列の途中 第15話 役割 ――新人だから、はもう使えない
六月に入り、病棟の空気は梅雨の気配を含んでいた。
少しずつ重く、湿度を帯び始めている。
朝倉は、リハビリ室の片隅にいた。
新人の宮田が相馬に質問している。
二ヶ月前なら、宮田は相馬に近づくことさえ躊躇していたはずだ。
だが、あのスーパーでの一件以来、宮田の中で何かが確実に変わっていた。
「相馬さん、お忙しいところすみません」
宮田の声はまだ少し緊張しているが、以前のような過剰な距離感はない。
相馬が手を止める。
「担当している大腿骨骨折の患者さんですが、膝の屈曲時にどうしても大腿前面に痛みが残ります」
「大腿四頭筋の柔軟性というより、皮膚や皮下組織との……」
「その、滑走性が悪いような気がするんです」
「滑走性」 相馬の口から、その言葉が出た。
朝倉は、キーボードを打つ手を止めた。
それは、かつて朝倉が相馬から教わった、この病棟での臨床の武器の一つだった。
相馬は少しだけ椅子を回し、宮田のカルテを覗き込んだ。
「どこでそう思いましたか」
「傷口の周りを軽く誘導した時に、深層の筋肉が置いていかれる感じがして」
相馬は、ほんの数秒だけ考えた。
「いい視点だと思います」
「組織が滑らなければ、いくら筋肉を伸ばしても痛みは取れません。物理的な癒着を、どうやって滑走に変えるか。午後の介入、一緒に入りましょうか」
「ありがとうございます!」
宮田が、弾むような声で礼を言う。
そのやり取りを、主任の野口がコーヒーを片手にながめていた。
野口が朝倉の隣に来て、声を落として言った。
「宮田、最近いい顔するようになったな」
朝倉は苦笑した。
「……そうですね。相馬さんにも、物怖じせず聞けるようになって」
「滑走性ねー。頑張ってるねー。」
野口は、一口コーヒーを飲んでから続けた。
「でもな、朝倉。教えられる側が増えるってことは――
相馬のタスクも増えるってことだな」
朝倉の胸の奥が、少しだけ疼いた。
以前も言われた、頼られる方も大変なんだよ、という言葉と重なった。
相馬は、今のこの病棟の臨床をギリギリのところで支えている。
誰かが迷った時、最後に名前が挙がるのはいつも相馬だった。
朝倉は、自分のデスクに置かれた担当患者のリストを見た。
歩行が安定しない。 痛みが取れない。
なぜか、昨日の自分よりも、その文字が重く感じられた。
自分は、いつまで教わる側でいるつもりなのだろうか。
午後。
宮田が相馬と一緒に病室へ向かう後ろ姿を、朝倉は見送った。
リハビリ室に残った朝倉は、一人でカルテに向き合った。
画面の中には、数値化された筋力や可動域が並んでいる。
原因の欄が、空白のままだった。
相馬の席へ向かいかけて、足が止まった。
また聞くのか。
朝倉は椅子に戻り、もう一度画面を見た。
答えは出なかった。でも、その日は聞かなかった。
夕方。
業務終了のチャイムが鳴る。 相馬は片付けを終えていた。
「お疲れ様です」
相馬が、カバンを肩にかけて立ち上がる。
「お疲れ様です」
宮田が元気よく返す。 朝倉も、視線を合わせて言った。
「お疲れ様です」
相馬は二人に小さく頷くと、足早にリハビリ室を出ていった。
その歩幅は広く、迷いがない。
これから始まる、もう一つの戦場へ向かうためのスピードだ。
宮田が、朝倉の隣に来て言った。
「朝倉さん。相馬さんの手技、やっぱすごいですね。指先で組織を剥がす感じが、少しだけ分かりました」
「そうか。良かったな」
「はい。でも、相馬さんって。あんなにすごいのに、威張らないですよね」
朝倉は、雨の降り出しそうな灰色の窓の外を見た。
「……必死なんだよ、あの人も」
「え?」
「俺たちと同じように、いや、俺たちよりずっと。毎日、ギリギリのところで戦ってるんだ」
朝倉は、カバンを手に取った。
「宮田、明日も、よろしくな」
それだけだった。
宮田は一瞬きょとんとしたが、すぐにうなずいた。
「はい。よろしくお願いします」
病院の玄関を出ると、冷たい雨の匂いがした。
駐車場に向かう列の中に、宮田がいる。
その先に、相馬の車のテールランプが滲んで小さく見えた。
朝倉は、スマホを取り出した。
同期の田中からのメッセージが開かれたままになっていた。
【また近いうちに飲み回しよー】
【そのうちなー】
そう打とうとして、一度消した。
【二十日なら行ける。そこで田中の臨床の話も、聞かせてよ】
送信ボタンを押す。
自分の頭で考え、自分の足で立ち、そして誰かを支える。
その列に加わるためには、まず自分自身を磨き続けなければならない。
朝倉は、少しだけ歩幅を広げた。
まだ、列の途中だ。
でも、今日から。 列の中での歩き方は、少しだけ変わる気がした。
役割を考え始めた、その先で。
自分の未熟さと真正面から向き合うことになる。
――できない理由が、自分の側にある時、どうするのか。
