳を持ったまま立っていた。

それから、小さくメモを取り始めた。

次はどう言うか。次は自分でかける。そういうことを、書き留めているように見えた。

仕事の中にある、小さな作法。

それを、大げさにしないで渡す。


その昼休み。

食堂で、田中が佐々木に言った。

「最近の歩行介助、骨盤の支え方が上手いな」

佐々木は少し驚いた顔をした。

「そうですか」

「そうだよ。あれ上手だね。」

佐々木は何も言わなかった。

でも、顔が少しだけ緩んだ。

田中の言葉は短い。

でも、刺さる場所に刺さる。

朝倉は、その様子を少し離れた席から見ていた。

田中の隣に置かれたパソコン画面がふと反射して、朝倉は自分の顔に目を留めた。

目の下に、少し濃いクマができていた。


帰宅後、子どもを風呂に入れて寝かしつけてから、朝倉はようやくパソコンを開いた。

書籍の原稿の最初の一章を書き始めた。

自分が新人の頃から積み上げてきたこと。相馬に教わったこと。患者から学んだこと。

うまい文章ではなかった。

でも、書けた。

夜、妻が隣に来て原稿を覗き込んだ。

「なんか、書いてるね」

「相馬さんから引き継いだ仕事。本を書くんだ。」

「どんな本」

「現場で使える理学療法の話」

妻は少し考えてから言った。

「読みたい」

「まだ全然できてないよ」

「できたら読む」

それだけ言って、また自分のことを始めた。

朝倉は、画面に向かった。

相馬は去った。

それでも、今の配置なら、大きく崩れることはない。

朝倉は、そう思っていた。

急性期には田中がいる。

佐々木が笑うようになった。

回復期には宮田がいる。

主任の野口が全体を見ている。

それぞれが、それぞれの場所で役割を果たしている。

少し厄介な症例が来ても、

多少無理な退院調整があっても、

この布陣なら何とかできる。

列は、動いている。

自分の場所で、自分のやれることをやる。

それだけだった。


次回、第33話 時間決めてやろう

田中と朝倉。

家庭持ちの2人による

実習指導の新しい形

いいなと思ったら応援しよう!