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列の途中 第29話 人事 ―― 来る者、去る者

宮田が回復期へ異動してから、新しいスタッフが一人、急性期に加わった。

佐々木。

他院からの中途採用だった。

初日の朝。

申し送りのスピードについていけず、一度だけメモの手が止まった。

周囲は、もう次の話題に進んでいた。

佐々木は、慌てて書き足した。


昼休み。

佐々木が一人で記録を見直していた。

間違いがないか、もう一度確認していた。

誰にも頼まれていない作業だった。


歩行練習の後。

患者を送り出してから、杖の高さをもう一度見直した。

さっきの判断が正しかったのか、少し自信がなさそうだった。

その時。

相馬が通りかかった。

患者の足元を見て、静かに言った。

「少しだけ、短いですね」

佐々木は、すぐに杖を見た。

それから、小さくうなずいた。

「……やっぱり、そうですよね」

言い訳はしなかった。


五月の終わり。

朝倉は、主任の野口に呼ばれた。

昼休みの記録室。他のスタッフはいない。

野口はコーヒーを飲みながら、少しだけ声を落として言った。

「相馬の件、知ってるか」

「大学の話ですよね」

「本格的になってきた。准教授のポスト、向こうから正式にオファーが来てる」

育休から復帰して、一気に論文を通しましたからね」

​「ああ。臨床と研究、両方の実績だ。あれが決定打になったらしい」

朝倉は、カルテを閉じた。

「相馬さんは、どう言ってますか」

「まだ考えてる、と言ってる。でも」

野口は少し間を置いた。

「たぶん、行く」

断言ではなかった。

でも、野口の言い方には、もう決まっているものを見る時の静けさがあった。

「そうですか」

朝倉は、それだけ言った。

「急性期のベテランが一人抜ける。補充の話もしないといけない。お前にも関係してくる話だから、先に言っておく」

「分かりました」

「驚かないな」

「なんとなく、気づいてました」

野口は少し笑った。

「そういうもんだな」


その日の午後。

相馬はいつも通りの顔で仕事をしていた。

昼の話を知らなければ、何も変わらない一日だった。

朝倉は、記録室でカルテを打ちながら相馬の横顔を見た。

聞けなかった。

何を聞けばいいのかも分からなかった。

「どうするんですか」は違う。

「残ってほしいです」も違う。

「おめでとうございます」も、まだ早い。

夕方、相馬が席を立つ前に、朝倉に言った。

「少し、話せる?」

二人で廊下に出た。

相馬は、窓の外を少し見てから口を開いた。

「大学から話が来てるんだ」

「野口さんから聞きました」

「そっか」

少し間があった。

「まだ返事はしてないんだ。ただ」

相馬は、朝倉を見た。

「前向きに考えてる」

朝倉は、うなずいた。

「そうですか」

「朝倉君に一番先に言いたかったんだ」

その言葉が、少し胸に来た。

「ありがとうございます」

相馬は続けた。

「現場を離れることへの迷いはある。でも、教育という場で動ける可能性も、ちゃんとあると思っていて」

「はい」

「朝倉君は、急性期は、もう大丈夫。」

その一言は、短かった。

でも、重かった。

朝倉は何も言えなかった。

「一つ、頼みたいんだけど。」

「はい」

「共著で進めていた原稿があるよね。続きを、朝倉くんに引き継いでもらえる?」

相馬の研究を手伝う中で、出版社から書籍の依頼が来ていた。

共著という形だったが、相馬は忙しさを名目に、実質的には朝倉に書かせていた。

実績を積ませる意図があったことは、朝倉にも分かっていた。

形になるかは分からない。

経験が足りているのかも。

でも、朝倉は引き受けることにした。

相馬は、いつものように静かにうなずいてから、歩き出した。

廊下の窓から、夕方の光が斜めに差していた。


その夜、朝倉は田中にラインを入れた。

【相馬さんから話があった。やっぱり辞めちゃうんだって】

返信は早かった。

【そうなんだ。相馬さんいなくて大丈夫なのか】

朝倉は少し考えてから打った。

【大丈夫じゃないかもしれないけど、大丈夫にする】

【いいね、それ】

田中からの返信は、それだけだった。


次回、第30話「組織の形」

相馬が去る。

組織は、静かに形を変える。

組織は、何を守るのか。

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