列の途中 第14話 距離 ――隙だらけで、理屈の一つも存在しない
ある日。
宮田が何気なく聞いた。
「相馬さんって、休みの日は何してるんですか?」
相馬は少しだけ間を置いて、
「家のこととかですね」
とだけ答え、静かに席を立った。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
数日後。
昼休み。
リハビリ室の空気は、いつもと変わらないはずなのに、
朝倉には少しだけ静かに感じられた。
宮田が、湯気の立つカップ麺のふたを押さえながら口を開いた。
「朝倉さん」
「はい?」
「この前のことなんですけど……」
朝倉は箸を止めた。
何の話か、すぐに分かった。
宮田が、ふう、と小さく息を吐いた。
「……さらっと流されましたね」
朝倉は小さく笑った。
「まあな」
宮田は少し考えるように視線を落とした。
「やっぱり、あんまり聞かない方がいいんですかね。
ああいうことって」
朝倉はすぐには答えなかった。
数秒考えてから言う。
「どうだろうな。聞いちゃダメってわけじゃないと思うけど」
宮田が顔を上げる。
「相手による、ってやつだな」
宮田は「なるほど」と小さくうなずいた。
少しして、宮田がぽつりと言った。
「でも、怒ってる感じじゃなかったですよね」
朝倉は首を振った。
「怒ってはないな。ただ、線は引いてる」
宮田は黙ってカップ麺をすすった。
――あの人は、必要以上に踏み込まない
強さなのか、距離なのか。
まだ、よく分からなかった。
午後の業務が終わり、時計は十九時を少し回っていた。
その日は、久しぶりに宮田が朝倉の家に来ることになっていた。
特別な理由はない。
「たまには飲みませんか」
それだけだった。
二人は近所のスーパーに入った。
夜の店内は、仕事帰りの人たちで少し混んでいる。
宮田がカゴを手に取った。
「何飲みます?」
「何でもいい」
「じゃあ、とりあえずビールですね」
安売りの缶ビールを数本、無造作にカゴに入れる。
宮田がぽつりとつぶやいた。
「……やっぱり、相馬さんって何考えてるか分からないです」
カゴに缶ビールを放り込みながら言う。
「プライベートの話、完全にシャットアウトでしたよね」
朝倉は、棚のラベルを眺めながら答えた。
「まあ多分、ああいう人なんだよ。仕事に来てるんだから、それでいいだろ」
その時だった。
青果コーナーの向こうから。
聞き覚えのある――
しかし、聞いたことのないトーンの叫び声が響いた。
「走らない!待って!待ってよ!
ごめん陸君いっちゃった!捕まえて、彩ちゃん!」
二人が同時に足を止めた。
顔を見合わせる。
「……今の」
宮田が小さく言った。
「相馬さん?」
冷凍食品コーナーの角を。
一人の幼児が猛スピードで曲がっていく。
それを追いかける、小学生くらいの女の子。
そして、そのさらに後ろから。
パンパンに膨らんだ買い物袋を両手に下げ。
大きなバッグを肩に抱え。
髪を振り乱して走ってくる男がいた。
相馬だった。
白衣の時のような凛とした姿は、微塵もない。
シャツの裾ははみ出し、顔には、隠しきれない疲労が滲んでいる。
相馬が必死の声で叫ぶ。
「待ってって!レジ行こ、レジ!」
朝倉と宮田は、冷凍庫の陰に隠れるようにして、その光景を凝視していた。
「崩れない道を考えましょう」
と淡々と語った男が。
今は、レジ前で、上の子に真正面から詰め寄られつつ、下の子の暴挙を必死で食い止めている。
「パパ! あたしにくれるって言ってたチョコ、食べたじゃん!」
「え……あ、いや。あれは」
「あーっ!」
相馬の腕に抱えられた下の子が、買い物袋から飛び出した商品を掴み、
あわや床にぶん投げようとしている。
「待て待て、それ投げないの!」
相馬は慌てて下の子の腕をホールドしながら、上の子への言い訳をひねり出す。
「ご、ごめんよ。パパもあとで買おうと思ってて」
「パパのうそつきー!」
上の子が、相馬の腰にぽかぽかと小さなパンチを当てる。
下の子は腕をホールドされたまま
「ぽいー!」
と楽しそうに叫び、袋の中身を狙ってジタバタと暴れ続けている。
両手が完全に塞がり、防御もままならない相馬。
「わかった、わかったから。今日新しいの買うから。ほら、投げない!」
やれやれという顔をしながらも。
その表情には、隠しきれない笑みがこぼれていた。
隙だらけで、理屈なんて一つも通っていなくて。
でも、最高に幸せそうな父親の顔だった。
宮田が、かすれた声で言った。
「……あれ、本当に相馬さんですか?」
「……ああ」
レジで会計を終え。
子供たちに急かされながら店を出ていく相馬の背中。
その姿を見送りながら、朝倉は気がついた。
(相馬さんが『定時で帰る』のは)
(早く休みたいからじゃない)
(帰って、戦うためだ)
宮田が、しばらく黙っていた。
小さく息を吐いた。
「……すごいですね」
朝倉は、カゴの中のビールを一本手に取った。
「宮田」
「はい」
「相馬さんのこと、少し、分かった気がするな」
宮田は、静かにうなずいた。
「……ですね」
そして、少しだけ笑った。
「あんなにエネルギー使ってたら。職場で時間、無駄にできないですね」
朝倉も、少しだけ笑った。
レジへ向かう。
カゴの中で。
缶ビールが、かすかに音を立てた。
相馬の背中は、遠いままではいられない。
支えられる側でいる時間は、少しずつ終わりに近づいていく。
――列の中で、自分の役割は何なのか。
