列の途中 第30話 組織の形 ――接遇とハラスメントの境界
六月。
相馬の退職が正式に決まった。
七月付で大学准教授に着任。
病棟への周知は、朝礼で行われた。
相馬が自分の口で言った。
「七月末でこの病院を離れます。大学の准教授として、教育の場に移ります」
リハビリ室の空気が、一瞬だけ変わった。
誰も声を出さなかった。
拍手が、少しずつ広がった。
主任の野口が言った。
「相馬には長年、現場を支えてもらいました。新しい場所でも、変わらず活躍するよう願っています。」
それで終わった。
感動的な場面ではなかった。
でも、それが相馬らしかった。
その日の昼休み。
野口が朝倉を呼んだ。
「補充の件だ。回復期から一人、急性期に来てもらう話を進めてる」
「誰ですか」
「田中だ」
朝倉は、少しだけ息を吸った。
「田中が」
「本人に打診したら、断らなかった。正式な異動は相馬が抜けた後になる」
朝倉は黙ってうなずいた。
「お前と同じ部署になる。問題あるか」
「ないです」
「遠慮なく言え」
「本当にないです」
野口は少し笑った。
「そうか。じゃあ頼む」
その夜。
朝倉は田中にラインを入れた。
【野口さんから聞いた。急性期来るんだな】
返信は少し遅かった。
【断る理由もない。いい加減急性期も見てみたいと思ってな。】
朝倉は、その言葉を見た。
田中らしい言い方だと思った。
【来月から同じ部署か。よろしく】
【こっちこそ。お前に色々聞くかもしれんから仲良くしてくれ】
朝倉は、少しだけ笑った。
【お前が俺に聞くことなんてあるのか】
【リスク管理は急性期の方が詳しいだろ。俺は回復期育ちだから、そっちは穴があるかもだし】
その返信は、意外だった。
田中が自分の穴を認める言い方をするのは、珍しかった。
でも、それが田中の要領のよさでもある。できないことをできないと言える。だから、すぐに埋められる。
【さすがだな】
短く返して、画面を閉じた。
窓の外は、夏の気配が始まっていた。
翌日。
朝倉は、仕事の合間に相馬に声をかけた。
「相馬さん」
相馬は振り向いた。
「書籍の件ですが」
相馬は静かにうなずいた。
「相馬さんの大学とも、連携できますか。症例や教育の視点で」
相馬は少し考えた。
「話してみるよ。すぐに正式に動けるかどうかは分からないけど。」
「それで十分です」
相馬は、少しだけ目を細めた。
「朝倉くんは、やりたいことが見えてきたかな。」
朝倉は、少し間を置いた。
「まだ形は見えていません。でも、やらないよりやった方がいいと思って」
「それで十分だと思うよ。」
相馬はそれだけ言って、また仕事に戻った
その週の終わり。
一件の申し送りが、朝倉の耳に入った。
佐々木が、ある患者の担当から外れる。
「何があったの?」
朝倉が声をかけると、佐々木は少しだけ笑った。
「いえ。ちょっと相性が悪くて」
それ以上は言わなかった。
違和感だけが残った。
午後。
ナースステーションで患者の情報を共有していた時、看護師の山口が小さな声で言った。
「この人、ちょっと気をつけた方がいいかも」
「……どういうことですか?」
「私達のケアの時も、ケアと関係ないことで大声で怒ったり、叩こうとしていたこともあるみたい」
記録にも書いてあった。
「認知や高次脳があるんですかね?」
朝倉は聞いた。
「いや、あれはそういう感じじゃなくて…。確か検査でもそういうのなかったみたいですよ。」
「それって」
「先生も、次スタッフに大声や手を出すとかあったら退院してもらうかって説明したんだけど。その時ももう大変だったみたい。」
「家族とかもいないんでしたっけ?」
「そうなのよ。抑制とかも同意ないからできないし。そろそろ外の手を借りようかって話出るレベルで。」
続けて言った。
「前のリハの子、抱え込みやすそうで。私達も一人で対応しないようにってなってるけど、リハは何かあっても一対一だとわからないんですよね。」
少しの沈黙が流れた。
「朝倉さんになって、少し安心。何かあったら共有しましょう」
夕方。
リハビリ室の隅で、佐々木はいつも通り記録を書いていた。
いつもと何も変わらない。
それが、かえって不自然だった。
朝倉は椅子を引いて隣に座った。
「あの人、結構大変だって看護師さんからも聞いた」
佐々木の手が、ほんの一瞬止まった。
「リハでも大きな声とか叩いて来るとかあった?」
それからまた動き出した。
「少し時間かかると、カッとなるみたいで。でも、大丈夫です」
静かな声だった。
「そういうのは、慣れてますから」
朝倉は、その言葉を聞いた。
怒りも、悔しさもない。
ただ、諦めに似た響きだけが残った。
「先生も、看護師さんも、なんとかしようとしているみたい」
短い沈黙があった。
佐々木は少しだけ目を伏せた。
「……どうせ、こういうのって解決されませんよ」
朝倉は、その言葉をしばらく黙って聞いていた。経験から来る声だと分かったから、すぐには返せなかった。
新人編の頃、相馬に言われたことを思い出す。
「混乱と、悪意は分けて考えてください」
朝倉は顔を上げた。
「え?」
「認知症やせん妄、不安から来る暴言は、ある程度は病態です。でも」
相馬はナースステーションの方をちらっと見た。
「明らかに悪意のある暴言、暴力、セクハラ、威嚇、そういったものは別です」
朝倉は小さくうなずいた。
「それを、自分の関わりが悪いのかもしれない、と全部背負わないことです」
相馬の言葉は、他のコミュニケーション論より少し硬かった。
「そこから先は個人技ではありません。病棟、上司、組織で持つ話です」
朝倉は、その言い方に少し救われる感じがした。
医療の現場は何でも自分の技量不足に見えやすい。
でも、抱えなくていい線がある。
相馬は最後に言った。
「真面目な人は、抱え込みやすい」
「全部を、優しさだけで解決しようとしなくて大丈夫です」
翌日。
病棟の一室。
主治医と看護師が同席していた。
事前に話を通していた。
朝倉が担当として入ること。
せん妄や認知機能の低下によるものか、見極めるながら介入すること。
安全が確保できない場合は、介入を中止すること。
そして。
意図的な暴力行為があった場合は、院内対応に従うこと。
すべて確認されていた。
患者はベッド上に座っていた。
表情は険しい。
目線が合う。
朝倉は、一定の距離を保ったまま声をかけた。
「今日はリハビリの様子を見させてください」
返事はなかった。
沈黙のまま時間が過ぎる。
数分後。
患者の手が、突然振り上がった。
乾いた音がした。
頬に衝撃が走る。
体がわずかに揺れた。
頭の中が、一瞬白くなった。
でも、朝倉は、まっすぐ患者を見た。
声を荒げなかった。
表情も変えなかった。
ただ、確認した。
「今のは暴力行為と受け取ってよろしいですか」
一瞬の沈黙。
それから。
患者が叫んだ。
「ああそうだよ!何が悪いんだ!偉そうにスタッフが俺に命令して!」
病室の空気が固まった。
主治医が、静かに口を開いた。
「警察を呼びます」
その声は大きくなかった。
でも、迷いがなかった。
看護師が頷いた。
すぐに動いた。
病室の外。
廊下で、佐々木が立っていた。
少し離れた場所から、様子を見ていた。
看護師が通り過ぎる。
電話の声が聞こえる。
短い言葉。
「暴力行為です」
「警察をお願いします」
佐々木は、その場に立ったままだった。
動かなかった。
逃げなかった。
ただ、聞いていた。
朝倉が病室から出てきた。
頬が少し赤くなっていた。
それでも表情は変わっていない。
佐々木は、朝倉を見た。
少しだけ、間があった。
それから。
小さく言った。
「……呼ぶんですね」
朝倉はうなずいた。
「はい」
それだけだった。
沈黙が流れた。
長くはなかった。
でも、軽くもなかった。
誰にも見えないところで短く息を吐く。
頬の赤みを気にすることなく歩き出す。
その日の夕方。
申し送りで、野口が言った。
「暴力行為は許容しない」
短い言葉だった。
説明も、説教もなかった。
それで十分だった。
田中が、急性期に来た。
それだけで、何かが変わる気がした。
