列の途中 第31話 同じ部署になる ――新しい風、頼れる人
八月。
田中が急性期に異動してきた。
最初の朝。
田中はリハビリ室に入ってきて、周囲を一度見回した。
それだけだった。
「よろしくお願いします」と言って、自分の席に座った。
緊張している様子はなかった。
でも、周りを気にしていないわけでもない。
自然だった。
朝倉は少し息を吐いた。
(こいつは、どこに行っても田中だな)
こないだの休日、近所の公園で子ども込みで遊んだ。
田中は子どもに対しても、職場と同じだった。
必要なところでは手を出すが、過剰には止めない。
危ない時だけ動く。
相馬さんはいないが、こいつとなら、何かあっても大丈夫かもしれない。
午前中のカンファレンスが終わったあと。
田中が朝倉に近づいてきた。
「延髄の人いるな。カルテ読んだ」
「ああ。ワレンベルグの人だね。俺が担当してる」
延髄外側梗塞後、発症から4日。
感覚障害や飲み込みにくさ、体が意図せず傾き続けるといった症状が絡み合う、ワレンベルグ症候群の診断がついていた。
「あれ、どうやって評価してるの?」
聞き方は、素直だった。
分からないから聞く。
それだけだった。
「しゃっくりが続いているかと、立位での側方傾斜の程度を見てる。あと、本人に傾いてるという認識、踏ん張ろうとしているか」
「壁とか使う?」
「使う。最初は壁を使って垂直の感覚を入れていく」
田中はうなずいた。
「ちょっと見せてもらえるか。発症してすぐのラテロパルジョン、ほとんど経験してないから」
「午後、リハ室お連れする予定だよ」
「横目で見ちゃおうっと」
その日の昼休み。
佐々木が、トレイを持って食堂に座ってきた。
朝倉はこの間の一件から、少しずつ声をかけるようにしていた。
「田中さんって朝倉さんと付き合い長いんですか?」
佐々木が小声で言った。
「大学で一緒だったんだよね」
「すごい人ですね。見てたら、患者さんの動き、ちょっと触っただけで変えてて」
「あいつスッとやるタイプなんだよ昔から。いつの間に、みたいな。」
佐々木は、少し間をおいて。
「……相馬さん、いなくなって」
声は小さかった。
「ちょっとだけ、不安で」
朝倉はすぐには答えなかった。
少し考えてから言った。
「分かるよ」
それだけだった。
「でも、今はここに俺らがいる」
短い声だった。
午後。
朝倉と田中は、脳梗塞の患者の病室に入った。
朝倉が評価を見せた。
立位での傾斜の程度。視覚と固有感覚の乖離。患者自身の傾きへの認識。
田中は黙って見ていた。
余計なことを言わない。
評価が終わったあと、廊下に出て、田中が言った。
「患者さん、もう気づくと倒れてるって思ってるな」
「そう。だから壁を使っても、最初は受け入れにくい。足で踏ん張るとかそういう段階じゃないの感覚そのものがずれてるから」
「なるほどな」
田中はしばらく考えてから言った。
「この状態のまま回復期で受けたとしたら、かなり難しい症例だな」
「そう。急性期で方針を作っておかないと、回復期で困る」
「それが急性期の仕事か」
「の一つだな」
田中はうなずいた。
「分かった。時々見せてくれ」
「いいよ」
夕方、佐々木が田中に声をかけていた。
「田中さん、さっきの移乗の介助、どうやってたんですか。すごくスムーズで」
田中は少し考えてから、その場で実演した。
説明は短かった。でも、的確だった。
佐々木は何度もうなずいていた。
朝倉は、その様子を少し離れたところから見た。
あいつも、自分と同じように、小さな子どもを抱えて働いている。
帰り際。
主任の野口が、ふと口を開いた。
「田中、いいな」
田中が来て、佐々木が笑うようになった。
現場は、静かに整っていた。
それでいい、と思っていた。
